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「寝ずの番」下品という品格

 何の幸運か、もらったチケットで映画「寝ずの番」を観る。実はあまり銀座とか新宿とかまで出かけて観る気が起きなかったのが最初は事実。だけどネットで調べたら今日から近くの街で上映が始まるので、これ幸いと自転車で夫婦で観に行く。最近アメリカ映画の予告編の大音響と目の回るカット割りのジェットコースター体験がすごく苦手。日頃の眼の疲労からか、たまに見るとホントに眼が回りそうだ(笑)。

b0019960_19145458.jpg 日本は割と「性」を隠された儀式、暮しの影の部分として、表立てず奥ゆかしいのが美徳だった時期が長いように思うけれど、それは江戸時代とかきっと違ったんだろう。
 各国、宗教などの影響とかも大きいのだろうが、反対に現代ではネガティブな過激な現れ方もしてしまう、これがリビドーという由縁なのだろうか。
 で、日本で今はどうかと言うと、かなりなんとなしにアメリカに似ている気がする。毎日うんざりするほど来る迷惑メールは、似たり寄ったりの「性」の安売り詐欺メールだ。これらのメールの文章のなかのコトバに現れている直接的な表現と、映画「寝ずの番」における、芸者遊びらしき(そんな遊びがしてみたくてもそういう世界に住めなかった)歌の掛け合いに現れる直接的な表現とはなぜこうも違うんだ老化・・という、こむずかしいことも考えてみたいけれど、時間がかかるので、とりあえず端折る。とりあえず、ドライとウエット、冷酷と人情ぐらいには違いそうだ。

 それから今はどうか知らないが、ニ、三十年前に読んだ本では、インドで列車に乗っていると、車窓から見える田園の景色のなかに、農作業の途上と思しき夫婦の白昼堂々たる性の営みが見えることがよくあったと言う。
 また反対にトルコの映画で「路」という映画では、夫婦が電車内のトイレだったか、やむにやまれぬ営みを乗客に目撃され、袋だたきにあうシーンなどもあった。

 性の営みなしにぼくもあなたも現世に存在しないのに、なんでぼくら恥ずかしいんだろ。
 ぼくらは恥ずかしいことから生まれて来たんですか?

 それからこの映画には、「死」に対しての非常に積極的、楽天的な態度というものが感じられて好感持てる。これがもうひとつのこの映画の持つ魅力だけど、「性」と「死」はセットとして語られることがゲージツでは常識だ。これも考え出すと長くなるので端折りたい。(汗)

 死後硬直をしているだろう師匠の死体と弟子たちの肩を組んでの「死人のカンカン踊り」を観ていて、つげ義春の同じシーンのまんがのひとコマを思い出した。
 こういうシーン、なぜかぼくは好きだ。・・死は生のなかにあって存在を主張する。もっと馴染むべきものなのかも知れない。

 映画「寝ずの番」は、長年役者としての経験が伊達ではないマキノ雅彦監督の愛情が各所に感じられて、それはとくに各出演者たちの魅力を引き出していて、さすがに自ら役者さんならではの愛情あふれる映画作法。ドラマとしてはテレビサイズだが、たぶんテレビでは放映できないのは挑戦的だ。R15指定というのがすでに笑いがとれる。心配ない、観客席は半世紀を行ったり来たりの人脈だ。
 映画の正攻法の楽しさ。ぼくも子供の頃に父親につれられて観た、森繁さんの「社長シリーズ」の懐かしさなどもあった。

 映画の発端とも言える、死に逝く落語家師匠に、スカートをめくって「おそそ」を魅せる木村佳乃のシーンに、けっこう感動したワタシは現世を半世紀過ぎました。
 下品という文化の伝統の、気高き貴い意味がここにある。

・上映中「寝ずの番」site  http://nezunoban.cocolog-nifty.com/main/

・過去コラム記事★リンク「いつもの天使」-原作者・中島らも-について
♯辞書より・・libido(ラテン) リビドー 〔欲望の意〕フロイトの用語。
精神分析で、人間に生得的に備わっている衝動の原動力となる本能エネルギー。
フロイトは性本能としたが、ユングでは、すべての行動の根底にある心的エネルギーを広くいう語。

