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新しい感情へ

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 「季節がめぐってくるたびに何十年も見慣れた光景だが
 その光景がぼくにもたらす感情はいつまでも新しい」(谷川俊太郎さんの詩より)

今年も御訪問ありがとうございました。
みなさん、よいお年をお迎えください。
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by past_light | 2005-12-31 12:45 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)

はらくだしのチャイルドネス

 河合さんは子供の時に、お父さんに物語を読み聞かせしてもらっていて、「・・は、ねむってしまいした。ぐーぐー・・」というようなくだりになって、お父さんがホントにねむってしまわないかだんだん心配になり、お父さんの顔を見上げ「おとうさん、おとうさん」と声をかけたそうだ。
 ちゃんとノリは外さずおとうさんは「あ、うっかりねてしまうとこだった」とこたえたという。

 まえから「おさなごころ」とか「子供という象徴 / メリークリスマス・ミスターローレンス」のこととか、時々考えていたが、抽象的でだいたい論理的じゃないことを伝えることはむずかしいことだ。まして結論をすっきりと提出できて、採点できる世界のものならこれはまちがいなく落第だ。

 河合隼雄さんも説明するのは察するに苦労されているように感じる。人の心をあつかうという仕事には、海路図のない旅のようなもの、という面があるのだろう。だから駄洒落も冗談も、長旅の、相手のみならず自分を守るものなのだ。 ユーモアとは「自分と世界をみて笑う」ほどのものなのだから。
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 谷川俊太郎さんらとの「声の力」という共著の本のなか、いつものように冗談、駄洒落まじりの独特な語りでの講演記録の章を読んでいて、こういう話を自分のものとして聞くには、聞き手にも敏感な何かが必要だと感じる。タメになる話を聞いて、ノートに取って家に帰ってから参考にしようとかいう頭につめこむ勉強ではたぶんあまり意味を持たないのだろう。

 「ファンタジーによって現実から逃げているのではない。ファンタジーという世界からこの世を見るということが、じつにいろいろなことをわれわれに考えさせてくれるのだ」
 ということから、チャイルドネス「こども性」のパワーというような話が出てくる。

 そこで「だいくとおにろく」というはなしが紹介される。
 激流に橋をかける仕事を頼まれ困っていた大工が、鬼に「オレが架けてやる」と言われてみごとに架けてもらう。
 だが鬼は、ひきかえに「おまえの目玉をもらう」という。ただし「オレの名前が言えたらゆるしてやろう」ともいう。
 大工は山へにげてあちこちさまよい思案する。
 すると、ふととおくのほうからこんな子守歌が聞こえた。

 「はやく おにろくぁ めだまぁ もってこばぁ ええなぁ」

 それで大工は鬼のところにもどって鬼の名前を言ってやったそうだ。

 河合さんは、この流れのきつい場所に「橋を架ける」という話には、日頃のじぶんたちの仕事のことを思わせたという。

 夫婦とか、親子、上司とのあいだとか、いろんな関係などの修復には「どういう橋をかけるか」という技術、テクニックが必要のようだが、それでうまく行けば問題はたいしたことではないという。
 が、橋をかけようにも急流が流れているようなとき、「ああしなさい」「こうしてみては」では、なかなか橋はかからない、技術では架けられない橋もあるのだろう。
 「これから仲良くしてみます」と言った直後にドアの外で喧嘩していたりするという(笑)。

 で、どうするかというと「鬼」に頼むのだ。

 しかし橋はかかるがこれには後がこわくて「目玉をとられ」そうになったりする。
 そこで「子守歌というのがすごい知恵を持ってはっと聞こえてくる。」と河合さんはいう。

 「わたしの力でもないし、人の力でもないんだけれど、もういっぺんわれれが、子どもの声というか、子どもの歌というか、そういうものを聞く耳を持ってきたら、うまく橋がかかるんではないかなと私は思っています」
 そんな、人のなかの「チャイルドネス」というもの、「そういうものの声は聞こえないだろうか、という仕事をしているのではないか」と思っているそうだ。

