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劇場型病理
 藤原智美という人のブログみたいなサイトがあったので、覗いてみた。
 そこにパトリス・ルコントの「仕立屋の恋」の、雑誌に掲載されたらしいレビュー記事があって、読んでみた。

 レビューの最後の方に

 『イールが恋人に殺人犯の汚名をきせられるラストシーンの「君を恨んではいない。ただせつないだけだ」というセリフが、ひどく哀れでグッと胸がつまった。』

 とあって、そうでした、そうでした・・。と共感して読んでいたら、次に、

 『「場内が明るくなり帰る段になって、後ろの席から若い女の声が聞こえた。「ヤーだ、あのハゲ(イール役のミシェル・ブラン)、夢に見そう」 唖然とした。そして近頃の若い女の感性というのは、みんなそうしたものなのだろうかとおもった。だとすれば、それこそ病気ではないか。まったく「病」というのは、どこにでもあるものだ。現代病理学のネタはつきない。』(http://www.fujiwara-t.net/mv001.html)

 とあって、これもぼくもまったく同じような経験があって思い出した。
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 二十歳ぐらいの時に、かの有名なヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランド主演の「欲望という名の電車」の上映が終り、感動に震えながら劇場の階段を、場を共有した集団と降りていたときに、一人の女の声が聴こえた。「な〜にぃ、あの、キチガイ女ぁ」。ぼくもこれには唖然とした。

 「近頃の若い女」というわけでもないと教えたくなった。

 映画のなかのビビアン・リーの演じた哀しさ痛々しさは胸に迫る力があった。ぼくが感動に打ち震えたのは、ラストに近いシーンでの、映画の主題が凝縮されたような彼女のセリフだった。

 病院からの迎えが来て彼女を力づくで連行しようとする。そういった粗暴さをなによりもっとも怖れる彼女は必死に抵抗する。が、後に控えていた一人の男が歩み寄り、無理矢理連行しようとする男達を制止し、紳士的に彼女に接する。彼女は涙にぬれた眼を拭いながら、紳士の差出した腕につかまる。・・・

 「わたしは、人の親切だけを頼りに生きて来ましたの」

 さてさて、確かにだ。人間の社会の病理とはいったいなんだろう。
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by past_light | 2006-11-30 02:47 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
闇と気配
 テレビをつけたら中沢新一さんが日本庭園であぐらかいて話していたので、ちよっと聞いていたら、ほどなく番組はさっさと終了してしまった。つづけて『視点・論点「闇との対話」』という番組が始まったのでそのまま観ていたら、読んだことはないが芥川賞作家という藤原智美という人が、なんだか漆黒の暗闇に演出された施設にて、視覚を頼らない体験する、という経験からを話していて、なかなかおもしろかった。
 今のように二十四時間明るい光のなかで暮らしている現代を、つい当たり前のようにしてはいるが、しかし考えてみれば、月明りにのみ頼るような夜の闇、その暗い静かな夜、じつは人間の暮しの歴史の時間としては、その時間のほうがまだまだ長かったのだという。思えば急激な変化である。

 その施設の闇の中には、駅のホームとか森の公園やバーまで設置されていて、手探りというかなんというか、みんながそれぞれ持つものは白い杖だけ。それでともかく何人かのグループで連れ立って歩いて行くのだそうだ。バーにある冷蔵庫のなかの照明まで外されていて、ずいぶん厳重にその「闇」が守られているという。
 グループの中には視覚に障害を持つ人もいて、藤原智美さんは駅のホームに落ちそうな寸でのところで手を掴まれて助かったそうだ。やはり視覚を遮断されたときの聴覚、嗅覚や触覚の力を感じると言う。終ってみると、初対面の同行者たちとなんだか連帯感のような、親しみのようなものが湧いていたのだという。

 そういった経験の中の話もあれだけど、興味深いのは、その暗闇の施設での体験を終えた後にグループで語り合ったときに訊いた、その仲間のなかのひとりの視覚障害者の人の話。

