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素朴な反応(2003.3)

 □明治18年に書かれた中江兆民という人の『三酔人経綸問答』という本に戦争の起こる原因という問答があるそうです。 「戦端を開くのは互いに戦争が好きだからではない」「互いに戦いを怖れるがゆえに、兵力を増強し、日に日にノイローゼになるから」で「そのノイローゼを盛んにあおるのがマスコミだ」という話。

 安全保障、朝鮮半島の危機、武力で対していくことでエスカレートしていくという場合。現実的にはミサイルなどが飛んでしまえば、ほぼアウトです。それでそれ以前の対策が大事なんですけれど、いまのように国際社会が分裂してエスカレートすると、アメリカとヨーロッパ、アジア、中東・・と、朝鮮半島の危機に国際的に対応していくのにも困難が出て来るでしょう。ともあれ軍事的な緊張の拡大は、実際は相互作用の場合が多いと思います。

  「国益」という言葉が昨今よく使われているのですが、どうもその正体が良く見えてきません。
 また「国民の利益」と簡単に括れないのは、実はアメリカなどでも同じでしょう。たとえばイラクと戦争をすることで、航空業界は壊滅的な経済破綻の怖れも言われています。
 アメリカ国民も実際は意見も予測も一枚岩ではないでしょう。 またこれからも時代は移り行きます。
 ブッシュ政権が、仮に今、反戦表明しているような議員で構成される政権に変化した場合、国益として言われる日本政府の今の態度表明も、未来のアメリカや、また他国にも「不信」にとって変わるかもしれません。
 むしろ責任は、ひとりひとりが実感しなくてはならないのが民主主義でしょう?。
 「国益」というと、各国が自分の国益とするものを主張してよいよ、ということでは、どの国にも権利があるということになるわけです。 ちょうど、個人と個人が利益を得るために相対して葛藤するように、同じく国と国も対立や戦いが避けられないのではないでしょうか。

 ぼくには現実的とされる「国益」論というのが、かえって今後も永劫に渡って人類が葛藤を避けられなくされる非現実的な言葉に聞こえてならない。
 むしろ「人間」を主軸にとらえて、「人類」の生存、すべての人の基本的な生活環境の苦難と緊張を解決していくことを優先するのが「平和」の基礎には欠かせない現実的なことに感じる。
  もし、飢餓も貧困も抑圧もなく、日々の生活に安心感がある・・というモデルケースの国が登場すれば、それは他の国にも希望になるでしょう。 もちろん、法外な欲望や他者を搾取したいという人間の精神の変容も同時に必要ですが、生存への競争、緊張が激減すると、他者と共存しようという精神の余裕も、いま想像するよりも大きくなるように思えます。 戦争に費やす多額のエネルギーが、「人間」に方向を変えることができれば。

  「素朴な反応」という言葉を、ある政治家は7割以上の反戦票やデモをする人に対しての感想としてテレビで使っていました。 ぼくは「素朴」さを忘れた時の人間の状態も一方では存在すると思っています。
 「素朴」には、白紙で感じる力、先入観、偏見に曇らされず、また少なくともその原始的な習性を無意識に見過ごさない、やりすごさないという注意力が要求されることでしょう。 また「洗脳」というものも、すべてのイデオロギー、固定観念、先入観、偏見、などを含めて自らの精神に関わることです。そういう意味では、それらは自分を除外して「用心しろ」とは言えないものです。

  □先日、どこかで読んだ話。『社長と飲んで戦争の話になり、社長に「正義が世界を支配しているのではなく、力のある者が世界を支配する 」と言われた。(社長は、だから社員は社長の要求には自分が理不尽だと思っても応えるべきだ、と言いたかったようです)、そして「自らの理想を達成するためには、力を手に入れることが不可欠である」と思った。』

  政治家も軍人になる人も「国民の幸福」「平和」という概念を当初の純粋な動機、情熱として、その職業に就くという人がほとんどなのだろうと想像しますし、感じることもあります。 けして、戦争を好んでいるとは思えないし、暴力を使いたいとも思っていない。平和であるべきだと思っている。
 ところが、思っていることと現実の行為が一致しないという事態が常套のこととなり気づかれないでいる場面。
 ときに国が独裁化していく軍事クーデターなども「国民のため」「平和にするため」「人心の荒廃を正すため」・・などなど、それは崇高な観念、動機のように感じられ、信念から、そして疑いのない行為へと・・。 陰謀、攻撃、破壊、抑圧、人間を管理しコントロールするための武器、威力として権力を機能させるケース。
 「人間」より、大事で崇高と思われる「観念」が彼を支配するかもしれない。 「平和のため」に、実際上は「戦争」「弾圧」「支配」諸々の手段が正当化できるような気がしてくる。 力を行使するのは自分たちに与えられた責任だとさえ感じられる。「権力」は魅力的なフォースになります。
 それは政治で言えば、体制側にも反体制側にも、等しく同じくなのですが。
 事実は、人間の精神が「観念」に深く捕えられると、ときに人間は途方もない残酷な場面も演じうる。

 それはそうと、偏見や先入観、思い込み、それからそれを軸として発展する理屈づけ、はたまた攻撃性などは、よく見られるものです。その手の掲示板などを覗くとうんざりするほど応酬のやりとりがあります。
 プロパガンダ的にも聞こえがちな意見の交換は 「やりとり」ではあるのですが、自分の意見をただ強引に話しては、いっぽう相手を罵倒する、馬鹿呼ばわりするというパターンで、よく見れば、ほんとうには「やりとり」にはなっていない。 現実上は、思考の上で分裂した精神がすでに戦争状態なわけです。
 まあ、誰しも他人事で話せる話ではないですが、他人事にしてしまうんですね、よく人は。(2003.3)
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by past_light | 2005-01-11 18:58 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(2)
ニュースステーションに出演した大江健三郎さん。そして錯綜しての長いハナシの断片

