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世界の細部

 中沢新一さんと河合隼雄さんの対話の本の中に、アメリカ・インディアンのナバホ族のはなしがある。
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 普通われわれが映画を撮ろうとすると、たとえば、「行動をつじつまのあう一つの物語として追う」。
 ところが彼らが撮った「機織り」という映画では、機織りをする場面がなくて、あるのは機織りしているおばあさんが席を立って、糸を取りに行ってとって帰ってくる場面だけがある。
 つまり中沢さんによれば、アメリカ・インディアンは「映画というものを観た時、これは、要するに物語の筋に入らない、よけいな細部を記録するための装置なのだということを発見して、感動したわけです」という。

 彼らが馬に乗った人を映した映像のどこに感動するかというと、別の地点へ走っているという目的を持った行為ではなく、その時々に馬が見せる表情、ステップ、そういうものばかりを面白がる。

 「映画というのは役に立たない、人生の意味や目的からはずれたように見える、またはそれだけに豊かな現実の世界の姿を、そのまま記録できる道具なんだということを発見して、感動して、・・どうでもいいことばっかり撮るわけです」。

 「どうでもいいことばかり」というのは逆説的な意味の言葉であるのはあたりまえだが、先日ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」のビデオを取り出してきて、かいつまんで眺めていて、むかし知り合いの女性が、「何が面白いのかわからない。だからどうしたって、感じ」というようなことを言っていたのを思い出した。
 この映画も、それから先日紹介した「埋もれ木」にしても、「細部」が非常に豊かである。見つめていると、ずっと映し出されるその映像を見逃せなくなる気になる。エリセは、周辺に存在するからこそ見えてくる、知覚される、という「目」について語っていたが、我々が見ていると思っている、思い込んでいる世界には隠された世界があり、いわば「目には見えない、肝心なもの」ということをも思い出させるはなしだ。

 河合さんの病床にある現在はずっと伝わっては来ない。なぜか、ぼくはこのとろこ河合さんの関係した本を続けて図書館で借りて来ては読んでいて、もしかして、ある意味では隠された世界を体験されているだろう河合さんがこちらへ戻られて、それを語ってもらえることを期待したいと思っている。
 河合さんと対話する中沢さんにしても、武満さんとかエンデ、画家の元永さんや長新太さんとか、読んでいるとたくさんメモしておきたいことがあって、追い付かない。またこれからもここで記録しておきたいと思う。

 余談だが、スゥェーデンボルグという人は、生前からもともと彼の霊界によく旅をしていて、死に間際には「まるでこれからピクニックに行くかのようにワクワクされていました」と家政婦の人が語っていたというが、ともあれ、政治家たちの顔ばかりが象徴するような不条理、渾沌とした世界より、もしかしたら隠された世界のほうに秩序があるかもしれないなあ。
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by past_light | 2007-06-24 21:27 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

思う存分「ちゃぶ台返し」

「あんた、もうやめて」という女性の叫び声を合図に、ちゃぶ台をひっくり返し、飛んだ食器の距離などを競う催しが23日、岩手県矢巾(やはば)町で開かれた。
★思う存分「ちゃぶ台返し」 岩手・矢巾で世界大会

モノガタリ、ファンタジー復権だなぁ。(笑)
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by past_light | 2007-06-24 16:44 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)

バレンボイム

「クラシック・ロイヤルシート クラシック・ドキュメンタリー 音楽は民族を越えて
− バレンボイムと若者たち −」              
▽アラブとユダヤ系の若者により結成されたウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラを、1999年の結成当時から追ったドキュメンタリー。〜ドイツ EuroArts制作〜 放送日:BS2 :2007年 6月17日(日)         http://www.nhk.or.jp/bsclassic/

 チャンネルを合わせて、たまたま観ることができた番組だが、バレンボイムはイスラエルの中にあって、その「正しいと思ったことを私は言う」率直で果敢な態度は、きっと半数ほどの人からは反発され煙たがられているかもしれない。が、皮肉にもイスラエルで、そのオーケストラ活動に対しての賞が与えられる会場、それはかなりの場面でもあった。
 率直に「武力では解決できない。共存するほかに道はない」というだけでなく、自国非難ととられての言葉は、すぐに主催側からの感情的な反発を受ける。バレンボイムは「ひとこと」と、発言を求め、「非難ではありません。この国は意見を言うことができます。あなたの反対意見も認めます。同じく私の意見も聴いて下さい」という。

