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今年も御世話になりました。

今年も、あれよあれよと過ぎてしまいました。
寒い大晦日になりましたが、いかがお過ごしでしょう。
この一年ありがとうございました。
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明日は新しい年です。
ご訪問頂いています方々と世界に、とってもよい年が訪れますように。

また来年もよろしく御願いします。
2009.12/31
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by past_light | 2009-12-31 17:19 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(4)

「らくだの涙」

以前「天空の草原のナンサ」でモンゴルの遊牧民の家族の日々を描いた監督の最初の作品。驚くことにこれが卒業制作の映画ということ。
過酷なゴビ砂漠での辛抱強い撮影の期間が想像される。

「天空の草原のナンサ」も、ドキュメンタリーとドラマをすごくうまく融合していて、ドラマと言っても作為的な作り事ではなく、結果、家族のそのままの日常が納められるという独特な感じだったけれど、この「らくだの涙」も同じように作られている。

「天空・・」以上に、遊牧民の家族同様、「らくだ」という動物がもうひとつの大事な主役なので、それは撮影の機会をひたすら待つという、作り手の忍耐が感じられる画面でもある。

撮影隊の一番の苦労は、難産の末の出産し、なぜか育児拒否した母らくだと、その後の子らくだの行く末。その母らくだをなだめたり、子らくだの子育てに家族も四苦八苦していく日々、そして治癒までをそのままに追う撮影。
とはいっても、当の映画の中の家族は、ゆったり、のんびりしているようで、なんとなく観ているこちらが日頃から性急で心配性なかなしい現代病のように感じたりする(笑)。

難産の末に生まれた、白い子らくだの砂嵐の中の姿が切ないが、それらの日々にあるも、家族のテントの向こうに広がる風景が圧倒的に美しい。

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家族は、母らくだの育児拒否の心を癒すため、街まで馬頭琴の演奏家を探しに男の子兄弟を送り出す。
数日後、家族のもとへ着いた演奏家が、伝統的な治療法である民族独特の儀式を施す。

それは今で言う「音楽療法」というか、なのだけれど、それは音楽の根源的な力を見せつけられる奇跡のような画面が出現する。まず、馬頭琴をラクダのこぶに掛けると、母ラクダの泣き声にその馬頭琴が共鳴して風のような音楽が生じるのがすごい。

そして演奏家の馬頭琴の調べにのせた一家の若い母親のきれいな声の歌を聴いていると、母らくだが心を緩ませていくのが自然に思われる。
やがて、らくだの涙が母らくだの目からぽたぽたと落ちる。

企画として意図されたとしても、起ることは現実なのだから眼を見張り胸が熱くなる。
使い古された言葉で申し訳ないが、やはり「奇跡」に映る。
このシーンのみでも観る価値は大きい。

しかし、それら日常を受け止める家族の淡々と騒ぐことのない姿がなんとも豊か。
「天空の・・」と同じように子どもがやはり素晴らしい。次男ののびのびしたところと、長男のもの静かで優しい表情のコンビが頬を緩ませる。
実在の四世代の遊牧民の家族の暮らし、家族それぞれ自分を日常のまま演じることが、とても新鮮に感じられるつくり。

監督・脚本:ビャンバスレン・ダバー/ルイジ・ファロルニ 2003年・ドイツ

2015年12月 、名シーンの動画へのリンク入れました。ユネスコ無形文化遺産に登録。

「雌ラクダをなだめる習慣」、ユネスコ無形文化遺産に登録

「雌ラクダをなだめる習慣」、ユネスコ無形文化遺産に登録11月30日~12月4日にかけて、ナミビアのウィントフックでユネスコ無形文化遺産保護条約第10回政府間委員会会議が行われた。会議でモンゴルの「雌ラクダをなだめる習慣」が賛成され、緊急に保護する必要がある無形文化遺産に登録された。「雌ラクダをなだめる習慣」とは子ラクダを拒絶した雌ラクダは、草も食べず水も飲まなくなって、毛並みも悪くなり、群れから離れて一頭で遠くを見て、時々ふり返っては鳴くようになる。そんな時、遊牧民はラクダの母子の心を通わせるための知恵を働かせ、雌ラクダを子ラクダに慣らすため叙情歌を歌うのである。リンベ(横笛)やモリンホール(馬頭琴)の伴奏で特別な歌を歌うと、母子が感動し心を通わせるようになる。この歌の内容は、栄養たっぷりの乳を飲むために生まれてきた可愛い子ラクダを、どうして拒絶するのか。朝起きると唇をぴくぴくさせて待っている。どうか濃い乳を飲ませてやって「フース、フース、フース」、「フース、フース、フース」などと、3、4番まで歌うと、雌ラクダの目から涙がこぼれて子ラクダに乳をやるようになるのである。

Posted by モンゴル通信 on 2015年12月3日

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by past_light | 2009-12-17 20:38 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「黙っている」ということ、そして物語

