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キテレツがけっぷちニュース
がけっぷち犬に飼い主
・・・・・・抽選には県内外から11人が参加。救出現場近くで保護され、顔つきや毛の色がよく似ているため姉か妹とみられている雌犬の引き取り手も募集したが、希望者は現れなかった。・・・」!!!??
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007012801000336.html
どうして?、、11人の愛犬家のみなさん、おしえてほしい。

(修正)
・・・・抽選には漏れたが、別の子犬を引き取った。「当たらなかったのは残念だけど、犬と生活する楽しさを思い出させてくれた『崖っぷち犬』には感謝しています」と笑顔を見せた。・・
http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000000701290003
という方も、なかには居たそうだ。
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by past_light | 2007-01-29 02:28 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)
愛情があっての上なら、という納得
 ニュースのサイトの特集記事に「体罰」についてとあり、賛成、反対、いや曖昧、また体罰の一線を公的に決めてほしい、と意見は入り乱れている感じだ。
 しかし気になるのは一見正論のように聞こえるこういう言葉だ。「(体罰は)愛情を持った範囲で。先生と生徒の信頼関係によってどこまで許されるのか。愛情があっての上なら、少なくとも私は自分の子供にはするし、それは教師と生徒の間でも同じだと思う」という意見。
 これはたしかに常識的、普通に分かりやすいと思う。しかしよく考えれば「愛のある」というのもまた主観的なことになりやすい。「しつけ」と称して無自覚に虐待は多く存在するはずだ。もちろんそういうことはわかった上で、「愛情があっての上なら、」「愛のある」「愛ゆえの鞭」ということを伝えたいのだろうと思う。が、はたしてこれはそれほど単純に普遍的に通用することだろうか、疑問だ。

 美しく聞こえる言葉のなかに、なにか気をつけないといけない匂い、感じがする。自己正当化、自己愛が潜んでいるような気がする。もしそういうことに敏感で警戒する繊細さのある人は、こういう言葉を使うだろうかと、考えてみたくなる。
 また前もって「私は愛があるから・・」と意識的に思っていたりしたら、とんでもない勘違いかもしれない。そして「愛のある叱り方」は、果たして用意周到に訓練され、また方式として成り立ちうるだろうか。むしろ「愛のある体罰はよい」などという納得をしているとしたら、その状態の精神に「愛」は自然と到来するのだろうか。
 あえていうなら、現場でやむに止まれぬ気持ちからの叱責、という爆発力が、当事者の子供に伝わることで、両者の関係に無垢な静寂の瞬間が訪れ、その意図されず生まれる現場の真空ともいうべきものが、関係に共に変化を起こすのではないか。
 なにか「愛があれば・・」やたとえば「美しい国に・・」などといった「観念」を、先に持ってこざるを得ないという精神の、ある貧困さを感じる。
「愛のある・・ならよい」という言葉は、どうにもショートカットな人格から発せられるものだと感じる。

 体罰は子供の頃、小学生の頃にはぼくもよく経験している。
 よくビンタを繰り出した怖い先生が担任だったことがある。相当痛い衝撃的な一撃だったから、みんなビンタの順番を震えながら身じろぎもできずに待っていたことがよくあった。それはある意味、その先生の個性でもあった。先生が許せない部類の悪戯や態度は、烈火のごとくの怒鳴り声と、授業中ならたとえば廊下に出された。さらにレベルアップした怒りはビンタだった。今では先生たちができずに苦労していることかもしれない。しかしたとえ許されたとしても、先生の誰もができることではない。女の先生なら、また、愛があろうが、いずれ暴力であるには違いない行為をけしてできない先生もいるだろう。

