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 ブログを日記のように書く、それはぼくには不可能だなとおもう。

 三十年ぐらい前からの切れ切れの日記(のようなもの)が残る何冊かのノートを、押し入れにある段ボール箱から取り出して少し開いてみたら、なんとも言えない気持ちがする(笑)。

b0019960_1381578.jpg あるノートは夢日記のようなページばかり、ある時は映画感想ばかり、あるノートは読んだ本からの書き出した印象的なセンテンスの集まり。
 それから、もうきっとその一年、どうしようもないような気分で生きていたのだろうという日常がつづられた、今すぐ焼いてしまいたいようなものとか・・(笑)。

 日記はぼくの場合どうしても人に読んでもらうものとは考えにくい。内省も中身に占めるものの内容が世俗的だったりすればなおさらだ。

 作家の日記などは後生の人が有り難がる場合もあるだろう。「クレーの日記」や「ゴッホの手紙」のような芸術家の創作やその苦悩に関わるものなら、後の人が読んで感動することもある。
 しかし、ぼくの場合、日記に残る創作に関わった苦悩らしきものは、皮膚のレベルのように表面的で浅いもののように感じられる。

 ある時期の夢日記はすごいんですけど、いま読めば自分自身、意味不明というものも多い。時々シュールな絵入だから、つげ義春にも負けてないと思うけれど、こういうものは体系化もぜずそのままでは伝達不可能だし、またときに恥ずかしすぎる。

 このノートたちもいつか焼却処分することになるのだろう。現代はちょっと屋外で焼くということができにくくって、つい物持ちもよくなってしまう。
 焼く前に、映画のノートなどは大幅に手を入れて、人間さまが読めるものにしてみたいとも思うんだけど。すっごくむずかしそうだ。
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by past_light | 2006-03-30 01:41 | ■Column Past Light | Trackback(1) | Comments(5)
テレビで見る時間の進みかた
 昨夜TVのアーカイブスを観ていて、「これだな」と思ったのは時間の進み方の感覚。
 いわば展開のスピード、情報の量ではなく、ものごとをたっぷり味わいうるのは、反比例して--ゆるやかな表現のしかた--だということだった。
 スピードによって効率はあがり量も多くこなせて、情報伝達も量が増し、一見万々歳のようだが。しかし、物理的な時間と心理的に感じる時間とはまったく異質なものなのだ。

 テレビが小学生のぼくの家に来てから、まだ間もない頃に観た記憶のある「それは私です」という今で言うクイズバラエティ。30分の放送がのんびりと展開するその番組。モノクロの解像度の低い画面の中に、もうこれほどゆっくりなワイプは見たことないようなタイトルで始まり、司会の丁寧な日本語がシーンと静まり返ったような(笑)スタジオにくっきりと響く。
 セットは屋台とたいして違わないような木の板で作られた質素なものばかり。登場する素人さんも解答者のゲストも無駄口は皆無。中には曾野綾子さんや池部良さんの若い姿がある。今なら芸人だとカメラの方角からギャグを催促されている頃だろう。

 素人さんはテレビ出演はともかく今よりももっと特別な緊張感があることだろうから表情は堅く素朴だ。問われた質問に短く答える言葉も丁寧そのもの。「〜でございます」が流行っていたのか、なんて、おそまつ君のムッシュ・イヤミの記憶を彷佛とさせる。

 解答者もフィックス(固定する)的な表情がふしぎに楽しい。
 曾野綾子さんの控えめだがキラリと自己の強さが見えかくれする口調や笑顔がいい。男性陣は正解率が高くて司会に誉められようと、ブスッとしたままだ。カウリスマキが観たら喜びそうだった(笑)。

 表情豊かに見えて、それは過剰だったり、実はつくられたものばかりが垣間見え、バカ笑いの中で消費されて行くような感情表現。それとは反対の、あるいは向田邦子ドラマに登場するような人の静かな色気が、実はこの時代にはまだテレビで観られたのかとさえおもう。