 駅のホームなどで、昔は人の気配で場の感覚をつかめたものだが、今はどうも「人の気配がしない」というのだ。それで困るという。
 たくさんいるはずの人の気配がしないって、どういうことだろう・・と身を乗り出したが、藤原智美さんも、最初はやはり気を配ってくれる人が少なくなった、という意味になるんだろうかと思ったそうだ。しかし実は、人が気配を自ずから消している。ということではないか、ということに行き着いたそうだ。

 いたる人が携帯の画面に集中し、またヘッドフォンの耳の音の中に埋もれ閉ざしていて、その人の気配を消している。そういう現代の日常の場面、視覚障害者の人のひとつの頼りでもあった「人の気配」を感じとること、それが難しくなったということに、言われてみれば、視覚に障害はなくても,思い当たることは少なくないかもしれない。
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by past_light | 2006-11-29 02:11 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(2)
ボウリング・フォー・コロンバイン
 このドキュメンタリー映画について、映画の内容については他の人のブログを読んでいると、ほぼ書くことがなくなるので、感じたことを書いてみたい。

 語られる話は深刻だし、リアルで頭を抱えたくなるしろものなのに、なんてエンターテーメントとして成立しているんだろうか。それにまず、マイケル・ムーアという個性に脱帽する。
 しかし、それが糾弾されている国そのものの個性、アメリカらしいスピーディでテンポのよい進行で、挿入されるアニメも効果的に彩る演出。なんとも観ていて正直言っておもしろい。それが不謹慎に思われると、どこかで自分の心の良心という条件付けに引っ掛って人はあわてるかもしれない。
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 突撃インタビューというと、遠慮なしにずけずけ無骨で無神経に・・、と先入観を抱きやすい。しかしムーアは、あのファーストフード中毒がもたらしたとしか思えないアメリカ的な風ぼうで、実に繊細で気持ちのやさしい、やさしい対応をする人だった。

 しかしいわゆるドキュメントされているアメリカの姿は、ある世界が行き着く先をすでに象徴的に見せているんだろうし、それは日本のここ何年かをみても加速しているものかもしれない。

 惨劇の状況を伝える映像なども、僕らは凍り付いて観ているわけだろう。それには、映画監督のルイス・ブニュエルが、ずいぶん昔に言った言葉も思い出された。
「過去シュールレアリスムは、最も過激な芸術運動であった。・・しかし今日では社会そのものが過激になり、芸術の解説に暴力を使うのは、あまり効果のないことになった」

(ボウリング・フォー・コロンバイン2002年・カナダ)
映画のオフィシャルサイト→http://www.gaga.ne.jp/bowling/
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by past_light | 2006-11-27 18:46 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
イジメ、我がこと
 我がこととして思い出せば、ぼくにもいじめ、いじめられという経験がある。ニュースの記事を読んでいると、これほどではなかったか、と思いはするが、それでもぼくも高校生の時には二、三日登校を拒んだ記憶がある。

 主に複数のグループ化した同級生からの、プロレスごっこから、それが悪質化したような肉体的なイジメだった。科目ごとの休み時間になると、その短い休み時間は休む時間ではなく、クラスの数人のうちの誰かが連中の餌食にされる時間だった。
 身体では勝てないのは判り切っていたが、ぼくもたまらず時には感情が爆発して反抗した。しかし判る人は判るが、それは連中の遊びの火に油を注ぐことになることだった。とはいえ、悪質な遊びとはいえ怪我をするほどのものではなく、プロレスごっこのパンチやケリ、首ジメなどが連中の楽しみだったのだ。ぼくは特に狙われていた方で、その学年での一年は結構なストレスを溜めていたと思う。
 ニュースにある経験者たちの記事を読んでいると、思うのはやはり傷つき長く残る「屈辱感」の辛さなのだろうと感じる。友人は巻き添えになることが恐くて無視するだろう。それを恨むかというと、たぶん多くの経験者は自分も彼らの側だったらどうか、と仕方なく許容する気持ちもある。教師や親には恥ずかしいから「その程度」のことで言う気にはなれない。ある朝なんとなく仮病を使って学校を休む。次の日もふりをする。しかしいつまでもそうしているわけにもいかず、やがて登校する決心をする。そんなことが一度だけあった。行けばまた同じことがくり返されるが、ともかく一年の時間を耐える。
 その頃を思い出せば、そのことはある女生徒が担任の教師に報告していたらしく、呼ばれて聞かれたことがある。「・・たちからイジメラれていると聞いた」と言われたが、ぼくはなんと答えたかを覚えていない。ただ女生徒たちにそのように見られていることの屈辱感の方が先にあったのかもしれない。注意をするとしても、担任の教師は連中から面と向いバカにされていた。教師も屈辱感を感じている一人だったのだ。担任ができたことは学年が変わり、彼らのグループを分散させたり、ぼくとクラスを同じにしないという配慮だった。