 それはやはり言うなら個性である。小学生の僕らも、その先生の「個性」としてどこか納得していたところがあったと思う。ある悪戯なり、遊んでいて意図はなくとも教室の公共物を壊したとする。ぼくらはどうして壊したかを再現させられ、次に1列に並ばされ、衝撃的なビンタの順番を待つことになる。この経験はある意味では収容所で味わった収容者たちの千分の一、万分の一かもしれないが、その恐怖に匹敵すると思う。それは後には想像力とも関係する。納得できることなら、恐怖や痛みを理解するに一度経験するのも無駄ではない。だからといって、「経験した方がよい」と言えないのは当然で、「方式」「決り事」として、有効に機能するものと思ってしまうと、それはまたショートカットということになるのだと思う。
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by past_light | 2007-01-24 02:30 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(10)
決めない、やさしさ
 がばいばあちゃんつづきから、、豆腐売りのオジサンの話があって、いつも洋七少年は、ばあちゃんに言われて、角の欠けた豆腐を買っていたそうだ。なぜならいわゆる半額、当時10円の豆腐が角が欠けていると5円で買えたそうだ。
 しかしその日は角の欠けた豆腐はなくなっていて、10円の豆腐ひとつだけしか残っていなかった。洋七少年はばあちゃんに知らせようとしたが、制止されて振り返り、その豆腐をふたたび見ると角が欠けていた。豆腐屋のオジサンは「ばあちゃんにはいうな」と言ったそうだ。
 「人に気づかれないのが本当の優しさ、本当の親切」というばあちゃん語録は、そうして洋七少年のこころにふかく染み入って生きた教えになったんだろう。

 作家、脚本家の山田太一さんのエッセイの後書きだったかにあった話で、戦後の食料不足の日々のなか、まだ少年だった太一くんは妹と闇米を買いに行った使いの帰りの列車途上のこと、途中列車は急に止まり、みんなが恐れていた検閲が入った。乗客は外に出され整列させられ一人一人のチェックがはじまった。

 だんだんと近づくこわい制服を着た人たちに、どうしようと、内心おそろしくてしかたなかった。一番近くにいたひとりの制服の人が、太一少年たちを見てなにか感じたのだろう。「そちらはどうか」と向こうから声がしたが、その人は「こちらはなにもないです」と、太一少年たちを見逃してくれたのだという。
 ディティールは原文と違うと思うが、だいたいそんな話で、山田さんは、その時のことを思い出して、どのような時勢のなかにも、画一化された人間ばかりではなく、そういう人がいることが「救い」である。と言うような話を書いていた。

 それは「夜と霧」で著者が、・・・「悪」と「善」というグループ(たとえば国家)が存在するわけではない。どのグループにも、おなじ状況の中で、通りすがりに思いやりのある言葉をかけることのできた人間がいた。・・・という話をも思い出させた。

 たとえば人と人が関係する社会にとって、なにもかもを「決り事」だから、、と、定規できっちりと切って計るような主体性のない感性とは、これは別次元の、人間にとって重大な感受性で、そのことの衰退はもっともおそるべきことなのかもしれない。
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by past_light | 2007-01-22 19:22 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)
がばいばあちゃん語録
 知らなくてなんだか損をした気分だが、「けさ江ばあちゃん」に勝るとも劣らない(というのは嫌な表現だから、そういうバカな表現がバカに思えるというか)、まあ愛の体現者が「がばいばあちゃん」だ。(がばい、はすごいと言う意味)それにばあちゃんの笑い顔の写真もうつくしい。
 しかし最近を見渡して、跳びつきたくなるような、魅力的なばあちゃんというのはやはり明治生まれあたりの女性でおわりなのだろうか。最近は老人がなかなか明るい話題で目立つ話がないが、それはじいちゃんでもおなじなんだろう。

 「佐賀のがばいばあちゃん」として原作者、コメディアンの島田洋七さんの、「おさのばあちゃん」の話をテレビでやっていて、途中からで残念だったが、それでもばあちゃんの残した言葉には目を見張った。残念ついででドラマも映画も見逃している。
 その洋七氏のばあちゃんについてのトークを聞いていて、このばあちゃんは仏教の真髄みたいなものをたぶん人生から導きだしたんじゃないかと、拙速で軽薄な表現とは承知しつつ思わずにはいられなかった。