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by past_light | 2006-04-30 03:30 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(4)

愛とは消して公開しないこと。

 「愛の偉大さは、常にそのなかに、愛ではないものまでも含んでいるからである」
 誰の言葉だったかは忘れた。たぶんユングかヘンリー・ミラーの本のなかにあったんだろうと思う。

 ずいぶん以前、その頃の友人と話していた時、話の流れからぼくが思い出して言ったその言葉に、そのとき彼はいたく心が動いたらしい。彼は「すごい言葉だね」と言った。

b0019960_2474642.jpg その話の流れの詳細はもちろん忘れているが、彼がその頃勤めていた仕事先で、ともかくなんとかしなくちゃならない事態に遭遇して、それでももはやこれまで・・と思う寸前、パッと事態が開けたことがあって、そんなことは何度もあるわけではないが、そんな時自分の力ではなくて、流れるようにサポートされて物事が展開する一日があるんだなあ、と感じていると言う話だった。
 ほんとはぼくらいつもサポートされているんだろうが、それはいつもこころのノイズによって聞かないでいるぼくらの側の問題でもあるのだろうとも。

 彼と話していて覚えているのは、彼はその頃ホテルで仕事していて、ある日に担当したお客の、いかにも酔っぱらったヤクザという風の客のタクシーの世話をする段になり、さんざん悪態をつかれて、相当ひどいことを言われたりされたということだった。
 心中はたいへんな思いもしていたが、友人はなんとか心荒立てず、仕事上のコトでもあるが、親切に徹してタクシーに送り込んだ。すると酔っぱらったヤクザさんは、別れ際に彼をまじまじと見て、「にいちゃん、わるかったな」と言ったという。

 まあ大げさに言うと、相手への 悪感情などを自らのこころに許さないとでもいうような、まるで修行僧のような気持ちで彼は仕事や日常に取り組んでもいた面があった。それでも「そんなことは完璧に行くわけはない」ということも彼は承知の上でだった。
 いよいよ我慢の終り、いやその日の修行の終りも近くになり、ヤクザ風のお客さんのその言葉を聞いてなにか報われたと思ったと言う。

 「愛の偉大さは、常にそのなかに、愛ではないものまでも含んでいるからである」

 それは、「完全なる善であることは不可能だが、問題や矛盾を抱えたままでも進んでよいのだ」ということ、それがなにかその日、彼にはよくわかることができたのだ、、というそんな話からつながったのだったか・・。

 つまりどうであれ、ぼくらは愛から逃れられない・・ということだ。(笑)
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by past_light | 2006-04-28 02:51 | ■Column Past Light | Trackback(2) | Comments(12)

水と油のExpression

 先日、教育テレビ(と今でも呼ぶ華道家)・・、山田太一さんと風間杜夫さんが対談していた。

  山田さんの語りはなぜか八千草薫さんによく似ているような気がして、こんなにやさしく話す男性は少ないだろう・・などと思いつつ、聞いていると、舞台、演劇、脚本について、自分はかなり「曖昧」に重きを置いているようなおはなし(しかしそれはまたそのやさしさにも山田さんの好感の持てる頑固さは透けて見えるものだ)。
 そしてそれとは正反対に、いつも演出を担当される人は、非常に厳密さ、計算された芝居、完璧さをポリシーとされているようなところがあり、なのになぜかいつも一緒にもういちど、もういちどと舞台をやることになるのだけど、よくまあ続いているものだと感心するようなはなしだった。

 だけど、水と油ほど違うことが、ある意味では幸運で、もしや双方に必要なのか、ということも感じさせられる。自分にないものだから相手にバトンタッチしてみて、それで相手も困り果てるが、うんうんうなりながらなんとか探ってみる。で、それでできつつある世界を山田さんはまたあれこれと思うのだろうかと。それで、おたがい同じ話をまた時を変えて違うかたちでやってみたくなる・・。

