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あなたもわたしもフェリーニが好き
 「道」のジュリエッタ・マシーナについて・・ 
 「すばらしい女優だ、少女の、無垢な感受性、いわゆる萌芽期の感受性をもっています」 (バルテュス・画家)

 「君だって、きっと誰かの役に立っている。世の中に無駄なものなんて一つもないさ。
この小石だって役に立っている。なにかは分からないけど何かの役に立っているんだ」


 「孤独がこんなに残酷に、逃げ回っても追っかけて私を掴んで放さなかった映画。そのくせ、なんという暖かさ。・・・私はまったく見とれた。初めてのこのフェリーニにとまどいさえした」 (「道」について、淀川長治)

                  ■

★「道」について、ネットのいろんな賛辞
「よく、亭主関白だった男の人が、歳とって奥さんを亡くすと急に弱るって言いますよね。
そういう男と女の本質みたいなものを、よく表現していると感じました。」

「粗暴の果てにみた孤独。無私に殉じた末の破滅と充足。悲しいという言葉だけでは失礼なくらいに綺麗な交差だと思います。」

「図書館の視聴覚コーナーに持ち込んで観たのですが、人目も憚らず、涙の垂れ流し。」

「---ひじょうに複雑なものを単純なかたちにするのが芸術だ---というジャンコクトーの言葉ぴったりだと思います。」

「これ以上に素晴らしい映画が何処にあるのよ?史上最高傑作でしょ?「11点」ってのはないの?」
「道」 (みんなのReviewより)

                  ■

★フェリーニへの創作家たちの賛辞

 「フェリーニは自分の映画のためにおこなったことを私たちのためにもおこなうことのできる人だった。
つまり自分の映画を不滅の存在にすることで、私たちの存在を永遠不滅のものにしてくれたのだ」(ミロス・フォアマン)。

 「彼の映画は喜劇的精神に貫かれ、途方もない才能で作り上げられている」(ウッディ・アレン)。

 「フェデリコはバルザックのごとく内なる炎をもった人である」(バルテュス.画家)
 
 「フェリーニは映画における真の野獣である」(ルキノ・ヴィスコンティ)。

 「この世界はハイデガーを忘れ、カフカを歪め、現代芸術最後の巨人であるフェリーニを軽んじている」(ミラン・クンデラ)。

 「私たちはみんなフェリーニのようになりたいと夢みていたが、フェリーニは唯一無二の人であり、誰も彼のようにはなれなかった」(ルイ・マル)。

「フェリーニの出現とともに距離の映画は接近の映画へと逆転した」(イタロ・カルヴィーノ)。

 「ぼくはフェリーニが好きだ。それは彼が映画を作っていると同時に、自分だけの独自の世界を創造しているからだ」(スパイク・リー)。

 「フェリーニの映画の何本かは十回も見た」(イングマル・ベルイマン)。

 「フェリーニの映画は子供の打ち明け話のように幻想的で、そのスタイルは映画の登場人物のまわりに巨大なカオスを作りあげる」(ジム・ジャームッシュ)。
                    ★

 「すべてのものは何かの役に立っている.この小石だってそうだ。
この小石の存在が無意味だと言うのなら,すべてが無意味だ」(映画「道」より)
                ・・・・・・・・・
 ◆いつになってもつくれないフェリーニ特集。
 数カ月前何本かを再び観直した。
 もう、ぼくはフェリーニがいかに好きかを確認する時間だった。
 やっぱり「8.1/2」はすごかった。「甘い生活」は見応えがあった。「女の都」は楽しいやらうれしいやら・・。
 いつかかならず特集するぞ。修行するぞ。
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by past_light | 2005-11-27 03:23 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(6)
なんでもない光景
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 地面に顔をつけて猫の視線になるつもりだったが、膝だけついて写真を撮った。(笑)

 仲のよい二匹の猫がいる。というか、片方がとてももう一方を慕っているのだ。
 一方がどこでもついてくるので、もう一方は時々煩がって癇癪をおこす。でも今日はやさしい。背中を舐めてあげていた。

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 だいぶ寒くなって来たこの頃。暖まろうと胸によじ登って抱かれに来る猫もいる。
 しばらく暖まると満足して降りる。こちらがしつこくするとかじられる。
 
 やがて2匹はふたり仲良くくっついて寝た。陽射しがある枯れ葉の中で。そこでぼくは枯れ葉を布団にしてやった。
↑タイトル画像を参照(笑)。

 野良生活の猫にはこれからちょっとつらい時期だ。
 知っているいくつかの公園には、かならず世話をして餌や病院の手配までしている方々がいる。そうしてそんな場所で友だちに出会う人たちも多い。

 近くで怪しい少年が(笑)、遠慮がちにポッケからデジカメを取り出して写真を撮りはじめた。
 かわいい犬を連れた、両膝に大きな穴の開いたビンテージジーンズを着たミュージシャンみたいなお兄ちゃんと仲良くお話しした。

