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「陽炎座」監督・鈴木清順 公開・1981年

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「陽炎座」監督・鈴木清順 公開・1981年
原作:泉鏡花 出演:松田優作/大楠道代/加賀まりこ/楠田枝理子/大友柳太朗/原田芳雄/中村嘉津雄 他

「三度びお会いして、四度目の逢瀬は恋になります。死なねばなりません。それでもお会いしたいと思うのです。」

秋に観る怪談-2(サイトページを作っていますが、紹介用に修正)

「ツィゴイネルワイゼン」に続く年に上映された「陽炎座」。
主演のひとりの松田優作というと、この映画と夏目漱石原作・森田芳光の「それから」には日本の男の色気を感じた人も多いかも知れない。
「それから」とある意味共通するか、他者に夢幻迷宮で翻弄されるような主人公の頼り無さも松田優作の独特の味になった。
絢爛たる色彩の着物と舞台セットが大楠道代の妖艶なる美しさを際立たせていた。
淀川さんは、「泉鏡花の世界の女ではないフランス美人的な大楠道代の、鏡花おんなにけんめいにいどんだ(心がけ)が出した芸の姿」を誉めていた。まず、ぼくにはこの大楠道代を観ているだけでも、とりわけ満足というところもあったほど。

「ツィゴイネルワイゼン」に続いて、この「陽炎座」もあの世からの引力をトーンにした怖い絵巻物でもあるのだが、その爛熟の果てに到達したかのような映像全編に息をもつかせぬ美しさが充満し、あらためて日本美術の感覚と映画の様式美を思い出させた。
登場する人物がどこか現世的でない存在感を持っているのだが、ただひとり加賀まりこだけは生身の生命力を醸し出していた。それは許されたものか意図されたか知るよしもないが、あれは加賀まりこというひとのつよい役者の性だったのだろうか。
反対にテレビなどではテンポよく押しまくっていた楠田枝理子が、この映画では着物を着た静かな人形の風情で佇んでいる姿が怖い。
舞台小屋崩壊のスペクタルといい、映画の背景としての壁紙のように、めくるめく妖しく増殖していく殺戮地獄絵図の美も過剰なほど。男女のあの世へのみちゆきの舞台を大道具セットたちが華麗に演出していた。「清順流フイルム歌舞伎」とはよく表現した言葉。
ほうずきのみごとな朱色を生かし、水中のマジックを魅せたシーンも特に印象的だ。

前作と違って、目に見えるモノにすべて映画芸術の魅力を投影させようとしたかのような、ある意味で余裕のようなものが感じられるのは、前作の絶大な成功に支えられたものと言えるかも知れない。それはその分、この「陽炎座」という映画は、誰にも感情移入を試みることができないというほどの美術仕掛けの映画ともいえるだろうか。


# by past_light | 2019-10-10 17:42 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「ツィゴイネルワイゼン」監督:鈴木 清順

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「ツィゴイネルワイゼン」監督:鈴木 清順 出演:原田芳雄/大谷直子/藤田敏八/大楠道代/樹木希林/他 公開:1980年


--夢と現の彼岸。フイルム歌舞伎-- 秋に観る怪談(サイトページを作っていますが、紹介用に修正)


封切りで上映されたのはシネマ・プラセットと名付けられた半円形の銀色テントドームだ。当時住んでいた街のショップビルの屋上に設置されたテント小屋のようなドーム。それは映画館に入るというより、唐十郎主催の演劇集団で存在した赤テントに入る時の気分に近かった。映画流通の革命とも言われたそのドームもろとも移動しながら長期に渡って上映され続けた映画が「ツィゴイネルワイゼン」だ。

座席は小さく堅く快適とは言えず、ゆうに三時間に及ぼうとするこの映画を観るのは身体には酷だったが、それでも最終日の近く、もう一度そのドームの中で堪能したほどだった。 狭いドームの中にいるのは、特別な映画ファンと言うべきか、その時は俳優の数人や大島渚監督なども同じ椅子に観客と混じって腰掛けていた。
上映が準備され照明が消えると場内は真っ暗、漆黒の闇になった。その中で 「ツィゴイネルワイゼン」を観るという贅沢は、もう今では叶わぬ事だろう。
映画体験の極みというものがあるとすれば、この年のシネマ・プラセットのなかで観た「ツィゴイネルワイゼン」 だ。