 「他力」という言葉があるが、自力の技術でなんとかできると踏んでいるあいだは、まだ激流に架ける橋ではないというだけなのかもしれない。
 流れがきつい場所に出会えば、いつか鬼との遭遇、鬼に頼むときが必要なのかもしれない。しかしまたそれは「目玉をとられる」リスクのあるものかもしれない。
 こういう考案に答えるには、「子守歌」、チャイルドネスを聞くのがキー、、という、なんともそもそも解説しようがない講演になるのは致しかたないような気がする。

 おもえば個人間で言えるものは国家間にも通じるのだろうか。「目玉をとられる」ことをただただ警戒して策をひねり出している間は子守歌は聞こえないわけだ。
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by past_light | 2005-12-24 18:44 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(6)

クリスマスはお前のせいじゃない

こんなニュース信じられないけれど、ニュースになるんだからやはりこういう人間たちがいるのだろう。
セレブ島に島流しにしてやりたいね。

[ロンドン 20日 ロイター] 英王立動物虐待防止協会(RSPCA)は20日、「クリスマス・プレゼントに動物を贈るべきではない」という恒例の警告を発表、英国人はペットが新しいソファやカーペットに合わない、などの理由で捨ている、と指摘した。

「うちのネコ、新しいカーペットに合わないんです」「うちの犬は新しいソファに合わないんだ」「うちの子ネコ、子供たちとあまり遊んでくれないんです」「しっぽをふっている時に、私の足を傷つけたんですよ」

http://www.excite.co.jp/News/odd/00081135240023.html
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by past_light | 2005-12-24 02:19 | ■ちょっとミニメモ | Trackback(1) | Comments(0)

生活者への連帯感-プレイバックパートツー

 芸術と生活感というのは縁遠いもののようで、わりと「生活感ないですね」というのは「そうですか、へへっ」などと喜んでいたりする。

 むかしまだ二十代のはじめ、絵を描く仲間のグループに、ぼくからするとちよっと真面目すぎるように思える感じの女の子がいた。
 たまに絵を見せあったりして、当時はメールなど夢にもないから、いまでは懐かしい響きの「文通」もした。

 手紙というのはまあ思い返せば恥ずかしいもので、よくまあ若さの熱にまかせたような理想や、ウソみたいな純粋な意見や深刻ぶったことなども書いたものだろう。
 いわゆる翌朝起きて読み返してみれば、けしてポストに投函する厚かましさなどありそうもないのに、すでに封をしたそれは相手に一直線に郵便屋さんが誠実に届けてくれる。

 彼女は「たまにはあいましょう」と次の手紙で言うので、バイト帰りに待ち合わせて二人で喫茶店で話した。

「わたしも時々落ち込むんですよ。で、こないだふと夕飯の買物していて、何買おう、そうだあれなかった、これ買わなきゃ。てスーパーの陳列見ていたら、気分が変わっているので、ああ、ちゃんと生活しなきゃと思いました。それからちよっと、あれだと、夕飯の買い物とかつくるのとかちゃんとしようと思いまして」

 そのころのぼくには、「はあ、そうですか」みたいな返事しかできなかったなあ。

「どうしておながかへるのかな けんかをするとへるのかな なかよくしててもへるもんなあ かあちゃんかあちゃん おなかとせなかがくっつくぞ」♪
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by past_light | 2005-12-23 00:42 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

生活者への連帯感

 自慢じゃないが(自慢できるような範囲ではないが)、ぼくは「ほぼ日刊」、スーパーに食料等々の買いものに行く。
 だから野菜も魚も、値の動きには敏感だ。それから、いつになにを買えば安いかもよく知っている。

 もう数日前になるが、前夜は安心していつもどおり買った野菜が、一夜にして二倍近くに跳ね上がっていたのでびっくらこいた。おしい昨夜買っておけばと思う。
 二倍だよ、どうみても昨日出していたものとおんなじだろう。スーパーさん。

