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心の深みへ

b0019960_02493102.jpg 柳田邦男さんと河合隼雄さんの「心の深みへ」という対談集がある。 ここでは、柳田さんが、河合さんのマスターとも言えるだろう聴き手としての安心と信頼とに、水を得た魚のように存分に心の内を語っているのが、それだけでも感動に値する読み物だが、話されているなかには興味深い話も多く、あえて不可思議に思われるだろう現象なども体験として率直に語られていて、いくつかここに記録しておきたいと思う。

 この本などは、社会、世界、人と人の関係を、唯物的な視野でのみ物事を見ることの限界を、如実にあらわにする材料に満ちている。
 とくに政治家とかなんとかファンドなどの世界の人には、目からウロコひと剥がれしそうだから薦めたいけれど、そういう方々はなかなか読む機会、御縁を自ら遠ざけるんだろうな。

 今日はひとつだけ、これは河合さんが他でも話されていた記憶があるが、「絵本の読み聴かせ」について。それは親から、または大人から子供へ一方通行のように、「してあげる」、そういう行為のように考えがちだけど、よくよく観てみれば双方に「共感」が存在して成り立つものじゃないか。そういうことにつながる話として次のような話がある。

 翻訳家の小安さんという女性が、姪に絵本をブレゼントにもって訪ねた。
 それで、たまたま遊びに来ていた娘の友だちとのふたりに、その絵本を読んであげることになった。
 姪の友だちの方はすでに内容を知っているみたいで、さかんに「つぎはこうなる」、みたいなチャチャを入れてくる。
 さすがに読んでいる小安さんも嫌な感じがして「ムッ」として来るが、読み終わると、その友だちの娘さんはこう言った。
「おばちゃん、もういっぺん読んで。今度はわたしに」。

 それで、小安さんは「ハッ」と気づいた。
 かたちとしてはふたりに読んであげていたわけだが、自分の心の中では姪に向けて読んでいた。それをその子はちゃんとわかっている。
 かたちの上で、「音声」としてはふたりに向けられているが、「関係」というのは、いわば「機械」ではわからない、その場の空気、言語化以前の「コミュニケーション」に大事なものがあるのだということだ。

 それに関係すると思った話も、この本の中にあって、あるマッサージ教師の人が、学校で生徒たちにマッサージを紹介する授業をする。
 マッサージを施す側とされる側が、この場合あるわけで、一見マッサージ「される側」だけが気持ちよくて、「する側」が「気持ちよい」ということはないように思いがちだが、現実には、マッサージを施した方の側の生徒に、「気持ちよいと感じた人」と訊ねると、ほとんどのひとが手を上げたのだという。
by past_light | 2007-10-21 21:14 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)

大人の価格

 学研のおばちゃん、からじゃないけど、学研の「大人の科学」という雑誌は書店で、その分厚さで目立っているが、厚いのはオマケと称するメインの組み立てセットの方だ。
 ずっと本屋で眺めているだけだったが、最近続けて三冊も買ってしまった。
 霊によって、じゃなくて例によって、○点ブックスとか尼ゾーンとかでポイントを交えてだったりで、定価で買ったものは本屋で一冊のみ。

 「テルミン」という、さわらないで音を奏でるミニチュアのテルミンを探したがドコモ売り切れだった。
 それで、最初に買ったのは「手回しの紙フィルムの反射投影映写機」。
 薄い本誌の方で、もうすでに幼少の頃、手回し映写機で初めての作品をつくったことのある大林宣彦監督が対談していて、「ぼくは、アドバイスを求められれば言うんですが、道具に、便利な方と不便な方とあったら、ぜひ不便な方を使いなさいというんです」と本領発揮な発言で健在ぶりを発揮していた。
 不便な方の方がその苦労の中からアイデアや工夫、それからオリジナリティの萌芽の可能性があるというような話だ。
 そういうことは思い当たるふしもあるが、それはパソコンという、一見便利な道具を使っていても感じることであって、ぼくのパソ絵の初期の頃のマウスで描くタッチは、いわば最初は感覚的には左手で描いているような感じだった。
 それで、それが二度とくりかえしては表れない、子供のような無垢な線があらわれ驚いたこともある。
 それで、いまは安価なものだがタブレットで描いたりしていて、大人な線になった、かというと、それは違うんです。(笑)

 話を戻せば、小一時間で出来上がった映写機の付属の豆電球はちょっと暗過ぎて、真っ暗の中で、文庫本程度の大きさのスクリーンでやっとぼやっと鑑賞できるほどなんだが、紙フィルムを切り抜き、送り穴をあけるのが結構たいへんな作業で、上映できるのはいまだ一本だけ、お目当てだった一品の大林監督自作の有名な「尾道」。その一分ものを早速映した。それからそのウラに印刷されたむかしの不思議なアニメの入った画面の動き、それが、一気に古い時代の時間を、気持ちのなかから「もやっ」と浮き出させたこと、それに少し衝撃があった。
 ちょっと「リング」のサダコのフィルムを観ているみたいで怖かった(笑)。