 協動して活動していたサイードが亡くなった後、「心細い」と正直に語っていたバレンボイムの姿も心にしみる。

 指揮者・ピアニストのバレンボイムと、先年亡くなった文学者サイードの当面の切なる願いが、サイードの死後にバレンボイムのチャレンジで突然実現するところが、何とも現実であるからこそでもあるが、どんなドラマより緊張感がある。それはパレスチナ自治区の地でイスラエルの団員も加えてのコンサートの開催だ。
 イスラエルの若者は緊張と当初は拒絶を隠せなかったが、他のメンバーとは別に直前に入国するというあたり、その後、無事にコンサートは成功しての、すぐに帰路につくあたりに彼らイスラエルの若者の達成感と自分達の先入観や知らないことから来る恐怖が溶解して行くところが切実に感じられた。

 オーケストラにはイスラエル、パレスチナ、エジプト、それから他のアラブ諸国の若者やスペインの若者もいて、共に集い練習する中で溶けたり解消して行った人種間の心の闇のなかを見せてもらっていると、バレンボイムはすごいことをしているなあと思う。ふりかえると、比較すればとりあえず安全ではあるこの日本にいて、「それ」を実感するのは思慮深く想像力を使わなくてはならない。
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by past_light | 2007-06-19 20:16 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)

森の大路さま

・・・
森の中では感じることと考えることがどれも別れていませんでした。
街では感じている暇がなくて、たずねられれば考えた答えを早く口にしなくてはなりませんでした。
それで、少年は家に帰るとひどく疲れていることがありました。
少年を見て、ただ母親は悲しそうな顔をしていました。
でも、その理由も森の中を歩いていてわかったことでした。
ながいこと街の中で、早足で追いこしたり、追いこされたりしていると、だれもなにかをしっかり感じることができないようになってしまい、頭のなかの中心がぐるぐると焦りだすのです。
たくさん口にできる答えをあらかじめいくつも持っている人の方が、たくさん街で居場所を見つけられたのです。
・・・

 #たぶん5年ほど前に30分ほどでスムースに出て来た話。少し頭の中に「モモ」の物語があった。でもぼく自身の深層心理的なものもあらわれているし、東洋哲学的な匂いもあるが、書いていてそのまま森の中で迷っているところも感じられて、先へ歩む推進力をさがしている自分があるところがよくわかる。
全文は下記にあります。
★森の情景へリンク

●このブログのサーバであるエキサイトで技術的な問題が生じていて、ブログへの接続、ページ表示や画像表示などに不具合が出ています。いましばらく御容赦ください。
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by past_light | 2007-06-14 17:14 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)

リサイクル・モデムは、いい。

 随分久しぶりのダイアルアップでのアクセスを一週間だったけれど、もうほぼメールのチェックぐらいしか使いようがないとわかる。
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 落ち着いてインターネットを見ようとすれば、何年もふだんは気にしなくなっていた電話代、それが馬鹿にならないのも大きいが、それに輪をかけるのがブラウザの表示の遅さがとんでもないことになっていることだ。
 もちろんそれは、この数年でどんなページでもほぼ高速回線でのダウンロードに寄り掛かったつくりになってしまったせいだ。画像も重たいものが増えたし、フラッシュアニメを多用してのコンテンツ、それにHPの新しい記述のせいなのか、インターネットがうんざりする時間になる。
 むかしのスタンダードな文字だけ、できるだけ軽くこころがけた少ない画像、そんなページがありがたく思えるという始末。もうニ度とダイアルアップでインターネットなど見てやるものか(笑)。