 もし、テレビ制作者に破天荒な勇気があれば、全く飾り気もなくセットもCGも使わず、おかずのような演出を禁じ、テロップは出さず、出演者は必要以上に口を開かず、無理に笑わず笑わせず、淡々と誠実に過ごす三十分番組を試してみよう。この上ないゆっくりなタイトルのワイプは、唯一のテクニックで残して。

2006.3/27 NHKアーカイブス
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by past_light | 2006-03-27 15:20 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
牛乳と水
 牛乳を捨てなくちゃならないなんて、酪農家の人もテレビで観たら辛そうだった。
 そのニュースは数日前から知っていたが、「もったいない」とか「なんで」とスーパーでパックに入った牛乳でしか出会わない僕らはすぐに思っちゃうんだけど、そういう仕組みだから、今のかたちの社会だから。
 「今じゃ水のほうが市場価値が高い」というような嘆きが印象的だ。

 水に関してはこういう話が、今のかたちの世界の良心の限界を、よくあらわしていると感じられる。 以下の記事。

【IPSコラム】水は権利かそれとも商品か レオナルド・ボフ

 現代世界において、水ほど重要な問題はない。地球上の生命の生存がそれにかかっている。水は戦争の原因にも、人々の間の連帯と協力のもとにもなりえる。水はあふれているが、同時に極めて不足している。(IPSコラムニスト・サービス=ベリタ通信) 

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200603241450035
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by past_light | 2006-03-26 02:30 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)
ヘルシンキからカウリスマキファンに愛を込めて
 CINE ARTにあります★アキ・カウリスマキの特集記事のコンテンツを戴いていますヘルシンキ在住のKitayajinさんから、カウリスマキの新作の御紹介と御感想コンテンツが送られて来ました。

 「お久しぶりです。日本では異常に雪の多い冬が終わって、やっと春の足音が聞こえる頃なのでしょうか? 当地フィンランドはまだ冬景色ですが、それでも空気には春の匂いが感じられます。イースターまでにはまだ1ヶ月弱ありますが、何となく何かを待つような気分にさせてくれるのも、長い冬を過ごす北国の人たちに与えられるせめてもの償いかも知れません。

 さて、先週、アキ・カウリスマキの待望の新作『街外れの灯』を観てきました。前にお知らせした時は仮称『警備員』という名前だったのですが、試写会に先立ってこの新しい名前に変更されています。・・・
 あわせて、ポルトガルの寒村を描いた短編ドキュメンタリーのBicoの感想文も送りたいと思います。」
「・・『街外れの灯』の日本公開は今年の秋とのうわさですが、真偽の程は判りかねます。★(「街のあかり」日本公式サイト2007/11現在) あまりネタばれを気にしない私の文章ですので、読まれる方に注意書きを書いたほうが良いかも知れませんね。これでも気を使ってなるべくディテールは省略したつもりです。
 日本では桜便りが聞かれるようですね、こちらは早くネコヤナギが芽をふかないかと待っています。」


 と戴いたメールからも御紹介させていただきました。
 ★どうしても映画の中身は知りたくないという方は、お読み下さらずに、日本での公開をお待ちくださるようお願いします。

※後日、CINE ARTのカウリスマキ特集コンテンツへ移動更新させて頂く予定です。
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■2006年 Laitakaupungin valot - Lights in the Dusk - 街外れの灯(仮称) 

