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おききしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。
 ・・あなたがたもよい解決法なんてもっていないっていうことを。オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。

 どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください。
・・・・・

 2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私たちにこう言いました。

 「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに。」

 家もなにもないひとりの子どもが、分かちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、いったいどうしてなんでしょう。

・・・・・・・

 学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、

* 争いをしないこと
* 話しあいで解決すること
* 他人を尊重すること
* ちらかしたら自分でかたずけること
* ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
* 分かちあうこと
* そして欲ばらないこと

 ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているんですか。
・・・・

 なぜあなたがたがこうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。そしていったい誰のためにやっているのか。それはあなたがたの子ども、つまり私たちのためです。・・

 おききしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。
・・・

 あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私はいわせてもらいたい。もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください。

引用は下記ページから
★リオの伝説のスピーチ

★12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ (単行本)


★YouTube-Vídeo 1 - ECO_92
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by past_light | 2007-03-31 20:01 | ■ちょっとミニメモ | Comments(0)
トンボ
 大正12年9月、関東大震災の日、画家の熊谷守一も焼け出され、その日は野宿になった。多くの被災した人たちの中のひとりである熊谷守一もおろおろと不安でいっぱいだ。廃墟と化した震災地に立ち、日記に書いた。
「九月一日 大地震  トンボガ ユーックリ 飛ンデイル」

 能登半島地震で被災された方々のご苦労は、被災経験のある方には他人事でないものだろう。お見舞い申し上げます。

 先日のテレビニュースで、被災された家族のエピソードがあり、上記の熊谷の話を思い出した。
 ニュースでは、取材者のカメラが、母親と子供が半壊した我が家に、何かを取りに行くという場面に同行していた。
 傾いた部屋のドアを開けようとする子供にお母さんは「あぶない、倒れるかもしれないでしょう」と声を荒げるが、子供はどうしてもドアを開けたいようだ。中にはなにがあるのかというと、先日掴まえた蝶々だという。
 部屋の中の崩れ落ちた瓦礫の隙き間から、おかあさんが手を延ばし、つぶれかけたカゴの中から蝶々をとりだすと、奇跡的に生きていて、子供はバトンタッチするように受け取り、「逃がしてもいいでしょ」と言うと、お母さんも「逃がしてあげて」と二人は外へと急ぐ。
 蝶々は綺麗で大きなアゲハで、子供が花のそばに逃がしてやる。

 やがて蝶々は空へ空へと、元気に舞い上がった。
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by past_light | 2007-03-28 18:02 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
「動物との共生プランへの提言」についての意見
Subject: 「動物との共生プランへの提言」についての意見
To: seikatueisei-k@city.suginami.lg.jp

野良猫による被害?苦情が寄せられると言われるが、中身を吟
味したことがあるのか疑問に感じます。多くの常識的な市民は
そのような苦情を役所へ連絡などしないものです。むしろ自分
の所有物に過度に執着し、少しの不便ささえ他者、公共機関へ
と自己中心的な苦情を発することが多いのが実情です。

反対に考えるべきは、このような一部の苦情に過剰に反応しま
たあるいは利用し、「制度化」しなくてはいられない硬直した
体質で、それは市民社会をただ窮屈にし、本当には人と人と、
また動植物との「共存」とは相容れない姿勢だろうと感じます。

そういう空気はとくに子供たちが敏感に反応します。公園で猫
に食事を与えていた老婆をみて、近くに居た10代の若者が「
猫に餌やるなと決まってるだろう」とぶつぶつ言ってましたが
、当の老婆には言わなくても、その後、近くに居た猫を脅かし
ていた光景が印象的にある。

「動物との共生プラン」考えるのであれば、広く、また時間を
かけ、市民へ問いかけることが、そして問いかける行為そのも
の、その中身の方が大事であり、力のあるもので、また説得力
をも増すものだ。
拙速に「決り」をつくりたがることは、社会の弱さを示してい
る。

また、ある区域のみでそのようなことをしたとしても、移動す
る野生は隣の区域に逃げ込むかも知れないし、外を歩く飼猫を
誤認逮捕などして無駄な税金をさらに使い込むんじゃないか、
他に考えることはないのかな、議員というのは。という意見も
出てくるだろう。

野良猫のいない町とはどんな町になるのだろう。もちろん関心
のない人には視界に入らない生きものかも知れないし、そこに
都会にとって最後に残された野生も感じることもないだろうと
思う。
かれらは真冬の寒さにもなんとか工夫して生き延びる。もちろ
んある程度成人しないと無理なのは人間と同じで保護が必要だ
ろう。ある区画では三匹が夜になるとぴったりとカラダを寄せ
あって眠りにつこうとする。

