2001年11月15日の未消化で不完全な文

ニュースステーションに出演した大江健三郎さん。そして錯綜しての長いハナシの断片

■先日、ニュースステーションに作家の大江健三郎さんが出演していた。大江さんが生放送に出るのはほとんど初めてということだ。

 また、アメリカの学校で、アフガンの映像をテレビで観た翌日、自作の反戦Tシャツを着て登校し、反戦グループを作ろうとしたせいで、登校停止処分になってしまったケィティ(15才)さんと、その母親がライブ中継で結ばれて出演していた。ケィティさんが保守的だといわれているその土地で、様々な中傷や脅迫を受けているということがわかる。学校の友人の意見も、多くは大人と同じように、学校の空気を壊したという非難のようなものが聞かれた。しかし一方で、ごく親しい友人の中に彼女の勇気を讃え、賛同する意見もある。が、その地方裁判所でも彼女の訴えは否定され、結局その学校には行けなくなったようだ。
軍人が家系にいたケイトさんの家の母親は、娘と意見は異にするけれど、中傷にあう娘の言論の自由を守るために一緒に行動しているという。インタビューのスタジオも、中傷や妨害を懸念して地区から離れた場所を使い行われているようだった。

 そういえば、パキスタンから日々ライブな情報を伝えてくれている通称「オバハン」の「緊急レポート」に、取材で滞在している、あるメディアの記者が「いやぁ、ウチの社なんて、反米スタンスの記事や、難民関係の記事は幾ら送ってもボツにするンですから……。」と嘆いている様子も伝わってくる。
ぼくらは、新聞やテレビから毎日知らせてもらえる情報に、どこまで素直に接したらよいかというジレンマを改めて経験しているようだ。

 ■番組のなかで、大江さんは「わたしもピンチ、友人もピンチ、アフガンも、社会もピンチ・・」と表現していた。いろんな意味で、「発言する」というなかにある難しさも含蓄されている言葉なのかもしれない。
興味深い発言として、久米さんの「ショートカット」発言があった。大江さんの書く本には、なかなか結論へたどり着かないという、そういうものを感じる、と。つまりショートカットではないということだ。
大江さんは「本来ぼくは単純な人間で、AからBへと結論へ急ぐのを避けるためにも何度も書き直す作業をしてるんです」ということ。
ぼくが思い出していたのは、ブッシュ大統領が映る画面から何度も聴こえる「彼らは邪悪な人間です」などの発言。それはやはりショートカットの代表か。

今度の事件から、ネットで見られる様々な掲示板などでも、「ショートカット」な応酬が、匿名でされているのが目につく。事件に遭遇した当事者の心境も、傲慢に想像して決めつけてしまう「代弁者」としてのような立場を主張する感情が剥き出しにされたような意見もよく目にした。
が、実際はぼくが知りえた限りで言えば、WTCの事件の被害者の家族、からくも脱出した人の文章などにネットでは出会うことができたが、それらは非常に冷静なもので、読む側には精神の静寂を要求されるものだった。
ニューヨークタイムズに広告された、退役軍人の、「私たちの存在の原始的な部分に力を貸さないで下さい。」という言葉も、ぼくは大事なメッセージだと常々感じている。ショートカット思考は、マインド(精神)の原始的な条件づけです。すぐに「暴力」に繋がりやすい非常に危険な、結論へ急ぐ姿だと思う。

 ■ユング心理学にも接点がある、ぼくらの卑近な話。
「男性らしさ」という固定観念に執着していると、おのずと「男らしくないもの」が簡単に分離される。ふたつの箱に物事を分けやすくして、整理しやすく、解った気になる。
が、実際の生ではそうはいかない。男性が恋に落ち、現実に単純化できない感情に出会うと精神は落ち着かなくなり、精神、思考は落ち着き場所を捜す。早く答えを求めたくなる。自分の感情(エロス)を一刻も早く静めたいという「男らしさとしての」観念・知(ロゴス)の要求が対立をつくり葛藤する。
そして彼を非常に短絡的な行動に駆り立てるかもしれない。そこで彼は外面の男らしさを死守するために、性急に感情にケリをつけようとするかもしれない。
「好きか嫌いか、はっきりしてくれ!」と彼女に突然迫るかも知れない。「結婚か別離か」とも。暴力的な身勝手な表現もありえるかもしれないし、自分の精神へ暴力が向かうこともあるかもしれない。
実際の姿を描写すれば、精神は未熟で、簡単に解答がないものへの忍耐がない、そういうことがぼくらの問題であるかのように思われる。個の未熟とは問題の根本ではないのか。