 接続に使うプロバイダーを変えたのは、メールの不達が前から気になっていたことで、テストに自分で何通かいろいろと出してみたら、同じ件名、文面でも届いたり届かなかったりという感じ。翌日プロバイダーに電話したら、サーバでの迷惑メール削除が基本設定されていたことで、迷惑メールがないのはありがたいが、ごく普通のメールがずいぶんと削除されていたことがわかった。それにしても「同じ文面で拒否したりしなかったり、なんてあるのですか?」と問うと、即座に「あります」と答える(笑)。それじゃ何が規準か不条理なはなしじゃないか。
 それから、プロパも変えてやろうと思い、安くて、おとくなキャンペーンをしているところを捜した。調べたら、長い間フレッツとプロパをそのままにしていたせいで、毎月1000円以上損をしていたとわかった。まるで生命保険かなにかと同じじゃないか。何年もモデムもレンタルでのフレッツを使ってていると、毎月レンタル料だけでも700円程度払っているわけだが、考えてみれば1年で8000円ほどで5年も使うと4万円だ。すでに買い取りになっていたってお釣りが来る。おかしな話だ。おとくなキャンペーンとは、モデムもリサイクル品だが、機能もマシだしなによりレンタル料もない。少し傷があってもモデムがリサイクルしてこんなふうに提供されるのは利に叶う。

 しかし、タイミングを間違えて一週間ほど使えない期間ができてしまった。
 一度、図書館でネットを使わせて貰ったら、検索用にかヤフーサイトのニュースは見れるが、ところどころの画像はバッテン印。それから朝日新聞のサイトさえブロックされている(笑)。つまり広告の量で判断するのだろうか。それから掲示板、そしてなんとすべてのブログもブロック。これはコミュニケーション機能そのものを使わせないためだ。かろうじて個人のホームページの正しい姿なら見るだけならOKのようだ。しかし率直にいうと、急に食欲をなくしたような気分になりすぐに閉じてしまった。

 ダイアルアップのインターネットを「各駅停車の旅」と仮に情緒的にたとえるとしたら、いったん人がデジタルテクノロジーを使いはじめれば、それは不似合いだし不可能であると痛感する一週間だった。たとえるなら便利な秘密(ベンピ)あたりか。
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by past_light | 2007-06-10 02:35 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

「埋もれ木 」〜耳をすまし、凝視する世界の「夢」

 ■小栗康平監督の作品はこれですべて観ることができた。なにしろビクトル・エリセを思わせるほど少ない作品の数。それはこの作家の個性と、この時代における商業的な需要ともが関係する。しかしひとつひとつの作品の印象は非常に強い。

 ○天のポイントが貯まったので、DVDを注文し、日本の映画は高いなあ、とぼやきつつもプラス1500円ほどで購入した。1500円以上の映画のDVDを買うなんてはじめてのことだ(笑)。

b0019960_3574139.jpg ■「埋もれ木」が劇場公開された頃、反応をネットで垣間見て、そのなかには戸惑い、または理解不能、という感じの意見も多く見られた。
 前作の「眠る男」をぼくは二日続けて観たほど好きな映画作家だ。実は 逆にその反応の理由はだいたい想像できもする。
 しかしそれは、人として生きるということの中のある意味、非常に本質的で重大な問題を孕んだものだと思っている。それを「埋もれ木」を観おわり改めて気づかされるような思いがした。

 前に小栗さんの本を読んだ時に、この映画に対して業者間の反応にも「この時代にまあよくこんな映画を」と、やや嘲笑するかのものがあったという。小栗さんは内心「この時代だからこそ」という思いがあった。と書かれていたことを思い出す。まあ、ある意味ではそうとうに贅沢な映画作品の創出ではある。

 ■この映画の「ファンタジー」という言葉にもし誤解が生じるとすれば、それは観客側の己の中の澱んだ固定観念としての「ファンタジー」というものを見つめ直すという意味で、もっぱら自らに挑戦すべきものであるものだからだ。
 これほど物語り、ストーリーという形体を解体してしまったことで生じただろう観客の戸惑いの反応とは、言ってみれば従来の幾多の映画を観て、登場する主人公に寄り添ってドラマに着いてゆき追いかけ、展開され映し出される場面、そして主人公の心情を、安楽な椅子に座り、疑似体験して楽しむことを期待しても提供されない欲求不満でもあるだろう。しかしこの映画を幸いに体験する観客にとっては、それは映画を見るという意味の問い直し、自らの習慣化した姿勢、概念の解体でもある。

 ■たとえば映画を観て、そのドラマに、アクションに、楽しみ、おもしろがり、興奮し・・、映画館を出て行楽地から帰る時のようにぐったりし、ぼんやりし、白日の現実の日常が色褪せて見えるなら、それはぼくらが娯楽と言う麻薬を味わったのである。(その楽しみを否定していっているのではない、事実としてである)