 つぎに、ピンホールカメラを欲しいと思ったけれど、これも売り切れ。
 それで、暗いトイレで映すととてもきれいな(笑)「プラネタリウム」と、押し入れから中学生の頃のアイドル「内藤洋子の白馬のルンナ」をひっぱり出して聞くために、「録再蓄音機」を買いました。これはレコードの重みで回転むらがひどいが、びっくりもののサウンド。これもタイムマシンだ。

・・・さて次に何を作ろうかと思ってはいるけれど、大人の価格なので、少し間を開けます(笑)。大人の科学のサイト
by past_light | 2007-10-20 02:28 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)

隻手の音なき声

wave ドイツ人の女性が日本で禅を学ぶ、その綿密な記録だ。後々晩年になっての執筆のようだが、とても当時の日本、日本人、そして参禅していた日々がこちらにも目に浮かぶようで興味深かった。

 読みすすめると、著者のその禅への探究の真摯さがひしひし迫る。「公案禅」について、とても門外漢には知りえない内部の様子が臨場感を持って伝わる。

 読みはじめる当初の、ドイツの女性が、どれほどなんだろう・・、なんて思いが恥ずかしくなる。
 最近は参禅している人に外国人も多くなったということだし、アメリカでもフランスでも禅を学ぶセンターがあるという話はテレビで五木寛之さんなども紹介していたが、むしろ日本では、そういう人にまわりにあまり出会う機会がない。

 正直にいうと、外国から来た方の過剰な賛辞、表現とも感じられるほどではあるのですが、その当時の日本いや日本人、この現在から見ると、ちょっと別の国の話かと思うほどで、そういう日本、日本人の生活、作法というか、その描写が興味深い。
 それが、数十年たった今、物質の豊かさを目指して失ったのか、置いてけぼりして、とうとう日本人は忘れたのか、当事者である日本人の我々が、過去のフィルムを見せられているような郷愁があるのが不思議だ。

 夏目漱石の「門」だったか、「結局のところ、かれは門をくぐる人ではなかった」というような主人公は、夏目漱石自身の近代自我を象徴するものだったのか、西欧の合理、個人の確立を日本人はずっと命題として来たのかもしれない。しかし河合さんが言うように、なにもかも合わせるにはそもそも土台、土台が違うことを無視してのやみくも、それも含まれて来た戦後の日本だった。

 「不生禅」という教えを説いた盤珪の言葉のある箇所に、著者は要約してある和尚のはなしを書いている。

 弟子が「よからぬ思いが湧いて来て、押さえ付けるのが難しい」と師匠に問う。
 和尚は「押さえ付けようとするものがよからぬ者だ ! 」というようなことを返す。

 我々は自らの内にふつたに分裂し、こんなふうに敵をつくっては葛藤している場合も多いだろう。いや、よくみればそれが真実だろう。
 それを見極めるということ、それは自由ということの本来の姿を見つけることでもあるだろう。

 読み終えると、著者が亡くなるまで、禅の経験と日本での想い出が、彼女の人生を深く変え、支えたことがよく分かりもします。
by past_light | 2007-10-08 20:05 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(12)

秋祭り、ひと夜

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 ずらりと並ぶ出店の多さ。
 射的・金魚すくいなどの出店の、その時代を遡ったかのような気にさせる昔そのままの演出・・。巧くくり抜くと景品がもらえる絵の入ったクッキーにとりくむ子供たち。昔のままの半円カウンターからの射的。

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 一見、何年も変わらないこの町にある神社の御祭り。その夜に出る夜店の屋台数は100をゆうに超えているだろう。
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 もう何年も前からだろう出店で働く人のなかにもアルバイト風の若い人も多いが、年輩もけっこう多い。
 しかしもっとよく見れば、何故か今年は射的の店が多い。それから定番的な焼そばとかお好み焼きとかタコヤキの店も多すぎる気がする。
 反対にガラス細工、あめ細工などといった、ベテランという独特の雰囲気を持った職人的な人のいる店がほとんどみあたらない。

 客の需要が祭りでもそうさせているのだろうか。
 それから暇そうな店の主人は携帯の画面を見ている。
 ぎっしりと埋め尽くしたその日の客は中高生がずいぶん多い。
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 祭りの姿も、距離を持って見れば何も変わらないように見えて、近づけば、じわじわと内側から変化しているのだ。
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子供の時に住んでいた町に、ある時期まで毎年来ていたサーカス。そして寺山修司の映画でも味わえるような、妖しい見世物小屋。
 オートバイなどのアクロバット。そんななかには見物客もややもすれば危険にさらされるような場の設定もあった。
 ぼくの子供時代はそういう意味では仕合わせな風景、現場を味わえたわけだ。

 学校から帰ると幾日も通いつめていたサーカスがいる広場。
 そこをにぎやかに覆ういくつものテント小屋のあった風景、それがある日忽然と姿を消した。
 次の巡業地へ旅立ったのだ。
 もともとあったはずなのに、際立って味わうような静まり返ったその日の広場の空間。
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 祭りを、宿命的に大人なり、少しこころの距離ができた状態で味わう。
 すると、写真を見るとわかるように、すでに終りのさみしさが内包されていながら賑わうものなのだ、などと感じる秋祭りだった。
by past_light | 2007-10-03 19:43 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)

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