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「まあ、生憎の雨ですね」
 ■大林さんの子供時代は、とても幸福だったのだろうと感じるのは、大林さんの言葉、話を聞いていると思うことだ。

 ここで紹介する本を読んでいると、お母さんとの関係が、まるで昔の児童文学を読んでいるような、いわば理想的な美しい関係が映像化され頭に浮かんでくる。

 「生憎」(あいにく)という言葉を大林少年は、すてきないい言葉だろうと思っていた。なぜなら大林少年は雨は好きだし、蛙さんは喜んでいるし、道ゆくおじさんおばさんは「生憎の雨ですね」とにこにこして挨拶している。

 でも、やがてなんだかそんなにいい言葉だと思えないような使われ方の場面も見る。 それでお母さんに「生憎ってどういう意味」かと訊ねてみる。

 お母さんは、「生憎って、いつもどおりじゃなくて、ちょっと都合が悪いですね」という意味だとおしえてくれる。
 それからお母さんは続けて・・・

 「人間というのは言葉を持っていて、言葉を交わすことで、すれ違ったり別れたり、一緒に過ごしたりするのよ。言葉を交わすことというのは、相手の気持ちを思いやるということなの。
 雨の日って着物が濡れるでしょ。髪の毛も濡れるでしょ。下駄や足袋は、跳ね上がりで汚れるでしょ。雨の中を歩いて訊ねて来て下さったり、こうして、おたがいに会えたことを有難いと思うから、相手の人に対して、こんな雨の中をよく来て下さいましたねという意味で、「生憎の雨でしたね」というの。
 だから「生憎」はやさしい言葉なのよ。そういうふうにして人間どうしは、お互いをいたわりあったり思いやったりするの」
・・・
 「あなたが雨が大好きでも、もしそのまま「楽しい雨ですね」と言ったら、着物を濡らしたり下駄や足袋を汚したり、髪の毛を濡らしたりしながら、あなたに会うためにやって来てくれたひとを傷つけるかもしれない。だから、「生憎の雨ですね」という言葉は、やさしい言葉なのよ」

 「観察力」「想像力」についての話には、こんなお母さんの素敵な言葉もある。

 あるとき大林少年は考えた、人間には前と後ろがある。人間は半分しか見ることができない。耳も鼻も口も、人間の器官は皆、前を向いて付いている。

 お母さんが大林少年にこう聞く。
 「体の後ろにあるのはなあに」
 「うん・・、お尻の穴、オナラしたり、ウンコしたりするね」
 「そうですね。でも、それも人間にとっては大事なことなんですよ。しっかりと前を見て御飯をよく噛んで食べたひとは、おしりからもよいウンコが出るのよ。だから後ろも大事にしましょうね」

 なんと美しい光景かと頬を赤らめる人も多いかもしれない。
 大人になった大林さんの、その後の独特の語りと話を、テレビ画面からでも体験した人には、ひとつ納得のいくものだろうかとも思った。

b0019960_19591354.jpg ■大林さんが映画の撮影の中で使う、学校の教室の壁に貼られるたくさんの絵が欲しいと思う。美術さんが準備してくれるものではなくて、実際にある学校の子供たちに描いてもらいたいと思う。
 今では、なかなかクラス全員を外に連れて行ってスケッチすることを学校も先生も嫌がるが、大林さんの幼なじみで先生になっている友人に、なんとか引き受けてもらう。

 海の見える景気のよい場所に来て、子供たちはめいめい、絵を描き始める。
 大林さんもいろんな生徒たちの傍らに寄って行って、「海の色は一色じゃないでしょう。波のところは違う色をしてるのじゃない」なんてアドバイスしたりする。
それでみるみるその子の絵が豊かになったりして大林さんも喜んで見ている。

 しかし、生徒の中にクレヨンを持ったままなかなか絵を描きはじめない子がいた。
 大林さんは様子を見て、なんだか苦手な子だなあ、話し掛けるのに気が進まないと感じる。でも昔の先生は絵を描けない子、おとなしい子の横でも話してくれた。と思い直し、その子の傍らに寄って行く。