■先日、ニュースステーションに作家の大江健三郎さんが出演していた。大江さんが生放送に出るのはほとんど初めてということだ。

 また、アメリカの学校で、アフガンの映像をテレビで観た翌日、自作の反戦Tシャツを着て登校し、反戦グループを作ろうとしたせいで、登校停止処分になってしまったケィティ(15才)さんと、その母親がライブ中継で結ばれて出演していた。ケィティさんが保守的だといわれているその土地で、様々な中傷や脅迫を受けているということがわかる。学校の友人の意見も、多くは大人と同じように、学校の空気を壊したという非難のようなものが聞かれた。しかし一方で、ごく親しい友人の中に彼女の勇気を讃え、賛同する意見もある。が、その地方裁判所でも彼女の訴えは否定され、結局その学校には行けなくなったようだ。
軍人が家系にいたケイトさんの家の母親は、娘と意見は異にするけれど、中傷にあう娘の言論の自由を守るために一緒に行動しているという。インタビューのスタジオも、中傷や妨害を懸念して地区から離れた場所を使い行われているようだった。

 そういえば、パキスタンから日々ライブな情報を伝えてくれている通称「オバハン」の「緊急レポート」に、取材で滞在している、あるメディアの記者が「いやぁ、ウチの社なんて、反米スタンスの記事や、難民関係の記事は幾ら送ってもボツにするンですから……。」と嘆いている様子も伝わってくる。
ぼくらは、新聞やテレビから毎日知らせてもらえる情報に、どこまで素直に接したらよいかというジレンマを改めて経験しているようだ。

 ■番組のなかで、大江さんは「わたしもピンチ、友人もピンチ、アフガンも、社会もピンチ・・」と表現していた。いろんな意味で、「発言する」というなかにある難しさも含蓄されている言葉なのかもしれない。
興味深い発言として、久米さんの「ショートカット」発言があった。大江さんの書く本には、なかなか結論へたどり着かないという、そういうものを感じる、と。つまりショートカットではないということだ。
大江さんは「本来ぼくは単純な人間で、AからBへと結論へ急ぐのを避けるためにも何度も書き直す作業をしてるんです」ということ。
ぼくが思い出していたのは、ブッシュ大統領が映る画面から何度も聴こえる「彼らは邪悪な人間です」などの発言。それはやはりショートカットの代表か。

今度の事件から、ネットで見られる様々な掲示板などでも、「ショートカット」な応酬が、匿名でされているのが目につく。事件に遭遇した当事者の心境も、傲慢に想像して決めつけてしまう「代弁者」としてのような立場を主張する感情が剥き出しにされたような意見もよく目にした。
が、実際はぼくが知りえた限りで言えば、WTCの事件の被害者の家族、からくも脱出した人の文章などにネットでは出会うことができたが、それらは非常に冷静なもので、読む側には精神の静寂を要求されるものだった。
ニューヨークタイムズに広告された、退役軍人の、「私たちの存在の原始的な部分に力を貸さないで下さい。」という言葉も、ぼくは大事なメッセージだと常々感じている。ショートカット思考は、マインド(精神)の原始的な条件づけです。すぐに「暴力」に繋がりやすい非常に危険な、結論へ急ぐ姿だと思う。

 ■ユング心理学にも接点がある、ぼくらの卑近な話。
「男性らしさ」という固定観念に執着していると、おのずと「男らしくないもの」が簡単に分離される。ふたつの箱に物事を分けやすくして、整理しやすく、解った気になる。
が、実際の生ではそうはいかない。男性が恋に落ち、現実に単純化できない感情に出会うと精神は落ち着かなくなり、精神、思考は落ち着き場所を捜す。早く答えを求めたくなる。自分の感情(エロス)を一刻も早く静めたいという「男らしさとしての」観念・知(ロゴス)の要求が対立をつくり葛藤する。
そして彼を非常に短絡的な行動に駆り立てるかもしれない。そこで彼は外面の男らしさを死守するために、性急に感情にケリをつけようとするかもしれない。
「好きか嫌いか、はっきりしてくれ!」と彼女に突然迫るかも知れない。「結婚か別離か」とも。暴力的な身勝手な表現もありえるかもしれないし、自分の精神へ暴力が向かうこともあるかもしれない。
実際の姿を描写すれば、精神は未熟で、簡単に解答がないものへの忍耐がない、そういうことがぼくらの問題であるかのように思われる。個の未熟とは問題の根本ではないのか。

 ■個の集合である人類に必要な平和への智慧の道はあるのか。
インドで生まれ世界各地を講話して旅し、物理学者デビッド・ボームや多くの著名人とも分野を超えて討論、問答した、クリシュナムルティが使う「洞察(insight)」という言葉について、よく思い出すのに以下の例え話がひとつある。

「前線で敵を偵察することを指示された兵士が、帰って来て報告する。『隊長、敵は我々でした』」

 ところで、大江さんは久米さんと「明日は佳境ですね」と、翌日もテレビに出るということが番組内で約束された。

 ■次の日、大江さんは家族と昨日の反省会をやって、モニターばかり見ないようにと言われて来たそうだ。下を向いてばかりいるように見えるからだと。
 この日、大江さんが持って来た言葉から七つを紹介した。そのなかに「さとる」「とりなす」「注意」「まなぶ」ことから「さとる」へ、和解を招来できる「とりなす」人、「言葉」、そしてそんな「新しい人」。

 大江健三郎さんの息子さんは大江光さん。彼の音楽を最初に聴いた時、「無垢と不思議」という言葉が浮かんだ。しかしお父さんは、その音の中にもっと深いもの(悲しみとか・・救済とか)をも感じ取られたのだと、どこかで読んだ気がしする。
それは光さんが言葉では現せない、伝えない、心の中の声をも聴かれたのか、と思う。そう言う意味では、光さんの音楽はまわりとの関係や聴き手とを、「とりなす」ものなのかもしれない。ぼくらは誰でも、本来「とりなす」智慧を持っているのかもしれないし、していることもあるのか。
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 ■クリシュナムルティは、あらゆる権威の危険、依存、信念に含まれる問題など、懐疑する必要をもいう。また「わたしは誰のグル(師匠)でもない」というスタンスを必然とした。
クリシュナムルティは「思考は物質である」という。精神分析的なアプローチも疑う。それは検閲し、分離する観察者を生み出すのだと。偏見を免れない性質を含んだままの観察では、容易にごまかしが利く。分析とはまた「時間」を使うものだからだ。時間とは思考を含む。思考は過去・既成の知識を拠り所とするせいで、おのずと限界があるという。じゃあ、考えなくいていいのか・・。

彼の言う「気づき・注意・洞察・理解」という表現での、事物との、また他者を鏡とした関係による自分の反応を観察、知ることとは。
精神の解放と自由は、彼の実際的な話のなかでは、関係で起こる様々な自身の反応(条件づけ)を「正当化も非難もせずに見る」ということをまず言う。