 正確な言葉の記憶ではないが、「夢はあきらめるな。たとえ夢がかなわなくても、夢を持て。人生は所詮、夢なんじゃけん」
 これは深い。と思った。それでびっくりもした。

 このばあちゃんの言葉は洋七さんにとっては宝の山だっただろう。子供の頃はともあれ、今となって、ばあちゃんの言葉が話になり物語になり、漫画になり、映画になり、あらためて、ばあちゃんの言葉に助けられ導かれして生きてこれたという実感があるんだろう。

 上流から捨てられて流れてくる野菜を拾って、「川は、うちのスーパーマーケット」と笑うばあちゃんは、「うちは明るい貧乏やけん、よかと。しかも先祖代々、貧乏だから自信ば持て」と、まるで苦労から笑いを培ったかのよう。

 ばあちゃん語録には他にもたくさんあって、知っている人にはもっと教えて頂きたいが、とりいそぎ金言を映画のサイトから抜粋して・・。

「拾うものはあっても、捨てるものはなか」

「悲しい話は夜するな。どんなにつらい話も、昼したら大したことない」

「人がこけたら笑え。自分がこけたらもっと笑え。人はみんなこっけいだから。」

「今のうちに貧乏しておけ!金持ちになったら、旅行へ行ったり、寿司食ったり、着物を仕立てたり、忙しか。」

 ともあれ、智慧、知性、ハート、とかは、学歴とか試験じゃ、どうやったって浮き出てこないわけです。
映画のサイトは今月で終りだそうなので、ぼくと同じように御存じなかった方は下記から御覧ください。
佐賀のがばいばあちゃん
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by past_light | 2007-01-21 20:52 | ■Column Past Light | Trackback(1) | Comments(0)
社長サン
 ■雪印の後追いが生まれてしまった。不二屋のニュースは連日、次から次へと過去のことが浮き出てきて、まるで、あの頃の焼き直された話題を見ているようだ。

 最初の話題は「1日だけ消費期限を過ぎた牛乳」を使用することを容認するような現場が常識化していたようなことだったが、その後、なんだか毎日のように今までのことが、ぼろぼろと暴露されて行く。果ては昨日のニュースでは何年か前にパートしていた女性が、現場の様子を細かく告白していた。一つはどうして今頃、と思う気持ちもあるが、確かにその現場で働く人が、おかしいと思っても「そういうものなのか」と思ってしまうところもあるだろう。
 短期に勤めるアルバイトやパートさんは、常勤している上司の言われることをやるのが仕事で、事実上、外で、内部のことを外部に漏らすのは禁じられている。
 そういうことで、現場を知っている人は知ってしまったところの「食べ物」を買うのをためらいがちになる(笑)。実は、そういうことは昔から聞いたことのある話なのだ。

 「期限を1日過ぎた牛乳」というのは、けっこう多くの人が匂いを嗅いだりして、いちおう確認しては大丈夫と飲んだ経験がある人も多いだろう。企業がこれをやるのはやはりいけないことだろうが、もったいないという気持ちがあったと思えば少しだけ同情したくもなる。が、その後に出てくるニュースは、ちよっと度を越し過ぎているようになってしまって、農水省を訪れて叱られている「社長」の思いつめた泣き顔のような真っ赤な顔が、やるせない。

 少人数の小さな会社の社長はけっこう威張っていて、ワンマンな人が多い感じだが、規模が大きくなればなるほど、社長は末端の現場のことは知らないで済んでしまうことも多いだろう。
 むかしある大手のスーパでパートをした経験から言うと、その売場の部門ではその売場のリーダー格の人がだいたいなんでも取り仕切って、そこでなにはともあれ完結してしまうから、なかなかそこの現場のリアルさを、上の階層のトップまでさかのぼり伝わりして理解することなどができないと感じる。
 そういうことでいえば、企業はでかくなればなるほど、いつか取り返しのつかないところまで、現場の常識化した問題の部分のところが放置されていることはあるだろう。