 横にジッと居たら、その子は話しかけたくなったのか、もごもご唇を動かし、なにか言おうとしている。よく聞いてみると、「どうして黒いん?どうして黒いん?」と言っているようだ。

 なに言ってるんだろう、この子は。
 赤いクレヨンを持っては「どうして黒いん?」緑のクレヨンを持っては「どうして黒いん?」。なんて・・。

 そこで、大林さんは、はっと気づいた。
 赤いクレヨンを持って太陽を描こうとすると、画用紙の上にクレヨンの黒い影が出来る。・・その子はどんなクレヨンを持ってきても、影は黒いのだということを発見したのだ。それが不思議で「どうして黒いん?、どうして黒いん?」と呟いていたのだ。

 緑と黄色を混ぜると黄緑色、赤と黄色を混ぜると橙色になるとか、ぼくらは知識で知っていて、それを上手に使えば巧く絵が出来上がるとか、そんな技術は知っているが、しかし、どんな色のクレヨンを持って来ても画用紙に落ちた影の色はなぜ黒なのか、なかなか上手に説明できないじゃないか。

 そもそもなぜ人は絵を描くのか。
 「世界という存在と自分という存在の理由を知るために絵を描くのだ」
 「どうして黒いん?、どうして黒いん?」と呼び掛けるこの子の方が、よほど世界と対話しているのではないか。

 以上は、「憂鬱」という文字から発展しての話のページの一部を端折りつつで紹介。
 経済、効率、偏差値でふりわけ、と、一見大人の不注意な目からは、「おちこぼれ」に見なされたり、学校から去って行くような子供たちが、「一心に問いかけようとする眼差しの力と美しさ」、世界に問いかける言葉を持っている。
 果たして我々大人はどうだ。本当の言葉を持っているか。とその子から大林さんは非常に大切なことを教わった。という。

(# この記事は、短く紹介しているので、文、表現など本文とは違うところもおおいにありますので、興味ある方は、書名「あしたづくり」/大林宣彦(語り)/坂上恭子(文) /発行アミューズブックス でお確かめください)

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by past_light | 2007-11-30 02:19 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
いつか読書する日
 映された背景の景色に見覚えがあると思ったら、長崎を舞台にしていた。
 それでも、作者の意図により架空の地方都市という設定で、禁欲的に風景は使われている。懐かしい者にはもったいないとも思うけれど、そういう意図は正しいと言える映画だった。
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 田中裕子は、この映画で主演女優賞をとっているけれど、テレビで向田邦子のドラマなどでもたいへんな存在感で演じているから、特筆するほどの演技かどうかは別にしても、彼女の下記の話に現れているような、なんとも演技とは違う次元で、田中裕子という女優の魅力がたっぷりに味わえた。

 『2004年の3月中旬から4月中旬にかけて行なわれた撮影に先駆け、主演の田中裕子は実際に長崎の町で牛乳配達の修行に励んだ。

 「撮影に入ってからも、ほとんど毎日のように朝3時に起きて4時にメイクを開始して、5時に牛乳配達のスタートです。今日も石段を駆け登るところから1日が始まりました。体力勝負で、体力だけ使っているような感じがするんですけれど、撮影が始まって2週間ぐらいが過ぎてわかってきたんですが、体力を使うことで余計な力が抜けてきた気がするんです。ハアハア言いながら階段を登るんですが、その時に運動靴がすれる音だったり、牛乳瓶が鳴る音だったり、あるいは夜が明けてくる色だったり、風だったり、そうしたものが体を抜けていって、その分、体が軽くなっていく感じがするんです。せつない物語ではあるんですけれど、そのせいで重苦しさは抜けていると思うし、私が感じた音や色や風が映像に映るといいなと思っています。それにちょうど桜の花がはらはらと散る時期になって、だいぶ暖かくなったのも嬉しいですね。そのぶん日の出も早まってきて、スタート時間がどんどん早くなってるんですけれど」(田中裕子)』