 ■個の集合である人類に必要な平和への智慧の道はあるのか。
インドで生まれ世界各地を講話して旅し、物理学者デビッド・ボームや多くの著名人とも分野を超えて討論、問答した、クリシュナムルティが使う「洞察(insight)」という言葉について、よく思い出すのに以下の例え話がひとつある。

「前線で敵を偵察することを指示された兵士が、帰って来て報告する。『隊長、敵は我々でした』」

 ところで、大江さんは久米さんと「明日は佳境ですね」と、翌日もテレビに出るということが番組内で約束された。

 ■次の日、大江さんは家族と昨日の反省会をやって、モニターばかり見ないようにと言われて来たそうだ。下を向いてばかりいるように見えるからだと。
 この日、大江さんが持って来た言葉から七つを紹介した。そのなかに「さとる」「とりなす」「注意」「まなぶ」ことから「さとる」へ、和解を招来できる「とりなす」人、「言葉」、そしてそんな「新しい人」。

 大江健三郎さんの息子さんは大江光さん。彼の音楽を最初に聴いた時、「無垢と不思議」という言葉が浮かんだ。しかしお父さんは、その音の中にもっと深いもの(悲しみとか・・救済とか)をも感じ取られたのだと、どこかで読んだ気がしする。
それは光さんが言葉では現せない、伝えない、心の中の声をも聴かれたのか、と思う。そう言う意味では、光さんの音楽はまわりとの関係や聴き手とを、「とりなす」ものなのかもしれない。ぼくらは誰でも、本来「とりなす」智慧を持っているのかもしれないし、していることもあるのか。
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 ■クリシュナムルティは、あらゆる権威の危険、依存、信念に含まれる問題など、懐疑する必要をもいう。また「わたしは誰のグル(師匠)でもない」というスタンスを必然とした。
クリシュナムルティは「思考は物質である」という。精神分析的なアプローチも疑う。それは検閲し、分離する観察者を生み出すのだと。偏見を免れない性質を含んだままの観察では、容易にごまかしが利く。分析とはまた「時間」を使うものだからだ。時間とは思考を含む。思考は過去・既成の知識を拠り所とするせいで、おのずと限界があるという。じゃあ、考えなくいていいのか・・。

彼の言う「気づき・注意・洞察・理解」という表現での、事物との、また他者を鏡とした関係による自分の反応を観察、知ることとは。
精神の解放と自由は、彼の実際的な話のなかでは、関係で起こる様々な自身の反応(条件づけ)を「正当化も非難もせずに見る」ということをまず言う。

しかし説明もこれまた錯綜しやすい、この「見る」、「観察者」とは、関係から生じる反応を対象化し、判断し、評価し、選択し、分析する(選り好みするかもしれない)主体で、それはおのずと偏見と恐怖等々に染まっているので、それ自身がむしろ「見られなければならない(気づかなくてはならない)」のだという。
まず「問題」よりも「問題の作り手」が問われるということだ。そしてそれが最初の問題だが最後にまわされているのではないか。
・・この話は興味を持った人が著作を読めばいいので端折るが、「観察者は観察されるものである」という言葉は物理学的に聴こえる向きもある。観ている、気づいているという「者」が、現実には偏見や恐怖で条件付けられたままでは、観ている者も観察されるべきものだということだろう。
「私は気づいている、分かっている。」しかし「どのように」、か。
量子力学のはなしに、こういう話がある。
「・・観測問題というのは、ミクロの世界では、測定するという行為そのものが対象の位置と運動を変化させてしまうということである。」
観察者が対象(観察対象)に影響を与えるという点では、乱暴に言うと先の話にもつながるように感じる。それ独自で確固として存在しえるものはないということか。

