秋にかなしい

このところ、ニュースに訃報が続いた。
偶然か、加藤さんの訃報の数日前、図書館で見つけたフォーククルセダーズのCDを借りて聴いていて、ジャケットの若い頃のかわいいメンバーの写真に自分の中高生の頃をも重ねて見ていたりして、なんとも時間の無常も胸に去来していたのが伏線になった。

しかしぼくとは違い、加藤さんは、「振り返らず,繰り返さず」をモットーに音楽活動をしていた。
また「やりたいことがなくなった」とも生前言っていたようだ。
それを訊くと、ウツの症状との関連性はやはりそこにないといえないと思う。
燃え尽きるという、それは感じなのかもしれない。
かといって、もっと楽に生きてください。ともなにか言えない。

「帰ってきた酔っ払い」というレコードは中学生のときに持っていた。
今では早回しの声による歌、などといっても誰も珍しがらないが、そのころはコメディソングにしても実に新鮮,奇怪な音楽で、エンディングのベートーベンの旋律も、そういう使われ方を聴いたのは初めてだった。
このころサイケデリックな色調のイラストスタイルなどがアメリカから輸入され、このシングルレコードの蛍光色を使ったジャケットも新鮮に見えた。

異例の大ヒットその後のフォークルは、短い活動期間に180度曲調が変るような、叙情的ないい歌をもいくつも生み出した。
それらはいまだにとても好きで、それを聴いてみたいと思っていたのだ。
「イムジン河」騒動は、その曲のシンプルな美しさとは無縁に見えた。

しかし、訃報を聞いてから改めて聴く、「青年は荒野をめざす」「悲しくてやりきれない」などは、あまりに予言的に思えてなにか胸に堪えた。

昨日は,ネットのニュースで南田さんを亡くした長門さんのコメントを読んでいて、長門さんのその四年に想いを馳せた。
それから長門さんの語る言葉に感心した。
亡くなった事を知ったのはと尋ねられ、
「・・さりげなく風のように僕の耳に入ってきましたね。」
という長門さんの言葉の描写に、かえって生々しく、動かしがたい「事実」が感じられた。

「皆さん誰でもそうだと思うけど、死に対する拒否反応はすごく多いんで、あまり死んだ洋子は好きじゃない。」
と率直に口にする言葉などに、このような精神のときに取り巻かれて答える、長門さんの長いインタビューの、胸の内の思いを語る姿に、その誠実さ、無防備の美しさ無垢さ、人間性の温もりとか厚みが感じられるものだった。

ご冥福をお祈りします。
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Commented by さすらい at 2009-10-26 01:36 x
南田さんは自分が子どもの頃の大スター、その死は、長門さんの会見の時の1枚の写真を見ただけで伝わってきました。かけがいのない存在を失うことの痛みは想像を絶するものがありました。死は、人間であることをやめ、物質になってしまう。その隔絶間はどれほどのものか。
加藤さんの死は予想もつかない形でやってきました。同世代といっていい人で、同世代として40年ぐらい歩んできた人が、「やりたいことがなくなった」というのは人ごとでない響きです。まだやることはあるのか、やりたいことはあるのかというのは、自分自身の問題でもあり、加藤さんのある意味潔い死はショックでした。
Commented by past_light at 2009-10-27 16:16
長門さんの会見は一見冗長に思う人もいるという話がありましたが,それぞれ人は思いの表し方が違うということもあるでしょうね。また、テレビなどは何度も放映するから、繰り返してみればそういう印象を持つんでしょう。
ぼくの経験でいうと、亡くなった人の姿を見ると静かで穏やかな「気」を感じます。
もうそこにはいないけれど,意識はどこかへ立ち去って、ぼくらからは目隠しされているという感じがしています。悲しいが、悲しむだけではなにかいけないようなことを思います。
同年代に近いひとの死は、やはり自分を重ねて色々思ったりしますね。
by past_light | 2009-10-22 20:23 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)

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