動機のない行為

 南インドに存在した賢者として有名な人にラマナ・マハリシという人がいる。
 「私は誰か」という問いを教えた人だ。
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 「私は、この身体なのか・・誰それという名前なのか・・身分なのか・・考えているモノなのか・・心といっているものが私なのか・・」 
 そう問いかけていくと、人は、つねに形あるものに依存した「自分・私」という観念を剥ぎ取らざるをえなくなっていく。そんな公案のような感じの言葉、教えである。

 ずいぶん昔の人だと思いがちだが、1950年に亡くなっているのでそれほど昔の人ではない。
 その言行などを編集した書物の中には、ユングが序文を書いたものまであるぐらいだから西洋でも読者は意外に多かったのだろう。

 その一冊の本の中に、西洋から訪問した客の質問に応じた話がある。
 それは常識的には不思議に思え、最初に読んだ時から心に留まって忘れられないぼくにとっては「謎」でもあった話がある。

 それは訪問者の「意図(動機)なき行為とは、どのようなものでしょうか?」という質問に始まる記録である。

 ラマナ・マハリシは、その質問にその場で言葉で答えることはなく、暫くすると丘に向かって散歩を始めた。
 質問した訪問者も幾人かの列に混じって同行する。

 ・・散歩の途中、道の上に落ちていた、とげだらけの棒切れを拾ったラマナ・マハリシは、その場に座るとゆっくりとそれに手を加え始めた。
 その棒のとげはきれいに取られ、節はなめらかにされ、ゆうに数時間もかけられた素晴らしいなめらかな棒のできばえに全員が驚いていた。

 一行がふたたび歩いていると、一人の羊飼いの少年が道にいた。
 彼は自分の棒を失い、途方に暮れていたのだ。ラマナ・マハリシは彼の手にあった新しい棒をあっという間に少年に手渡し、通り過ぎた。

 質問した訪問者は、「これが実は自分の質問に対する返答なのだ」と言った。・・という話である。


 意図・動機によらない行為。それは一般的に信じがたいようにも聞こえるだろう。
 「あそこへ行こう、それが欲しい、あれを買おう。必要だ、彼に会おう。これは当然必要だから手に入れよう。どちらにするか迷う、こうすればいいだろうか・・」等々、
 まあ普段それが「動機」「意図」などと、いちいち気づいていなくても、「考え」が先にあって、欲望への行動が起る。というのはごく当り前のような感じではある。
 「衝動的にならないで、よく考えて行動する」というケースが成り立つ場合もあるので、すべてをひっくるめても肯否定の話をしているわけではない。衝動的に行動するほうがいい。というような短絡的な話じゃもちろんない。
 しかし、このラマナ・マハリシの行動の話を読んでいると、全く違った生き方も存在するということはわかるような気がする。


 それで読み手の後日談だが、ある日この話を少し実感として腑に落ちる気がしたことがある。

 夕方、自転車で急いである場所に向かっていたぼくは、その途中、狭い角にある横断歩道で、信号が青になったというのに、大きなトラックが横断歩道を塞いで、仕方なくその車をぐるりと迂回して渡らなくてはならなかった。それは急いでいる車がよくやることでもある。
 横断歩道の向い側から渡ろうとしていた歩行者も、建物とトラックの隙間からどんどん渡ってくるので、こちらは通れるようになるまで待たなくてはならない。
 やっと通れるようになって建物とトラックの隙き間をすり抜けた時、白い杖を持った男性が見えた。
 彼は不審に思いつつも、皆が渡ったような気配と信号も青であるはずだと思っただろう、横断歩道を渡り始めようとしていた。しかし彼の進もうとする正面にはトラックの車体がすぐにぶつかりそうな距離にある。ぼくは、急いで自転車を止め彼に近づき、しばらく待つように言い彼の腕をとった。
 すると気づいたトラックの運転手は車を後戻りさせ歩道を開けてくれた。
 ぼくは彼の腕をとったまま横断歩道を向う側まで渡り「気をつけて」とひとこと言った。彼は「ありがとうございます」とにこやかにお礼をいった。
 歩道を戻るぼくに、トラックの運転席から笑顔で「すみませんでした」と頭を下げる顔が見えた。
 トラックの運ちゃんに対してのぼくの「ムカツキ」はもうなかった。