 経験が導いたのかどうかわからないが、引っ越す前の町の中学時代の友人に、ぼくは卒業も間近の頃、一時間ほどの電車に乗り会いに行った。彼は最初、戸惑いを見せた。

 二人で外を歩き、ぼくは過去のことを謝った。誤解がないように説明しておくと、別にいじめた記憶はない。その友だちとは最初仲がよかったが、なんとなく互いの行き違いから疎遠になって行った。そしてなんとなく嫌なことを言ったりした記憶がある。彼は仕返しに学年が変わりクラスが変わるとお返しのようなコトバをぼくに言ったことはある。ぼくはその頃、家庭の事情で引っ越しなどが予定されていた頃だった。いろいろ鬱屈した感情があった。そしてぼくにもいわば邪悪なヘビがいたのだ。ぼくは彼より優位に立つように振る舞っていたことは事実で、その友だちには嫌な思いをさせたことはわかっていた。しかしそんなはけ口にされたと思う友だちに、なぜかある日、率直に謝りたいと思い立ったのだ。

 友だちは「ぼくもわるかった」と言ってくれた。それから卒業までの間、ぼくらはなんどか会って、いろいろ語り合った。

 ぼくはあの時に謝りに行ってほんとうによかったと今でも思う。
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by past_light | 2006-11-23 18:51 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(6)
イジメについて考えてみる
 昨夜の藤原さんのトークを読んでいると、電車で会ったその子供の「泣き声」がなんとも無気味だ。
 「くるしいけど、しかたない」
 このコトバに戦慄を覚えないおとなは、精神になんらかの麻痺が生じていると思う。こんなコトバを小学生が吐くとは。
 数年前に映画「リリィシュシュのすべて」の感想を書いたころには、映画の中の世界だと思いたい気持ちにさせた世界が、日々のニュースの奥からどうにもおなじ匂いを発していると感じてならない。

 夜遅く、帰路のためだと思う小さな小学生が街を歩いて行く姿はぼくも目にしたことがある。それでもぼくは夜に出歩くのは稀な方なので、たぶんそれも日常的な光景なのだろう。

 藤原さんは、携帯や塾についての厳しいがある意味正当に思われる意見を書いている。それからいつからか携帯のゲーム機が出てからというものの、子供たちには外界、自然との接触がさらにどんどんと希薄になっているのではないか。塾と携帯の画面。一日が閉じられた人工の四角い壁の中のようだ。こちらを見る「目が泳ぐ」ような子供たち、これは確か存在するし、考えてみれば大人にさえ見られるだろう。

 もう十年ほど前だが、知り合った三十代はじめの男性に、なにか手ごたえのない、会話していても相手に対しての温度のある気配、反応、関心などを示さない人が居た。けして悪人でもなくどちらかといえば善人の部類に思う。学業的には優等生で、そしてやがて社会にほうり出され、あきらかにどこか精神は、人との関係的には、無機質的で上の空だと感じられた。彼が稀に語った自らの過去も、受験競争のなかでどれほど自分を消しさっていたかを物語っていた。その物語は、どこか家庭や社会への恨みの感情が昇華されない未熟なマグマとして内部に眠っているような感じを持たせた。