 大きな企業の社長さんは、こういうとき、以前から見ているととても偉く見えない。
じつは、成りたくて成られた社長さんは、ホントはどれほどいらっしゃることだろう・・と思ったりする。

****************
■以下は2002年3月のダイアリーより。「おてつき」
 玄関を開けると尋ね人ひとり。雪印の販売店の人。「貰って頂くだけでいいです」と牛乳やヨーグルト一式をくれる。「ありがとうございました」と彼は帰っていった。
  あとで家人が隣近所に聞いたら近所では貰わずに断ったという。
 そういえば配達店の人は、家の玄関に到達するまでの短い間、ハミングするかのような鼻歌を歌っていたのが窓の外から聴こえていたのだった。
 それはやけくそなのか悲しみなのか・・、その抱えた心の傷と諦めの飽和し行き着いた極地からの、反動的な躁状態からのソプラノだったのだろうと、あとで思えばあきらかに洞察されるのだ。

  家は牛乳を配達してもらった経験がないが、むかし新聞配達のバイトをやっていた時、毎朝牛乳配達の人とは時折出くわしていたこともある。少しだけはその配達店の人の側の気持ちに寄り添える。
 世間を騒がせて止むことのなくなってしまった食品関係の企業体質。もっとも苦悩を現実として浴びせかけられているのは、昔同様、日々配達したり集金したりしているその人たちではないだろうか。
 別段日頃、ブランドプライドなどというものに意識を置いたことはないだろう配達員ではあるが、毎日届ける食品の中身が今日それほど疑われるという経験は初めてだろう。

 しかしその会社における出来事は、その会社だけにやはり留まらなくなりそうだ。
 やみくもな商業至上主義に飲み込まれた人間の精神が、やがて辿り着く怪物の姿をしたその場所が現れて来ただけだ。
 日本の会社、政治家の人、国を、いや国といわず世界を滅ぼそうとするのは、人の内部から出て来るその腐臭の在処だとは、いまだ思えないですか。
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by past_light | 2007-01-18 20:18 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(6)
ストーブの前で
 ニュース23の筑紫さんは、最近、環境への懸念がいよいよ強くなっているように感じる。
 ゴア前副大統領。ブッシュにわけのわからない負けを喫したひとだが、最近このひとの、環境の破壊のいまだ深刻になる地球の記録の映画などが話題になっていた。が、そのゴア氏の来日しての番組出演が明日だということもあろうけれど、それにしてもだいぶ前から天気予報の際などにでも「おかしい、おかしい」をよく口にしていて、そしていよいよ最近腰を据え声をより大にして話し始めたみたいだ。

 今日のネットのニュースにあったが、あるチェーンスーパーの、杉並にある一店で、レジ袋の有料化を実験的に始めたというニュースがあった。そのスーパーのひとつはわりと近所なのでよく行くスーパーだ。それに「マイぶくろ」を持参してポイントを2円ほどよけいに貰えるところだ。(笑)
 レジ袋もあれだが、いろいろ個人のできることはささやかであろうけれど、要は意識の変化は個人から始まり、百匹目の猿のごとくに常識化して行くのをぼくらは歴史上も知っているから、じわじわとしたムードとはいっても侮れないのである。
 ニュースの街角のインタビューでも、環境への関心が、その街角の人たちの反応がけっこう大きく感じるのも、政治家なんかがのちのち慌てそうな予感さえ感じた。

b0019960_247491.jpg だいぶむかしのことだけど、友人が「いったんできている生活を落とすのはたいへんだ」というようなことを言っていて、それはたしかに(たいしてできていないが)わかるし、うなづくことだった。でも何か釈然とはしなかったことばだ。

 ともかく今になっては、白黒まっぷたつ、みたいに環境大事派と成長大事派みたいな議論をしていれば時代遅れだろう。いや時代遅れではなくて、もうすでに的外れかもしれない。二十年ほど前にはそういう場面はぼくらのまわりでもよくあったが、いまはなんだか切迫感がちがう。