 大人の因縁もある秘められた恋心の、長い年月の熟成が切ないが、相手役の岸部一徳もとても好きな配役で、ふたりのクライマックスともいうべきラブシーン、というかなんというか、「いままでしたかったことぜんぶして」というような、五十代を迎えた男女の高まりの不器用さと露さが、とっても切なくて悲しくて、ハレンチで、嬉しくて(笑)、ふたりのシルエットが愛おしくて文句なしにすてきでした。

 大人というのは、少年少女の頃の遂げられない思いを持ち続けたり、禁じたり、しちゃったらどうしたって哀しいです。でもそいつは美しくハレンチで、セクシーなんだ。
映画のオフィシャル。サイト
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by past_light | 2007-11-24 20:20 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)
ねずみは来年の干支でして
 寒くなってまいりました。で、まいりました。
 まいったなぁ。冬は嫌いではないのですが、寒いのはどうにも好きになれません。
 矛盾を孕みながら、やがて十二月の声を聴き、年が暮れていく慌ただしさの中に日常も呑み込まれていくのですね。ふむふむ・・。

 うちは古い家なので、近年、ねずみが住み着きました。
 猫が居た時には、遠慮してか警戒してかで、向いの家で暴れていたようです。
 天井でのかの有名なねずみの運動会が向いの家でもようされていたのも、向いの住人も変化し、猫も家から消えたせいでか、ねずみは家を気に入ったようで、ことに雨の前触れを知らせるような日に、よく天井を走っています。

 ことの発端は、ふろ場で石鹸がかじられていて、「ありゃ」と思っていたら、次の日には石鹸モロともなくなっていたことからでした。それで蓋付きにして石鹸を防御したところ、台所の布巾洗い用の石鹸がかじられたことが次の発端。
 やがてふろ場でねずみの糞と思われる固まりを発見。なぜねずみの糞かわかるか、というと、石鹸の香りがするのです(笑)。

 つぎの事件は、公園の猫にやるキヤットフードの袋をかじって中を覗いた形跡があり、気を付けることに。気をつけると今度はテーブルに置いていた柿をかじったこともあります。もう食い物ははだかでは置いてやるモンか。

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 そしてねずみくんと最近、ついに遭遇しました。意外にカワイイやつだったので、複雑な心境です。

 キャットフードの袋はちょっと高いところに置いてありルのですが、ガサゴソするから、揺らして脅かしたら飛び出して足元を走り逃げていきました。
 行先はふろ場です。二年ほど前に風呂のシステムを変更した際に、というかぁ、窯焚きから蛇口をひねるとお湯が出る、方式に大家さんから変えてもらったわけですが、その工事の時に業者さんはちゃんと壁の穴を塞いでいなかったのでしょう。

 先日夜中にガサゴソ音がするので、また脅かしに行きました。
 寒いのにこの野郎とおもいながら、スリッパを手に取り、カゴの外から「ばんばん」叩いてやりましたら、ねずみくんはびっくりして卒倒したのか、急に静かになりましたので、もっとばんばん、ゆさゆさ、としましたら、ねずみくんは息を吹き返したのか、大慌てで飛出し、例のごとく走り逃げるのですが、腰が抜けているらしく、ほふく前進の走りなので、ちよっと笑えました。

 このところいつも開けていたふろ場のドアを閉める日々が続いているので、今度はどんな手で出てくるのか、来年の干支だからといって容赦できない状況です。
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by past_light | 2007-11-21 21:16 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)
ぼーっと思考されるもの
 昨日観た「週間ブックレビュー」に、藤原智美さんが、(読んでいないけど)自著の「暴走老人 ! 」の特集で出ていて、司会の綺麗な中江さんの質問に、どんな時にこういうことを思い付くのか、まあきっかけ、アイデア、みたいなもののことだろう、そんな質問をされて、「ぽーっとしているときですね」と答えていて、ああ、そうだろうなあ、と思った(笑)。

 というのも、学者的に資料をならべて、藤原さん流に言うと「情報の集積のパッチワーク」から出てくるものは、だいたい一方向からの見解、同じような個性の欠けた論文、ハウツー的な域を脱せないからだろう。
 彼によると、最近はネットで検索して情報は捜せるから、そんな同じような学生の論文が多いと言う。