 近くの公園でサッカー教室にたくさんの子供がいる光景を目にはする。が、常に母親のグループが金網の外で見守り、お喋りして、好意的にいえば 子供たちを保護している。
 一定の余裕が家庭にない子供にはたいへんな日本の社会だろう。塾も習い事も、家庭が生活に汲々としているならとてもそこに加わることのできない子供がいることだろう。

 「イジメ」の中には「テロ」へ通じる鬱屈した澱んだ念があるように感じるのは妄想ではないだろう。ネコを虐待して殺した写真を得意げにネットに載せていた男が告発された話があったが、その不快さもさることながら、そのような壊れてある人間の何かが、その無感情な行為からさらに人への危害への発展はよく考えられることだ。

b0019960_322980.jpg いじめという構造の中には、はっきりとは双方に意識化されていないながら、自分と異質なもの、ある定数のグループと合い交じいらないもの、そんなレッテルを張られた人が対象として狙われることもある。が、彼、彼女が不在となれば、その対象が今度は内部にまた捜される。いじめる対象を必要とする救いがたき地獄の集団。逆説的には純粋、繊細な個性が迫害に会う場合もあるだろう。映画「リリィシュシュのすべて」にもそういう側面がよく現れていた。

 他者に対する「関心」というなかには複雑な様相がある。嫉妬、羨望、また怖れなどが潜んでいるもの。噂話などの中にはよく見られるだろうし、それは直の相手に対しては形にできないある復讐が込められていたりする。そういう意味では子供も大人もなく経験していることかもしれない。誰しも逃れられないこの社会に宿っている病巣かもしれない。
 「昔からイジメはあった」と言った人がいる。「今のイジメはちがう」という人もいる。むしろ、人は自他を別ける種子を宿して生まれてくる。「自我、そのものが邪悪なのだ」と言った人がいる。「自我の中にあるのではなく、そのものが」。それはべつに飛躍ではない。外界の対象に「わたしのもの」という意識が生まれるのは幼児のある年齢からだろう。それが「わたしだけのもの」という過度に発展した意識に支配された人の集団により今の社会が生まれる。・・というのは半分冗談だろうか。

 イジメ、という中には自我に内在している運動の問題がある。他人事として語られる間は、「洗脳」というキーワードも他人事として片付けられることと同じく、正体は解明されない。「条件付けられる」というコトバなら、何かを崇拝したり信じたりする中に他者と仲良くするのではなく敵対する姿も思い描きやすい。それなら誰しも例外なく踏み込む可能性のある世界と思える。
 未熟で不完全な個人の集合が構成する社会の中に巣くうものは、個の変化と構造の全体の変容なしには根本的には解決できないかもしれない。しかし、大人の世界が変わることができるなら子供の世界が変わる、そのことはもっとも分かりやすいビジョンだ。

 しかし、今日のニュースなどを観ていても、政治家などが、全くその内部、真相を把握せずにスローガンを美しく並べているような気がする話があった。たとえば働くための「派遣」というシステムさえ、システムからの個人への経済的な「イジメ」が入り込んでいないかと思うような話を見ると、「イジメ」を無意識にも当然とするような大人の世界が存在するのは否定しがたいような気がする。が、たしかに昔からそのように個人は「搾取」されてきたと人は言うかもしれない。経験的には、アルバイトの「日払い、日雇い」の発展系と感じるところがあるが、現代は言葉のブランド化によって、未経験者には実際をより見えにくしているだけになっているような気がする。

 格差とかコトバにすることは簡単だが、その実際の、生活のなかにある細部を感じてみなくてはいけない。人と人が和解するために。単純に「格差は悪いことじゃない」と言って退ける政治家など、まったく当てにならない。彼らは力を得る手段として分裂を好んでいる。ぼくらは、勝つことや成長、発展とかには関心があるが、「共に」「慈悲」という場所からもっとも遠い顔になっているようだ。