先日は、なぜ叱らないのか、のような話題でしたが、一見逆に聞こえる「黙っている」力、みたいな話。でもどちらにしろ人間の洞察力、度量に関わる感じですか。

二年ほど前に亡くなった河合隼雄さんの関係の著作は今も発行されている。
今も河合さんの伝えられなかった深部、河合さんの精神の全貌への読者の知りたい欲求、あこがれが存在するからだろう。その中にはいろんな場面で生前に関係のあった人の想いが、しみじみと伝わる内容のものも多い。
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小説家の小川洋子さんとの対話「生きるとは、自分の物語をつくること」は、河合さんが倒れる直前のもので、未完に終わっているものだが、補うための小川さんの長いあとがきにある、小川さんの小説にあるタイトルに興味を抱いた河合さんの、「つぎはその、ブラフマンについて話しましょうか」という、その果たされなかった対話への残念さが読者にも共有される。
(他の書物で、晩年河合さんは「チベット仏教の修行」、「出家」を本気で考えていたという話があるので、その点でも興味深かったのだが・・)

小川さんは河合さんの臨床の場面での話を訊いていて、自らの長い間の疑問に大きな答えを発見した事にとても救われ、その嬉しさ感謝の気持ちが率直に伝わる文を書かれている。
じつはこれはぼく自身、ときおり自分で使いながらに曖昧に思った「物語」の意味、それもはっきりとするような瞬間が、この本を読んでいてあった。

小川さんが「人々の物語作りの手助けをする専門家として、物語に向き合う」河合さんと,「作り手として意識的に物語りを作る」自身と、「物語」について語り合えればと言うと、河合さんは、「おっしゃったことは、私の考えていることとすごく一致しています。私は「物語」ということをとても大事にしています.来られた人が自分の物語を発見し,自分の物語を生きていけるような「場」を提供しているという気持ちがものすごく強いです」

河合さんの臨床の場面で、そのブロセスで現われるクライアントの,論理的な言語では表現できない内面の混沌(さまざまに苦痛と悲しみと葛藤をともない治癒へとも向かうだろう)、それを表出させ表層の意識と繋がり、また他者とも繋がるため託されるもの、それが物語なのだ。
それは小川さん自身がなぜ小説を書くのか、という外からも内からも続いていた問いに呼応し、小川さんの腑に落ち、また胸を撫で下ろすかのものだったようだ。

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臨床家に不可欠なのは、臨床での患者との対話・出来事など、「秘密」にしなくてはならないことだ。
簡単に聞こえるがこれは相当辛いらしい。
だいたいごく普通に暮している生活者だって、今日あった出来事あれこれと喋らずに居られない人は多いし、噂ばなしなんて得意分野という人も多いだろう。
先だって、市民参加の裁判制度でのなかに、審理中のことは漏らしてならないという約束が大変だという話もあったけれど、精神に扱う事が大きい、心に抱えるものの大きい、負担のあることというのは、他者に話す事で助けてもらう場面などよくわかる話だから、想像がつく。
ましてや、専門家といえ、患者との場面で日々出会うことは、精神にとって負担の大きい話である。
河合さんも最初の頃は大変だったようだ。しかしクライアントとのどんなに大きな話もすぐにどんどん忘れてしまうようになったという。がそれは不思議なもので、新たに発見したようにクライアントとの対峙する場面で浮き上がるように思いだすのだという。

「秘密」について、小川さんはその抱える大変さがよくわかるという。
ナチスドイツ時代、アンネ・フランク一家の隠れ家生活を支援した女性に、「一番苦しかったのはどんなことですか」と尋ねた時、彼女は「秘密を守らなくてはならなかったことだ」と答えたことがそのとき意外だったという。
限られた食料を手に入れる心配やドイツ兵に発見される心配よりも、ユダヤ人を匿っている事実を、自分が不用意に漏らすことへの怖れの方が大きかったという。

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河合さんの話で、臨床の場面で、療法家は「なにもしない」、クライアントが自ら治癒して行く、という話は以前も書いたことがあるが、そのことの深い意味を感じる話があったので、ちよっと紹介する。

いろんなクライアントが河合さんの前に現われるが、経験的に河合さんから見れば、時によりたいへんなクライアントに、感動され印象に残ることが多かったようだ。

黙っているということはエネルギーのいることで、ふつう多くの人が、すぐに同意したり意見したりするものだが、正直自分も振り返ると、それらは相手というより自分を楽にする行為になっている。相手の苦しみや混沌を共有することが耐えられないのだ。相手を置き去りにし最後は「まあがんばってください」と降りてしまう。
普通だったらまあそれは仕方ない場合も多いが、臨床家にとってはそうはいかない。
「黙っている」という力というか、そんなことの興味深いはなしとして感じた部分を、以下に抜粋して転載します。

