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火星人は星へ還ったのか?

「谷川俊太郎が聞く、武満徹の素顔」

 この本は、谷川さんのインタビュー形式だけど、どなたとの対話にも、武満さんをはさみ、また通して、馴染みの方が多く、くつろいだ対話が読んでいて伝わる。

 谷川さん自身の関心も影響しているとはいえ、武満徹の「人間」に話が及ぶことが多い。
 そこに現れるのは、常識的な大人とか、難解な芸術家とか、そういう部類とは異次元な不思議な人間像だ。
 「火星人」とか「宇宙人」とか言われたイメージも彷佛させるエピソードなど、日常のなかの武満像もたのしい。
 気難しさと無邪気さ、聖と俗を軽々行き来した、それがむしろ愛されてやまない二面性として浮かび上がる。
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 「いま、いないということがなにか実感されない」という話も,「存在感」というものの多種多様な面を発見させられる。
 武満徹とは、根本的に透明感のあった存在、ということでもあるのだろう。

 とくに映画監督の恩地さんや、武満さんの娘さんのとの対話には、「人間・武満」の摩訶不思議さが楽しく語られている。
 娘さんの、結婚相手として考えては「父のような人はタイプではない」という残酷な率直さが、亡き父、武満徹も微笑んで頷いておられるのではと感じたリ・・、素敵な娘さんです。

 対話者の話を聞いていると、以前立花隆さんが、追悼のテレビ番組で、その日、異常なほど饒舌に芸術家武満を語りながら、番組の終りに言葉を詰まらせ嗚咽をこらえた映像を思い出すと、それはやはり人間・武満徹に対する喪失の悲しみだったのだと思われる。
 このような、愛され、友情に過不足のない人生は、なんと幸福、というほかない。
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by past_light | 2008-03-29 18:26 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

レビュー三枚

◆木之下晃 武満徹を撮る  木之下 晃著

 懐かしい声

なんといっても、ラジオ番組でのインタビュー「武満徹、青春を語る」が収録されている。そのことが一番の魅力。
女性アナウンサーである聞き手の、気負いない質問に答えていく武満さんは、くつろいで楽しんでいることが伝わる。
話は、音楽家としての成立ち、その自身の歴史を語られているものだが、文字ではなく、本人の言葉、音声で聞くことの、しみじみした時間がぼくらにもある。
なにかどこにも「天才作曲家、芸術家、武満」などという硬直したようなイメージはなく、戦時、戦後の生活の苦難やら、それとも無縁ではない、音楽へと突き進ませて来た内的な推進力、決意のような思いだったものも、強ばったものではなく、ナチュラルに、むしろ運ばれた天命のような、できごと、その想い出語り、それが印象的に感じられる。
それには武満さんの独特な笑い声も挿まれて、爽やかなインタビューだ。
このときの武満さんは、きっと心身共に穏やかなときだったのだろうなあと思われ、会ったこともないのに懐かしい。


◆私―谷川俊太郎詩集  谷川 俊太郎著

 老いと若返り
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だいぶ前の詩集ですが「世間知ラズ」、とても好きなのですが、あれが谷川さんの自然と年齢からも生まれて来た声だったような気がしています。
二十年ほどは若いぼくも、「老い」や「死」を自らの精神の中に確認するような共鳴するものがありました。
最近、谷川さんは、さらに進んで、というか、詩の中にどこか「死」が必ず意識される内省が強くあるように感じられもします。
それから仏教的な世界観がふっと垣間見えるところが感じられます。
そして、先祖返りするか、若返るかのような魂。
老いる肉体とは次元を異に、精神は内なる方向からいつまでも子供の声が聴こえる。

「私」とはなにか?。
問いかけるその私は、むしろどこまでも遊離していく存在のようなものなのでしょうか。

この詩集のカバーの紙質の質感や、大岡さんの「私」の文字、その装丁は、その詩集を所有するという快感を感じさせるものです。


◆それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!  周防 正行著

 「それでもボクはやってない」は、こうしてつくられた

シナリオの収録がメインと思われがちだけど、むしろ上映作品からはカットされたシーンの監督による説明と思いが興味深い。
たしかに、編集段階でカットされた理由もよくわかる。商業的な配慮、意味ではなく、いい映画にしたい一心でというのが伝わる。
それには演じてくれた俳優への監督の申し訳ない思いも伝わるし、主人公に感情移入した観客の反応を充分意識しての、監督の良心、制作者としての冷静さがわかる。

