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ベルイマン、その名の響き
 イングマル・ベルイマンが亡くなった。

 なんだか亡くなった人の冥福ばかりを続けて言わなくなてならないが、そうは言おうと、自分が関心があった人のことだけを上げているわけだ。世の中では毎日、世界中で人は死んだり生まれたりしている。

 小田実さんも、ちょうど自民党大敗が進行の夜に亡くなったそうだ。
 あの強面、鋭い目で、体制をにらみつけていた、椅子に座った、少し猫背の大きなシルエットの姿がとても印象的だった。
 この人はいわば日本人ばなれした迫力を持った平和活動家でもあり、こんな人は、もうなかなか出てこないんじゃないかと誰しも思うのではないか。
 御冥福をお祈りします。

 ベルイマンは、ぼくが二十代のはじめにシビレた映画監督で、題材には背景にカトリック的な精神風景があるので、そういう縁がないともう一つ入っていけないのではと思われそうだが、映画として見事に引き込まれる魅力のかたまりだった。カトリックで思い出した極めつけは「冬の光」という映画で、主人公の牧師さんがなんでこれほど苦悩するのかぁ・・・というものだが、話よりも、日本人であり青年であったその時のぼくの内部とのギャップが衝撃的だったのかもしれない。

 スゥェーデン、北欧の街の陽射しを感じさせないその映画での空気が、憧れのような意味で、それも魅力だった。映画の内容におけるシリアス、緊張感そのものが、ふやけた脳髄に冷気を吹き込んでくれるような映画体験をそのころは感じたものだ。けして難解という感じではなく、むしろその抽象性のほうがぼくは好きだったかもしれない。
b0019960_03070769.jpg 「ペルソナ」というモノクロ映画を最初観たのだったと思う。
 今でももう一度観たいと思いながら果たせていないのだが、この陰影の強い映像と女優たちの不可解にすら突き進む、おそろしいほどの苦悩、悪意、矛盾、愛憎とのぶつかり合いなどは、後にして思えば、ウディ・アレンは絶対真似してはいけないんじゃないかと思うものだった。

 「野いちご」は、老人の名誉の授賞式に向かう車中がいろいろと内容濃いものの詰まりものだった。キリコの街のような夢のエピソードがこわくて楽しい。フロイト的でもあるイメージも満載だ。
 ベルイマンが、まだ若いときなのに、こんなひとりの老人の精神風景をリアルに描くということに誰しも驚いただろう。ぼくは半年ほど前にひさしぶりにビデオで見直してみたら、まさにそのとおり、どうしてこれほど切実感があるのだろう・・と数十年の時の流れも自らの精神の中に見つけたものである。ああ、まだまだぼくは老人じゃないですが、念のため(笑)。

 この映画でも印象的な、息子夫婦の関係における夫婦、結婚における意地悪で悪意にも感じられるかもしれないほどの、男女の内部の真実をえぐりにえぐりつつも、なぜかどこか普遍性を求めているとしか思えない愛への固執が、ベルイマンの、きっと神への問いかけとも通じるのかもしれない。
 ご冥福をお祈りします。

 追記>ミケランジェロ・アントニオーニ監督も続いて亡くなりましたね。
アントニオーニ監督の作品はたくさんは観ていませんが、登場人物の後ろにはつねに、こわい異星のような空虚が背景に広がっていました。
アントニオーニ監督の作品の過去ログの感想はこちらにあります
 ご冥福をお祈りします。
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by past_light | 2007-07-31 03:11 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
河合さん、ありがとう。
 河合隼雄さんが亡くなりました。ありがとうございました。御苦労さまでした。
 御冥福を祈ります。