やや高齢な方が多くはあるけれど、子どもも若い人もいる。猫
たちのまわりにはいつも、そんな誰かが立ち止まり、微笑み、
時にちよっと可哀相という顔も見せる。それから同じく立ち止
まる人との語らいがけっこうそこに生まれる。そこは春の陽射
しにふさわしい温度のある場所になる。野良たちは、あきらか
にそこに集う人々、誰かを助けていて、意図しない奉仕活動を
もしている。助け助けられている関係なのだと感じる。

よけいなものとか、生産性に関与しないとか、愛情も関心もな
く錆びた心で思っていないと考え付かないことを現代人は思い
付き、仕組みをつくったりもする。それがどこかでいろいろな
病を生み出してもいることには不感症になり。事後の対策ばか
りにあたふたしている。

捨てて野良猫にしてしまうのは、もうほんとにとてもいけない
ことだ。が、ただただ居なくなればいいというものではない存
在でもある。ほんとうは、野良として生きる権利だって主張で
きるのが万物自然の法則でもあろう。猫はかなり繊細で、暴力
的な波動を感じさせる人、ギラギラとした野心家は好まないよ
うだ。ちまたの経済には関心なく静かなヒトがだいたい好きな
ようだ。

生きる、生きもの、その存在の権利をむやみに軽々しく扱うこ
とは、そのまま人間社会へと跳ね返る行為である。
****************

■意見募集(パブリックコメント)
杉並区在住・在勤・在学の方、また、お知り合いに杉並区の方がいらっしゃいましたら、意見を送っていただけますよう、お勧めください。
意見には、住所・氏名(在勤の方は勤務先の名称と所在地、在学の方は学校名と所在地も)、事業者の方は事業所の名称と所在地、代表者の氏名を書いてください。3月26日(必着)

■ハガキ・封書 〒167‐0051 荻窪5-20-1
■ファックス 03-3391-1926
■Eメール seikatueisei-k@city.suginami.lg.jp
※いずれの方法も 生活衛生課管理係 まで
●杉並区のホームページ「動物との共生プランへの提言」
●月刊「Cats」平成18年12月号、杉並区の「猫の登録制」と「餌やり罰則」記事
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by past_light | 2007-03-23 18:00 | ■ちょっとミニメモ | Comments(2)
アンリ・ルソーの宇宙船
b0019960_20373617.jpg

地球って、遅れている星だという話ですが、なぜこうもちんたらしているんですか。

ちんたら・・って、のんびりという意味じゃないよね。
ま、それはそうと、本日のニュースみていたら、アメリカの議員が「神を私は信じていない」とかいったということで、おおいに賑わっているというが、そもそも信じている人なんて居たのかね、それが不思議ですよ。

ああ、「あらゆるものの上位に位置する・・」とかなんとか神を持ち上げていながら、実際には人間のやっていることは詐欺師みたいなものですね。

わかるでしよ、だからそれがすべてじゃないですか。

なにが、すべてなんですか。

つまり正直ではないし、神まで空想上の理屈として利用して、あいかわらず我が物とすることばかりを日夜している。

もしろ信じていないというほうが正直で信じられる・・ということですね。

ところで、信じるとか信じないとか、対立して喧嘩するとしたら、いい迷惑なわけです。神は。

というと神はいるんですか。

あんたが神じゃないの。

忘れてました。

思い出すまでは、詐欺師として正直に生きなさい。

どういう意味ですか。

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by past_light | 2007-03-18 20:38 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
La Califfa
 美しい声というものを持った人、しかもbeautyであれば、天からニ物も与えられてある人だろう。
 しかし、美しい声の持ち主というのは、何となくたいへんだろうと思わせる人としてサラ・ブライトマンがいる。

 CMなどでも流れる曲があったので有名だが、ぼくが彼女の歌声を知ったのは以前たまに聴いていたインターネットラジオで、合間に流れていた「La Califfa」という曲だった。それからラジオソフトに流れる英語表記の曲名と名前を不正確に音読み覚えしつつ、図書館やレンタル店を捜してアルバムを聴いた。
 そのなかにはポピュラーソングを歌ったものも多くあり、美しい声は確かに魅力だったが、どこか天から地上へ降りた女神みたいに、リズムに刻まれ、そして豊かな伴奏が、不釣り合いな地上の世俗の喧噪を加味されたようで、そんな不条理でわがままな不満足感を感じてしまった。反対にいうと、いかにオリジナルの歌い手たちの生身の声帯から発せられる個性が大きな魅力を伴ってあるかを再確認するものでもある。

