弧と個と子っとん

 岡本太郎という画家は、子供時代、母の岡本かの子の、机に向かう時間を邪魔しないように柱に縛り付けられたという経験を持つ人で、その頃の太郎氏の母の記憶というのは、泣きながら見ていたその背中だったという。

 前後に想像を思い及ぼすことがなければ、常識的には、ひどい親だとか、可哀相にとか、そういう感想が出てきやすい話だろう。

 ある時、家族3人で泊まった旅館での翌朝のこと、太郎は旅館の女中さんから「もちろんちゃん」と呼ばれからかわれるので、いったい何故かと思ったら、昨夜の家族3人での議論のなか、小さい子供である太郎が、父の一平と母かの子とまったく対等に、「もちろん・・・もちろん・・」と議論していたのを女中さんは盗み聴きしていて不思議で可笑しかったということだったそうだ。
 これも聞くと笑い話のようで可笑しくも聞こえるのだが、それは太郎にとっては子供ながら心外だったという。岡本家族にとっては三人が対当に対し語る、たとえ幼い息子であろうと、それが当たり前だったのだという。

 後年、岡本太郎は、母としてのかの子というより、妹か恋人のような、かの子の印象を語っていた。
 そんな往復書簡集のある手記などを見ると、常識的に思う親子の関係も、もっと視野を広げても考えてみることができそうな気がする。

 以前観たTVでの番組があった。
 アマゾンで暮らす少数民族の話。村のシンプルな共同生活の姿にもいろいろと感じさせるものがあった。そこにはもちろん、現代社会にそのまま適用するには、すでに摩擦になる要素もあるにはあるだろう。が、そこには共同生活というものの本質的、象徴的な関係の原初的な姿がある。

 彼らには「幸せ」という言葉も「自然」という言葉もない。

 そういうことをあえて言葉で言えば、「みんな・・が、よい」と「村のまわり」に置き換わるという話だ。

 怪我をした一人の男の家に、村のすべてのみんなが集まる情景。見るにさして命に別状のありそうな怪我ではないのだが、夫でも兄弟でもないのに泣いている女達。今のぼくたちの住む世界から見ると、なにか懐かしく見えた。

 内容は様々だが、同じように悩んだり、苦しんだり、悲しみや喜びを経験する人間の精神・心というものに、「私」・「個人」という枠があてはまるのか。そういう言葉を思い出させる彼らの生活ぶりだった。
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by past_light | 2004-12-20 17:38 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

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