 ひとりの人間が、これこれこういう人でこういう過去があり、こんな性格になって、こんな悩みをいま抱えている。・・なんて計ったように表現できるだろうか、それはごう慢ではないか・・。
 もっと人は複雑で、こういうことに悩んでいてこんな問題をかかえている・・ということではなくて、もしかしたらそこにあるのはあるいは違うことなのかも知れないし、その人は思っていることと違うひとかも知れない・・。そういうほうが観客は自分や周りに置き換えたり、またいろいろ想像していいのではないか。というところなどは、ぼくなどあんまり山田さんに感じることも近過ぎて、うんうんと頷きながら聞くことばかり。
 だが、実際のところ、それじゃ観客がわからない・・という現場も理解できないわけでもない。ある意味では実際問題、少数の人に向けた作家映画などでは通用することも、多くの人を対象に考えた演出家の舞台、テレビ、その演出家の理由というものもあるんだろうなあとは思う。

 でもやっぱりそのへんはどこかラインの引けないものであり、どちらが正解かと言えないもので、誠実な人はほらやっぱり曖昧が宿命なんだとふたたび話はもどるのでした。

 風間さんの役者としての経験を付け加えておくと、初日を迎え、稽古の間ではなくて、観客席の観客との関係やら、舞台で演じてしか初めてわからないことも多く、それからやっと理解できたり思い違いに気づいたり、ということで、この人物はこういうひとで・・というコトで括れないからもう少しやってみましょう・・というような話になると演出家も納得してくれるというから、水と油の出会いも楽しいのだろうと思う。
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by past_light | 2006-04-24 19:28 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

妄そうそう♪

 昨夜のニュースでだったか、筑紫さんは脚本家の橋田壽賀子さんでしたか、対談していて、まあふたりともけっこう齢を重ねたひとだから、ついつい現代に苦言が多い。ことにテレビドラマの昨今の様相についての御不満多いことは、聞いていても「わかるけど、感情はいってるなあ」と思って聞いていたら、あとで筑紫さんは「歳とるとつい苦言が多くて反省してます」と言ったので、すごく愛おしかった(笑)。

 でも、言った方がいいです。
 たとえ、ちよっとうるさがれたとしても、言った方がいいです。と思った。

 たとえば音楽、レコード時代なんか、たった数枚のレコードを大事に聞いていて、買う際にも「これだ」と思うものを悩んで厳選したものですが、やがて時代は進みレンタルできるようになり、CDになり、今では携帯プレーヤーも数千曲とか入っちゃうらしいけど、そうすると逆の意味だけど聴くものの選択もたいへんだし、四六時中耳にしていると食傷ぎみにならないかと心配もするが、まあカセットのウォークマンどまりの経験などからすれば想像を絶する便利さ、魅力だ。

 しかし、一枚、一曲に対してのなんとも数カ月にも及ぶような蜜月の付き合いは、そこに存在し得るのかとおもえば、それは相当むずかしい時代になったものだろうと思う。そしてまた果たして自ら厳選し、他の選択を諦め、一枚、一曲に財を賭けた鑑賞法と、はてどちらが幸いなることかはわからないことかもしれない。
 それはもういまさら自らの厳しい抑制とストイズムでしか不可能なことだが。

 ・・ しかしまたコウも考えてみた。
 つまりモノ、コトがたくさん選択できてまわりにあふれ、しぜんと目移りし次から次へと安易につまみ食いできるということは、モノ、コト、それにたいしての愛着・執着もまた、はやばやとうすくなることなのだろうかということ。
 されば「ああ無常」という心音が若き心にもついに早々に到来し、内なる音へと向かい、ついには禅寺でも行くのかな、という妄想♪。
 そんなことは、よけいなお世話だし、もうそうそうにワタシも頭から追いやります。((笑)
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by past_light | 2006-04-16 03:27 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)