しかし説明もこれまた錯綜しやすい、この「見る」、「観察者」とは、関係から生じる反応を対象化し、判断し、評価し、選択し、分析する(選り好みするかもしれない)主体で、それはおのずと偏見と恐怖等々に染まっているので、それ自身がむしろ「見られなければならない(気づかなくてはならない)」のだという。
まず「問題」よりも「問題の作り手」が問われるということだ。そしてそれが最初の問題だが最後にまわされているのではないか。
・・この話は興味を持った人が著作を読めばいいので端折るが、「観察者は観察されるものである」という言葉は物理学的に聴こえる向きもある。観ている、気づいているという「者」が、現実には偏見や恐怖で条件付けられたままでは、観ている者も観察されるべきものだということだろう。
「私は気づいている、分かっている。」しかし「どのように」、か。
量子力学のはなしに、こういう話がある。
「・・観測問題というのは、ミクロの世界では、測定するという行為そのものが対象の位置と運動を変化させてしまうということである。」
観察者が対象(観察対象)に影響を与えるという点では、乱暴に言うと先の話にもつながるように感じる。それ独自で確固として存在しえるものはないということか。

またふたたび卑近な例で言うと、他者に対して心理的に「思う」こと、(彼は冷たい奴だなど感情が色付けしている)は、ぼくらはそれが「事実」(誰でもがそう思うはず)などと思い込んだりしがちだ。

人と人の間とか、国と国との関係などにおいても、一方が絶対的に正しいという固定点で対応しはじめたのが今の対立する世界の姿をつくった一因でもあるだろうか。

 ■以下は、クリシュナムルティと デビッド・ボームとの対話「人類の未来」でボームの書く序文から短縮して抜粋。

「対話の始まりは『人類の未来はどうなるか?』という問いであった。
明らかに現代科学および技術は、破壊の可能性をとてつもなく増大させてきたからだ。・・話し合いから・・この状況を作り出した究極の原因は、広範囲にわたって混乱している人類の精神性にあることが明らかになった。・・それは長期にわたり、基本的には変化してこなかった。・・人間が現在進みつつあるたいへん危険な道筋から迂回する可能性がいったいあるのか・・。
・・一見するとこの精神性の問題を解決するには時間がかかるということを根本的には示しているようだが、クリシュナムルティの指摘するように、心理的な時間、つまり「なりゆくこと」は実は破壊的な傾向の原因そのものである。時間を問うことは、この問題をあつかう手段として知識や思考が適切かと問うということでもある。知識や思考が適当でないならば、実際に必要なものとはなにか?
この問いは「人間の頭脳は何世代にかけてあらゆる知識を蓄積してきたのだが、精神はその頭脳により限定されているのであろうか?」・・・
クリシュナムルティは、頭脳の条件づけに特有である偏見から本質的に精神は自由であり、中心と指向性のない正しい注意から生まれる洞察を通じて精神は脳細胞を変化させ、破壊的な条件づけを取り除くことができると強調している。この種の注意があること、この問いに大きなエネルギーを注ぐことが決定的に重要なものとなる。脳神経系についての研究では、洞察は脳細胞を変化させるかもしれないという言明に支持を与えている。」


 ■大江さんの言葉では「とりなす・和解」という「新しい人」が話されていた。そして「注意」という言葉は、先述したことと繋がっているように感じる。本当のことは注意深くなければ知り得ないし、自分の偏見や暴力性にも注意がなくては簡単に見過ごす。「敵は我々」でもあるかもしれない。
七つの言葉の最後に、大江さんは、 障害者を家族に持つ人たちとのお付き合いから、みんなが元気であることに気づいたという話がある。
「とくに理由はないが、みなさん元気でいきましょう、とみんなそういう感じで言うのです。」と。
そんな経験から発見した言葉である「元気」を紹介する。大江さんは「ああ、自分が生きているのは『元気』を出しているからだ、と気づいたと言う。

もしかしたらすべては「新しい考え方」ではなく、誰でも本来「分かっている」と思っているようなことで、多くの人間が率直には向き合えない無垢な領域かもしれないが。
新しい人、というのも「考え」という次元に入れると古くなるのかもしれない。逆に言うと古くからあるものに実際には試みられてもいない「新しく実現」するものがあるのかもしれない。
人類にまず必要なものは、ひどく単純なものなのかもしれない。
-20001.11.15-のち修正-
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by past_light | 2004-12-17 20:11 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(2)
 大統領選挙の話題たけなわです。9.11からのショックのあとのアメリカは、ぼくの気持ちからはさらに遠い国にもなりました。
 しかし、アメリカは昔多くの人の憧れの国でもありました。それも今思えば、憧れのフォーカスはニューヨークとか大都市にあったような気もします。実際はよくもわるくも閉鎖的な街もたくさん散在しているのはどこの国だって同じだろう。

 自由とは、考えてみれば、衣食足りて、あばら屋でも寝床に不自由のない住居に安住が可能になって、やっと思考の領域に入ってくるものなのかも知れない。

 ならば誰それが声高に言う、あの「自由」とは、高くつく戦争よりも、もっとやるべきことのあるもので、ことの順序がちがうんじゃないかと思うんだ。

***********
「宇多田ヒカル」

 午後、出かける前にニュースを見ようとテレビをつけたら、宇多田ヒカルが歌っていた。
 それで、そのまま見続けてしまった。
 彼女は小さな落ち着いたステージで、(アン・プラグド)・・カタカナで書くと変だけど、つまりエレクトリックを通さない生楽器の演奏で歌っているのだった。
 シックな茶系の秋らしい色合いの上着にジーンズのラフなスタイル。宇多田の独特のブレス唱法?が、バイオリンやアコースティックギターとピアノの演奏で、より繊細、センシティブで官能的に聴こえる。
 喋るとその年代の女の子なのに、歌うと凄い才能を感じさせる人だ。まだまだこれから表現力にも深みを増すような予感がする。