MSN 毎日ニュースにある記事項目
いじめ:実態認めぬ教師たち 「ママメール」恐れ遠慮も 3:00
いじめ:加害者からの相談も急増 15:00
いじめ:「転校してもいい」 小5が手紙で切々と 3:00
いじめ:傍観した子も心に傷「何もしてあげられなかった」 15:00
 ・・一連のいじめ自殺報道に改めて当時のことを思い出した。「いじめが激しいと、不思議と『生』へのこだわりがなくなり、『死』が身近になってくる。いじめられていることを打ち明けるのは勇気がいる。親や周りに迷惑をかけたくないとか、いじめられていることが恥だという思いが浮かんでくる。けど、やっぱり『言うっきゃない』。僕は自分のために自分ができた一番のことは周りに相談したことだった」

東京新聞「暮らしのニュース」
http://www.tokyo-np.co.jp/kur/
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by past_light | 2006-11-22 02:27 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(0)
藤原新也のTalk、お勧めします。
「いじめという集団の自傷行為」
・・・・
「君、ごめんね。さっき携帯、見えてしまったんだけど、あのゴキブリって何のこと」
 隣の子は一瞬驚いたように眼が泳ぐ。
 「まあいいや、それで君、毎日この時間に家に帰るの?」
 ゲーム機を操作しながら、わずかにうなずく。
 「苦しくない?」
 ちょっと間を置いて意外にも吐露するような小さな泣き声が返ってくる。
 「……くるしいけど、しかたない」
 子供はそのまま、早足で次の駅を降りる。
・・・
「新興宗教と市民」
・・・・
 そしていっかいのただの人間をモンスター化させてしまう小市民的な感性が貴方の中にも眠っていることを、残念ながら貴方の文面からも感じざるを得ません。たぶんそれは私の中にも眠っているはずです。
・・・・

全文は下記リンク。またはこのブログのリンクからどうぞ。

http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php
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by past_light | 2006-11-21 01:58 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(6)
「過去のない男 」アキ・カウリスマキ
 過去がない男にはこれからの未来しかない。誰しもにあたりまえのようだが。

 しかし、実は過去がないように生きることはむずかしいことだ。
過去とは自分への条件づけとして自己イメージの枷にさえなる。が、人は過去に頼り、自らのアイデンティティ、プライドとしていつまでも過去の人生にぶら下がりがちだ。そんな過去を持つことが幸福かどうかはわからないのがなぜかといえば、人生が前にしか進まないせいだ。
老人ホームで、自らの過去のプライドによって、かえって人との間に居場所をなくす人もいるという。
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 コンテナハウスに辛うじて住処を見つけ、救世軍の配給食にホッとする生活であれ、人が生存する際に寄りかかり連帯するのはやはり人であり、小さくみえてもささやかな愛だ。

 男は冒頭から災難により記憶を失う。心電図では死んだはずの男がむっくり立ち上がる。それほどでなくては人は過去から訣別できないのか。過去を失った男は、捨て猫が拾われるように無垢な善意に助けられ、「前にしか進まない」人生を新しく取り戻す。

 救世軍に勤めるイルマの人生は、就寝のための音楽がロックであるように、長きにわたり静かすぎるほどの過去なのだろう。語るべき過去などない。それもまたどうであれ、前にしか進まない人生だ。

 カウリスマキは、ここにお安い感傷はなく、最低限の生活の日々を生きる人々の姿を軽快にすら見せる。ゴミ箱を住処とする友人さえ心配するのはゴミが増え過ぎて寝場所を狭くされることだ。
 カウリスマキはけして絶望を見せない。それは社会の無慈悲なシステムが絶望を強いるからだ。しかし、人はシステムの奴隷、僕ではなく、生を謳歌すべきために生まれた人類だからなのだ。