またふたたび卑近な例で言うと、他者に対して心理的に「思う」こと、(彼は冷たい奴だなど感情が色付けしている)は、ぼくらはそれが「事実」(誰でもがそう思うはず)などと思い込んだりしがちだ。

人と人の間とか、国と国との関係などにおいても、一方が絶対的に正しいという固定点で対応しはじめたのが今の対立する世界の姿をつくった一因でもあるだろうか。

 ■以下は、クリシュナムルティと デビッド・ボームとの対話「人類の未来」でボームの書く序文から短縮して抜粋。

「対話の始まりは『人類の未来はどうなるか?』という問いであった。
明らかに現代科学および技術は、破壊の可能性をとてつもなく増大させてきたからだ。・・話し合いから・・この状況を作り出した究極の原因は、広範囲にわたって混乱している人類の精神性にあることが明らかになった。・・それは長期にわたり、基本的には変化してこなかった。・・人間が現在進みつつあるたいへん危険な道筋から迂回する可能性がいったいあるのか・・。
・・一見するとこの精神性の問題を解決するには時間がかかるということを根本的には示しているようだが、クリシュナムルティの指摘するように、心理的な時間、つまり「なりゆくこと」は実は破壊的な傾向の原因そのものである。時間を問うことは、この問題をあつかう手段として知識や思考が適切かと問うということでもある。知識や思考が適当でないならば、実際に必要なものとはなにか?
この問いは「人間の頭脳は何世代にかけてあらゆる知識を蓄積してきたのだが、精神はその頭脳により限定されているのであろうか?」・・・
クリシュナムルティは、頭脳の条件づけに特有である偏見から本質的に精神は自由であり、中心と指向性のない正しい注意から生まれる洞察を通じて精神は脳細胞を変化させ、破壊的な条件づけを取り除くことができると強調している。この種の注意があること、この問いに大きなエネルギーを注ぐことが決定的に重要なものとなる。脳神経系についての研究では、洞察は脳細胞を変化させるかもしれないという言明に支持を与えている。」


 ■大江さんの言葉では「とりなす・和解」という「新しい人」が話されていた。そして「注意」という言葉は、先述したことと繋がっているように感じる。本当のことは注意深くなければ知り得ないし、自分の偏見や暴力性にも注意がなくては簡単に見過ごす。「敵は我々」でもあるかもしれない。
七つの言葉の最後に、大江さんは、 障害者を家族に持つ人たちとのお付き合いから、みんなが元気であることに気づいたという話がある。
「とくに理由はないが、みなさん元気でいきましょう、とみんなそういう感じで言うのです。」と。
そんな経験から発見した言葉である「元気」を紹介する。大江さんは「ああ、自分が生きているのは『元気』を出しているからだ、と気づいたと言う。

もしかしたらすべては「新しい考え方」ではなく、誰でも本来「分かっている」と思っているようなことで、多くの人間が率直には向き合えない無垢な領域かもしれないが。
新しい人、というのも「考え」という次元に入れると古くなるのかもしれない。逆に言うと古くからあるものに実際には試みられてもいない「新しく実現」するものがあるのかもしれない。
人類にまず必要なものは、ひどく単純なものなのかもしれない。
-20001.11.15-のち修正-
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Commented by sizukugaotita at 2004-12-21 15:41
とても中身が濃いお話ですね。
なかでも、「ショートカット」というものには興味を惹かれました。
その例えもなかなかのもので、思わずPCの前で「ウン、ウン」とうなずいていました。
あまりにも、深いお話で、私にはまだ完全に飲み込むことができませんでした。
もう少し成長したときに改めて読むために、個人鑑賞目的で、ドキュメントに保存してはいけませんか??
Commented by past_light at 2004-12-21 21:25
sizukugaotitaさん
こんなナガイ文を読んでいただいてありがとう。
それから興味を持ってもらってうれしいです。もちろんドキュメント保存してもらってかまいませんし、そんな風に読んでいただけるなんて、消化不良の文章クンもうれしいと思います。(^-^;

また、こんな話はいつか自分でもわかりやすく書けるようになったら書きたいと思います。

それにしても、y sizukugaotitaさんの「もう少し成長したときに改めて読むために・・」という言葉はとてもステキでした。
by past_light | 2004-12-17 20:11 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(2)

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