 彼女を最初に知ったのは、「音楽を続けていければいい・・」と静かな口調で語っていたBSNHKの、対話しながら曲を紹介していた番組だった。
 その時紹介していたアルバムは、デビューしてすぐの、カーペンターズのバラードなんかをカバーした地味だけど歌唱力を話題にされたもので、その後の突然ブレイクしたようなパワーヒットの曲とはちがった。
 その番組ではなぜか配慮されたかのように、両親も「ミュージシャンで・・」という説明しかなかった。しばらくして「オートマティック」という曲でテレビ画面に現れた彼女を、あの時の少女だと気づくまで少し時間の間隔を必要とした。

 ところでぼくは、お母さんである伝説的な歌手を少年時代によく存じている。もちろんテレビ画面でだが。
 母である人の、あの時代の(五木寛之が小説の登場人物のモデルにしたような・・)彼女の青春には許されなかった、まるで押し隠され抑圧された自由を開花させたような娘であるような宇多田ヒカル。
 母である女性がアメリカという国に渡った理由が一目で理解できるような気持ちが宇多田を見ているとする。
 それは、9.11のニューヨークの事件の後の、自らのHPに書いたメッセージからも感じる。それはとても鋭く、しかもしなやかな女性的なメッセージだ。

 きっとアメリカという国には、他にもそんな女性や、そしてもちろん男性の声がたくさんあるのだと思う。
 あまりに今のメディアからのみ伝わって来る政府の顔を軸としたその国のイメージは、ぼくには受け入れがたい気持ちがする。今のアメリカを好きになれというほうが無理にさえ思える。ベトナム戦争に反対していた人でさえ「テロ側なのか我々とともにか・・」と大統領と同じ言葉で、友人として交わす話を拒絶する人もいると聞いた。
 でもまて・・、そうでない人もいることは確かだろう。しかし、そういう声はメディアも背後に押しやり、一つの方向をみんなが見るように、そう意図していると仮にしたら・・・、それはきっと取り返せない後悔を未来に残すかもしれないじゃないか。
 想像してほしい・・、未来の顔は、まぎれもなく育ちつつある子供たちのつくる顔だから。

****
 以上はそのころ毎日のニュースサイトの投稿欄に送り続けていたもののひとつ。
「自由の国へ」とタイトルをつけた。
 それに、返答するようなアメリカ在住の女性(StayCalmさん USA 自営業 54歳)がこんなふうに誉めて?くれた。

 ◆投稿 No・・・は、投稿した人自身が挙げた作家の感性に似た雰囲気が漂よっている、自由についての的確でしなやかな意見だ。宇多田ヒカルの音楽や人格から推し量って、「自由の国に・・・」のアメリカについての洞察を凝縮したメッセージだと思った。わたしにもこのコロンビア大学在学中という歌手のテープを聴くときがあり、年より幼ない感じの歌唱ではあるが、確かにこれからの音楽的な展開が期待できると感じているせいもあるが、何よりも重要なのは、「アメリカの自由」について、静かに柔らかに問い掛けているメッセージの内容だ。

 この投稿にある、「母である人の、あの時代の (・・・) 彼女の青春には*許されなかった*、まるで*押し隠され抑圧された*<自由>を開花させたような娘であるような宇多田ヒカル」という観察はまことに的確だと思う(**<>は本投稿者付記)。「母である女性がアメリカという国に渡った理由が一目で理解できるような気持が宇多田を見ているとする」という表現には、やはり渡米した自分自身が重なる。尤も、こちらは京都に暮す普通の学生で大学院での限られた<自由>をバイパスしようと考えただけなので、伝説的な歌手であった彼女の母が身を置いていた日本の芸能界にあった自由については、皆目分からない。しかし、そうした動機が共に、その歌手とわたしが欲していた<自由>にあったということは間違いない。 ・・・以下略。。

 以下略はほんと失礼なんですが、「誉めてくれた」部分ですからね。(笑)
それにしても「自由」って、幅の広い厄介な言葉だ。演説でプロパガンダみたいに使われるとは思わなンだ。中身は多分もっと深遠なんだろうに。

 話はちがうけれど、「宇多田ヒカル」は最近CMでしか見たことがない。
 なにやら妙にコケティッシュな中年みたいな色気が気になる。
 ウエスト気をつけてね(笑)。
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by past_light | 2004-11-02 19:10 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(0)

ダイアリーノートから

■「フライト」(2001.10.20)

今週は福岡へ飛行機で行った。この時期フライトは特別に飛行機嫌いではなくても想像力が妙な方へいく。
まして飛行機嫌いだと、さらなる緊張をしいられる。それは機内の乗客を見ていても、なんとなく共有している感覚だ。というか・・寝たふりしている人が多いような・・。

東京へ帰る日の飛行では、あの離陸の血の気の引く上昇を済ませると、窓際に座ったぼくに、雲海が眼下に見える位置にいるひさしぶりの感覚・・。
地図の断片のような海との境界、陸地に広がる垂直と水平の交差する現代文明のシャープなライン。
たった1時間と数10分で博多弁とお江戸をまたぐ・・その便利さ。

美しく凛々しいスチュワーデスの唇に消えることのない笑みは、彼女達の任務だと理解していても、地上ではなくここでは、おおげさなほど頼もしく見える。
そして想像する・・なにしろ日常的なフライトなのだ彼女達には。

 安全と現代文明・科学技術は相似形にあると思い込んでいたような僕らの日常は儚い幻想だった。

 ぺシャワール会の中村哲氏は「今回のテロ事件は終わりの始まりだと私は思っています。 経済的繁栄と安全が両立する社会が成り立たなくなったのです。 今、日本は少し貧しくなっても安全に平和で暮らせる社会か、豊かだけれども危険と隣り合わせの社会のどちらかを選択しなければならなくなったと私は思います。」と言っている。ぼくもその通りだと感じている。
 そして、少し貧しくなる・・ということの受け入れることの難しい人たちとはどんな人たちだろうなあと思う。

 ワールド・トレード・センターから幸運にも生還した人の話に、その危機的状況で、初期段階には、まだ日常的な感覚の中で人は思考してしまうこともあるという。
 それはひどい場合、残した仕事に帰ろうとする人もいるそうだ。
 また、中村氏は「アフガン・パキスタンでは、250円の薬が買えないためにばたばたと人が死んでいきます。 しかし、扁桃腺が腫れただけでロンドンやニューヨークへ飛んで診察してもらう金持ちがいます。 彼らは日本の小金持ちがびっくりするほどの財産を持っています。 その一方で一発の銃弾の値段は8円です。8円で人殺しができます。」とも言っている。