 それはあるいは、勝手な理想の女性像みたいな空想の次元にある妄想に、自己中に執着する哀れなファンの落ち入るようなもので、アーティストにもファンにも無理解で停滞を意味するものだろうから、普遍的な話ではない。
 しかしそれが分かっていてもサラ・ブライトマンは、「La Califfa」だけで「ぼく」には充分にいまだ完結してしまい、多くの熱烈サラファンには、なんだか申し訳ないと思っております。・・お詫び。
 しかし、その一曲でノックアウトさせるサラ・ブライトマンは、まさに天から降りて来た女神でしょうから。

曲の試聴は下記にあります。
http://www.amazon.co.jp/Luna-Sarah-Brightman/dp/B00004UDNP
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by past_light | 2007-03-17 19:27 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
オールドフレンド
 ポピュラーアルバムがLPと呼ばれる30cmのレコードであり、アルバムとはシングルの寄せ集め、あるいは、せいぜい季節にちなんだ曲の集合でつくられるということが常識的だった頃、・・もちろん今では当たり前になったことだが、ビートルズとか、サイモン&ガーファンクルとか、彼らのアルバムは、どんどんと一枚におけるアルバムコンセプトを大事にされ緻密な構成でつくられはじめたものだった。

 例えば、「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」などは、それが際立っていたものの一つだが、一方、サインモン&ガーファンクルの「ブック・エンド」というアルバムでは、老人ホームの老人たちの肉声、なんともいえない、老人の溜息までが記録されてあり、ときにそれが曲の間を繋いだりした。じつに今でもそれはかなり個性的なアルバムだと思う。
 そのアルバムの一曲の、タイトルになる「ブックエンド」という歌の歌詞には、「70才になるなんて信じられない」というような言葉がある。

wave そして、その歌い手であるサインモン&ガーファンクルのふたりも、今ではすでに60才を過ぎ、その歌詞にある年齢にどんどんと近づく。そういう時の流れは誰しもに当たり前のことで、べつだん話題にするのもおかしいが、ともあれこちらも多感な時期からレコードを聴き、長年ずっと共に生きて来たような、他にはあまり存在しないぼくには親近感があるふたりだ。

 先日、「Old Friends Live On Stage」というコンサートの模様をおさめたDVD付きの輸入アルバムを久し振りにアマゾンで買い、パソコンで彼らのライブ・コンサートを観た。彼らが再結成コンサートをセントラルパークで開いてからたぶん20年ほどは経っている。それ以来のコンサートだ。セントラルパークでの成功の直後、彼らは日本でもコンサートを開き、それはドームになる前の後楽園球場。ぼくもめったに行かないコンサートに出かけて、金網越しに彼らの豆粒みたいな姿を観た。

 それから、彼らもこちらも20年を経過して、その彼らの歌う映像をこうして観ていると、「オールドフレンド」にまさに再会しているようなもので、それは胸を、熱くというか塞ぐというか、始終そんな込み上げるものがあると告白しても恥ずかしくはないことだろう。涙を流す、というようなセンチメンタルなものではなくてもである。

 ガーファンクルのあの高く透き通っていた声は、だいぶかすれがちで、伸びやかさは衰えた。だがそれは逆に言うと、以前を知る者にはそれも胸を熱くさせるもののひとつだ。しかし、そのかすれてはいようとも、彼の発声の誠実さなどは、歌うことを天職と感じているものだけが持てる、あらわせるものでもある。
 彼がソロになってからのアルバムは、その類い稀な声と歌唱の魅力が存分に発揮されたものがやはり絶頂期で、たぶんそれは最初のソロアルバムだろう。
 ポールはソロになってからのアルバムも相当に高い評価を受けるものが多く、未だに彼のアルバムごとの楽曲の新鮮な創造性は健在だ。
 サイモン&ガーファンクルとしても、楽曲の創造はポール・サイモンがイニシアチブを握っていたし、それはごく自然なことだった。が、サイモン&ガーファンクルとしてのデュオでしか味わえない曲、歌は広く長く聴かれ続けている。それはデュオで歌う魅力を当の彼ら自身もよくよくわかっていることだろう。それから時代も切り離せないし、アメリカという国とも切り離せない、深い因縁、宿命のようなものである。

 彼らの音楽は、10代から聴き続けた日本人であるぼくには、実際上は不確かなはずのアメリカのある一面の顔の印象、あるいはニューヨークに暮らす生活がさえ疑似体験したかのように、どこか身体に余韻が残るものだ。ふたりの歌声が、アメリカのある意味で健全な内省的な面を代表しているとさえ感じられてもいた。