*
河合 ・・超ど級の素晴らしい高校生が来ましてね、「どうですか」と言うても、下向いて黙っている。それでぼくは「いやぁ、高校生ねぇ」って、もう二人がわかっていることを言ったんです。
・・それで普通は乗ってくる・・しかしその子はそれ以上は言われへんのです。そういう時に例えば,「お父さんの職業は」言うたら、こちらが向こうの世界から出てしまうことになるわけでしょう。
「高校一年ねえ」言うたら「いやあ,高校ねえ」とその子は言いました。ものは言うてんのやけど意味はないんです。意味はないけど,その子の世界にはまだいる。

小川 この場合、意味のあることをやり取りするのが重要なわけではなく、その子のいる世界の内側にとどまる、ということが大切になっているんですね。

河合 黙ったままちゃんといられたら,カウンセリングは一時間で終わりです。でも人間って,よっぽどの人でないかぎり、黙ったまま一分もいられないです。
黙っていれるなら黙っている方がいいけど、その間「今日は昼飯はきつねにしようかな」なんて(笑)、心がヨソに行っているとしたら、これは絶対駄目です。

小川 患者さんはそれを感じ取ることができるのですか。

河合 絶対わかります。心がそこにいて黙っていられるのだったら、なんぼ黙っていてもいいです。ところが黙っているうちにちょっといらついてきたり,心がヨソヘ行きかけたなと思ったら、やっぱり何か言わなくちゃならない。ものを言ったらそこにいられるわけです。
そういう時に言うのが「いやあ、高校一年ねえ」です。その人の世界から出ない。
そうしているうちに普通はだいたい乗ってくる。「うーん、とりあえずね」て言ってくるとしめたものです。・・・

・・・だけどその子はそこから全然乗らない。50分過ぎた頃には,「負けた.ぼくよりも偉大なやつが来た」と思いました。
ところが「今日はあまり話しできんかったけど来週また来る?」」と言ったら、ニコッとして「はい」と言うんですよ。ヘェー、これで来週来るのか、って思いました。

その後母親から電話がかかってきました。
そういう子やからいつもすごい憂鬱な顔しとったのに、ちよっと明るい顔して帰ってきた。
「高校生の気持ちをあそこまで理解してる人はいない」とお母さんに言ったそうです。すごいでしょ。それは言葉でうまく表現できないから、そういう言い方になったわけです。だってぼくは彼のことを何も理解してない。正確に言うなら「あそこまで高校生の気持ちを大事にする人はいない」っていうことでしようね。ものすごく大事にして、変な物を付け加えないように,変に触らないように、ただそこにいるようにってやったら、それは彼もちゃんと感じ取っているんです。・・・

・・・それでいろいろ話しだした時に,「三年分ぐらい話しました」と言うてました。(笑)・・・

*引用は「生きるとは、自分の物語をつくること」小川洋子・河合隼雄・ 2008.8(新潮社)から
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by past_light | 2009-12-10 20:45 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)

どうしてしからないの?

映画監督の大林さんの新書の冊子にあった話。
記憶で書くから細部は曖昧ですし不正確ですが、おおよそこんな話です。
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大林さんが乗っていた電車でのはなし。
つり革に掴まっている大林さんの前の座席に、小さな子どもが靴を履いたままシートに膝をついて外の景色を観ていた。となりに身なりの良い老人が、こっくりこっくりとしていた。
その子どもの靴が、時折老人のズボンの腿のあたりに触れて老人のズボンが汚れていた。
それに気づいた子どもは坐り直して、前に立っている大林さんの顔をじっと見た。
その子に大林さんは、「おじいさんが起きたら、ごめんなさいって言おうね」と言ったら、子どもはうんとちいさく頷いた。

そうしたら、子どもの隣で雑誌に読みふけっていたかの母親が、「家の子に変なことを言わないでください」と大林さんを睨みつけたそうだ。

これだけなら、現代のやるせないはなしで、何となくありそうな光景だが、その後が興味深い。
子どもは母親の顔をまじまじと見つめ、「どうしてママはぼくを叱らないの」と言ったという。
ばつの悪いかの母親は、再び雑誌の方に目を移し、つぎの駅で子どもの手を引っ張り、そそくさと降りて行った。
子どもは大林さんの方を振り返り振り返り、心に何かを残したままのような表情に見えた。
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読んでいて、本来子どもは、まだあるバランス感覚というか、良心というか、それが正常であり、本能的に働くものかもしれない。
実はそれを壊しているのは、なにかやはり大人社会とか親の方じゃないかという、なんともな後味の話である。

これは今日訊いた話したが、スーパーでのこと。
陳列してあるかわいい手袋を引っ張りだし、いじっている小さな女の子。
母親はまだ20代前半の若い母親のようだ。彼女はそこでどう叱ったかというと・・、
「ほら、この子はまだここに居たいんだって、だから戻してあげましょうね」
とその子に戻させていたという。

賢いママですね。ファンタジーがある。
冗談ですけど、たとえばあなたのお子さんが、うっとりするおもちゃの山の前で、・・これ使えますね(笑)。
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by past_light | 2009-12-08 16:35 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(14)

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