 「かってロシア文学が語られた頃、小さな希望が誰の胸にもありました。」
 何となくそんなことを思わせてくれる映画のイントロ部。

 しかし現代は、この映画の舞台となる新興ビジネス街ルオホラハティは、表の華やかさとは裏腹に、なんともやるせない冷酷な世界なのです。仕事仲間には連帯感の片鱗すらなく、小さな正義感はズタズタにされ、はかない夢が踏みにじられ、小さな誇りすら利用されてしまいます。主人公の小さな誇りも、悪党たちに「犬のように忠実なやつ」と見なされ、小さな夢すらも「ロマンティックな馬鹿」とあざ笑われ、いとも簡単に犯罪に利用されてしまいます。そして孤独な主人公の耳に何度も聞こえてくるのは、港の霧笛だけです。 この悲しい主人公に、わずかな好意を示してくれるソーセージ売りの娘と街の浮浪児と犬のPaju。しかし彼はかれらの持つ価値にすら気がつきません。
 
b0019960_20282631.jpg アキ・カウリスマキはインタビューにおいて、この映画の主人公をチャップリンの名作『街の灯』(1931年)の放浪者に、都会の片隅で自分の小さなニッチを探す青年になぞらえています。 しかし主人公が出会うのは、ラストシーンまで相手が放浪者であることを知らない心優しい盲目の花売り娘ではなく、会った瞬間に彼が警備員であることを見破ってしまう悪女、マリア・ヤルベンヘルミの演じるミルヤです。この出会いの設定をあの名作『街の灯』の涙が出るほどに美しく、せつなく、残酷なラストシーンのパロディーとすることでアキはこの映画をチャップリンに捧げた賛歌としたかったのかも知れません。このことは本作品が発表前には長く『警備員』という仮称であったものが、発表される直前の2006年1月に『街外れの灯』と訂正されていることにも絡み、チャップリンの名作『街の灯』がこの映画の創作過程で及ぼした影響を推測させてくれます。

 またアキは、この映画の悪女ミルヤを映画史上の最も冷酷な女、ジョセフ・マンキウィッチの『イブのすべて』でアン・バクスターが演じるイブ以来のファーム・ファタールと折り紙をつけていますが、さて映画をご覧になる皆さんは?
 刑期を終えて出所した主人公の殺風景な宿舎テーブルには一輪挿しの赤いカーネーションが、ミルヤを自宅に誘ったあの日のニ輪挿しの片割れでしょうか? 
 放浪者のチャップリンが花売り娘に捧げたのも確かカーネーションでしたね。

 メルローサの謎のフィルムはついに見られませんでした。でもカムバックしたMelrose のライブ演奏が楽しめます。また悪党たちのトランプ博打の場面ではrich little bitchも流れます。なんとそこではこの映画のrich little bitchであるミルヤが掃除婦をさせられているではありませんか。どうやら幻のフィルムの謎は迷宮入りのようですね。
 音楽ではMarko Haavistoも健在で詩のように心にしみる『凍った雨』を聞かせてくれます。 

 テイモ・サルミネンの映像の美しさはいや増すばかり。この色彩の世界に、60年代と現代が錯綜した不思議な世界に、映画が終わったあともしばらく目を閉じて浸っていたかった。目を開けて映画館を出れば、そこには1960年代の影はもはやなく、2000年代が待っています。私がこの映画を見たこの映画館とその周辺の工事現場までこの映画にショットとして出てくるので余計にそう思ったのかも知れません。

 10年前にスタートし、『浮き雲』、『過去のない男』と続いた社会不正義3部作を締めくくるこの作品は、現代の『孤独』を描いた作品です。極端なまでに徹底したカウリスマキ流のミニマリズムにはいっそう磨きがかけられています。
 アキがこの3部作で行き着いた地点は、なんともやり切れない諦観の支配する地平でしょうか? いや、前2作に含まれていたハッピーエンドを、観客への媚を捨て去った、本来のカウリスマキの戻ったと評価すべきではないでしょうか。「罪と罰」や「マッチ工場の乙女」で見せた冷酷なまでの切り捨てはありませんが、円熟と悲痛な叫びがそこには感じられました。そのラストシーンで、アキはすでに目が見えなくなったコイスチネンとソーセージ売りの娘のアイラに:

“You?”
“You can see now?”
“Yes, I can see now.”