 さすがに、ブレッソンを思わせる無表情でミニマルな映画スタイルとはいえ、いつもの生活者の心を歌う音楽が彩る独特な世界だ。彼が尊敬すると言うそのブレッソンとの決定的な相違をいうなら、やはりカウリスマキ色に彩られ、野良猫が膝に抱かれて感じるような、じわじわとした内部からの温もりだろう。

Tendernessの「カウリスマキ特集」ページ、kitayajinさんの詳細なレビュー記事は下記にあります。
★カウリスマキ特集ページへリンク
★リンク-kitayajinさんの新作紹介の記事
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by past_light | 2006-11-09 20:44 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
野となれ山となれ
 出たとこ、とか考えたついでに出て来たものが「あとは野となれ山となれ」である。
 それで、よくよくこの言葉を見つめて噛みしめてみれば、意外にそこにあるものは、無責任でも何でもなくて、真意、いわゆる深みに含蓄されてあるのは、自然、森羅万象への信頼、ではないかということだった。

 ぼくは「適当」などというコトバにしても、以前「山田くん」の話でも書いたことがあるけれど、多くの常識的に使われている言葉のなかにも、だんだん意味が変化し、いつか貶められたものがあるんじゃいかとよく思う。
 それからコトバも言ってみればシンボル、記号なので、分脈でいろいろと変化するだろうし、昨今の「イジメ」にしても「苛め、虐める」と漢字にすると、犯罪ひとしく恐ろしくなるんじゃないかと誰かニュースでいっていたが、そうだなあと同感だ。もちろんそれは漢字が読めて含蓄された繊細なメッセージを読み取れなくてはイケナイ話だろう。

 「あとは野となれ山となれ」で注目するのは、あとは、野となれ山となれ、という響きだ。なんだか聖書でお馴染みの「神」が世界を創った日のことを連想するのは無邪気な飛躍かもしれないが。それでも、あまりに野や山を切り崩し、人間に必要以上かもしれない箱や壁をむやみとつくり自然のスペースを横取りし過ぎ、野や山に住むものたちの生存を脅かしているようなニュースだって、それも連想もできる。

b0019960_20512863.jpg 人が己の自我で思い描き、思い通りに行くことにはリミットが存在する。物理的にも人との関係とか非物理的にもである。だいたい日々の事件を見ていると、ゴリ押しして後先考えず目先の利益に盲目的に突き進んだお蔭で他者に重大な迷惑をかけている場合が多いだろう。こういうときも、「あとは野となれ山となれ」と当事者は呟いているのかもしれないが、そういう人種は「虐める」が読めない部類の大人なんだろうと思う。

 先日の瞽女さんの映画の話でいえば、人は野に死んで、野となり山となることが可能ということでもある。「あとは野となれ山となれ」は、じつは精神にスペース、余裕がなくては言えず、シャバの日々の出来事に小突き回され、おたおたじたばたしているのみでは、ほんとはとてもつぶやけない、はるか遠い気持ちの状態なんだろう。しかし逆説的には、じたばたおたおたしていても、順当に人はいのちの終りという幕を降ろさなくちゃならないので、やはり、野となり山となるしかないんじゃないか。

 以前、知人にインドに友人と出かけ、その地では有名といわれる聖者という人のアシュラムを訪ね対面できたという話を帰国した彼から聞いたことがある。
 「どんなことを聞いたの」と尋ねても個人的なことだから詳しく話してくれなかったけど、その聖者の答えは明解だったようだ。

 「わかりました、よろしい。あなたのその重荷をここに置いて帰りなさい。わたしが責任を持って預かります」

 それで結局のところ、相談主が持って帰ってきたかどうかは、他人事じゃないから口が裂けても言えない。
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by past_light | 2006-11-04 20:54 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(5)
オシャマなオジャマオヤジin銀座
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最終日に現れたcon-man(詐欺師)。
一部の熱狂的なファンを勝ち取りました。
「才能をつぶすな」と激励されました。
詐欺、、のでしょうか(笑)。
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by past_light | 2006-11-01 21:23 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)