 夕暮れが早いなあ。
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by past_light | 2005-11-20 18:30 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(12)
しぜんとこども
 アウトドア、なんて言葉もなかった頃、自然の中で遊ぶということは贅沢なことではなかった。
 自然は楽しさだけではなくて、時々ちょっと怖くて、足下に注意したり、天候の変化にも敏感にさせた。
 教育って、人だけがやるもんじゃないなぁと思う。

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 何故コンクリートの匂いのする事件ばかり流れているのだろうか。
 自然から遠く隔たってしまった人間の子供は、心のバランスをどこで取り戻せるのだろう。

 自然と言っても、どこか遠くに出かけることじゃあない。
 公園に行って、お母さんの保護のもとにサッカー教室に精を出すのではなく、ただただ地面に顔を付けて、たとえば猫の視線になってみてはどうか。
 そいつはただだ。
 ただほど軽んじられるものもないなあ。
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by past_light | 2005-11-19 03:15 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
『天空の草原のナンサ』
 まだ未公開の映画。そんな映画を縁あって、関係者がまわし見るのだろうサンプルビデオで観た。

 これはもう、広い広い大地と空と地平線の好きな人にはたまらない。
 いや自然な子供の姿( かわいいの絶頂です ! )と、日本ではもう懐かしいと言うしかないような素朴な犬。そのつくらないゆえに現れる表情やしぐさは、どんな計算された演技よりスリリングであり、染み入るように観終ると余韻を残す。
 ドキュメンタリーのようであるかどうか、とか、そういう分別を忘れたい。

b0019960_18373080.jpg 淡々と描かれるモンゴルの現在の遊牧民の家族の、細やかに描写される生活とその日々。
 監督が女性であることが、このような細やかな日常の、ひとこまひとこまにある豊かな表情を、ぼくらに贅沢に味あわせてくれるのだろう。

 物語は未公開なので、説明しない。
 というより、もしかしたらおもてだって大袈裟なことは何もおこらないという、この品格ある映像で静かに語られるかれらの時間を、ぼくらが堪能できるということが、すでに特別な体験だろう。

 モンゴルだからというのではなく、たぶん、世界のどこであれ、失われていくのだろうという切なさも余韻にはあるけれど、「暮らす」ということをゆっくりふりかえる時間にもなりそうです。

 観ていて、なんとなくヨーロッパ映画のような洗練されたセンスを感じていたのだけど、監督はドイツで映画を勉強している人だという。
 サントラ音楽も素晴らしい。とくに悠々たるラストシーンに流れる旋律はすばらしい相乗効果です。

(2006年お正月、シャンテシネにてロードショー)
オフィシャル・サイト(まだ、トップページしかありません)↓
http://www.tenku-nansaa.com/
作品紹介ページのひとつ↓
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6229
監督のインタビューがある↓
http://www.huit.org/cate/movie/nansa/nansa.html
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by past_light | 2005-11-14 02:38 | ■主に映画の話題 | Trackback(13) | Comments(2)
祈りのふりをしてお金を数える天使
 その人は胸から絞るように話していた。

 「そりゃ、わたしだってお金欲しいですよ。欲しくない人なんていないでしょう。
 でも、それはすぐなくなるものでしょう。もとからある自然は大事にしないとねぇ・・」

 ネーネーズの「黄金の花」が流れる、沖縄のおばあちゃんだった。

 そうだったね。
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by past_light | 2005-11-12 02:09 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
無事の人
 「デジタル時代のヒューマニズムを考える」とタイトルされたその章は、他の著者の章とは読んだ瞬間から印象が違っていた。

 以前、借りた本で、それは何人かの共著によるデジタル時代のちょっと見はハウツーな仕事術の話だった。
 そしてそれは最後の章を担当した中川昌彦という人の書いた部分だった。それまでの章とはかなり異質な、なかなか柔らかな感性で書かれている箇所だ。

 いわゆる効率とか、いかに勝つか、とかいう点からではなくて、いかに人間性を失わず、バランスし、新たなメディアと良心的な付き合いをするかという視点に貫かれていておもしろかった。
 他の章もそれなりに興味深く、ハウツー的なものの大切さを改めて見直す参考にもなったが、この中川というひとの章を最後に持ってきた編集者のバランス感覚も誉めたい気がした。

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 以下にひとつだけ引用する。

 「 無為、しかしウソのない人生」・・という題。

 『デジタル化社会には、われわれの生活全体が時計仕掛けで管理されていくような、ちょいとせちがらいイメージがある。

 そんな時代に、人間性を喪失せず生きていくのには、逆に意識的にあくせくせず、ジタバタせず、無為に暮らすといったときをもつこともたまには必要だ。

 漂泊の俳人種田山頭火の晩年のエピソード---。

 当時日本は戦時体制に入っていた。そんなある日、松山の寓居を新聞記者が訪ねてきて、「この時局にブラブラ暮していることを一体どう考えているのですか」と聞いた。
 それに山頭火、こう答えた。
 「私はイボなんですよ」。

