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勝新太郎=座頭市

 子どもの頃、親戚の子の家にしばらく厄介になっていた時分のことだ。
 誘われるままに町の映画館に行った。当時は人口数万の田舎にも各館特色を持った映画館が10館近くあった。誘われたのは当時のアイドルグループサウンズメンバーたち主演の映画。が、これからの話は、二本立ての、方や一本の勝新太郎の「座頭市」のことだ。思えばこれがぼくの最初に接した座頭市なのだ。

 その多様な角度からのカメラワーク、江戸時代の村や町の人間臭いリアリティに実にこだわっている。そしてなにより勝新太郎=座頭市のキャラクターの存在感。彼の動物的感性とも言えるようなアドリブ臭さい熟れた演技、、と今だと説明するわけだけれど、もちろん当時はなんにも考えないで、映画が始まるとそのスクリーンにたちまち釘付けになっていた。
 勝新太郎が動物的な役作りに拘っているのは、物を食べるというシーンによく表れている。(この映画だったかは忘れたが、市っつあん、映画が始まるとさっそく牢屋の中、這いつくばって床に落ちた食い物を貪るシーンから始まったものだ。)

 なのに親戚の子は、お目当てのアイドル映画が終わったので、退屈そうに「もう帰ろう」と言うのだ。
 厄介になっている手前というか、でもないけれど仕方なく共に帰ることにした。しかし、頭の中では座頭市を狙う殺し屋どもの、水たまりのあぜ道を走る足下の映像が頭に焼き付いたまま、制止していた。
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 そこで、最近放映されているテレビドラマシリーズの「座頭市」を録画し観ている。
 もともと映画のシリーズも幾本もあり、それはぼくの子供時代から続いていたわけだ。やがてシリーズはテレビに移り、最終章はぼくが20代後半あたりの記憶だから、かなりの長寿のキャラクターだ。
 TVシリーズでも、爽快というよりどちらかと言うと暗いトーンだ。毎回登場する各地のヤクザはほとんどどうしようもなく悪だし、村人は貧しいし娘は売られるし、上は悪代官だし。作りとしては、かなり省略形のダイナミックな物語運び。今のテレビ視聴者についていけるだろうか。いろいろ考えても現代では制作されそうもない。テレビ側にしてもだからこその再放送なのかもしれない。
  
 中でも昔大変な印象を残したテレビシリーズがある。座頭市ファンでも有名な「最終回-夢の旅」を先日再び観る事ができた。
 悪酔いし悪夢にうなされるが、夢のなかで座頭市の目が開く設定で、全編に夢の感触の満ちたシュルレアリスムのテイストの、テレビドラマではかなり稀有な存在の作品だろう。
 しかしもっとも目に焼き付いていた場面の、目が開いてかえって勘が狂い、座頭市の切られてしまう手足がバラバラに散らばりもがく姿のシュールなカットを、なんと今回観たら「カット」していたようだ。このシーンは夢の描き方として映画全体のスタイル上で大事なカットででたいへん残念。他のシーンは忘れていたことも多いのに、このシーンだけは記憶に焼き付いているのだから。
 
 今回知ったが、この回は「砂の女」など、安部公房作品をよく映画化していた勅使河原宏の演出作。彼の演出のドラマは、視聴率などを無視したようなかなりテレビの枠をはみ出した挑戦的な作りだ。また特にこのシリーズでは、当時のATG映画的な前衛スタイルや、その時代の映画監督たちをよく起用している。これは自らもよく監督を兼ねた勝新太郎の選択だろうと思われる。監督・黒木和雄の演出では、映画でも共に仕事をした原田芳雄が登場したりと、毎回玄人好みの映画寄りの作りだった。それも勝新太郎の存在と己の制作プロダクションの力あればこそだからだったんだろう。

 勝新太郎の存在感と、そのパーソナリティからも醸し出すオリジナリティの強さ、台詞回しのアドリブ的な抑揚など、もう今の役者の世界では見いだせない種類のものかもしれない。また彼の歌も、先日ユーチューブで画家のバルティスの前で演奏しているビデオを観たが、三味線の腕もかなりのものだ。また、自ら監督の映画版も、シャープな演出の監督としての才能が豊かに現れていたのに感心したこともある。

 勝新太郎の「座頭市」は勝新太郎が作り上げたユニークな人物像である。可笑しさと哀しさと切なさと無邪気さ・・、特にユーモアと殺気とのブレンドされたキャラクターは他に代えられない魅力。子供とよく遊ぶ設定も多い。それは良寛のエピソードすら思い浮かばせる。
 つまり座頭市のキャラクターの底から滲んで浮かび上がるのは、幅の広い、人間のさまざまな複合的な味である。
 
 しかし、数十年前もの映像になると、勝新のみならず、登場するすべての役者がもうこの世の人でないことも多くなり、ふと不思議な余韻を残すものだ。
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by past_light | 2012-05-12 18:17 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ

 太宰治は、もしかしたらある男性像の典型を生涯、それを演じたのではないかとよく昔思った。
 物語り作家としての才能も並々ならないのに、自己に矛盾した愛憎に振り回されていたのではと。そのような作品も結果書かねばならなかった。

 この映画の人間像も、人間失格の人物像にしても、精神の底に感じられるものに真実の苦悩を感じないのだ。この時代、破壊的な人生を演じるのはなにか世の中が許容した、ひとつの男像のスタイルであったような甘えが透けて見えるのは何故か。
 演じれば演じるほどに人間に無理が祟る、葛藤に疲れる。支離滅裂な人間として家庭では破壊者として君臨する。
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 ひるがえれば、この時代のこの男たちに付き合う女とは、なんと強い精神と肉体を与えられたものか。
 それに甘えた男たちと女の物語は、今も続いているだろうが、このヴィヨンの妻は、女の無垢の不気味なほどの強さが男を震え上がらせさえする。彼女の上に立つ男の精神は見当たらないだろう。

 松たか子のキャスティングには不安があったが、見終わればなかなかに素晴らしい役だった。
 浅野忠信のキャスティングには不安がなかったが、むずかしい役で、鑑賞しながら、型にはまらないように、と願うような不安が生じた。

 現代に生きる生活者にとれば、非人非人とはむしろ社会の上層に住みつつ、自我の欲望に無意識なまま精神の成熟から遠くへだたって、誠実な人間性を喪失した者たちこそに与えられるべきものだ。

「生きてさえいればよい」は、簡単な言葉だけれど、いつの時代にも生活者の底から立ち上がる声だ。
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by past_light | 2012-05-02 17:12 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)

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