100%片思い

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 なぜだかわからないが出て来たのはゾウだった。
 パソコンで絵を描きはじめた頃、最初に絵になったのもゾウで、それから気がつくとゾウだった。・・てな調子だと、カフカの返信ですが、いや変身。

 A3ノビサイズに版画形式でプリントして額装するとけっこう大きなサイズになる。展示会などで購入していただいた人や、または知らないどこかで巡りあって部屋に飾ってくれている方もいるのだとおもう。

b0019960_2203100.jpg ある人は玄関に飾りたいと買っていかれ、ある人は子供部屋に、またある人はゾウの絵を集めていいて、旅先のアジアで買い損ねたが、ぴったりだと買っていかれた。
 それからときには病院のロビーや社長室とか、知っている範囲でも、いろんな場所に飾ってもらっている。・・のだろうと思うと不思議な気分だ。だがそれはやはりありがたくうれしい。

 ぼくの友人にはトイレに飾ったという人がいて、「さぞ通じがよくなったかい?」と聞くと、来客の女性がナガトイレで、出て来たなりゾウで・じゃなくて、「じっくり見てた。あれいいね」ととても好印象だったという。・・(笑)、、100%bush(宣伝)だが、そうやって、ぼくらは無名だろうがなんだろうが勇気をもらうのだ。

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 絵とは不思議なもので、描き手が有名無名かなどを問わず、描かれた絵は描き手を超えて、どこかでしずかに今日もだれかと会話してくれている。

 トイレはぼくも大賛成だ。通じあいます?
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by past_light | 2006-04-12 02:36 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(5)

春のヒナ

 杉浦日向子さんの写真がテレビに映っていて、ああ、と思った。
 亡くなってからそんなに年月は過ぎていないが、そう言えば、この人の顔や姿、それはこの時期、春を連想するような感じがしたものだ。

 江戸時代つながりで思い出せば、その話の専門家だった。江戸時代の今で言うリサイクル思想、実践された智恵が、そこには徹底されていた庶民の暮しが目に浮かぶように面白く聞けた。

 昔の田舎なんかでも、まだ水洗じゃなかった時代、バキュームカーがまだ来ない時代、排泄物なんかは畑の肥料にと、農家のおばあちゃんがたまに汲み取りに来てくれたことは思い出せる。多分お金はくれなかっただろう(笑)。それはどちらにしても助け合えたという幸ウンなことだ。
 江戸時代だと髪の毛も買い取りだし、ビニール袋もないし、ブラスチックもないし、捨てるものがかなり少ないと思うから、ゴミ問題など頭を悩ませることはありえなかっただろう。

b0019960_1534963.jpg 杉浦さんの日向子という名前が好きで、あの笑顔か泣き顔かわからないような笑顔の似合う美人に、その名はよく似合っていた。最初にテレビでお顔を拝見したのはまだだいぶ若かったと思うから、綺麗な、柔らかな人だとおもい、すぐにファンになった。
 隠居生活をして、蕎麦とお酒が好きな粋な質素な暮し。ときどきテレビで出会えば、ぼくは日向子さんをよく見つめていました。思いがけず突然の早い別れになりましたが、やっぱりあちらでものんびりして下さい。

 #写真は桜の季節に二才になったヒナという名前の野良猫です。
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by past_light | 2006-04-06 01:56 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)

春民桜木調

 桜が咲いて、そして散りはじめる時期。それは生と死、そのみじかい刹那を凝縮して感じさせるような日々だ。ことに年齢を無駄でもなんでも重ねてみてくれば、よりそんな気持ちが強くなるように思う。
 多分多くの人は人生も終りに近いのだと思う頃になると、あと何度桜を見ることができるのかと思うはずだろう。また江戸時代ならぼくの年齢だと人生も終りの方なんだなあと思えば、オレは江戸時代の感性かと思う。それなら間違いなくユーミンも終りの方なんだが、どっこい彼女は現代人なのだ(笑)。