 安全と贅沢・・・そういえば「100人の村」の話のなかにあるものに、これからの時を、ぼくらはどう反応していくだろう。

■「戦争とは」(2002.1)

 井伏鱒二の特集を先日NHKで観た。映画監督の今村昌平さんが、井伏さんの語りと現代の指導者達の語り方を比較して、井伏さんの低声な言葉を聴いていると、「声高な言葉は信用できない」と言った。
  井伏さんのことは太宰治にまつわる話ぐらいしか、よくは知らなかった。荻窪に長く住んでいた井伏さんは、今ぼくが住む場所から近い距離だったんだなと、テレビ画面のなかで、池のある公園に散歩に来て、ボート管理人と語らう姿を見ていて思う。
b0019960_13452550.jpg 井伏鱒二は訪ねて来る開高健らと酒を飲み交わす。間の多い静かな語り口の井伏さんを、質問攻めにする開高健が子供のように慕っているのが画面からにじみ出てくる。
 井伏さんの度々アップにされる顔から、「黒い雨」の執筆の為取材した頃のことを語る時も、その沈黙の時間のほうが、こちらには雄弁と充実が感じられる。

 井伏鱒二代表作の一つ「黒い雨」の映画化で、今村監督は井伏鱒二原作に忠実に映画化することによって、今までのやや声高な作風から低声の表現の力強さを獲得したのかもしれない。このモノクロームの映像と静かな恐ろしさは、それまで今村映画にやや反発していたぼくの視線をちよっと変えた。

 それから宇宙の特集も観た。ブラックホールや発見されつつある太陽系に似た惑星たちの話。
 遠い未来だが、確実に地球は膨張する宇宙のなかで、いずれ太陽に飲み込まれるだろう。そのころ地球人は新たな住処を求めて今住む太陽系を去らねばならない。もちろんそれまで種が生き延びていたとしてだ。
 ブラックホールにしても、宇宙の星々の誕生と死においてシヴァ神とヴィシユヌ神みたいな存在に聴こえる。
  真空は「なんにもない」という昔の常識は覆り、「真空のエネルギー」がものすごく意味を持つものだということが解ってきたようだ。
 で、こじつけに聴こえるでしょうが、「間」も「低声」も--真空のエネルギー--と関係しているということなんですね。ぼくのなかでは・・・。
b0019960_13434749.jpg ■これからJ.クリシュナムルティという人の言葉を掲載したい。(本屋に行けばどうしても精神世界のコーナーに入れられてしまうインド生まれの教師)

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ■ 戦争

 戦争は最大の破局のひとつである。最大の悪は他人を殺すことである。
いったんあなた方がそのような悪を自分の心の中に容認すると、あなた方は無数の小さな災いを解き放つ。
 あなた方は戦争そのものを責めず、戦争で残忍な人間を責める。
 戦争の責任はあなた方にある。あなた方が自分の毎日の貪欲、悪意、激情的行為によってそれを引き起こしたのだ。
 われわれがこの競争的で冷酷な文明、その中で人と人が対立し合う文明を築いたのだ。

  あなたがたは戦争の原因、他の人々の中の残虐性を根絶することを欲する、自分自身がそれに耽っていながら。これは偽善に、そしてさらに多くの戦争に帰着する。
 
 あなたがたは第三次世界大戦を回避することはできないかも知れないが、しかし自分の精神と心を暴力から、そして敵意を起こさせ、愛を妨げる諸々の原因から自由にすることはできる。するとこの暗黒の世界に、精神と心の清らかな人々が現れ、そして彼らから多分、真の文明が出現するかも知れない。
(1945ー46年にかけての16の講話より)
 
 戦争はわれわれの日常生活の壮大で血なまぐさい投影である。
われわれは我々の日常生活から戦争をせき立てる。そして我々自身の内なる変容なしには、必然的に国家的・人種的対立、イデオロギーをめぐる幼稚な争い、兵隊の増員、国旗の崇拝、そして組織化された殺人を招くおびただしい蛮行が起こる。(「教育と人生の意義」より)
 
 これまで正義のための戦争と呼ばれてきた様々な宗教戦争があった。
が、いかにして戦争が正義でありえようか?他人を殺すこと--いかにしてそれが正義でありえようか?
そしてわれわれの日常生活の憎悪、競争、敵意、威信の追求、--これらが戦争を引き起こすのだ。
そして暴力に他ならない戦争は、まさに無秩序の真髄である。
 
 人間がイデオロギーの域内で生きているかぎり、戦争は避けがたい。
(1965年のインドでの講話より)

         (ススナガ・ウェーラペルマ編--Saying of J.Krishnamurty--より。大野純一・訳)

 ■「レッテル」

 あるものに名前をつけることによって、私は単にそれを一つの範疇(はんちゅう)に入れただけで、それを理解してしまったと考えるのです。そしてそれ以上に細かく見ようとはしないのです。

  しかしもし私がそれに名前を付けなければ、私はそれを見るように強いられるのです。
  私は全く新しく、出会ったものを調べるような気持ちで、その花に近づいていくのです。私は以前に見たことがないかのようにして、それを見つめます。

 命名(名付けること)は物や人間を処理するための非常に便利な方法です。
 あなたは、あれはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言うことによってレッテルをはり、それからそのレッテルを破壊することができるのです。

  もしあなたが人間にレッテルをはらなければ、あなたはどうしてもその人間を見なくてはなりません。
  そのような時、人を殺すということはきわめて難しいことなのです。

 あなたはレッテルのはられたものを爆弾で破壊して、自分が正当であると感じることができます。
 しかしもしあなたがレッテルをはらず、それゆえその対象である独自のもの・・それは人間でも花でも事件でも感情でもかまいません・・それを見なければならないとしたら、あなたはあなたと対象との関係と、そのあとに続く行動との関係を考えざるをえなくなるのです。

 このように命名したり、レッテルをはることは、何かを処理したり、否定したり、非難したり、あるいは正当化するための非常に便利な方法なのです。

(J.クリシュナムルティ--The First and Last Freedom --1954--日本版「自我の終焉」より)