 「じゃ、日本から出て行けば。電気も使わず、車にものらず・・、」とはなしの相手を責め立てていた人もいたが、今思うと、意味は違うが、「じゃあ、イラクをほっといていいのか」と戦争を心配する人を責め立てていた場面によく似ていたとおもう。

 ともあれ、個人でもじつはそれ相当に考え直したり、いらないこととか、ちょっとがまんして・・とか、できないことではないことはたくさんありそうだと思う。
 ぼくは車を運転しないから、運転する人が、好きな人が、ドライブを我慢することがたいへんだろうとしか想像できないが、当事者たちが日常、意識的に必要以上に使わないようにするのはかなり大きなムーブメントを作ると思うんだが、どうか。
 そういえば、オランダだったか、自転車が優遇されている。日本はちよっと買い物に出て街に止めるにしても、最近は有料の場所ばかりになりつつある。利用者のマナーとかいろいろいわれるが、そのこと以前に、スペースがないのはどちらのせいだろう。これはどこかおかしい。歩ける距離と自転車の距離とそれからやむえず車・・と順序はなるはず。

 また生活の慣れというのもなかなかこわいものだ。
 もう死んでしまった猫たちの冬のくらしのひとこまを思い出して。
 家でストーブの前で、毛があっちちちっ、、というほど温ったまっていたベッキー。
 ひっくり返って寝ていたチャマ。

 そして、一度もストーブの前など知らずに生きている今日の野良たちをも思った。
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by past_light | 2007-01-16 02:48 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
「猫の駅長さん」のニュース映像
「猫の駅長さん」のニュース映像が紹介されています。↓下記アドレス
★猫の駅長、ニュースビデオ
「出会ったときにすごいと思った。なんかパワーを感じたんです。」
とは任命者の言・・。(笑)
いやあ、元気でおしゃべりな三毛の駅長です。
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by past_light | 2007-01-11 02:19 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)
「屋根の下で暮らす権利」
仏政府、「屋根の下で暮らす権利」法案提出へ
・・シラク大統領は5日、「繁栄のそばに極度の貧困がある現実と戦うために居住権を基本的な権利に据える必要がある」と演説。ドビルパン首相はこれに先だち、ホームレスや母子家庭は08年、一般国民は12年から、人間的な生活が営める住宅にアクセスできなければ、裁判所が、国や自治体に住居の提供を命じることができる法案を、近く提出する方針を発表した。・・・

基本的人権、ということばが昔ありました。
明日は我が身とならないと、なかなか、ひとごとなんですよね。
ぜひ日本でも憲法改正とかヒステリーに考える前におねがいしたい。
これこそほんとの改革でしょうし。
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by past_light | 2007-01-09 01:31 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(4)
猫の駅長誕生
★「ネコの駅長が客招き 和歌山電鉄、無人駅で」
2007年01月05日 17:55 【共同通信】
・・・和歌山市と隣接する紀の川市を結ぶローカル線「和歌山電鉄貴志川線」の無人駅「貴志駅」に5日、“ネコの駅長”が誕生し任命式が行われた。
 新駅長は雌の三毛猫「たま」7歳。・・・
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by past_light | 2007-01-07 02:51 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)
おせち酸味一体
 おはずかしい次第で御報告するのもなんですが、今年も新年恒例の風邪ををひきました。それでも今日は、ちょいちょいと仕事らしきこともしていましたが、げんなりな脱力感があります(笑)。脱力はリラックスの形容詞のひとつだからまあよしとして。
 脱力といえば、昨夜「おでんくん」が連続して放映されていたのを、うつらうつらとながめていたら、ものすごい脱力系なアニメで、「リアル」という概念を考え直してみていたが、そんなことを「三位一体」的に考えつづけられるほど魂とのコンタクトがとれていない。そこで、更新記事にサイトのダイアリーのずいぶん前の記事を温故知新ということで・・。