 トウキョウの人の花見は品がない。仲のよい友人や家族、親族とたのしくおだやかにお弁当や少しの酒を飲むのが目的ならいい。昼間から酒が飲める日などというのは年に何回もないだろう。桜は別に改めて花見行楽に出かけなくても、わりにそこかしこで見事な桜の木を見ることは叶う。
 品がないと感じるのはわりと若い人に多く、男女入り交じっての大人数で騒ぐ。通り過ぎるこちらとどちらがオジサンか意味不明の阿鼻叫喚。
 むやみに群れるという現象は実は近年になってからの方が重症だと思う。広々とした場所なら彼らニ十人ぐらいいても点景だが、あたりを酒の匂いが漂うむさ苦しいスペースでは通り過ぎる人や周り近くの住人からは醜悪に見えるだろう。この時期を野良猫たちと住人はひたすら我慢する。

 桜の木の下には死体が埋まっているとか梶井基次郎は言ったというけど、梶井基次郎じゃなくてもそんなん常識だと言う人もいる。それより、この地上のどこかしこに死体は埋まっていたことはあるだろうと言う人もいるだろう。
 それにはもちろん、人だけではなく犬や猫、タヌキやキツネ、それからそれから・・。
 とりあえず毎日ウォーキングしている視線からは、かれらが座っていた場所は、普段座らないし、座りたいと思う場所じゃなかったりしてますけど・・。

 春と桜は、生の輝きときらめきを装いながら死を内包している。だから春はより貴く美しい。
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by past_light | 2006-04-05 01:51 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

ユーミン水のなかのアジア

 先日のテレビでユーミンのステージが放送されていて途中から観た。
 ユーミンはなんだか昔より声量が増して、ちよっとだけ歌もうまくなったように感じた。たぶんお腹から声を出すようなレツスンに励んだことがあるのだろうか。
 ただ迫力は出て来たけれど、か弱い細い声ではなくなって来たのは相殺される宿命でもあり、初期から中期までしか聴くことのなかった者にとってはやや複雑な気分。

 もともと一度もステージは見たことがないが、噂ではすこし以前はサーカスのように派手で大掛かりなステージが繰り広げられるという話を聞いたことがあって、それからすれば、かなりシンプルな装置で頑張っていて、年代的には同じだから、ともかく体力、アピール度、いさぎよさ、すごく感心したりします。

 ピアノ連弾によるバックとか、アジアの楽器、演奏家とかアジアの歌手とか、日本人だけど大量のゴスペルのコーラスバックとか、モノより人にお金、演出が力はいっているのは好感持てる。
 ただ詩の世界はどちらかというとちいさくて静かに聞きたい曲でさえスケールが大きくなるのはなんだろう・・(笑)。
 しかしコンサートステージが楽しく成功するのは、スターひとりの力ではないということ、それが彼女のこのステージですごくよくわかって、もしかしたらとても正統的なステージであると言えるのかも知れない。 ツメの垢クダサイ。
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by past_light | 2006-04-04 01:32 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

幸福な誤解

 今では少なくとも知る限り、映画館で封切り、ロードショーを過ぎて、二番館、三番館というかたちで映画を観ることができなくなってしまったが、以前はそれができた。

 だがそういう映画館への通い方ができなくなって久しい。興業界にしても観客にしても、そういう変化をしたのはだんだんビデオが普及しはじめてからだろう。不運にも見逃した映画はビデオ、今ではDVDでのレンタルなどを待つしかない。
 しかし、ちよっとお茶を飲みに喫茶店に入る金額で映画館へ行けるという時代は、今にしてみれば、なんと幸福な時代だったのだろう。

 入れ替え制の封切り映画ははずして、映画上映中の途中から入って後半と前半を逆さまに観るなんて、もったいなくてあまり考えられないだろうが、当時はそういうことが気軽にできた時代でもあり、それはけして望むかたちの鑑賞ではないとはいえ、映画館との付き合いもラフで、柔軟だったということでもある。

