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無事の人

 「デジタル時代のヒューマニズムを考える」とタイトルされたその章は、他の著者の章とは読んだ瞬間から印象が違っていた。

 以前、借りた本で、それは何人かの共著によるデジタル時代のちょっと見はハウツーな仕事術の話だった。
 そしてそれは最後の章を担当した中川昌彦という人の書いた部分だった。それまでの章とはかなり異質な、なかなか柔らかな感性で書かれている箇所だ。

 いわゆる効率とか、いかに勝つか、とかいう点からではなくて、いかに人間性を失わず、バランスし、新たなメディアと良心的な付き合いをするかという視点に貫かれていておもしろかった。
 他の章もそれなりに興味深く、ハウツー的なものの大切さを改めて見直す参考にもなったが、この中川というひとの章を最後に持ってきた編集者のバランス感覚も誉めたい気がした。

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 以下にひとつだけ引用する。

 「 無為、しかしウソのない人生」・・という題。

 『デジタル化社会には、われわれの生活全体が時計仕掛けで管理されていくような、ちょいとせちがらいイメージがある。

 そんな時代に、人間性を喪失せず生きていくのには、逆に意識的にあくせくせず、ジタバタせず、無為に暮らすといったときをもつこともたまには必要だ。

 漂泊の俳人種田山頭火の晩年のエピソード---。

 当時日本は戦時体制に入っていた。そんなある日、松山の寓居を新聞記者が訪ねてきて、「この時局にブラブラ暮していることを一体どう考えているのですか」と聞いた。
 それに山頭火、こう答えた。
 「私はイボなんですよ」。

 「イボは何の役にも立たない。しかし、それほどジャマにもならない」。
 ---つまり、私は別にどなたのジャマもしないから、どうかソッとしといてくれという意味なのだ。
 そんな心境に、山頭火の無為の自己放擲のヒューマニティが現れる。

 何年も前の話だが、新宿の小さなバーで、「どんな分野でもその道何十年という人はすごい」という話になった。

 しばらくして相客の一人がポツリと、「私40年生きているんですけど、こんなのはダメですか」、そう発言したのが、今でもとても印象に残っている。
 何事もなくただ無事に生きている。このようにたんたんと生きることの中にも、素朴でウソのないヒューマニティが静かに流れているのだ。』

 これを読んでいて老子の話も思い出した。
 無事の人・・はたして無能の人、なのだろうかどうか・・。
by past_light | 2005-11-09 01:14 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(0)

過去と現在、記憶のコラム。

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