 「Old Friends Live On Stage」に映るリラックスしライブを楽しむふたりの姿を、当のアメリカの観客も満足し共有していることが伝わる。それがまず素晴らしく、そしてサポートするバックミュージシャンの上質な演奏、開放的なアイデア、アレンジが楽しい。それからなんといっても、これぞアットホームという空気だと感じさせる、その全体の時間がライブ・コンサートというものの魅力なのだと再確認させるものだ。

 収録された若き頃の、永遠の少年のような顔だちの二人のスタジオ、ライブの様子もあるので、これはぼくのようなオールドフレンドにはいたでり尽くせリというものである。

Old Friends Live On Stage       Simon & Garfunkel
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by past_light | 2007-03-14 02:09 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
感情の勘定
b0019960_20173710.jpg 「感情にふりまわされる」「感情をコントロールする」と、言ってみればごく当たり前の会話にも出てきそうな言葉です。

 否定的にだいたい使われるけれど、ところが、ホントは深く深く焦点を絞ってみて行くと、そこには常に「感情」を悪者にしている自分と言う存在が透けて見える言葉でもある。

 それで、感情は実は放っておくと、だんだん消えて行くのが普通です。
 長く続く怒り、恨みや嫉妬など、それらは、その時生まれたように思う感情という反応に対しての二次的な反応、つまり出来事の受け入れがたきショックにつづく不快感、拒絶感、それらを思い出し、思考し続けることで、そういう名づけられるものになると感じられる。

 それはある場面で起きた感情が不快である場合で、相手のある関係のなかなどで起こることでは、自分を貶められる、傷つけられる、そういう部類の場合で、それにたいしての反応として、怒りとか、相手への攻撃的な反応、または自分への攻撃(変な言い方だけど、自傷的な行為などはそれに関係しているだろう)がある。
 それで、反対に誉められたりなんかすると、とたんに感情は「快感」として受け止められる。いや名づけられるということかもしれない。

 もし感情は感情であり、いいも悪いもなくて、ひと場面のエネルギーのある形をとった現象化だというように掴まえることができれば、さいわいである。
 さらに進んで、自分に感情が起こるということではなく、感情、そのときそのものが自分である。自分と感情は別物ではない。ということになると、ものすごくさいわいである。

 自分という存在があり、そこから感情が起こる、というのではなくて、・・それは肉体の反応を伴うので「生起」しているように感じるが・・、感情という現象は実は大元のエネルギーとして常に内在しあり、反応としてある形がさまざまに現れてぼくらの生きている時間の物語を紡いでいる。

 生きているそのことそのものがエネルギーの放射であり、そのエネルギーが去ればぼくらは個体として存在を終える。
 実は「感情にふりまわされる」という言葉は正しくない。無責任かもしれない。「わたしが感情というものをふりまわしている」いや「感情として現れたわたしがふりまわっている」、いやいや私はなにに振り回されているのか・・・まるでワッカラない(笑)。
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by past_light | 2007-03-08 20:08 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(5)
目にアニマる
 春というと、なんとなくぼくには雑念の季節でもある。
 雑念というと自責的念みたいで情けないが、ふとふと過去の記憶とかがもやもやとよみがえるとか、先日の「テス」の話からいえば、「あのとき・・なぁ」という想念が浮かぶという壮年なら、どうやらやはりどうコロンでも情けないのだろう。

 映画「テス」の、久し振りに若き日のナスターシャを見ていて、そのあと高校生時代の同級生の女の子の顔がなぜか思い出された。ぜんぜん似ていないのに。
 で、これはユング的アニマの領域に関して考察する必要がありそうなのだが、それはたいへんなので、のちのちぶつ切りの思考でも自分なりにつなげてみたいけれど、そんなことができるだろうか。
 とりあえず「テス」がある意味で、アニマ元型的な女性像であるという点では間違いなさそうだ。
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 20数年ぶりにマリア・ルイーズ・フォン・フランツ女史の「永遠の少年~大人になれない心の深層」を文庫で見つけたので再読している(底本のタイトルは少しちがっていた)。
 たぶん再々読だと思うが、以前は多くのこころある男性が「痛い」思いをした、有名な、容赦ない星の王子さまの分析。だが、やはり反撥も強かったらしい。しかし反撥者にはその反応自体をまたするどく突かれるというしろものだ。
 そういうわけで、どこまでも痛そうな読み物なのだが、まあ未だにぼくはなんとか生きてます、という感じか。