 (それで余談だが、このブログで少ないアクセスの中からいうのもなんだけど、エキサイトのアクセス記録には、訪問者がキーワードでアクセスした時の語句がわかる。たしかに、宿題でたとえばきっと、「高村光太郎 あなたはだんだんきれいになる・・」とか出たんだろうなあ、と思うときのものがある(笑)。「佐野洋子 谷川俊太郎」というのが毎月多いのはなんだろう、と思うが、最近「池澤夏樹 離婚」というのが多くて、そんなことがあったのは知りませんでした。やはりどちらもつながりのあるキーワードのようだ(笑)。)

 作家としては、個人的で日常的なある出来事、きっかけから、自らの精神状況や、まわりの現在、世相がつながり、ああだこうだと多角的に考察して生まれてくる思考が纏められ、発展して書かれ、読者にも面白い発見もあり、読者が自らとのつながりも連想されて興味深いものになるのだろう。
 そういうのは、「ぼーっ」としているときにある程度思考されることが多いのはよくわかる。
 ちょっと情報的には間違っていても、なんだか「ぼーっ」として、いろいろつながって思考されることを誘発する記事というのもわるくないんじゃないでしょうか。
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by past_light | 2007-11-12 20:58 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)
無分別
 玄侑宗久さんという、芥川賞作家でお坊さんである人の「自燈明」という本に、「無分別」についてのこんな話があって、なんでもない話のようなんだけど、なんとなく胸にぐっと来た。

 ちなみに「自燈明」というのは、仏陀が入滅のとき、弟子から「師の居なくなった先どうしたらよいか」と問われて「自らを頼りとしなさい」と言ったという話のことをいうらしい。
 「宗教」というと、固定観念のように、誰ぞかに従い、服従し、そんな世界があるのだろうと思い込んでいる人もいるが、実のところ、他人に盲従するのはいけない、自らを光としろというのが基本のようで、所属願望などとは無縁のモノなのだろう。
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毎朝、自転車で近所の山あいの道を見回りしているお爺さんがいた。

 その爺さんは毎朝、会う人事に「おはようございます」と挨拶していて、寺の庭を掃除していた玄侑さんも、最初はっとして、「おはようございます」と挨拶を返した。
 最初はどこのお爺さんかと思っていたが、寺を総括するようなそれは坊さんだったのだと後で知る。

 あるとき誰かから訊いた話。
 お爺さんが「おはようございます」と挨拶しても、どうしても挨拶を返さない人がいた。
 が、お爺さんは気にとめる様子もなく毎朝おなじように「おはようございます」と挨拶していた。

 まるまる二年も過ぎた頃、ある朝いつものようにお爺さんが挨拶すると、その人ははじめて「おはようございます」と挨拶を返して来たという。
 そしてその場にうっぷして泣いた。

 玄侑宗久さんは、その人にその朝、突如、大きな変化が起きたのだろう。という。
 それはきっと二年の挨拶を返さない時間とも無縁ではないだろう。
 「どうしても挨拶を返さない人」と書いたけど、「どうしても挨拶を返えせない人」、そんな人はたしかに居ると思う。

 お爺さんの「おはようございます」は「無分別」の見本のような姿だと玄侑さんは言う。
 いったい、いつまでも挨拶を返してこないような人に、あなたは挨拶し続けられますか?。ということだ。
 「分別」ということで言えば、「この人は挨拶し、あの人はしなくてもいい人だ」というふうにぼくらはなっちゃうんじゃないか。
 なんだかどこか身につまされる話でもある。

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by past_light | 2007-11-09 16:20 | ■Column Past Light | Trackback(1) | Comments(6)
ねこ鍋を賞味する
ネコ鍋
「日本人はネコを食べるのか」と世界を驚愕させた(笑)。
かなりなごみます。
作者のパーソナル溢れるタッチ、制作意図といい、現場の田舎の民家の空気が伝わるし、ねこちゃんの配役、ライブ感といい人気の究極のリラックスビデオ。
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by past_light | 2007-11-07 15:35 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(4)
問答無用の用
 「無用の用」は、荘子のなかで「胡蝶之夢」とともに印象的な話。