 下記の記事を読んで、夕食のテーブルの緑の少なさとか、会社帰りの旦那さんも納得して下さい。

 大雪被害で野菜価格が高騰 中川農水相、支援を指示
http://www.asahi.com/national/update/1222/TKY200512220728.html
 「・・キャベツが平年より53%高いキロあたり135円、ホウレンソウは同43%高の606円。レタス、ネギ、タマネギなども平年比で3割前後値上がりしている。」
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by past_light | 2005-12-22 20:16 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

運命のグレーゾーン

 だいたい、よかれと思ってやっても、そのまま素直に受け入れてくれるほどこの世界は天使のようなハートの持ち主ばかりがいるわけじゃない。よかれと思わなくても、悪かろうと思いつつ平気でやっている御仁もたくさんいる世界だし。

 それにしても、なにかと残念なのは本筋と全然外れていく世の中の話題だろう。
 なにを言っているかというと、うちのページにも、一応さり気なく張り付けている「ほっとけない」のはなしだ。

 正直いえば、世界にある貧困や避けられるはずの不必要な死。というようなことに注意を喚起する、ということにぼくは共感したのだが。
 サイトを観て、もともとといえば、貧困を身近に感じているアフリカの人が白い布を腕に巻いて意思表示をはじめた。という話に気持ちが動いたからだ。
 しかし、ぼく自身は300円の白いバンドは購入していない。どうしても白いバンドがそんな意思表示として必要と感じるなら、白い布でもするつもりだが、それはリストカットの後などと誤解されそうだから今のところするつもりはない。

 前からよく読ませてもらっているトークコラムの藤原新也さんもなにかとお怒りのようだ。(http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?page=5 「ホワイトバンドは磁気ネックレスよりかなりキモイぞ」)

 これも正直いえば、ぼくも「ファッション」的に広まるような危倶は感じていた。「アドボカシー」という言葉もぼくは知らなかった。ただ今の世界は善かれ悪しかれなんでも企画力、マーケッティング力、ポピュラー性のあるアイデア、それは力を持つのはわかりきっている。

 昔ビートルズが、インドのある「瞑想」を、アメリカに強力に紹介するようなかたちになったときも、その瞑想が西洋や経済的に豊かな国では「一週間分のその人の給料」みたいなレッスン料を取るようなシステムで広まりはじめた時も、伝統的にはそぐわないそのコマーシャル的な派手さ、その広めかたのシステムが、こととくに発祥のインドではそうとう批判もされたと聞く。
 じつは実際、ぼくは20年以上前に日本で習ったそれは瞑想法で、もうずいぶん前からやらなくなったのだけど、それに関してはちょっとだけディープスロートだ。
 当時はまあ誰もがなんとか払えるような授業料だった。が、今では前にサイトを覗いたら吃驚するようなレッスン料に化けていたので、ちよっとグレーというか、ブルーな気持ちがしたものだ。これじゃエリートサラリーマンとかのストレス解消法にはいいかもしれないが、ビンボー学生や低所得者はちらりと見て素通りするだけだ。それももしかしたら、組織化される素朴な理想が、社会に生き続けるために染まる運命のグレーゾーンかもしれない。

 はなしを白いバンドに戻して、でもやはり、「ボランティア」とか「ファッション」とか、相変らずの批判キーワード。そういうボキャブラリー自体、ぼくにはズレていると思われてならない。それは旧態然とした発想だと思う。古い思考だと思う。
 それから「キモイ」も時流に合い過ぎのどこか攻撃性を感じる。(キモクても別に平気でいていいのだが)

 マッチョというのはボディだけではなくて、精神や思考法にもあるだろう。藤原さんはやはり「マッチョ」なひとだと思う。もちろんそれが魅力なひとだ。駄言として率直に「かっこいい」し、ぼくはへたすれば憧れるような人だろう。
 だから藤原さんの行動も意見も「あっぱれ」だったり、いさぎよかったり、態度は明確だったり、する。コイズミくんもブッシュクンもすっぱりきもちよく切ってくれる。いろいろマスコミやファンに影響力もすごいだろう。
 そんな人にあこがれたり、讃えるのは簡単だ。だけど、それは自分じゃない。あちこちにいるそれほど強くない人でもない。