「男性性と女性性の働きを自分自身の内にはっきりと見ることができます。一方または他方が肥大させられると、不均衡が病気を起こすのです。表面的な軽い病ではなく。深部の病気を。
私は個人的に自分自身の内部で、異なった事情や気候のもとで気づいただけでなく、また攻撃的で暴力的なさまざまな人について気づいたのですが、男性性を女性性が引き継ぎ、十分な女性性に取り囲まれる時、男性性は攻撃的でなくなり、何の抵抗もなしに引っ込むのです。・・男性と女性が完全に調和すると、両者の性質が変わるのです。・・・」(ディスカッションより)
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by past_light | 2004-09-26 02:33 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(0)
 人間の暴力性は、原始的に動物人間の時代から引き継いで残しているものかもしれない。それをほとんど多くは解消してこられなかった。
 外面的には進化したように見えても、内面的には先史時代からさほど進化していないだろう。
 (その暴力も巧妙に機械化され、死んでいく相手の顔が見えず、実感のないまま、死者の数字が数えられる)

 ユングが、ナチス時代のドイツを飲み込んだものが、荒ぶる神のような「元型」の作用というような話をしていましたが、集団心理は普段無意識的に生きていれば、容易にプロパガンダに洗脳されるということだろう。
 動物の群れがなどが同じ方向に移動したりしますが、そういう部分でも動物と同じ思考停止状態はいつでも起こり得るようだ。

 復讐心にかられたテロリストに冷静さを求めるのが難しい、だから同じスタンスで、いやケタ違いの破壊力で追い詰めるのは得策なんだろうか。
 殺戮に麻痺した心理状態を続けていれば、感化される暴力性が伝染病のように国々を覆うかもしれない。
 それは、アメリカの学校で鬱屈していた少年たちに銃を乱射させるかも知れません。

 逃げまどう、どう猛な動物が追い詰められ逃げ場を失えば、決死で向かってくるかも知れません。テロリストも同じだろう。
 しかし、一つだけ違うのは相手は人間だということ。試みれば「会話」もできるということだ(これを平和ぼけと嘲笑する人は多い)。
 理由がなく絶望はないだろうし、死を賭けた復讐もないだろう。追い詰められた表情は見えるのではないか。
 実際上は、死んでいくのはどう見ても市民が大多数にしか見えない。

 テロには、その枝を刈り取り根っこに到達して根絶できるという従来の思考に疑問を持つ人も多い。
 それは、「たんぽぽの種子のように叩けば飛び散る種子で、他の大地に転移し結果として増殖させないか」という視点だ。
(最近はますますこの言葉の重みを感じないだろうか)


 追い詰め絶望させるのは、そのまた絶望的な反応しか生み出さないのではないか。
 「彼らは邪悪な人間だ」、ショートカットで物事を運ぼうとするのは、自らに潜む邪悪さを知らない。

(「対話」とは、一方的に要求してばかりでは成立しないのは意外に忘れがちな常識だ。 相手の話も静かに聴こうという態度は、場の雰囲気、心のオープンさには不可欠だろう)

 イエスが村人に石を投げられる娼婦を助けた時、
「自分だけは、心にやましいことのないと思うものだけが石を投げなさい」と言ったことを、イエスの話を読んでいる国の人は覚えていないだろうか。
 賢明な父親は、子供を叱る時も「逃げ場」を残すのでした。逃げ場と言っても物理的なことではないのだ。

 今の世界は誰でもテロリストに成りうる世界をどうも作ってしまっているような感じがしてしかたない。

 ダライ・ラマは「戦争は一つの選択肢だが、ネガティブな選択はネガティブな結果を招く」と言っていた。
 逆に言えば、ポジティブな選択をすればポジティブな反応と結果を招来する可能性があるとも言える。
 それはすぐには目に見えないかもしれない、多大な時間がかかるかもしれない。
 しかし、掻き回し汚れた水を綺麗にするにも、注意深く静かに待たなくてはならない。
 人類の、世界の度量がためされることだろう。

 ネットで読んだ、マイケル・J・ローズという人のコメントのなかに、「・・思い出してください。『わたしたちが無知であるという目印は暴力、不正、悲劇への私たちの信念の深さ*にあります。青虫がこの世の終わりと呼ぶものをマスタ-(師)は蝶と呼ぶのです。』蝶は青虫の変態から生まれます。 もし愛への跳躍が報復への跳躍に勝るなら人類はこの悲劇から再生することができるのです。」
 という話は、ぼくにはある意味で考案として今でもこころに残っている。

*(そういう習性はなくならない、しかたない、というぼくらの頑固な固定観念・概念と言い換えてもいい)
---2001.12月に書いたものをすこし修正加筆しました。---
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by past_light | 2004-09-25 20:33 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(1)

9.16ノートから

・・・いつも頼りにしているメディアによって、ぼくらに見えているのは現実の全体なんだろうか・・いつもそんな疑問が浮かぶけれど、アメリカのニュースをテレビで垣間見ても、やはり驚くようなメディアの姿が垣間見えてぞっとする時がある。ぼくが観たそのインタビュアーは「いつ行動するのか・・」というまるで急かすような口調だった。

現在アメリカに住み、親友をこの事件で失ってさえいる日本人の女性が、その日記の中で報告してくれている日常などに、おもてのメディアでは伝わってこない現実も伝わってくる。。

「・・政治家や評論家の言葉は私の気持をかき乱すものばっかりだった。はっきりいって何考えているの?っていうのが本音。何言っているんだろう・・・理解できなかったよ。ファイトバック?軍隊は準備できている?何いっているの!やられたからやりかえす?ちょっとまってよ。これが一個人の問題で同じことやったら、あなた同罪でしょ?どんなに酷い事をされても、誰にも人を殺す権利なんてないんじゃないの?同じことしてやっぱり大量虐殺して、その映像みて、喜ぶ人がどれくらいこの国にいる?まぁ、もちろん爆弾おとしたり、また罪のない人を殺す気ではないと願いたいけど、軍隊という言葉をきいても、他のコメントを聞いても、ほんと戦争の始まりとしか思えない。
やめてほしい。愛する人をたくさん亡くした人もいるのに。これから戦争になったら、もっと愛する人を亡くす人が増えるだけだから。・・」