それから、なんと言っても、元裁判官の職にあった方との対話が、本当はもっとも読ませるものになっていて、
監督の質問は映画を観てのわれわれ観客の疑問でもあり、身を乗り出して聞きたい部類のものばかり。
映画での判決を述べる裁判官の「判決理由」が、なんとも独善的に感じていたぼくにも、対談相手の元裁判官の方の良識的な意見が救いになった。
それでも、監督がいくつもの裁判傍聴のなかで、それは感じたままのことだという現実も、それゆえにかえって胸に重たい思いも残る。
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by past_light | 2008-03-27 17:20 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)

レビュー三昧

◆「ブラザー・サン シスター・ムーン」監督フランコ・ゼッフィレッリ

 いつの時代にも衝撃的な作品になる映画

ゼッフィレッリの「ロミオとジュリエット」とともに、もっとも愛される映画。
当時、かたやアメリカのニューシネマがあり、鬱々たる世相を反映する映画も多かった。
そんななかで、思春期、青春期にこの映画に出逢った人は、衝撃に近いつよい感動を覚えた人が多かった。

だから年齢を経て、再び鑑賞する度に、この映画にあるビュア、無垢、そのものに、自分がどんなふうに向き合えるか、いつも少し怖いほどだ。

この映画は当時のフラワーチルドレン、ヒッピーたちが民衆としてエキストラで参加していると聞いたことがあり、注意して見れば、フランチェスコたちによって建て直されるちいさな教会に集まる長い髪の青年、少女たちが、その時代の現代青年の顔としても映されているようで、それはゼッフィレッリが古い過去の話としてではなく、金権的で、暴力と失望に果てのない人間の世界、その現代に問いかけるメッセージのつもりだったことの、ひとつのあらわれでもあるだろう。
この映画の中で、禁欲的な生活は他者に強いられるものではなく、自らの自由な意志であると描かれるかのエピソードなども、そういう意味でも物語に現実性を感じさせている。

アシジの自然の映像の美しさとともに、ドノバンの音楽はこの映画では切り離せないほどの魅力になっている。美しい祈念碑的な作品。

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◆「ロミオとジュリエット」監督フランコ・ゼッフィレッリ

 本物の恋愛とは

この映画を観たときには、自分が本当に「ほんものの恋愛」をしたことがあるのか、としみじみ内省してみたくなる。
そういう意味でも、この映画は、生死を賭けたほどの「恋愛」とはどういうものか、うつくしき永遠の問いかけである。

熱病のようなふたりが、会えば一心に見つめあい、抱擁しようとする様を、神父がなんとか引き離し冷静にしようとするシーンなどは、
むしろユーモアさえ画面から滲み出てくるほどだが、なんだか愛の魂が合体し、ぶつかるような、感動的な描写ともいえるシーン。
映像はくまなく「美」に満ちていて、恋愛という人類のテーマの、古典にして普遍的なる象徴としての映画である。


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◆「目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話」上田 紀行著

 読者も時間を忘れるほどに集中できる対話

ダライ・ラマに好意を持つ人は、特にチベット仏教を勉強したいと思っている人ばかりではないだろう。
むしろ、社会のどこにも教えてくれるシステムもない、一般の人が求める「生きる智慧」「生と死に対しての疑問」などを聞きたいという熱い思いの人が多いと思う。
それに、ダライ・ラマから発せられる、権威的ではない人柄や、無邪気さ、明るさ、正直さ、自らもどこまでもひとりの求道者としての探究心、
そして、自らの社会への責任感など、およそ、ひとりの人間としての魅力の大きさだろうと思えます。

ダライ・ラマは仏教用語などは極力使わず、この本での対話者も意外に思うほど。
特にこの対談でも、読者も共に驚かれると思うけれど、「その人」が仏教の人ということを、ふっと、忘れるほど現代的、日常的な、実にリアリスティックな対話です。
ゆえに誰にでもすすめられる、ダライ・ラマという、その人を知る意味でも貴重な読書体験になります。

それには、本書でひしひし感じられる、訪ねた側の上田さんの熱意と誠実さがあってのことで、ダライ・ラマ自身が対話をわくわくと楽しんでいる様子も伝わります。
読んでいる方も時間を忘れるほどに集中できる対話です。