************
 ■これまた若い頃の話でなんですが、バイトで新聞配達をやっていたけど、その頃は東京も、もっと寒かった。その年の元旦、大雪になったことがある。

 元旦の朝刊は御存じのように分厚くッテ、しかも広告の量も半端ではない。だから一度には自転車に詰め込み乗せることができません。それで配達の途上にある地点に、先に車で新聞の山半分を置いておいてくれるのですが、この日の大雪はすっかり道路を深く覆ってしまって、さながら八甲田山の前進のようでした。
 しかもこんな日には役に立たない自転車だけど、新聞運ぶには必要ですから押して歩くことになります。だからとんでもなく時間がかかりました。今も新聞配達の学生とか見るとふと思い出します。 でも、こういう仕事をやっている時というのは、なかなか病気で寝込むということがありませんでしたね。身体は丈夫になります。規則正しく生活し、学校へ通い、出されたものは何でも食べる(笑)。今はその頃と較べると、でれでれの正月ですねぇ。

 当時は新聞も牛乳も配達する人に女性はほとんど見ることはありませんでしたが、最近はかなり女性の数が増えているようですね。ぼくのその頃は、物凄い体格の女子プロの人かという女性が牛乳配達をバイクでやっていました。一度もお話らしきものはできませんでしたが、なんとなく出会えば気持ちで挨拶はしていました。
 朝早い時間というのは、深夜のお仕事帰りの化粧の厚い方もよく出会いました。ある日、背後からいきなり数人にからかわれたのですが、よくみたら、男性の女装でしたね。いわゆる今は明るく、テレビで、おばさまよりオバサンパワーを感じさせる楽しい人が多いですが、当時は、ぼくとしては珍しくてびっくりしてました。
 けたたましいその笑い声は、朝の殺風景な街に、なかなか無気味で印象的で、さながら映画のワンシーンのように脳裏に残っています。 その日からその後は、なるべく方々と出会わないように調整してましたけれどね・・。

 ■ところで、おせち料理というのはかなり塩分の強いものが多いですよね。そのせいかどうかはわからないのですが、お正月は街で喧嘩風景をよく見る時期でもあります。まあ、殴り合いというのはそう見ませんが、言い争いは必ずといっていいほどのお正月の風物詩です(笑)。
 大広間のあるお蕎麦屋さんで、のんびりお蕎麦を食べてG大寺麦酒を飲んで、なかなかの気分で帰路につきましたが、途中、ディスカウントショップに立ち寄ったら、店の前で赤ん坊を抱いた母親と父親ふたりが、彼らの車に自転車かなんかが傷をつけたかどうか、また、それをちゃんと謝らない、などとというようなことで、相手の高校生ぐらいの男の子をえらい剣幕で怒鳴っていました。
 しかし、もっとも気の毒なのは母親に抱かれた赤ん坊・・、父親はパンチパーマ風でさもありなんですが、母親がまた、胸に抱いた驚いている泣く子をものともせず、かん高い怒鳴り声で高校生を罵倒しています。こいつは感心できる夫婦には見えなかったですね。それに日本人というのは車の傷に異常に神経質です。ただでさえ狭い日本の道路をピカピカのまま走りたいというのは少し贅沢すぎないでしょうか。また、お正月、車を運転する人もどうも荒っぽい感じがします。横断歩道を渡る歩行者に不親切なところもあります。平気で横断歩道を塞いだり・・。 

 喧嘩の話に戻すと、家族の言い争いなども、この時期けっこう多いような気もします。やはり、おせちの塩分にも原因があるのか。それとも、のんびりしちゃうと、なんだか喧嘩でもしたくなるのか。物理的な空間の一人の持ち分が狭くなると、心理的にもなんとなくストレスというのは増えやすいような気もします。家族もあまり密着し過ぎる時間が長すぎると息苦しくなるものがあったりしますよね。人間のわがままって、幸福(そうな)ところからもわりと生まれやすいのかもしれません。
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by past_light | 2007-01-04 19:15 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)