 という名作『街の灯』の最後の会話を語らせたかったのでしょうか?
 いえ、実際に交わされた会話はたった一言だけです。コイスチネンの最後の言葉は

 『ここに残ってくれ...』。

 その言葉が『俺と一緒に、この60年代に残ってくれ』*と言っているかのように聞こえたのは、背景に流れるロシア音楽がなせる感傷的な悪戯でしょうか?

       ------------------------------------------------
 < *の部分をある意味で「思いとして」は補足するものかと私的に思い、後日いただいたメールからの引用(以下掲載)をKitayajinさんから御許可戴きました >

「 Kaurismaki に惹かれるのは、彼が決してメージャーを目指さない男であるからかも知れません。フィンランドにおいてですら、現在上映中の彼の映画はハリウッドの娯楽映画には、観客動員数において足元にも及びません。
今回の映画が撮り終わって再びポルトガルに引き篭もっての生活のようです。
今回の映画の上映に先立っても極めて少ないインタビューしか行なっておらず、私の知る限りではヘルシンギン・サノマット紙記者がPortoに出向いて行ったインタビュー(2006年1月29日付けで発表)とほぼ同じ頃に前作『過去のない男』の中でフガフガ声で弁護士を演じておられた人権運動の闘士である故Matti Vuori氏のお葬式のためにフィンランドに戻ってきたアキが若者のタウン紙VOIMAに許したインタビューだけと思います。
映画の話は一切なし、政治の話だけとの限定で行なわれたインタビューで、彼はMatti Vuori氏の死によって、『フィンランドの良心の半分が亡くなった。残りの50%といっても、もしそんなものがあっての話だが..』と相変わらずの毒舌を残して、午後の告別式に出かけて行ったそうです。」


       +++++++++(あらすじ)+++++++++

 ヘルシンキの新興ビジネス街ルオホラハティで夜警員として働く主人公コイスチネンは、仲間もなく、ガールフレンドもいない孤独な青年。いつか自分の警備会社を起こしたいと夢見て、それなりの努力もしている平凡な若者です。そんな彼がある日、魅力的な女性と出会います。女は、コイスチネンを利用して、警備の厳しい宝石店荒らしを働こうとする悪党たちが送り込んできた罠なのです。女に惚れ込んだ彼は警察の尋問でも彼女のことを明かしません。悪党たちはそこまで読んで、コイスチネンを利用したのです。
 刑期を終え、社会復帰を目指すコイスチネンは偶然に、女が彼を利用したことを知ります。しかし、かっとなって悪党を殺そうとしたコイスチネンは、彼らに逆襲されてしまいます。
       +++++++++++++++++++++++++++


制作:Sputnik Oy
監督:Aki Kaurismaki
脚本:Aki Kaurismaki
撮影:Timo Salminen
舞台:Markku Patila
服装:Outi Harjupatana
録音:Jouko Lumme, Tero Malmberg
キャスト:
Janne Hyytiainen(警備員、Koistinen)
Maria Jarvenhelmi(悪女、Mirja)
Maria Heiskanen (ソーセージ売りの娘)
Ilkka Koivula(悪徳ビジネスマン)

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■2004年 Bico

 老人だけの村、フランスへの出稼ぎ、石職人の未亡人、ハーモニカで吹くバラード、山羊と羊と牛が放牧される雪の残る牧場、綿が紡がれ、犬が吼え、映画が終わります。
一切の会話もなく、淡々とポルトガルの寒村Bicoの姿が描き出されています。

b0019960_2028493.jpg アキ・カウリスマキは、彼が住みつき、愛する旧き良きポルトガルについてこう語っています:

 「他の欧州諸国が1960年代から1990年代にかけて歩いた変化をポルトガルはたった5年間で経験しようとしている。村の道路の真中に立ちはだかって、俺は叫んだ『俺はこの芝居はもう見たのだ、どうか辞めてくれ』。でもだれも耳は傾けてくれないのだ。」