 「イボは何の役にも立たない。しかし、それほどジャマにもならない」。
 ---つまり、私は別にどなたのジャマもしないから、どうかソッとしといてくれという意味なのだ。
 そんな心境に、山頭火の無為の自己放擲のヒューマニティが現れる。

 何年も前の話だが、新宿の小さなバーで、「どんな分野でもその道何十年という人はすごい」という話になった。

 しばらくして相客の一人がポツリと、「私40年生きているんですけど、こんなのはダメですか」、そう発言したのが、今でもとても印象に残っている。
 何事もなくただ無事に生きている。このようにたんたんと生きることの中にも、素朴でウソのないヒューマニティが静かに流れているのだ。』

 これを読んでいて老子の話も思い出した。
 無事の人・・はたして無能の人、なのだろうかどうか・・。
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by past_light | 2005-11-09 01:14 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
テキミカタ
 前にテレビで見た話で、襟裳岬だったと思うけど、アザラシが網にかかる鮭を食い荒らしたりして、とても漁民の方々が困っている。
 でも、アザラシを保護したい人たちはアザラシを守りたい。アザラシだってもともと海で生きて来て、これからも生きていかなくちゃならないんだ。

 こういう話は、内容こそ違えいろんな場所で起きる。
 そこで、やはり対立して争いが生まれやすい。
 しかし、ここのはなしでは、お互いにのんびりとした話しあいの場を設け、腹を割って相手の話を聞きあう機会をひんぱんに設けたそうだ。
 するとやがて対立ムードは和らいで、相手の立場や話をじっくり聞く余裕ができ、話を自分に引き寄せて聞くことができてきた。それからお互いに情報交換などしたり、協力しあおうというムードまで生まれたという。

 そこの漁師さんのリーダーみたいな人がとても冷静で、そういう方の力のおかげもあるかもしれません。
 その方が「共存、共生」と言う言葉を使っていた。
 切実に自分達の生活に関わることでもありながら、性急に一方的にアザラシを憎むのではなく、アザラシの生態などにも関心を持ち、なんとか冷静に漁民とアザラシの共生を考えていこう、学者などのアイデアをも取り入れて、いろいろ試みていこうとされているのが、そんな「共存、共生」という言葉を説得力のあるものとして感じさせた。

 また、場所はアフリカだったと思うはなし。

 そこでは夜間、村の畑を象が荒らしたりするので困っていて、村のみんながゾウを嫌っていた。
 
 しかもなぜか、実のところは、そこの人たちは近くでよく象をじっくり見たことがなくて、畑を荒らすと言う悪いイメージだけをゾウに抱いていた。

 ある日、日本人の女性で象の保護の活動をしている方が、バスツアーにみんなを誘う。気の進まないまま、村のみんなは、はじめてのゾウ見学に出かけた。

 なんと身近で見る象にすっかり魅了された村の人たち。
 怖いとか、邪悪な動物というイメージから、一転、固定観念から解放され、「こんなに可愛い動物なのか、随分思っていたのと違うんだ」というようなことを笑顔で話していたのが興味深かった。

 もうぜったいゆるがないように思える対立。こういう状況はいつも近くで起きていることに通じていて、こじれると誰しも心にヘビを飼っているようなものだ。

 よく知らない、知ろうとしない。そして早急に決めつける、
 相手の立場や状況を考えず、性急に敵味方をつくり上げる。
 
 しかし実はそういうほうが、問題はこじれ、解決への道も遠くて、長引く。ということを改めて感じるようなふたつのお話でした。
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by past_light | 2005-11-06 14:14 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
わたしはそうはおもわない
 そういうタイトル、佐野洋子さんの本にもあった?
 だけど、その本の中身は知らないので、わたしはどうでもいいんですけどね。

b0019960_024337.jpg よく聞くし、使う言葉ということで、河合隼雄さんの本を読んでいた時も似たようなニュアンスの話があった。
 そのなかでは「わたしはどうでもいいんですけどね」という言葉だった。
 よくカウンセリングの中で登場する言葉らしい。それはやはり多くの人との臨床の中からの発見だという。

 家族や職場、そんな様々な場面の関係のなかで、実は自分にとってほんとうは「どうでもよくない」、けっこう気になることだから、ぎゃくにわざわざ登場する言葉だと言えるのだろう。

 また「私はこう思う」ではなく、なぜ「私はそうは思わない」という言葉が出て来るのか、これからもできるだけ自分を観察しておこう(笑)。
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by past_light | 2005-11-01 00:17 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)