 その後気づいたのだが、そんな時、人は別に「考えて行動している」という感じがしないことだ。しかも非常に楽である。また合理的に省エネな動き方をしている。
 楽、省エネなどというと変に聞こえるかもしれないが、例えば電車で席を譲るという場面、迷い、色々考えてしまうというときがある。
 「立って譲るべきだろう・・恥ずかしいけど・・でも断られたら嫌だな、みんなの視線が来るな・・」とでも記述すればできるような。まあ愚図愚図していると、いろいろ頭に浮かぶということだけはわかるだろう。
 迷う、考えるというのは、やや時間的有余があり、選択できるということでもある。緊急性はないので起きやすいとも言えるかも知れない。

 前もってマニュアルとして、お年寄りを見たらすぐに譲ってしまう、またむりしても電車では立ったままにする。ということも考えたりもできる。
 でも、それはどこか違うという感じもする。
 マニュアルに則したような行為は、どこか自然さを失し危険でもないだろうか。霊長類としての自発性、自由意志の放棄(大袈裟か)、単なる与えられた形にはまるものだ。
 
 人がなにげに生きていて、「ふっ」とその場で出てくる動きがあり、場面、場面でもっとも適切な行為だったりする場合がある。
 それはある意味では、心身のバランスが良好で健康、無邪気である、そんな状態が先にあってのものでもあるかもしれないが。しかし仮に病んでいても晴れ間はある。

 そんなことも感じる出来事だった。

 実は、こういうことに関心があるのも、要はぼくにとって、もっとも楽な、抵抗のない生き方というものの模索から出て来たヘリクツ話であるのだろうが。

 それで、ラマナ・マハリシの「意図なき行為」を持ち出すのは大袈裟かもしれないが、まあどこか通じているような、謎のように見える話だったものが、ある時ものすごくシンプルなことなのかもしれないという感触を持ったという話なのです。
(2000.1のノートを修正加筆)
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by past_light | 2005-01-14 21:17 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)

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Commented by アキラ at 2005-01-15 11:11 x
ランディさんのブログからやってきました。
興味深く、読ませていただきました。「仮に病んでいても晴れ間はある」という言葉に、いたく共感します。
このお話の感覚、僕にも少し分かるような気がします。だからこそなんですが、「適切な行為であった」という「判断」は、やっぱり「ものさし」があるというか、その局面に「ある意味」が発生してしまうように感じられたのですが。
そこすらを抜くのが、難しいんでしょうね。
Commented by ひろたん at 2005-01-15 11:36 x
生きる達人って言葉変かもしれませんが、思うがままに生きて、それが自然で美しいと思われるときが、境地かもしれませんね。
ラマナさんは入廛垂手って感じかな。
Commented by past_light at 2005-01-15 15:36
>アキラさん
コメントありがとうございます。
ちょっとだけアキラさんのブログも拝見して、とても面白そうなので、またゆっくりり読ませていただきたいと思っています。
また御挨拶させて下さい。

>だからこそなんですが、「適切な行為であった」という「判断」は、やっぱり「ものさし」があるというか、その局面に「ある意味」が発生してしまうように感じられたのですが。

まったく。ポッカリ空いたというか、空けられない(笑)ところをしっかり指摘していただいて感謝します。
精進します。←これこれ(^-^;(笑)
Commented by past_light at 2005-01-15 15:36
>ひろたん さん
コメントありがとうございます。
>入廛垂手
思わず、検索してしまいました(笑)。
ああ、十牛図にある文字なのですね。
それもまた十番目なんですね。ちゃんと読んでみないと。(^-^;

ひろたん さんのブログ、クリックしてもエラーになるのはアドレスの先頭が重複しているからですね。他の方のためにも載せておいていいですか。
http://hiro-tan.ameblo.jp/

少し読ませていただいて、また読ませていただくのが楽しみになりました。
時事の話題に独自で鋭い切り込み・・という感じで。
と、こんなところに書かないで(笑)、またそちらに御挨拶させていただきたいと思います。