スローライフ・イン・トーキョー

 「もうね、三十年来てるんよ、わたし」

 おじいさんは池の鯉に餌をやる。
 自転車の前の篭に積んだ黒い鞄から、パンの耳をひとつかみ、池に投げる。

 おじいさんの笑顔に誘われるように立ち止まった親子が、おじいさんと立ち話している。いや、じつは子供の方は早く移動したがってあたりを小走りに円を描いているのだが。

 「もうね、三十年」
 「千匹いるよ」
 「ここ昔は個人の土地だったのよ」
 「変わりましたか」
 「そうね・・」

b0019960_22511962.jpg 緑濃くなった木陰の下のベンチから池をながめていたぼくに、大きな声で話すおじいさんのその言葉が気持ちよく耳に届いてきた。

 おじいさんは歳のわりには派手な赤いチェックのネルのシャツを着ていて、とても痩せていて眼鏡をかけている。

 おじいさんの自転車はがっしりしたタイプだ。
 がま口のようにぱっかりと大きく開いた黒い鞄から、つかみとったパンの耳を手にとったまま、池に投げるのはやがてお留守になり、話の方に力が入る。
 聴いていると、その言葉のイントネーションから、おじいさんは中国あたりから来て日本に住むことになったような感じがする。

 おじいさんは、その親子と別れ際に「また会いましょう」と声をかけた。

 おじいさんはパンの耳を池に投げ込みながらも背後を振り返り、歩きすぎる人に声をかける。
 「こんにちは」

 犬を連れたオジサンが「このあいだはどうも」とおじいさんに挨拶する。
 犬はおじいさんに近づきたがって前足立っている。
 近寄っておじいさんはパンの耳を犬の足元にパラパラと捲いた。それを犬は嬉しそうにガツガツと食べる。

 「ああ、またすみません」とオジサンは少し照れて犬が食べ終わるのを待つ。
 「こいつ覚えてるんですよね」
 「へへっ」

  それからあとも、おじいさんは近くに歩いて来た人たちのすべてに「こんにちは」と声をかけている。
 なんだか新鮮な響きだ。
 でもびっくりして、おじいさんを見ただけでそのまま通り過ぎる人もいる。
 でも中には「何がいるんですか」と近寄ってくれる人もいる。

 「鯉よ」「千匹いるよ」・・。
 そして、「もうね、三十年よ・・」と、またしばしの会話が始まる。

  それは、あるいはもちろん、一期一会かもしれない。そんな一時だ。

  五月も半ばになろうとする、爽やかな陽差しの午後の日のことでした。
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by past_light | 2005-05-13 22:53 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

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