 しかし「埋もれ木」を観終った後、正しく体験したなら、日常のいつもの光景、できごとが・・、たとえばあなたが台所で皿を洗う時、その皿のぶつかりあう音は生き生きと聴こえることだろう。自身の手の動きを不思議に思うかもしれない。または蛇口から流れる水の音に耳をすますかもしれない。そこに生活の細部に気づかれずに眠っている驚きがあることを。
 それはなんと、ふだんの日常のなかに「ファンタジー」は埋もれていたということに気づかされる瞬間である。
 既製のデコレートされた魅力的な作り物を与えられ、物語・「ファンタジー」を掘り出す力を失ったぼくらには、自らの現在の地層から、それを能動的に掘り起こす作業、決意が必要なのだろう。

 ■映画の中に印象的なエピソードがある。
 家族に養老院へ入れられると気分を害している老婆は少女たちに、自分の母が山にひとりで入って死んだ話をする。
 母はいつも「山に入ってお迎えが来てくれれば、そんな幸せなことはない」と言っていたことを思い出して語り、「おれは、その頃まだ若かったから、わかんなかった」という。そして、せがれたちにくっついていないと生きていけない自分を「どうしてこんなに弱くなったのか」と嘆く。「だって足がわるいんだから、しかたないよ」と少女たちに慰められるが、老婆は、「そんなことじゃねえ、おれの性根が、・・ちがうんだよ」と叫びむせび泣く。
 物語、神話を失ってしまった現代人の迷いがここにもある。

 ■この映画はぼくらに、自らの内に夢「ファンタジー」を創造する能動的な力を誘発しようと働きかけるが、かといって襟をただし緊張して観なくちゃいけない、ということではない。
 それは、たとえば河合隼雄さんがクライアントに対するときの聴き手としての姿勢のように、「いわば、ぼーっと・ただ聴く・しかし身体ごと聴いている」とも表現されるような受動的な状態で、観客はいたってくつろいで鑑賞すべきものであり、言ってみれば、耳をすまし、静かに見つめることが、ただただ必要とされることなのだ。

 耳をすまし、凝視するからこそ、聴こえてくる音があり、視覚は触覚にさえ近づく時がある。目の前の光景、そこから呼び覚まされる感覚、モネの観た自然のヴィジョン、またたとえばセザンヌのいう「サンサシオン」、そういった感受性にへとつながるものなのだと思われる。
 それはまた、意識の表層から無意識の層へ向かって掘り起こされた夢、ファンタジーでもあるとも言えるものだ。もちろん小栗監督のこの映画の素材は、そうした耳をすまし、凝視された世界から掘り起こされたものだろう。
 推薦のコメントを書いた山田洋次監督が、「誰にも似ていないし、誰にも真似できない」と評しているもの、それはこれだろう。

 ■バトンタッチして遊び繋げていた少女たちの「物語」は、やがて町の住人たちの日常の物語に合流し、それは「埋もれ木」の登場において町が夢を見る盛大な夜になる。そして物語は自立して生き続ける。
 たがいの三つの吊り橋から、「じやあ、また」と別れる三人の少女たちの自立した「夢」がはじまる。

 ■小栗さんの伝えようとするもの、それは「眠る男」からさらに進化して造形化され、実にシンプルにあらわされつくられたたものがこの映画「埋もれ木」だろう。
 しかしそれを紡ぐ作業現場はたいへんだ。CG処理による虚構の使い方も、前作に増して現実の再構成としてふんだんに使われている。映像としてのクライマックスの「埋もれ木のカーニバル」のシーンも美しいが、中盤にある、田舎道を列をなし山を背景にし町のみんなが子供たちと歌いながら歩いてくる夜のシーンが、とくにCGの魅力をよく引き出している。このような夜の場面は、ぼくらの記憶にある肉眼では体験してはいても、フィルムに焼き込まれての再現はできず、スクリーンに映るものではないからだ。
 しかし逆説的には、映画を「つくる」こととは、なんと技術的な能力の集合であるかはメイキングを観ての苦笑、溜息である。

製作・公開 2005年:日本:93分
監督 小栗康平
出演 浅野忠信 坂田明 大久保鷹 夏蓮 登坂紘光
小栗康平オフィシャルサイト
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by past_light | 2007-06-02 03:58 | ■主に映画の話題 | Trackback(2) | Comments(0)

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