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◆「キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編 」M・マクドナルド・ベイン著


 読み捨てて終る本ではない

クリシュナムルティを読んでいる方にも特にお薦めしたい本です。
訳者自身も前書きの註で書かれていますが、共通した教えが、マクドナルド・ベインと師たちの対話により、角度は違えども興味深く紹介されています。
旅行記の形をとりながらの、その地の風景、住民たちの描写なども興味深い。

人間の条件づけられた精神の、先入観、固定観念、それら迷妄による疑われずにいる想念、観念。
物事を勝手に解釈し、みずから様々な感情、錯覚に捕われ、靄で覆わてれいる我々の精神を、「見る」「気づく」「洞察する」ことなどを、この本の中では「正見」という言葉で言われています。
儀式や与えられた観念をただ受け入れる、そんな時代は終った。
偽物を偽物として正しく気づかれなければならない。
そうして明かされていく教えは、読み捨てて終るものではないでしょう。

ヒマラヤに住むといわれる存在など、馴染みのない読者にとっては夢物語のように感じられるとも思います。
それはベイン氏自身が、西洋に戻ってから思い起こす記述のなかにさえ感じられるようなほどですから。

辺鄙な秘境の地への旅と、覚者たちとの出会い、その教えの深さ。
たとえ読後、難解に感じられても、繰り返し挑戦するに適した、しかも楽しくすらある本です。
ぼくは、何年にもわたって、ことあるごと再読する本になっています。

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◆「アルタード・ステーツ 未知への挑戦」監督ケン・ラッセル


 苦心のある表現

ケン・ラッセルという人は「変わっている」。とまずひとこと始めたくなる。
いろんなタイプの映画を作れる人だけど、すべてにアクのある個性があって、独特な匂いを放っている。

この映画は公開当時に劇場で観たのですが、やはり大画面と大音響のなかで体験するのにふさわしいですが、
この安価なDVDでも、鑑賞した感想は、画質・音響ともに悪くないです。

太古の記憶が肉体の細胞にまで影響を与えて行く。
そういう描写は、「猿人」のエピソードに至っては、失笑する人もあったようだけど、幻覚シーンの描写も含め、
ユングとかインド哲学とか、多少興味を持っている人には逆に変なリアリティがあると思います。

ともあれ、ヘンテコ映画と揶揄されがちな本編は、主演の誠実で存在感ある二人の俳優の魅力も充実しています。

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◆「大地の子守歌」監督増村保造


 原田美枝子を絶賛します。

原田美枝子が体当たりの演技で衝撃的だった作品だ。
まだまだ少女の面影のある原田美枝子さんの、
自然にそのまま溶け込むような、存在感のある裸体の美しさが強烈な印象。
そのヒロインとともに、映画も全体に骨太に語られて重量感がある。

なかなかテレビで放映されたりする機会のない作品のひとつで、知らない人が多いのが残念。

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◆「旅の重さ」監督斎藤耕一


 初々しい登場人物たち

この時代の空気を、当時新人の高橋洋子が、旅の途上でかく汗と体臭で身近に伝えてくれるような、
そんな自由と孤独と悲しさを、吉田拓郎の主題歌とともに初々しく映画にしていた。
初々しいと言えば、高橋洋子とともに、儚気な文学少女で登場した秋吉久美子の可憐さも必見。

その頃の青春期にあるものにとっては、この空気は等身大の旅の映画だったような気がする。
こういう映画が、ここ最近皆無なのはどうしてだろう。
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by past_light | 2008-03-17 17:53 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)

風の丘を越えて<西便制>について覚え書き

風の丘を越えて<西便制> (1994年 韓国)
監督: イム・グォンテク(林權澤)  原題: SOPYONJE (西便制)

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 興味深いことに、この映画で、たとえようもなく胸を打つ、パンソリという芸能にこめられたものに見られるように、きっと世界の多くの芸能などの、シャーマニズム的な面と言うのは、こういうことを言うのだなあと目を開かされる思いだった。

 以前読んだことのある、チベット仏教のある派の本の中にも共通するような話があった。

 たとえば、ぼくらは内から起こるどうしようもないような否定的な感情といわれる、怒り、恨み、悲しみ、など、ふだん常識的、分別的には、「否定的」とスタンプされてしまう、そのような感情を、実際のところ、肯、否定抜きに、よくよく見たことがあるか。ということだ。言い換えるとよく味わった試しがあるのか。というようなことだ。