 「そして、この仕事をしていると、ひとりの人が十年かかろうが二十年かかろうが治っていくとかあるいは変わっていくというのではなく、極端に言うと生きているということでいいんだと、このごろは思うんです。
 一人の人間が生きているというのはすごいことだと思うようになりました。その人が生きているということは、その人の思っているよりもはるかに社会全体に意味をもってるようにこのごろはおもいますけれども。・・

b0019960_03092613.jpg たとえば、ぼくのところへ来た人が、なんの生甲斐も自分にはないと言う。自分がこの年になっていくらがんばってもそんなに金もうけはできないだろうとか、結婚もできないだろうとか、ナイナイづくしなんですね。それでなんの生きがいもないし、生きていてもしかたがない。で、死ぬというわけです。
 それに対してぼくは言ったんですけど、生きがいがあって生きている人はこれはあたりまえではないか。「かい」があるから生きているのならそれはあたりまえで、それに対してなんの生きがいもないのに一人の人が生きているとしたら、こんなすごいことはないんやないだろうか。こんな大事業はないと言った。・・・あなたが生きているということはあなたが思うよりもはるかに社会に意味をもっている。・・」

『河合隼雄 全対話』より大江健三郎さんとの対話の中から。抜粋。

<追記>
 先日来、河合さんの名前をここでよく口にしていました。それから著作の中からも紹介を繰り返していましたが、なんとなく不思議な縁です。
多くの河合さんを敬愛する方々の中のひとりで、ついにお会いするような機会もありませんでしたが、それでも著作の講演や対話には、驚くほど肉声に近い響きのことばを聞かせてもらっていたように思います。

 たくさんの対話が『河合隼雄 全対話』という10巻以上もあるシリーズで読めますが、対話する相手とに応じた柔軟さも達人と言えるだろうと想像します。しかしけして不正直で語ることはなかったと感じます。が、御本人はたしか立花隆さんとの対話の中でだったか、「自分の本では本当のことは言ってません」と話されているところなども興味深かった。それはホントウのことを話しても聞いてもらえない、鼻で笑って取り合わない、・・そんな世界があるからですね、そういうことですとおもいますよ。
でも仏教をメインテーマに対話しているもの、それからコリン・ウイルソンなんかを相手には、かなりストレートに口にされているのも楽しいです。

 まだまだこれからも読ませていただきますが、とりあえず、さようなら。ありがとう。
 今頃は、あちらで武満さんや遠藤周作さん・・らと再会され、入園式を楽しんでいらっしゃるかも知れません。

 ・このブロクの左にある検索窓に、「河合隼雄」で検索されて下さると、幾つかの過去記事があります。
京都新聞の7/20記事
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by past_light | 2007-07-19 19:42 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
午後の遺言状
 いつも、プロの役者、演技者という存在をどちらかというと否定的に語っているようにぼくは思う。が、それは作品、作家の意図というか、由来する理由がある。むしろ職業的俳優がときに病的ともいうように演じることで、彼、彼女がテーマとなってしまうような場における、その「我の現れ」の観る側の不快感のようなものだろうか。

 多分、役者さん側にとれば、気持ちよく演じさせてくれる監督なり演出者はありがたいものかもしれない。反対に素材としてのみを要求されてプロの力量を必要とされない監督などにたいしては、まあ複雑な思いもあるのだろうか。
 しかし、竹中監督のいうような「存在」そのものを必要とされるという幸福もまたあり、だからなんとも心持ちは「複雑」ということでいいんだろう。

b0019960_03112508.jpg だいぶ前に録画していた映画だが、なかなか観る気持ちになるのに時間がかかった。 新藤監督の映画には好きな作品も多い。独立プロ時代の社会派的な題材の作品が相当に印象の強い方だが、やはりそれらの中には忘れられないものが多い。筆頭は「裸の島」だろうけれど、そのころほかにも生活苦に喘ぐ庶民が主人公の作品が多く、なかなかそのテーマは重い。いま九十を過ぎても独り生活し、次の制作のブランをお持ちだろう、その人生の持久力にも感嘆する。

 「午後の遺言状」では、老いと死に関して、そのテーマは観客が年代が高ければ高いほど、物語に心の至近距離が近い。
 もうここに登場された三人の女優さんもこの数年の間にこの世を去られた。
 杉村春子さんも 乙羽信子さんも、当時この映画で賞をとられているが、認知症の役を演じられた朝霧鏡子さんは賞に昇っていないのが、ちょっと不満だ。だいたいこういう役だと演技としての対象から外れることが多いのは、演じやすいという先入観があるのだろうか。とよく思う。でも 朝霧鏡子さんの役、その無垢で無防備で儚い表情は非常に印象的であり、彼女がどこかで映画をつま背かせることがあれば、そうとうなダメージであったろうとおもう。