映画は、大正ニヒリズムの余韻のこる昭和初期が舞台。「ツィゴイネルワイゼン」とはサラサーテの曲だが、SPレコードから微かに聴こえる録音中に紛れ込んで入っている声に執拗に惹かれたふたりの男が辿る摩訶不思議なるあの世とのラブシーンに満ちた旅の道ゆき。
同行するは細君か、あの世の使者か、 熟した色香の女たちを交え、この世とあの世の境を行ったり来たりしているような話である。いやむしろその彼岸へ渡るための夢の芝居なのかもしれない。

「今度の映画は、生きている人間は本当は死んでいて、死んでいる人が本当は生きているんだ。という一種の怪談ですね。 情念や因縁は何ひとつない、現代風のノッペラボウな怪談を、やさしく、面白く、極彩色の娯楽映画に仕上げてみるつもりなんです」と鈴木清順は語っている。その通りの出来映えとも言え、あの世との親近感とでもいうべきような、作り手の予想をを超えた魅力がフイルムに潜んでいるような気もする。


幻想的なのに生々しい、濡れた手で背筋を触られるような官能と静寂の無限螺旋な夢の数々。日本に映画としてのシュルレアリスムの文法が仮にあるとすれば、この映画がそれであると当時思ったもの。
懐かしいゾーン、前世の記憶のように、我々を魅了する世界が「ツィゴイネルワイゼン」の闇の時間にはあるようだ。 だからそれは夢の出所を覗くような怖い映像でもあり、楽しくスリリングなものでもある。
しかし「死をもてあそぶ」とも誰かが表現したように、この映画にはユーモアが地下水のように浸透しているという、そういったバランスのなかで成立しているとも言える。 夢よりも、あたかも熟した夢のようだと言えるかも知れない。

SP盤レコードにはじまり、当時のモダンな建物や装飾品、女と共に語られる「腐る前が一番うまい」という熟れた桃、エロチックな蟹、干物と小道具も艶かしい存在に使われて本望。
二役となる大谷直子の落ち着いた美しさが印象的。藤田敏八の渋さ、大楠道代のモダンな可憐さと色気、原田芳雄のワイルドさが生きた男臭さと不気味さ。数々の脇役も印象的な後味を残す。

ところでぼくが一番怖かったのは、ラストシーンに至る橋の向こうから見える少女の手招きからの御案内だ。ぼくの夢のなかにある二本の足は、あの小さな案内人には逆らいがたいと、ひょこひょことついていくのかも知れない。
貴方も彼岸へのご案内はいかが。秋にふさわしい怪談を堪能できる一本。



# by past_light | 2019-10-10 17:39 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

緑の光線  監督 エリック・ロメール フランス(1986)

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ロメール監督作品は公開当時から、高齢でありながらのみずみずしい映像や軽妙なタッチで描かれた映画が連続して紹介され、ファンも多かった。描かれるモチーフは少女や若い女性たちの物語も多く、80歳になろうという監督の感性に驚いたことも覚えている。

「緑の光線」は中でも完成度の高さも兼ねて有名な作品。
今回観たのは多分三度目。何度でも見れる作品の監督として5本の指に‥。

フランス、特にパリジェンヌ・パリジャンの日常や街の生活が贅沢・存分に味わえるも魅力。

登場する人たちがナチュラルで、観ているとまるでドキュメンタリーかと見紛う光景、会話が展開するのも素晴らしい。
ヒロインのデルフィーヌは美人だが、やや乱暴に言うと屈折したパーソナルが面倒さを感じさせるタイプ。それは個性でもあり、魅力でもあるとは言えるが、対比されるように友人の女性たちは解放的で、世俗性、その場での人生を楽しんでいるように見える。それもあり、内に籠りがちなデルフィーヌはときに周辺の寛容に甘えてしまう態度が目立つ。