 「ポルトガルでは長い映画をつくることはないだろう。かってここを舞台にJuha(邦題:白い花びら)をカラーで音声入りで作ろうと考えたことがあった。脚本も書き始めたのだ。でもふと気が付いたら、おれは羊飼いの主人公が何を弁当に持って出かけて行くかすら知らないではないか。」
 こうしてJuhaはフィンランドを舞台に作られたのです。

 この短いドキュメンタリー映画は2004年の5月にリリースされたオムニバス映画Vison of Europeの24編のうちの一つとして作られたものです。
 Bicoの村はスペイン国境に近い北ポルトガルの村で、ポルト市から北へ50km、ブラガの町からさらに山間を行ったところにある、何の変哲もない寒村です。

制作:Sputnik Oy
監督:Aki Kaurisumaki

 (文 : 河田舜二)    2006.3.18、19日 補筆・修正しました。 ★「街のあかり」日本公式サイト2007/11現在
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by past_light | 2006-03-16 20:55 | ■主に映画の話題 | Trackback(2) | Comments(7)
Thirty Years Moment
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アナ・トレントのデジャヴュ−。
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ミツバチのささやきから、三十年。わたしはおなじで、そしてちがいます。
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こんなものあります。

(出典)
http://njov.lunarpages.com/r/nj/000084.htm
http://www.book-navi.com/book/syoseki/ana.html
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by past_light | 2006-03-14 19:30 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
わたしの家
わたしの家は野中の中の一軒家。
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早く言えばだれかが持って来た段ボールです。

私たちの冬はもうすぐ終ります。
私には二人の友がいて寒い夜を温め合います。
布団を暖かい午後にお日さまで虫干ししたいのです。
あなたの手をお借りできますか。
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天気のよい昼さがりは、子供たちが走り回るので、私が帰ってくるのは夕方になります。
留守でしたら、書き置きを残しておいて下さい。
訪ねてくれたお礼は、夜に三人で語り合います。
では、またお会いするのを楽しみにしています。
             野良のチョロより
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by past_light | 2006-03-14 19:22 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)
ヒトのヒント
「 悪からたくさんの善が私にもたらされました。
 静かにし、何も抑圧せず、耳をそばだて現実を受け入れ、物事を、そうあって欲しいようにではなく、そのままに受けとめ。
 そのようなことをすべて行なっているうちに、並外れた知識、また並外れた力が私のもとにやってきました。
 そしてそれは、私がとても想像しうるようなものではありませんでした。

 われわれが物事を受け入れる時、それは何らかの形でわれわれを圧倒してしまうのだと私は思っていました。このことはまったく真実ではないとわかりましたし、それを受け入れてこそ、それに対する態度もとれるのです。

 今や私は、私の性質の肯定的、否定的な両面を認めて、人生を正々堂々と送るつもりです。
 このように、何もかもが私にとって、より生きたものになってきました。
 なんと私は馬鹿だったのでしょう。
 どれだけ私はすべてを、そうすべきだと勝手に考えた方法で進ませようと強いてきたのでしょうか 」

#ユングは著作のなかで、彼の患者だったひとりから貰った手紙を紹介していて、その内容が「真の宗教的な態度」だと言っていた。
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by past_light | 2006-03-10 02:18 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)
電気用品安全法と経済格差
 藤原さんのトーク(右メニューのリンクにあり)を見たら、先日の署名のお願いのアドレスを載せた続きになる話になっていて、藤原さんも、なかなかメディアで取り上げないのは、電気メーカーはおっきなスポンサーというせいもあろうかと、はっきりお話だ。
 そのメーカーさんは日頃、エコエコえこ・・とえ〜こと言ってるような振りしているだけのお粗末な世の中なのかやっぱり、と次世代にも失望されはしないかと思う本日まことこの頃、みなさん御元気ですか。(チヨット違うが)・・・のなぞのきっこさんも電荷生活は中古を買って凌いでいらっしゃるというので、他人事じゃないらしく、それからミュージシャンなんかもたいへん困ることになると言う。

