牛に引かれて善光寺参り

 人と人の関係性において大事なモノというのはやっぱり誠実さなんだろう。言葉は堅苦しいし、くそ真面目みたいに聞えるが、他に適当な言回しもない。

 いちばん嫌な感じというのは、なんでもいい加減に対応する癖が、もうびっしり張りついているとしか思えない会話で終始してしまうばかり、そんな相手だ。なにを話しても周辺をなぞるばかり、こういう時、単なる情報、知識のむなしさを思いだす後味の悪い時間になる。
 そういう人の顔付は特徴がある。相手の目を正面から見ない。微熱さえ入らない話ぶり。ストレートな気持の問い掛けにやりとりされる手答えがない。総じて言えば、相手の話など「聴いて」いない。
 思うと、他者の話にいい加減に対応しているということは、自分に対しても日頃おなじようにいい加減に対していることになる。自分にうつろだと、他者にもうつろに受答えをするだろう。
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 「聴く」ということが仕事の人がいる。カウンセラーという言葉も浸透したが、意外に日常的に普通は接する機会もないから、よくは実際はわからない。
 河合隼雄さんの本道で、たぶん代表的な書物にもなる「カウンセリングを語る」の上・下巻を読んだ。
 真剣でむずかしくもある事柄を、天才的にわかりやすく、軽妙に語る河合さんの不思議さにも感歎する。それは現場で、クライアントに対している専門家ばかりが「為になる」というだけではなく、ごく一般の人が読んで、どんどんと思い当ること多き、人が生きている時間に共鳴する話が、いわば「正しく」繰返されて話されている講演録。これは普遍的な名著だろう。こういう講演録に接する度に、このひとの日本に於ける特異な存在を貴重に思った。

 結論、最善策や選択できる対処法というような、ハウツーで答えを求めては適わない、それはむしろ危険でもあるだろう。人の「こころ」、人との「関係」の調整、洞察力を養うことに、参考、ヒント、支えになるというぐらいのつもりで話されている。それはその限界を深く認識した人だからの誠実さでもあるだろう。が、もっとも大事だと思われることを、ストレートに、またたびたび繰返される。それは聴き手や読者にとっては、お持ち帰りの「考案」ほどにむずかしいものだが。

 それはある種のショートカットを好む人種にはたまならくいらつかせるものかもしれない。でも、こうすればオッケーなんて特効薬がかつて存在したかと思えば、なら既に人間の世界はとっくに変わっていただろう。だからこれはもっとも誠実で正しい態度だろうし、たとえれば良質な漢方薬かホメオパシー療法みたいな講演録だ。

 河合さんは、「クライアント」こそが、じつは「すごい」。と実感を込めて言えるという多くの体験をされている。
 クライアント自らが治癒へ自力で向うこと、それに実はカウンセラーはいわば同行しているという自覚、そんな聴き手としての位置にありえること。それはたんに方法ではなく、技術(アート)と表現されるだろう。こうしなさい、ああしなさい、で即席に解決するなら、再び人の世界は既に平和だったのだから。

 ある女性のクライアントが、幾人かのカウンセラーを経て、河合さんとの出会いで治癒へ向う。最後に、彼女は「最初に、この人で治る」と直観したと話してくれる。魅力的な容姿だったから、どうしても特別な視線を感じていたが、河合さんは、言ってみれば表面は見てない、関心の向け方が最初から違っていた視線をしていた。

 毎回、嫁の悪口だけで時間を使い果してしまうクライアントに、聴いていたカウンセラーの河合さんは最初にこう言う。
 「牛に引かれて善光寺参り。というのはご存知でしょう」「お嫁さんは、その牛ですな」

 きょとんとするクライアントは、その後、遅々として進まない病状の改善に、いつも不平を言いながらも、なぜか通いつづけることになる。言ってみれば「牛に引かれて善光寺参り」という言葉も、クライアントには、謎だが、引力でもあるのだ。
 (「牛に引かれて善光寺参り」とは、婆さんの洗濯物を牛がひっかけて逃げた。その牛を追いかけているうちに、婆さんは善光寺まで来てしまった。それがきっかけで欲深かった婆さんは深く信心を持った・・。というはなし。端的には、なにがきっかけになるか人生わからない。というようなことだ。「万事塞翁が馬」というのも近い話と思われる。)

 やがてそんな予感はかたちを見せ始める。つまりある意味でクライアントはやがて宗教的な出会い、時期を迎える。
 河合さんによると、クライアントは言わば(潜在的に)「死の準備」にカウンセラーを訪れたのではないかという。
 それは一朝一夕で可能な準備でないのは当然である。

 それでなくても、歳老いて行く者にとって、相手は若いというだけで「腹の立つ」存在だという。自分が若いときはなにに於いても年長者に抑圧され、自由がなかった。しかし家に来た嫁はくらべれば自分が我慢したことばかりを平気でやっているように思える・・(笑)。毎日嫁を見ていて、今の姑の自分としては内部でふつふつする葛藤があるし、納まりのつかない思いがある。それをカウンセラーにくどくどと愚痴にしか聞こえないことをぶちまけなくてはいられない。でもそんな自分もつくづく嫌にもなる・・。心の落着き場所をそうして捜さざるをえない。しかし、そこはいったいどこなんだろう・・。

 そんな話しを読んでいたら、先日のコラムに書いた、つまるところ夏目漱石の「道草」とか、その主題にあるものは「牛に引かれて善光寺参り」という観点から、なにかつながって、ちよっとだけスッキリする話でもあった。
 それやこれやについては、できたらまた来年あたりに・・・。

 今年もありがとうございました。
 みなさま、よいお年を御迎えください。
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by past_light | 2008-12-29 01:33 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

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