 よく見る、とか味わう、というのはそういう感情に「浸る」、とか、感情にふりまわされることによって外へ向かう行動を取る、というような意味ではない。また、そのような感情を忌み嫌ったり、単に抑圧する、また罪深いと思ったりするという方向へ向かうことでもない。わき起るその感情の出所からして、その「実物」を「よく見る、味わう」ということを言うのだ。すると、それはぼくらが慣れ親しんだ「もの」なのか。

 #映画のあらすじについてはこちらへ
 下記の本を読んでいて、十年ぐらい前に観たこの映画が、「なぜ」感動的だったかに思い当る気がした。
 貴重な記事なのでメモしておきます。


--------------以下は「神秘学入門」高橋巌著・「恨の美」の章より、部分的に抜粋。

「恨(ハン)」
(韓国の美学用語。朝鮮民族の詩、民謡、パンソリ(太鼓の伴奏で長い物語を演唱する
芸能)の主題をなす「情」の表現。)

 深い困窮を体験させられた朝鮮民族は、その苦悩、怨恨をはらすために、外へ向かわず、むしろ自己の内部に沈み込んで、一種の感情の和解に達しようとします。

 「恨(ハン)」を粘り強く、「恨(ハン)」を内的に深めることで、明るい生の地平を拓くところに、「恨(ハン)」の美を見ようとする。
 この体験は韓国語で「サキタ」(いい味に糖化、発酵させる)という動詞で表現できるようなプロセスである。
 「暗い、否定的な感情と粘り強く取り組み、それを鎮め、浄化し、新しい価値体系へと発酵させて行く」絶え間ないプロセスである。

 このプロセスは二元対立的ではなく、一元的、連続的なプロセスである。

 たとえば、同じ「恨(ハン)」でも、ニーチェの「道徳の系譜」におけるルサンチマン(怨恨)は、弱者が強者に対して、想像上の復讐によって埋め合わせをつけようとする。
 支配者ローマに抑圧された奴隷としてのイスラエル民族は、ルサンチマンを営々と主張できないので、その代りに正反対の「愛」を主張して、支配者を無力化しようとする。ルサンチマンから愛へのこの転化は、ヨーロッパ的、二元論であるのに対して「恨(ハン)」における価値の転化は、一元論的に、絶え間ない自己の浄化作用に向かう。

 韓国においては、この自己浄化のための契機として「モッ」(風雅)と「スルキ」(ゆとり)が文化伝統として伝えられているのですが、特にパンソリにおいては「モッ」の代りに「シキムセ」という言葉を用いる。「シキムセ」は、パンソリの唱者が「長い修練の過程で、調べが良く熱し、高い「モッ」を表現できるようになったときの表現能力」のことだが、この言葉は「サキタ」に由来する。たとえば、「誰それのパンソリには、シキセムが付いた」と言うような言い方をして円熟した芸をほめる。

 西便制派はパンソリ派の名前で、東便制の正統的な歌唱と異なり、「恨(ハン)」の感情をより深く歌い上げるという一派。-----------------以上



映画の中で、父ユボンが残した言葉は、「恨に埋もれず、恨を越えろ」である。

「彼ら(主人公)は、誰かに自分の存在を知ってもらうことを望んで芸の道を歩んでいる人達ではありません。実に、彼らは、生と死を無限に拡張させながら、その中で多義的かつ多様な宇宙を作り出す人達なのです。彼らは、世の中の秩序の中に生きながら“恨”を抱き、そして、その“恨”を受け止めながら、より大きな宇宙の秩序を作り出します。それこそが、世の中に対する憎悪から許しを学ぶ方法なのです」(イム・グォンテク)

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by past_light | 2008-03-09 20:47 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

それでもボクはやってない

 周防正行監督という人は、すごくプロな人だなあと思った。
 この映画は前作の『Shall we ダンス?』の娯楽性極地から方向転換、と思われながら、いやいやもっと賛辞すべき完成度。
 観客をスクリーンに引きずり込む力のある娯楽性、それをまったく犠牲にしていないつくりで、この監督の映画の話法はたいしたもの。