 ・・・大工の師匠が旅の途中、杜のそばにある大きな古い木を見て、その大木に感嘆している弟子に言った。

 「これは無用な木だ。船をつくればすぐにくさってしまうし、道具をつくればこわれてしまうだろう。この木ではなにも有用なものがつくれない。だから、こんな古木になったのだ」
 
  しかし、その夜、師匠の夢にその大木が現われて言った。
 「お前はどうして、わたしを梨やりんごなど実のなる木と比較したのだ。
 それらは実が熟さないうちにさえ、人間に攻め荒されてしまう。大枝は折られ、小枝はさかれる。
 自分たちの長所と思われるものが自分自身に害をなしていて、天寿を全うできない。
 これはあらゆるところに生じることで、このためにこそ私はまったく無用であろうと、長年つとめてきたのだ。
 
  愚かな人間よ、もし私が何らかの点で有用であれば、これだけの大きさになり得ただろうか。
 そのうえ、お前も私も自然の創造物にすぎない。
 たんなる創造物がいかにして、他の創造物よりも上に立って、その価値判断をくだせるのか。
 お前、無用な人間よ、お前が無用の木について何を知ることがあろう。」
 
  大工は目覚め、その夢について想いをこらした。
 弟子が、どうしてこの木が杜の保護につとめているのかと彼にたずねたとき、彼は、
 「だまれ、何も言うな。その木はここに意図して生えているのだ。
 もし他の場所であれば人間がよくは取り扱わなかっただろう。
 もしそれが杜の木でなかったならば、切り倒されていたかもしれない。」と言った。・・・



 ぼくらは有用な人、モノをありがたがり、重要に思うし、評価する。
 しかし、いったい有用と無用は比較して優劣を付けて当たり前にしていいんだろうか、ということを考えさせる。

 会社とか組織の中などで、有能な人は会社にとっては有用で、貴重でありがたいだろう。
 ふりかえって、なかなか貢献度も少なく給料泥棒みたいに言われる人は、さしずめこの場合、無用の人で、時期がくれば組織からリストラされて当然のように扱われるのだろうか。

 でも最近に始まったことではないけれど、食品会社の賞味、消費期限の偽装などの中に見えてくる話に、現場の販売員の姿がある。
 リーダー的な販売主任担当者が売れ残りを残さないで店頭で売り切る。たぶん会社にとっては有能なやり手で、ありがたい存在だったんだろう。
 要は消費期限の書き換えにつぐ書き換えをしてのことだ。
 もう当たり前のようにしてのシステムに何の疑いもなく回転していく。商業至上主義というと厳めしい言葉だが、かんたんにいえば行き着く先はこういうことだ。それで発覚すれば天国からまさに地獄のように状況風景は一変する。会社の信用は失せて、非難され、一本の雲の糸が天から降りてくるまで長い苦難のなかを歩くのか、果てるのか、そういう話ばかり見ているような気がする。

 この場合の話で言えば、「無用の人」とは、そんな利益の上げ方を疑問に思い、立ち止まり、日々のシステムの流れをとめてしまう存在だろう。しかし、無用の人の声に耳を傾けていれば地獄への落下もなく分に応じた商いも続けられたんじゃなかろうか。
 さらに言えば、そんな問題まで発展しない場所だろうと、組織の中に有用な社員がいて一見無用な社員もいるだろう。それで無用な社員を捨てて有能な社員ばかりで構成しようとしても結局うまく行かないと言う話もある。それは有能と思われた社員がさらに有能な社員に能力を喰われて発揮できなくなり、結果、その人は無用な社員へとなった。という話がある。

 比較しての世界では比較できるものは一見すると無限に思える。しかし俯瞰で見ると、ひとりひとり我々は、運命共同体のちいさな存在だ。
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by past_light | 2007-11-02 15:37 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(8)