 それにしても、ここで言われる「大人になる」とは、ユング心理学的には「個性化」「自己実現」を意味しているのだから、男女関わらず、誰しも人のことを笑ってはいられないものなのだ。

 記憶していたことで、この本にあったのかと見つけた部分にこんな話がある。

 ふたりの永遠の少年タイプが、フロイト派とユング派の分析治療をたがいに別々に受けてみた。
 やがて、再会したふたりはおたがいの経過について会話する。
 フロイト派の治療を受けた青年は、すっかり社会に適応し始め、自分の幼児性も克服し順調にいきつつあるという。これからどうするのかと尋ねると、いずれお金をかせいで結婚するつもりだ。と言う。
 ひきかえ、ユング派の治療を受けていた青年はさっぱり変化がみられない。未だに方向が見えない。
 しかしフロイト派の治療を受けていた青年は、こう言う。

 「なんてことだ ! 分析家たちは悪魔も追い払ってくれたけれど、一緒にぼくのなかの天使まで追い払ってしまった」
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by past_light | 2007-03-06 20:56 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
さっちん
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この写真たちにはほとほと感心する。
もう、しょうがないからついに買っちゃうっ。

この子供たち、実はぼくの育った時代、だいたい同級生に等しいんだろう。
今では、こんな遊び場はもちろん、さっちんたちの表情を見つけるのはむずかしい。
悩める永遠の少年老若男女のリポピタンデーに一冊。

どうやら、いつかしらぼくは、のら猫くんたちにそれを求めていたのかもしれない・・。
ちなみに、さいきんぼくは表紙のさっちんのポーズを癖としている。

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by past_light | 2007-03-05 17:24 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)
ダーバビル家の「テス」 ロマン・ポランスキー
 ありがちなことでいうと、「あのときああすれば・・、あのときこうなっていたら・・、あのときすれちがわなければ」などと人は時に思うことがあるだろう。
 そういう意味では、テスの生涯を見ていると、そういうありがちなことを想起せざるを得なくて、こんなに悲劇的でいいんだろうか、と原作のトーマス・ハーディを責めたくなる。
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 もうかれこれ封切りに続いてのニ番館で観てから20年以上がたった。
 そのやわらかな自然光線に浮かぶ時代の、コローやミレーの絵を思い出す風景と、テスを演じたナスターシャ・キンスキーの珠玉の美しさ可憐さ、そして官能的な彼女の顔を、こうしてじっくり見られる幸福な映画であり、テスを他の女優に置き換えることの不可能ささえ感じるポランスキーのもっとも愛される映画でもある。

 この時代としては、軽々しく口外しては異教徒的とそしりを受けるようなテスの神秘的な体験が興味深く、それは「夜、外で横になり星を見ていると、魂が星へ吸い込まれそうになります。わたしは魂を星へ飛ばすのです」というものだ。

 その幸福感をテスは物語の最後でも望むが、ストーンヘンジの石の上の空は厚く曇っていた。
 彼女はただひとり愛する夫に真顔で言う。「生まれ変わっても会えるかしら」。

 テスはダーバビル家の先祖の眠る墓の前で、「私もそこで眠りたい」という。
 それほどテスの人生は辛く疲労に満ちている。
 テスは信心深いのだが、むしろ明らかに真摯なるゆえの異教徒として生きる者の時代の苦難を体現していると言えようか。

 物語を辿り終えたぼくらは、テスがどうしてこのような不運な運命に翻弄されたのかを想う。階級の実体なき名誉、貧しさ、・・いや透けて見えるのはやはり、男性社会のエゴイズムに犠牲とされたすがたでもあるだろう。

 だが、ブレッソンの描いた「田舎司祭の日記」や「ジャンヌ・ダルク裁判」に共通する真摯な人間の水晶のような美しさは、ナスターシャ・キンスキーのテスによって、それは単なる悲劇ではなく。イエスの生涯が単なる悲劇ではないのと同じように。・・誰の一生にも、たとえどんなに短い一生でも、なんらかの奇蹟があるような思いがするものだ。

上映時間 171分  フランス/イギリス   公開 1980
監督: ロマン・ポランスキー
原作: トーマス・ハーディ
脚本: ジェラール・ブラッシュ ロマン・ポランスキー ジョン・ブラウンジョン
撮影: ギスラン・クロケ ジェフリー・アンスワース
音楽: フィリップ・サルド
出演: ナスターシャ・キンスキー ピーター・ファース リー・ローソン
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by past_light | 2007-03-02 02:44 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)