長いバカンスでの期間をひとりぼっちで消化しないために、精神的にも漂泊する彼女の行動を追う形で現れ語られるダイアリー。多くの女性も共感を禁じ得ない物語だろう。
粗雑に言えば、中流生活の若い女性が、内心いい男を探していながら出逢う男は彼女の選択眼にはペケだらけ。臆病な自らを憂いながらも、友だちから指摘されるとプライドが許さない。私は特別なんだと殻に籠る。そしてついには泣いてしまう。・・と寛容に乏しいタイプには敬遠されそうだが、彼女の周りに登場する人たちの寛大と優しさは清々しい。ともに軽やかなカメラワークとその映像とが映画のトーンを重くしない作りになっている。

ようやく出会ったかの男性と、運不運のサインに拘りを持つデルフィーヌが偶然耳にした「緑の光線(日没の一瞬に見えることがあるという緑の光)」にお伺いを立てるラストシーン・・。ともかく物語を説明すると陳腐なのに、いつの間にかデルフィーヌの幸せに共感し、感嘆していく観客ができあがるこの映画は観て体験してもらうほかないなあと思う作品。
16mmで少人数で撮られたというフットワークの軽さと奥の深さが両立した、ロメールの知性や愛やユーモアが熟成した素晴らしい映画です。


# by past_light | 2019-10-03 16:35 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

叫びとささやき 監督: イングマール・ベルイマン 初公開:1972年


以前書いたものを作品のみの記事に訂正加筆したものです。

20代前半、ハイコ ントラストモノクロの心理戦、「ペルソナ」に出逢ってからベルイマンに心酔を始めた。そして決定的になったのが「叫びとささやき」だ。
人が自我の牢獄を自覚しながら、自由になることなど叶わずに捕われたまま、その狭い空間の矛盾の中で右往左往した人間を演じることの辛さを濃密に人格にしたとすれば彼や彼女の叫びとささやきになる。

「処女の泉」などでは無垢で清廉な少女が苦難と不条理に殺される。当時はかなりショッキングな内容と描き方だが、それが神話的に高められる。神の存在、不在の答えも、人間の悪事や良心の中でしか描くことのできない宿命から、飛躍するように奇跡という手法が映画の力で持ちこまれる。そのことでかろうじて救いが完結するが、映画には不思議な感情がのこる。

「叫びとささやき」を改めて観直していると、当時より怖さが増して感じられた。それは「死」に対しての内的な距離が接近した年齢のせいもあるのかなと思う。
三人姉妹の埋めがたく取り繕う精神の距離、真実の冷え冷えした関係。メイドであるアンナの無垢と無防備の母性が唯一体温を感じさせる人物像で、地上での神聖を体現する。死のベッドから呼ばれる残った姉妹とアンナのプロット、「これは夢よ」「あなたには夢でも私には意味があるの」。これは超現実的手法を上質に用いるベルイマンの素晴らしい表現であり、またそれゆえいかなるホラーより怖いものになっている。
自我の牢獄に隔離されイノセントの出口のない人間。内に外に誤魔化し、我が儘に愛を求め、また求められ拒否する他者との関係の絶望的な様相。さらけ出されて直視せざるを得ない醜悪さに満ちた芝居の日々のなんと地獄か。

ここに登場する人物の描かれ方の底意地の悪さと言えば愚直すぎだが、ベルイマン自身の精神とはどうにも強靭なのか。ふと思う夏目漱石の現代病理を凌駕し、映画に登場する人物は底なしに苦悩しているように思われる。

「金持ちが天国へいくのは、らくだが針の穴を通るより難しい」という言葉があるが、言わば知に長けていようと、利己的、自己中心的な精神とは、それそのものが自らの牢獄なのだ。しかし人はその場にただ縛られることを選び螺旋に繋がれた犬のように動く。
アンナに象徴される母性の、受容する無垢な精神だけが神の側にあり、観念の神には不在であることをベルイマンは表現しているようにも思える。

実はベルイマンとはシンプルなことを表現し続けたとも言える。それは「叫びとささやき」では、映画の終わりに伝えられている。死んだ次女の日記の中に書かれた、病状の良い清々しい午後、姉妹たちが見舞いに訪れて久しぶりみんなで庭園を散歩する記述にある。
「愛する人たちがここにいる。このとき私は、この一瞬に幸せはあるのだと悟った。私は人生に感謝した」


