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佐々木昭一郎&中尾幸世

なんと「四季ユートピアノ」を見逃してしまった。しかし翌日からの4本はなんとか観ることが出来た。

佐々木さんの作品は、主に今はどうかと思うNHKが生み出せた貴重で最良の映像作品であり映像作家だろう。NHK遺産と言いたいほど。
しかしまあ十数年前ほどまでは唐十郎演出などのドラマもあったから、経済的にはそれほどでないはずの大方のテレビ局が、志も精神も劣化しているだけかもしれない。
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ぼくは正直言うと、明るくポエジー溢れる映像と、陽光の中の自然が背景にある作品ばかりから出会ったので、初期の作品をじっくり観るのは初めて。
たしかいくつかトーンの暗さに意外に思ったのはその後だった。つげ義春原作の「紅い花」のドラマも観たはずだが、その時も佐々木さんがこの原作をモチーフにしたのは意外だった。

その最初に出会っていた明るい作品とは、「夏のアルバム(1986年)」や「クーリバの木の下で(1987年)」だ。今でも当時録画したVHSのビデオテープがタンスに仕舞ってあるはず。
特に夏のアルバムの、あの爽やかさ、キュートな旅情、風のような詩情は、日本のドラマ放送作家の存在にして、信じられないほどで驚いた。
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ところで初期の作品となる、マザー(1969年)、さすらい(1971年)や、よくこんなに前衛的実験的なテレビドラマを放送できたと思う、夢の島少女(1974年)など。登場する主人公は、だれも社会の中心で陽を浴びている少年少女、青年ではなく、片隅の周辺で生きている。
妄想と現実・事実とが入り乱れての時間の進み方は、難解で抽象的と思われがちだが、よりリアルな人間の精神・心理状況を描く方法として現実感があるものだ。

『夢の島少女』での中尾幸世さんと、その後の『四季・ユートピアノ』や、『川の流れはバイオリンの音 〜イタリア・ポー川〜』(1981年)になどつづく海外ロケものとの、それら彼女の存在感の幅の広さというか、それはいわゆる女優というジャンルでは言い表せない独特な在りかた、存在感だ。市井の人、いい意味の素人感というか現実感というか、これは稀な人ではないかなと思う。

佐々木さんの褒め言葉としては十分すぎる説得力のある「うん。見ていて飽きないんだよ、あの子って。」という言葉に頷くばかりだ。
初登場の『夢の島少女』で、なかなか決められなかった主人公の少女だが、最初の印象ですぐ彼女に決めてしまった。「まず声が良かった。」という佐々木さんらしい音への敏感さがよく現れた一言もある。
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独特のドキュメンタリー的な物語の作りかた、(佐々木さんによれば「ドキュメンタリーは「事実」を追求するけど、フィクションは「真実」を描くよね。」)というフィクション。
いわゆるアマチュアを登場させる演出に対しての成果というか、ブレッソンなんかにも感じる必然性を思うが、それに対しては明確な答えがインタビューにある。

「役者が生き生きした言葉を、使っていない。そのために「音」として輝いてない。理由は明らかで、誰かが書いたセリフを読まされているから。」
最初ラジオドラマに有名作家と有名俳優を使って、完全に失敗、本人にはゼロ点だったという。

「僕の作品のなかでは、その人が、あたかも本当にその場で呼吸しているように生き生きしてもらわないと困る。」という話は、実は厳密なリアリティを欲求していると言えるだろう。

「だって、電車に乗ってる人でもいろんな運命を背負っているわけだけどさ、悲しくったって、みんな、そんなの隠して座席に座ってるよ。--そういう姿がきれいなんだと思う、僕は。つくった姿は、みにくいと思う。」

天下のテレビ局はもう一度彼のようなドラマディレクターを生み出せるだろうか。

インタビュー記事のリンクhttp://www.1101.com/sasaki_shoichiro/index.html
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by past_light | 2014-11-26 20:06 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

今は昔の若者たち~若者たち 三部作

決まって食事のお膳に座ると喧嘩が始まる。怒鳴り合い、取っ組み合いが始まる。
消化に良くないよね。せっかく佐藤オリエが支度した御馳走が台無し。

無残な思いも残るが、反対にそうでもしなくては吐き出させない思いも遠慮無く吐き出す。
そこが汲み取るべきところだろう。
行儀も品もないが、兄弟友人、とことん本音を隠さない。
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黙っていれば、飾っていればと、そんな礼儀上だけでは済まない関係がある。
ペルソナは通用しない関係。暑っ苦しいけど誤魔化せないから本音は隠さない関係だ。

考えると今だって貧困にあえぐ、経済の格差もかわらず広がっている。
オカシイと思うことと、仕方ない世の中なんだから、と思うことと、人々も葛藤している。

佐藤オリエが「平和運動は続けましょう」かつての恋人に熱く言う。
兄の山本圭はとことん理想主義的だが現実にコミットしての諦めない強さがちゃんとある。
長男の田中邦衛は熱い、暑苦しい程の情からでしか接することはできないが、犠牲精神とたくましさはマッチョ級だ。
次男の橋本功がまた底抜けに楽天的で強靭だ。末の弟の松山省二の揺れ方が切なくていい。

とにかく今の若持ちたちの世代と思われる人に、いっぺんご覧になって見て損はないと言いたいと思う。
映画やドラマだから、誇張や凝縮された時間の進み方はヘビーだけど、今では信じがたいフジテレビや、その局にいた演出家が熱い思いで制作していた物語だ。今と違いを比較して考えてみるのもいい。
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by past_light | 2014-11-24 19:02 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

アルモドバルにはものの考え方の自由さを問われる

いろんな映画的要素が錯綜したような実に奇っ怪な作品だが、観ていてなんとなく最初ブニュエルを想起した。
思えばペドロ・アルモドバルもスペインの作家だからか、の面はどれほどかは別にして。
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古典的怪奇映画のようなモチーフと未来的な要素、アート感覚な映像・・、それら断片を積み重ねて、やがて全体観終わると、アルモドバル色という他ないような独特な怪奇映画という作品。それらスタイルが交じり合いながらの異色なエンターテーメント性はいつもどおり高い。

けれど、今まで観た作品の、「オール・アバウト・マイ・マザー」や「ボルベール〈帰郷〉」などと比較するとなにかドライな感じなのがちょっと印象に残った。
以前の作品は「情」が実に色濃く感じられた。男女の性を超えた地点へ向かうような愛のカタチの模索が感じられ、それがある意味では人間の精神の深淵への謎なぞみたいで誘惑的だった。
もちろんこの作品でも同じモチーフが底流にあるようなのだが。

お話は無理強いされた性の残酷さだけが残ったように帰結したのが、少し消化不良になりそうで居心地がわるかった。
だが、これにも隠された複雑な情があると言えば言えて、再度深読みしたくなるものだ。

この映画でおこる悲劇もきっかけも、不条理さの自由な展開がブニュエルのような悪夢への迷路なのだが、ブニュエルのような軽さとユーモアまで到達するスタイルのシンプルな完成度とは違った世界だ。

ともあれアルモドバル独特な変態的感性の物語なのに、とにかく面白い時間の進み方だった。音楽がすごくよくて、たぶん曲単体で聴くより映像とともにで魅力的なサントラじゃないだろうか。
しかしまあ不自由さに陥りやすいこの世界の中で、アルモドバルって、その映画で語る自由な想像性の才能はいつも感心する。
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by past_light | 2014-11-07 18:40 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

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