「・・しかも、人の怒りをサポートするような報道マンのコメントにははっきり行って絶句した。その場に居る人は特に怒りという物しか浮かばないのだろう。でも、爆弾を落そうなど、アメリカはやりかえすぞーなどいっていいのか?テロリストの家をしっているの?このテロリストはただのテロリストじゃない。宗教がからんでいるテロということを分かっていてそんなこというの?いたちごっこになるっていうのがわかってないの?ほんと、絶句としかいいようがなかった。
どの報道でも、テロがどういう目的で行われたとか(まぁ、アメリカが今一番輝いているからだっていう言い方はしていたけどね(--;)、どうしてここまで恨みをかったか。逆恨みだけか?そうじゃないでしょう。何か理由があるはず。それを考え様とする人はいないのか?いくら一つの組織のボスを殺そうがなにしたって、それをされた側はいつかまた報復してくるんじゃないの?宗教は一日にしてならず、人の心の中でずっと残り受け継がれていくもの。それと深く結びついたテロの芽はまだどこかで発芽するのでは?・・」

「・・今日、一つのクラスでみんなでテロについて話し合って。女の子は基本的に冷静な目でテロの後起こった、パキスタン人の女の子が虐待されて死んだ話しや、パキスタン人のタクシードライバーが殴られた話をして、なさけないというような発言をしているのに、男の子は、戦争にいくならいつでもいく!準備はできているとか、真珠湾でやられた時といっしょだ。やりかえさないと世界平和はない。っと意気揚揚にいうのだ。もう絶句だった。先生もびっくりして、やっぱり怒りの矛先を間違えちゃいけない。怒りで戦争をしてはいけないって戒めたけどね。・・本当にそう思っている生徒がいるんだな。って思ってショックだった。やっぱりあの映像が彼らに怒りをおぼえさせてしまったのだろう。そして、報道マンの言葉をコピーしたような若者が増えてしまっているのでしょう。・・」

「・・全員無事が確認されたといいましたが、一人無事が確認された後連絡が取れなくなった親友がいます。もう10年来の友達。何故かこいつだけは何があっても死なないだろうと思っていたので、とにかく死とは無縁のタイプだったので、実際あまり心配していなかったのだけど、連絡が取れなくなってから胸騒ぎを覚え、翌日もうだめだろうということを別の友達から聞き、今日、死体がご両親によって確認されたということを、聞きました。
これを聞いたら今まで抑えていたものが全て爆発しちゃいました。憎しみよりも悲しみの渦です。何よりも平和主義だった親友がテロによってもういなくなってしまった。いっつもおおきく周りにいるひとをぬいぐるみのようにつつみこんでくれた人が。でも、彼が今彼と共に命を失った人達のために、アメリカ中の若者が意気揚揚に軍に戻ろうとしている事を知ったらどうどう思うだろう?怒りや憎しみによって戦争を始めていいの?わからない。確かに圧倒的な武力で押さえ込めばまた一時期は平穏な時がくるとは思うけど、殺された人間の憎しみはまたいつか爆発するのでは?突破口を作るためにある程度の戦力をつかわなければならないというのならば、分かるけど。なんかわからない。
大事な親友を失ったという心の傷と、同じクラスにもあの酷い映像をみて偏った報道をきいて、まるで何かにコントロールされているように、軍人の話し方になっている。つい先週までは、自分の命を犠牲にして戦争するなんて・・・っていっていたくせに・・・わかっていたくせに。憎しみが彼らの心を変えてしまったのね。
ベトナム戦争を思い出してみれないのかしら?どれだけ沢山の人の命が奪われたか・・・どれだけの兵士の心に傷をのこしたか・・・それによって何も平和なんてえられなかったのに・・・どうしてまた繰り返そうとしているのだろう。・・」

(以上は、めいさんの9月11日から13日の日記からの抜粋で、御好意により引用を御本人より快く許可を頂きました。また原文の全体は「めいちゃのおもちゃ箱」http://page.freett.com/meicha/index-j.html(現在は更新されていません)で、読むことができます。
また頂いたメールには「・・日本からの無邪気なメールによって傷ついている人が沢山います。けして冗談にはならない話だということを少しでも多くの人に理解してもらえれば・・・そしていつ自分の身におきても不思議ではないということを、理解してくれる人が少しでも増えてくれればと願っています。・・」とありました。
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by past_light | 2004-09-01 19:45 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(0)

メモ帳から

 ■映画化もされた「ブリキの太鼓」の原作者、作家ギュンター・グラスのテロ事件以後のインタビューが下記のページにあります。
「アメリカ批判は友人としての務め」
ご興味のある方に一読をおすすめしたいと思い紹介します。

「・・ヴィリー・ブラントがドイツ連邦首相として初めて国連で演説したとき、実は私はニューヨークにいたのです。彼はこう語りました。「飢餓もまた戦争なのだ」と。この発言は拍手喝采を浴びました。しかし、誰一人最後まで考え抜こうとはしませんでした。・・」
(グラス氏は、ヴィリー・ブラント(元ドイツ首相)が考えるような、南北対立の解決を模索する世界経済会議の召集に賛同しています)
http://members.tripod.co.jp/serpent_owl/arch-text/grass.htm

■+++++++++++++++++++++++

「死んだ男の残したものは」  谷川俊太郎作詞・武満徹作曲

死んだ男の残したものは

ひとりの妻とひとりの子ども

他には何も残さなかった

墓石ひとつ残さなかった




死んだ女の残したものは

しおれた花とひとりの子ども

他には何も残さなかった

着もの一枚残さなかった



死んだ子どもの残したものは

ねじれた脚と乾いた涙

他には何も残さなかった

思い出ひとつ残さなかった



死んだ兵士の残したものは

こわれた銃とゆがんだ地球

他には何も残せなかった

平和ひとつ残せなかった



死んだかれらの残したものは

生きてるわたし生きてるあなた

他には誰も残っていない

他には誰も残っていない
+++++++++++++++++++++++++

「我が身から出たものは いずれ我が身に還る」(100人の村)

(2001年のメモ)

■「青虫と蝶」

いくつかの投稿を読んでいて思う。
どうして、戦争の中にある悲劇を冷静に心配し指摘する人に「正常な人ではない」というようなニュアンスの言葉が出て来るのでしょうか?。

あのニューヨークの事件のあった翌日だった。
家をちょっと出た通りで近所の人と挨拶した。
その人は近くの家の表の道路に面した庭の木を指差した。
「ほらたいへん」
見るとその枝と葉にはたくさんの毛虫がかなさるように這っていた。
うわ~ほんとうにたくさんの!!