 あるいは二本立てでも上映終了時間の理由で一本を諦めて、第一希望のもう一本だけを観ることもときにはあった。その場合の切符売りの人は、気を利かせて割り引きしてくれることも多かった。
 そうやって入った映画館の暗闇のスクリーンに映る映画のラストシーン近くからだけを観て、その後そのままなかなか全編を観る機会のない映画もあったが、それがなかなか味わい深い出会いとわかれだった。全編を通して観ることよりも、なんだかひどく余韻と印象を残している映画があることの不思議があった。

 それからずいぶん後になり、テレビやビデオなどでその映画をちゃんと観てみると、ラストの十数分ほどしか観ていない映画が、どうしてそんなに心に残ったのかが不思議に思うぐらいにたいして心動かない映画だったりすることもある。
 それでもたとえば誰かが言っていたように、それは恋愛が誤解に基づくものであるように幸福な誤解なのだ、ということなのだろうと思う。

 そのなかの長く記憶された映画に「みじかくも美しく燃え」、カトリーヌ・ドヌーブとジャック・レモンの「幸せはパリで」という映画があった。
 どちらもベストテンに入るような映画でもなかった。スウェーデン映画の「みじかくも美しく燃え」は後に観たとき想像したほど感動することはなかったが、どちらのニ本ともラスト近くは前者のモーツアルトのピアノ協奏曲、後者のエイプリルフールのテーマ音楽に美しく相乗し助けられ、愛する映画の持つなんとも贅沢な気分、心を浸していく潤い、それを暗闇のなかラストの数十分で、じんわりと伝えてくれるものだった。
 恋愛にたとえれば、それは一目惚れという幸福なエイプリルフールなのかも知れないが、安吾さん、やはり恋は人生の花です。
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by past_light | 2006-04-02 18:44 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

オートマティック・パラダイス

 ずいぶん昔に書いた詩を少し手を入れて、これからときどき集めておきたいと思います。
 シュルレアリスムにどっぷり浸かり、しばらくオートマティスムによる詩をつくったことがあります。オートマティスム(自動記述)はアンドレ・ブルトンの提唱したシュールの技法ですが、「手術台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」というロートレアモンという詩人のフレーズがよく使われたのですが、意味不明です(笑)。
 だいたい完全なる意識的抑制を極力排除しての無意識のみによる創作は不可能なことだというのがよくわかるわけです(笑)。
 とても稚拙なものが多いのですが、このカテゴリはパーソナルアングラですから、突っ込みなしで・・。
*

 眼の殉教者

彼女は夢遊病にかかった聖母のように
街で出会う囚人たちを彼女の子宮へ戻したがった
そして新生を与えることを欲したのだ

あの愛の可能性を表出する精神感応の源である彼女の眼によって
いったい幾人の人がへその奥からの地殻変動を体験しただろう

彼女を前にしてきまってぼくは
いったい彼女の存在のどこの部分がまだここにとどまっているのかといぶかしく思った

彼女は口癖のように言った
「だけど魂は女の方がすごいのよ」

回転を一時停止した混沌のなかにあるエッセンスの吉報 ! そして光明
ぼくは愛のなかに溶け崩れていく小さな宇宙を予感していた

*

かろやかな有機体の集団で占められた白い室内に、明度の高い原色たちに支えられたコミューンができあがるのです

たとえばぼくが窓を描こう
よし 私は単純な欲望だ

言う前に食べたまえ 美が何ゆえ扮飾される運命にあるかはあなたの手と足の位置を考えてみることで納得できる

海に入り 波をつくりたまえ
あなたは時間厳守の自由に浸るだろう

街で公開番組に出会ったらマイクをひったくりたまえ
あなたの前にある不毛は鏡のような目をもって遠ざかる無為な努力を続けている
それはあなたの一生を左右することだろうか

聖フランシスのことをかんがえるまえに
象徴的な朝に所有しない状態を試したまえ
靴だけを履いて海を見ている旅行者のようだろう
*
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by past_light | 2006-04-01 20:23 | ■自動記述私観ブラシ | Trackback | Comments(0)

過去と現在、記憶のコラム。関連ありなTBはラヴリー。リンクはフリー。コメントはブラボー。


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