 観終ると、のちのち、登場した人物たちの印象的なシーンが眼に焼き付いているのに気づく。
 ほんの短い映像だが、ぜったいに見逃しては勿体無い、そういう各役者たちの、演出時におけるその場での、完璧に計算されたような表情の、ある捜された角度で映されたシーンが網膜に残っている。
 いくつものシーンを、ぼくは明け方、夢うつつに思い出しながら、目蓋に上映して反芻してしまった。
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 法廷内に集中する後半、冷徹に、無表情に書類に目を通す裁判官が映されるカットと、その表情を計りかねる弁護士の表情など、まさに完璧。
 そのシーン、裁判官の眼鏡の奥にある眼の表情が伺えない。
 役にある裁判官の演技を映すそのカメラからの角度たるや、弁護士から見る裁判官の角度なのだが、監督は最上の構図を掴まえている。

 そういうシーンはいくつもあるのだが、周防正行監督 という人は演出家として、職人的な意味でも相当実力のある人だ。

 監督は、ニュースにあった「痴漢冤罪事件」の裁判への、自らの関心の発端から、長い時間をかけての取材と裁判傍聴などの体験となどを材料に、練りに練ったリアルなドラマにした。しかしときおり脇役に存在する人たちの、それもリアルがゆえにユーモラスに映るようなエピソードが、ちよっと息抜きをさせてくれる。

 だが、日本の刑事裁判への監督が込めた思いは、ハピ−エンドにしない現実性をどうしても選ばねばならなかった。
 そういう意味では、後味の良い娯楽性ではないが、多くの観客は、はらはらし、希望し、がく然とし、落胆し、と主人公の行く末をともに案じながら、まったく疎いといわざるをえない刑事裁判における現場にある世界に目を開かされる。

 「3年間かけてシナリオを書きましたが、この内容は全部僕が驚いたことで、そういうことだけをリアルに積み重ねただけなんです。」という監督の驚きはぼくら観客の驚きになった。

 昨夜テレビで放映されたので、お茶の間でたくさんの人が観ただろう。
 茶の間で、お父さんはお母さんに「あんた、若い子のそばに乗っちゃダメよ !」と必ず言われそうだ。明日の電車内は、けんけんがくがく化・・。(笑) いやいや男にとっちゃ笑い事じゃないものな・・・。

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by past_light | 2008-03-02 20:41 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

忘却の彼方

 「エンデと語る」で、もうひとつ。
 本は図書館に返してしまったので、正確ではない。
 人間の脳の能力として、「記憶」は有名だけど、「忘れる」という機能について、話していた。
 「忘れると」いうのは、エンデにとっても意味を持ったことらしい。
 彼によると、忘れるものはどこへ行くかというと、より深い潜在意識の領域、無意識の底へ沈殿して行くようなものだという。変容してこそ、意味がある。
 彼にとっては、それが「人格」を形成すると思われるという。
 それが折に触れ、まあ熟成するとでもいうか、変容し、彼の仕事、ファンタジーの創作の中に重要な現れ方をしている。

 ファンタジーという言葉は、ややもすれば日本ではおこちゃま用のジャンルだと思われている向きもあるが、エンデの創作物に限らず、小栗康平さんの映画「埋もれ木」でも使われる「ファンタジー」を思い出せば、いかに人がその意識の深みへ接触できるかを問われる世界だと思う。

 読者の感想や解釈に、「必ずしも、間違っているとは言えない」という態度でエンデが答えるのは、読者の発見した、また過去の歴史や神話との類似性、共時性、それがエンデにとっては偶然であり、何の因果関係もない場合でも、それを「関係ない」と簡単に言えない、意味のある一致だということでもあるのだろう。

 意味は忘れてしまったが、「はてしない物語」に出てくるメダル「アウリン」だったか、また「モモ」という名前や登場する「亀」にしても、不思議な一致を見せているようだ。・・それの詳細は本文におまかせです。

 というか・・、話は、「忘れる」という能力?についてだけど、ぼくも人の名前は忘れるし、読んだ本の内容も忘れるけれど、モモクリ三年カキ八念し、いつかなりさがるのか。
 いや、それよりも、「忘れられる」という機能にも光を当てるような有難い話がもっと聞きたい。
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by past_light | 2008-03-01 02:04 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)

過去と現在、記憶のコラム。関連ありなTBはラヴリー。リンクはフリー。コメントはブラボー。


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