 それにしても 杉村春子さんのプロとしての演技はこれはまた、実はそれで独立した楽しさを味合わせてくれるので、なんとも、いつもながらうなりつつ拝顔してしまう。
 この映画での役がまた、演劇人としての彼女をそのまま持って来たものといってもおかしくないので、もうなんの遠慮もなく演じておられたのが清清しい。
 「次はどう出てくるか、・・」といった彼女の演技を見ることの楽しさがあって、だからといって映画の主題を壊しているわけではなく、それは映画の終りの彼女の為のラストショットを見れば納得されることだろう。

 しかも、彼女の台詞は聴き取りやすい。演技の押しの強さみたいなものが発声にも勢いを持っているし、映画に芯の通ったような頼りがいを持たせ、しかもそれは何故かどうみてもユーモアを合わせもって表れてくるから、重いテーマであっても作品は堪え難いものではなくなる。

 乙羽信子さんが飄々と相手を演じるが、それが間を空け、無気味に場を落とし、つかみどころをまたさっと逃がしてくれるようで、描かれていた物語のテーマの重さを「公案」のようにして、映画の後味も不思議にひと夏の避暑地の想い出のようになった。 

 おふたりの最後の作品にしてもまったく不都合はないと思われていることだろう。

「午後の遺言状」新藤兼人 監督 * 製作年 : 1995年* 製作国 : 日本
キャスト
* 杉村春子 (森本蓉子)* 乙羽信子(柳川豊子) * 朝霧鏡子 (牛国登美江)* 観世栄夫(牛国藤八郎) * 瀬尾智美 (あけみ)映画詳細
新藤兼人さんの-生涯現役 朝の活力源-という記事

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by past_light | 2007-07-12 17:13 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
クリエイト
 まだ監督としてデビューしたころの竹中直人のインタビューを読んでいたら、出演してもらった役者さんに、「演じなくていいんです。あなたの存在だけでいいんです」ということを彼が言っていて、ぼくは前に彼の映画の「119」の感想を書いた時に、同じようなことを感じて同じようなことを書いていたので、少し驚いた。
 それで、少しだけ自信がついた。それは知識、情報の蓄積とか論理的なことはどうも苦手な方だとわかっていたけど、つまりなんだか、感じる、感じとる方にはわりといけてるじゃないかと。(笑)

 河合隼雄さんと、「マイスター・エックハルト」などの著者である上田さんという方が対話しているところに、こんな話があって、その話もあれだが、そういうことに感激している、ふたりがまた感動的である。
 話は、上田さんがバスに乗っていて停車している間、窓のむこうにもバスが停車していて、丁度向いに三人の子供が乗っていた。子供のひとりが上田さんにVサインをした。上田さんはVサインを返そうかと思ったが、ちょっいたずらごころで三本指で返した。三人の少年はちょっと躊躇して三人で顔を見合わせていたが、いっぽん指で返して来た。その後すぐにバスが発車してそれで終りだったけど、上田さんはとてもいい気分だし、とても心に残るその日のひとこまになったという。
 上田さんは、これこそ創造性だろうと。それを感心した。
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 その話の前に河合さんが話していたことは、ある子に宇宙の話をしてくれとさんざん頼まれて話していると、やがてその子はこういった。「それでおかあさんはどこにいるんですか」。
 この子はお母さんを亡くしていて、その疑問がこころにずっとある。誰に話しても曖昧な答えしかしてもらえない。それで宇宙のことをこんなにちゃんと話してくれる河合さんならちゃんと応えてくれるか、と思ったわけだろうという。

 その創意工夫というか、上田さんの話といい、人と人が関係することにおいても、その人そのものが存在すること、そのものに、互いがいわば楽しめるなら、そんなディティールこそ人と人の関係の中の醍醐味なんじゃないかとも思える。
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by past_light | 2007-07-03 21:15 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)