 藤原さんの猫は二十年目のコタツでのびきっている写真が、とてもけなげだが、ぼくんちのステレオシステムはまだらだけど、アンプは二十年を過ぎていまだなんとか現役。だいたいその後に買ったアンプの方が先に壊れたもので、自然にビンテージ現役になってしまった。
 CDプレーヤーもカセットデッキもスピーカーももう成人式ぐらいだから、前にウチに遊びに来た人が「古いものを大事にされるのはいいですよね」とこちらの念頭にもない言葉をいただき聞いて、改めて自らの歴史を振り返ったりしたものだ。

 振り返ったら、テープは聴けないがラジオはまだいけるラジカセが三十才になっていた。
 これは猫の二十才に匹敵することかもしれない。

 もし中古が買えないと困ったり、御考えがありましたら、署名してみて下さい。
署名が力をもつかは藤原さんも今一つ・・と言うことですが、それで確かにその通りですが、時代は勝手に流れます。


*緊急追記・・署名が終了していました(^-^;
またどこかで見つけたらよろしく。

前の記事↓
http://past.exblog.jp/4219055/

電気用品安全法に対する署名のお願い
音楽家 坂本龍一
音楽家 松武秀樹
音楽家 椎名和夫

★リンク
電気用品安全法(PSE法)に対する署名
https://www.jspa.gr.jp/pse/index.cgi

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by past_light | 2006-03-07 02:31 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
けさ江さん、ちょっと続きです。
 「・・・ 人間とはつくづくおもしろいもので、知識、教養と人格は必ずしも一致しない。
 齢を重ねるごとに迷妄さをつのらせていくことの多いなかで、けさ江さんはその逆の歳のとりかたをした。

 才能という次元で書く「書」などたかが知れたもので、才などとは別の、人として生き、俗を抜けたところの霊性の発露、つまり天然自然にいかに近いかだけが「書」の格であり、核なのである。 ・・・」
(けさ江さんの書と絵---岡本光平)

 故、岡本太郎が「才能によらず、描かなくてはならない」というようなことを我にも言い聞かせるかのように言っていたことも印象的に残っているが、スペインの画家ミロも--わたしは下手だったからこそ続けてこれた--というようなことを言っていた。

 先日のおばあちゃんの展覧会用のパンフが赤いダイコンのところの画像で見れて、紹介文を書いた岡本さんという人の文から引用しました。
 この人がおばあちゃんに書をはじめる勇気を与えた人でもある。
 テレビでは岡本さんの若い人たちも交えた訪問がとても嬉しそうだったおばあちゃん。 握手しながら泣いていたことが、いかに感謝している出会いだったかを物語っているようだった。

 「うまいとかへたとかいう次元のものではない」。そのおばあちゃんの命の表現のような書には、現代社会の中心では味わえない、またあるいは生存不可能な、周辺ゆえにしっかり根を張った命の実存を突き付けてくるように感じられる。

 あるいは岡本さんの言う「格」さえ意味付けをむなしくさせるような、「核」という事なのかと思う。

・前の記事 ★「二、三年のあたま」
★過去コラム「中心と周辺」
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by past_light | 2006-03-05 02:40 | ■Column Past Light | Trackback(1) | Comments(7)
電気用品安全法に対する署名のお願い
電気用品安全法に対する署名のお願い
(署名サイトをきっこのブログを見てやっと見つけました。きっこさんのブログはかなり的確にはなしています。「もったいない」はどこいった !! 廃棄物も増えるぞ!! きっこのブログへリンクは右のメニューにあります)
音楽家 坂本龍一
音楽家 松武秀樹
音楽家 椎名和夫

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電気用品安全法(PSE法)に対する署名
https://www.jspa.gr.jp/pse/index.cgi
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by past_light | 2006-03-03 14:08 | ■ちょっとミニメモ | Trackback(1) | Comments(2)