# by past_light | 2019-10-02 19:42 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「エル・スール」 監督・ヴィクトル・エリセ 製作1982年 スペイン・フランス

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「エル・スール」 監督・ヴィクトル・エリセ 製作1982年 スペイン・フランス

私的に言うと、生涯に出会った映画で五つの指に入るような「ミツバチのささやき」から、「エル・スール」は10年後の作品。今回久しぶりに観て、実は以前サイトにページを作っているのですが、いろいろ新たに思うところを追記、訂正しています。

「ミツバチのささやき」が映像で感受性にダイレクトに伝える物語と比較すれば、「エル・スール」は原作に当たるテキストの具体性も色濃いかと思える。
その意味でも、映画は南へ行ったエストレリャも描かれる予定であったが、それを期待させながらも一本の映画として充分完成している。・・と思い、エリセの「未完成としても公開しなくてはならなかった」斬鬼のような思いも過剰かと不思議に思えていたが、今度観ていて、後半の撮影ができなかった彼の思いがよく解る気がした。
南での物語がエリセの想定したという、ややコミカルとさえも表現されたかもしれないその対比を、北と南を経験したエストレリャの人間性としての成長を描いた一本の映画として完成された「エル・スール」も、やはり観てみたかったとも思う。
また反対に、それでは違った「エル・スール」になっただろうという複雑な想像もする。

映画は、少女の時代から大人の梯子を上りはじめたエストレリャに至る内面の陰影、変化を、静かに表現している。それは父との関係の距離をもそのまま感じさせる優れた表現。陰影が巧みに操られた深く美しい映像には誰もがため息が出るだろう。
大人になったエストレリャのモノローグが全編を導き、少女の頃の内に埋められなかった謎、父への感情を深く表現している。
生きることのそのもののなかにある時間の感覚が色濃く感じられるという意味では、一冊の良質な短編小説そのものをも体験したような充足もある。
それでも「ミツバチ・・」に基調とされたフェティッシュ、神秘もこの映画にもやはりある。父親の霊力、彼の内面を推察すればそれは背負った十字架のようにさえ思われる。 
その能力が眩しく映っただろう少女エストレリャの視線から、父の隠された苦悩が、ゆがて大人の視線を持ちはじめたエストレリャにとっては、一見世俗にありがちに思われるだろう苦しみにも映り、なんとも情けなく思われたかもしれない。
「あの時どうしていたら、と思います。でもわかりません」とエストレリャのモノロークが語る思い出のレストランのふたりの会話の残酷さ。親しい人との関係における心のすれ違いを知っている人には胸を苦しくさせるものだろう。

南スペインからエストレリャの初聖体拝受で訪ねてくる祖母と乳母の存在が我々にでさえ懐かしく思われ、そしてあなたの「南」を想わせる。・・と当時書いたときに締めくくったけれど、これがエリセが必要とし完成された「エル・スール」を思わせるものだ。
南を描くことには、この二人に象徴されるエストレリャの北には存在しない世俗性のぬくもり、内なるシンプルさ、そしてエリセの想定した「コミカル」なものと映る明るさだったかもしれない。内戦を経験したスペインの傷を癒す統合された物語だったかもしれない。
このふたりの登場のタイミングは素晴らしいし、ふたりの女優の存在感の醸し出す巧さは味わい深いもの。
乳母ミラグロスと少女時代のエストレリャの会話に、人の距離の機微を感じさせて興味深い場面がある。よき乳母で家政婦のミラグロスは信心深くかつ物分かりがよいが、おしゃべりの途中、「お嫁さんっておかしい」というエストレリャの反応にしばし言葉を失う。が、聴かなかったことにするように「さあもう寝ましょう」とやり過ごすところはミラグロスのミラクルテイストである。


# by past_light | 2019-09-29 13:29 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

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# by past_light | 2019-09-28 01:36 | ■写真・ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)

Toward the evening

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# by past_light | 2019-09-25 21:14 | ■写真・ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)

過去と現在、記憶のコラム。関連ありなTBはラヴリー。リンクはフリー。コメントはブラボー。


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