ぼくは家に帰ってからふと思った。
「毛虫は変態して蝶になるのだっけ?」
この醜い不完全な、木の若葉に害をもたらすように見られている存在から、変態し、まったく違った様相で新生するということに、 人間に通じるある象徴的な印しのような思いを感じた。
人にとっては、それは意識の進化であり、人間が美として新生し現れる姿なのかも知れない。

昨日あるページ(http://www2.csc.ne.jp/~prema21net/)で、「魂との対話」「魂との絆」などの著者マイケル・J・ローズのHP(http://www.michaelroads.com/)に書かれているという彼のコメントの訳文に出会った。(ぼくは、その著作を書店で見たことはあるが読んだことはない)

「・・・何を感じていますか?悲しみですか?問題ありません。自然なことです。
憤怒、怒り、復讐、ロ-ズウエイの人たちは誰一人としてこのように感じていないことを知っています。
しかし、不幸にも,世間一般の現実においては多数の人がこういった感情を持っているのです。
このような感情がもたらすものは、その暴力をさらに煽ることなのです。たくさんの人々が今、祈っています。
いいことです。でも多くの人は、祈ったあとふたたび怒りと報復の思考と会話に戻るのです。・・・

・・・あなたの祈りが日々こころの平安をささえるようにしてください。そしてあなたの平安を日々の生活の中にあらわしてください。
他の人たちに話し掛ける言葉の中にあらわしてください。特にこのような状況のときに。平安そのものになりなさい。
すべての人類への愛を語ることをおそれないでください。
あなたが交通渋滞のなかにいるとき、スパ-マ-ケットのレジで並んで時がとてつもなく長く感じるとき、あなたの思考の中に、愛を存在させなさい。・・・」

という内容で、そして締めくくりに書かれてある言葉に目が止まった。

「・・老師の言葉を思い出してください。『わたしたちが無知であるという目印は暴力,不正、悲劇への私たちの信念の深さにあります。青虫がこの世の終わりと呼ぶものをマスタ-(師)は蝶と呼ぶのです。』
蝶は青虫の変態からうまれます。もし愛への跳躍が報復への跳躍に勝るなら人類はこの悲劇から再生することができるのです。・・」

ぼくも、もう少しこのことについて静かに自らにも確認してみたい。あなたはいかがですか?
「平和ぼけ」と嘲笑することはいとも簡単です。(2001年)

■「冷静である必要の大切さ」

先週、あまりに衝撃的な事件によって世界中の人の心が振動した。
目にする繰り返される映像に、人間の世界が止む先きの見えない巨大な憎しみと悲しみを、この惑星上から立ち上らせていることの事実に、あらためて戦慄を感じることが率直に最初だった。
このような現実を前に、「冷静」さは「薄情」とかさらに「非現実的」とさえ置き換えられ呼ばれるような雰囲気も生まれている。
そんな非難的な視線時は人の感情が凶器としてさえ見えて来るような場面もある。果して愛国心は憎悪と両立するのだろうか?。
しかし、まわりの多くの人は、これ以上の暴力を目にしたいとは思っていないのがわかる・・。

いつも頼りにしているメディアによって、ぼくらに見えているのは現実の全体なんだろうか・・いつもそんな疑問が浮かぶけれど、アメリカのニュースをテレビで垣間見ても、やはり驚くようなメディアの姿が時に見えてぞっとする時がある。ぼくが観たそのインタビュアーは「いつ行動するのか・・」というまるで急かすような口調だった。
こういう時、報道が冷静さをまず持つべき立場のはずが、必ずしもそうではないということ・・今度のような大きな出来事の時は特に感じることがあります。
記事などを作る側も、読者を獲得する競争の中でインパクトを求めるあまり・・どこかで自己矛盾を感じながら・・仕事をするような気持ち・・という話もあるところで読みました。
数字で出て来る多くの人の意志というのも、どこか無気味さが最初に感じられます。
ネットでもいろいろの考え・・を聞くことができる。
それは感情をここぞと吐き出すためのものにも使うことも出来得ます。
「考え」は・・衝撃や憎しみなど・・人は、はげしい感情から偏向し作られたりするのに、無意識に翻弄されていることを気づくことがとても困難になります。
また無関心からのいたずらな事を言う人も・・人を傷つける可能性を想像できないようです。
誰しも日頃から自覚しなくては、こういう時には、さらに足を掬われて混乱を助長してしまう側になります。
今、いつの時代も繰り返されている、隣の住人が敵に見えてきて・・そして迫害される人が生まれています。
実際上・・何もできないと焦燥感を感じたり悲しく沈みがちですが・・、ただ日常を落ち着いて、まわりの偏見など注意し、この事件を受け止めて・・そう送るだけでもぼくはとても尊いものだと思います。
不安の想念などが蔓延しやすい時に、ある人が優しい波動を感じさせてもらえる一輪の花のようにさえ存在できることは、他の人にも想像以上に大きな助けになることだと感じます。
署名したり、HPの中でなにかを話したりすることもできますけれど、それはそれぞれの自由意志から自然発生・自発的にするものであればいいわけで、なんにしても誰かが誰かになにかを強制、圧迫したり非難したり・・などというのではおかしいわけですね。
被害者の家族の方の中からさえも、「仕返しなどより、人がもう死んでほしくない」というようなことを言われている方も多いようです。心中を思うと言葉などなく頭が下がります。

テロの根絶には、人間の間に深くある憎悪の根絶が必要で究極に重なるものですね。
まず、これから地球上のアフガニスタンの土地の住民の差し迫った危機があります。
すでに内戦などで半分は瓦礫になってしまった国土らしく、食糧難も続き、今また・・数百万という難民の予測もあります。多くのさらに餓死する人々も予測されています。
外へ退避できるのはまず力のある人でしょう。悲劇はいつもまず貧しい生活者・子供です。
それは報復する側も目にしたくない現実的で残酷な悲劇のはずです。
そんなことをさけるために、しんぼう強く・・爆弾よりまず先に「道」を開いてほしいですね。
それは、多くのいろんな人が様々な形で提案しています。
憎しみが止みがたい困難を、それでも乗り越えて試みなければならないと思われます。
たとえば、戦いのための数百億のお金が生活者の困窮を助ける方に使われると、・・本当はテロリストも困るかも知れません。
それはのんきな理想に聴こえるのでしょうか・・。(2001)

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by past_light | 2004-09-01 19:30 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(0)

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