 昔「ハンガープロジェクト」というところの「世界の貧困を21世紀までになくそう」などというチラシなども読んだ経験があるし、本などでもある程度の情報はわかる。
 そういうことが気になったのも、食料を倉庫で腐らせている国と、全然足りなくて飢えて死ぬ人のいる国が世界にはあって、それは経済うんぬんするよりも人間として恐ろしいことをしているのではないか。という素朴な反応からだ。
 世界がシンプルなハートから、じつはつねに数%の余剰はあるという資源や食料を分配するような懐の深さがあれば、ぼくらは、飢えて死ぬ人が地球にいたのは昔の話だなあと、落ち着いて未来を思えるんじゃないか。たまたまその地区、土地に生まれたから飢えて死んでもしょうがないなんていうのは、もしや自分が次にそこに生まれるとわかれば言えるだろうか。

 テレビで与党のあのよく見る顔の議員が、ジョンレノンの話に噛んだインタビューに答えていて、「普段現実ばかりですから、ラブアンドピース、平和、そういう理想は必要なんです。」みたいなことを言っていて「げっ」と思ったけれど、なにかぼくらは現実という「観念」があるだけで、自ら縛りつけられて、じつは現実に即したことを本当にしていると幻想しているだけじゃないか・・とも思う。

 まとまらないけど、長くなるから取り合えずおわります。
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by past_light | 2005-12-21 03:17 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(5)

「夜と霧」を読むのはいつも冬

 「厳しい寒さになるでしょう」とか、「暑さが厳しいでしょう」
 というふうに、天気予報ではいう。

 ここ数日、ことに夜ともなれば、暖かい屋内から屋外へ出ると、たしかに厳しいと思う。
 人間も動物も、厳しい環境では生きていくだけでもたいへんだ。
 よく会う野良猫に、翌日あいも変わらずに元気に生きているのを見ると安堵感がある。公園で、夕刻からすっぽりと防寒具にくるまって野外で寝付く人を見ると、極寒の夜はどのようなものなのか想像ができない。

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 「夜と霧」という本を、最初に読んだ時も厳しい寒さが来る真冬のわずかに前だった。暮らしている状況もやっぱり何となく厳しかった。今でもあまり変わることはないのだけれど。それは比較の問題になっちゃうんだろう。

 そして今年もまた読んでいる。最初からではなくて開いた箇所から読んでしまうのだが。

 書かれている状況の厳しさ、感傷も怒りも憎しみも、そんなふつふつ、どろどろしたものがそぎ落とされたような、書き手の崇高とも思える冷静な描写。それがその厳しさをかえって際立たせている。
 リアルに伝えるというのはこういうことなのだろう。

 そしてそれ以上に、これが単に、ナチス、アウシュビッツの、その時代のその残酷や悲しみや悲惨や・・と、そういうことを伝えるために書かれたものではないということに、なにか驚きも感じる。
 それがせいでか、よけいに、この本は普遍的に語りかけてくるものなのだ。

 著者は、その人間として尊厳をすべて剥奪されたかのような状況の中で、生きる意味を失わずには居られないような極限状況の中で、うつろに生きる屍としての人間ではなく、外からけして誰も侵しえない精神の自由、尊厳。そしてわずかといえ見せる人のいる「内面的な勝利」。そこに自らもいながらにして着目する。
 「ガス室を発明した存在である人間。またそのガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在」その人間とはなにか。

 「大方の被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないのなら、この苦しみに意味がない。というわけだ。
 しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、私たちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか。という問いだ。」

「だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証しだからだ。しかしこのことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折にふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。
 たとえば、あるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫は消えたのでしょうね。とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた。
 『そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ・・・』」

(ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」新版 みすず書房 池田香代子 訳)
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by past_light | 2005-12-18 02:13 | ■Column Past Light | Trackback(1) | Comments(4)

税菌

人民が飢えに苦しむ。
 それは上にあるものが税金をとることが多すぎるからであって、それゆえに飢えに苦しむのだ。
 人民が治めにくいのは、上にあるものが干渉するからであって、それゆえに治めにくくなる。
 人民が死ぬことをなんとも思わないのは、上にある者が生*を追求することに熱心すぎるからであって、それゆえに人民は死をなんとも思わなくなる。
 生のことを少しも気にかけないものこそ、まさに生をとうといとするものより賢明なのである。(75章)
 (*「生」とは権力とか立場、その延命とか・・、そういう理解でいいと思います。)

 天の道(やり方)は弓を引いて張ることに似ているであろう。
 高いもの(上の端)は押し下げられ、 低いもの(下の端)は引き上げられる。
 余りすぎはもどされ、足りなければつぎたされる。
 天の道は(このように)多すぎるるものから減らして、足りないものへ補ってやる。
 人の道はそうではない。足りないほうを(もっと)減らして、多すぎるほうへ差し出す。・・(77章、以下略)

 「老子」(小川環樹・注 中公文庫版より)
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by past_light | 2005-12-17 18:13 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)

カラダとタマシイ

・・・・・・・

「おいおい」とカラダは言う
「オレを脱いだらおまえはどうなる?」
「ふわふわどこかへ飛んで行きます」
なんだか嬉しそうにタマシイは答える

カラダはぶるぶるふるえて怒る
「生き残るのはおまえだけか?」
不思議そうにタマシイは答える
「そんなに死ぬのが嫌ですか?」

・・・
「生きたい生きたいいつまでも!」

その生きたい自分は誰なのか
カラダなのかタマシイなのか
生まれる前のことを思い出したい
ヒトの形になる前のこと

生まれる前にも自分がいたら
死んだ後にも自分はいる
「死んだら死んだで生きていくさ」
私の好きな草野心平さんの言葉です

・・・・・・・・

 「シャガールと木の葉」という谷川俊太郎さんの詩集にある「百歳になって」という詩から抜粋してみた。

 まるでこれは仏教だ。いやチベット仏教でも、ヒンズーでもいい。(笑)
 やはりいつかしら谷川さんはきたる場所に来ていたのだなと思う。

 「その生きたい自分は誰なのか」
 この言葉を見て、ラマナ・マハリシを思い出したのはぼくだけか。

 谷川さんは詩集の後書きにこうも書いている。

 「・・・だが私は時代に流されているとは思っていない。
時代を超えた時空に属している宇宙が、自分のからだとこころのうちにあると信じるようになったからだ。・・」
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by past_light | 2005-12-14 01:25 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)

「甘さと純情」

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「・・福永武彦の小説世界は、つまりはぼくが作った総(すべ)ての映画作品の内部に息衝(づ)いているのだと、ぼくはいま自覚する。
甘さと純情から逃れることは、もう一生不可能だと覚悟さえする。・・」

 大林さんのいつも偽らずのまっとうな本音だ。
 どんなににぎやかさに彩られたとしても、かならず孤独がもどってくる。

 それはまるで人の人生の彩りだ。

 「甘さと純情」。この、今ほど耳にすることのない言葉は、どこか異常に渇いた今の世の事件の中にあるものとまるで逆の薫りがする。

「・・『草の花』はつまりは人間と、その願いの象徴たる表現についての、純情というよりはむしろ「純粋」な孤独の書物である。
甘いというより、屹然(きつぜん)として此処(ここ)に在る。(新潮文庫)」

(引用は下記から部分)
この本と出会った】映画作家・大林宣彦 『草の花』福永武彦著
http://www.sankei.co.jp/news/051211/boo014.htm
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by past_light | 2005-12-11 19:45 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

過去と現在、記憶のコラム。関連ありなTBはラヴリー。リンクはフリー。コメントはブラボー。


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