アルモドバルにはものの考え方の自由さを問われる
2014年 11月 07日
思えばペドロ・アルモドバルもスペインの作家だからか、の面はどれほどかは別にして。

古典的怪奇映画のようなモチーフと未来的な要素、アート感覚な映像・・、それら断片を積み重ねて、やがて全体観終わると、アルモドバル色という他ないような独特な怪奇映画という作品。それらスタイルが交じり合いながらの異色なエンターテーメント性はいつもどおり高い。
けれど、今まで観た作品の、「オール・アバウト・マイ・マザー」や「ボルベール〈帰郷〉」などと比較するとなにかドライな感じなのがちょっと印象に残った。
以前の作品は「情」が実に色濃く感じられた。男女の性を超えた地点へ向かうような愛のカタチの模索が感じられ、それがある意味では人間の精神の深淵への謎なぞみたいで誘惑的だった。
もちろんこの作品でも同じモチーフが底流にあるようなのだが。
お話は無理強いされた性の残酷さだけが残ったように帰結したのが、少し消化不良になりそうで居心地がわるかった。
だが、これにも隠された複雑な情があると言えば言えて、再度深読みしたくなるものだ。
この映画でおこる悲劇もきっかけも、不条理さの自由な展開がブニュエルのような悪夢への迷路なのだが、ブニュエルのような軽さとユーモアまで到達するスタイルのシンプルな完成度とは違った世界だ。
ともあれアルモドバル独特な変態的感性の物語なのに、とにかく面白い時間の進み方だった。音楽がすごくよくて、たぶん曲単体で聴くより映像とともにで魅力的なサントラじゃないだろうか。
しかしまあ不自由さに陥りやすいこの世界の中で、アルモドバルって、その映画で語る自由な想像性の才能はいつも感心する。