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マディソン郡の橋
 ご存じ、チョーベストセラーとなった原作があった。その映画化。
 クリント・イーストウッドの監督作品になり、彼の映画では観客動員も多かった作品だろうと想像する。
 ぼくは原作はついに読まなかったのだが、この映画もテレビの日本語吹き替えである。だから、入れ込んでいた人達には眉をしかめられるかもしれないが、けなすわけではないので許してもらえるだろう。

 クリント・イーストウッドは俳優としてダーティハリーなどでも有名だが、監督としてはこういう映画こそ彼のつくりたい映画なのだろうと思う。監督作品もすでにたくさん集積したベテランでもあるが、単純なヒーローものだけはつくらないところが好感が持てる。

 そんな知る人ぞ知るというか、ぼくは映画の好みが一致しそうで、時にあれっ?と思わせ違和感もある教授で評論家の蓮実重彦氏が、なぜかやたらと誉める監督業の俳優でもあるイーストウッド。
 自ら演じるのは、なんといっても彼のもうけものと言うしかないほどの魅力のある初老の男。
 繊細でやさしく、大人で少年で誠実で正直で、気がきいてて、人の思いを読みとり傷つけることを最も敏感に嫌い、かっこよくて、思慮深く、個性があってバランスがとれてて、デリケートで、と思いつくすべての男の魅力が結晶化されたかのような人物である。
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 ラスト近くの雨のなかのシーン、相手役のメリル・ストリープの車の前に歩いて出てきて、寂しい微笑を見せて車に戻る姿と表情。
 信号待ちの車から、後ろのメリルと旦那の乗った車にウインドー越しに見せる姿。十字架をバックミラーに架けてメリルに静かに決断を促すダンディさ。それらは原作にあるかどうか知らないが、たいしたものだと感心した。
 それは演出された演技のみならず、クリント・イーストウッドが長年生きてきた男、俳優として、静の動作であらわした奇蹟を見るような気がした。

 相手役のメリル・ストリープは、役柄のために多分ずいぶん頑張って中年婦人の体型を獲得していて、安心して見ていられるようにプロ根性をいつものように見せている。
 ともかく、たいへん落ち着いて観れる大人の映画だと思う。
 なによりやはり、原作にうわさされたピュアな精神が本物かもしれないと思わせる映画に仕上がっていて、この純愛ストーリーも、おとぎ話のようでいて、多くの人の心のなかにあるリアルなハートランドの物語だろう。
 アメリカ映画がたまに見せてくれる、あったかいプレゼントだ。(1999.2.12)
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by past_light | 2005-02-27 18:10 | ■主に映画の話題 | Trackback(2) | Comments(2)
良寛さんのあばら家
 良寛さんは極寒の越後の冬をあばら家のせんべい布団で乗り切ったという。
 ひたすら春の訪れを待ちわびながら・・。
 今夜は腹の底まで冷える・・と、ことに冷え込みの厳しい夜の辛さを詠っている。 足りない米で粥をつくってすすり、そんでもってやがてせんべい布団の中だ、そりゃなんとも想像するのにも気がひける。
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 だからよけいに春の訪れは、それはそれは待ちわびたものだっただろう。そんな季節の待ちわび方、忘れているなぁ・・。
  夏は夏で、アパートまたは下宿にクーラーなんて夢にもなかった頃、クーラーのきいた映画館で、旅する主人公のジャンパー姿に妙に憧れ、やがて映画館を出た時の都会の街の照り返し、むっとする吐き気のような酷暑の中に放り出されて現実に引き戻されたことも、蒸せかえる帰った部屋の地獄絵図・・まあ今ではある意味なつかしいか。

 良寛さんに話を戻すとね。
 春になって弛んだ土の上でのんびりと、誘われるまま子供たちと日長夕暮れまで手毬をついて無心に遊んだそうな。
 時折、村人がそれを白い目で見て通り、「いい大人が」とか「働きもせず」とか「僧のくせに修行もせずに」とか非難しているのを、良寛さんはただ黙ってすまなそうにうつむいたそうな。
 かといって自己嫌悪なんかに陥ったわけじゃない。それはそれだけのこと。
 それだけのこと、というあたりが肝心なんですゥ。

 いろいろ面白い話がある中で、あばら家で寝ている良寛さんのところに泥棒が入った。しかしなんにもとるものがないので、泥棒は怒ったのか、なんと寝ている良寛さんのせんべい布団を盗もうとした。
 図々しくも無理に引っ張って捕ろうとする布団は、良寛さんの痩せたとはいえその重みでなかなかとれない。
 気がついた良寛さんは寝返りをうってとりやすいようにしてあげたそうだ。

 布団をなくしたその後の良寛さんについて史実はあきらかにしていない(泣)。
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by past_light | 2005-02-26 02:29 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(0)
山田太一ドラマ-2『そして、友だち』
 山田太一のドラマに出演したヒロインなどは、ドラマの性格とは反対に、その後人気アイドルとなる人も記憶にある。しかし、このドラマのヒロインである深田恭子はすでに人気のある女優だ。彼女が等身大の高校生を演じているので、同じ年代の人も感情移入しやすいのではないだろうか。
 母子家庭という設定の、その母親役である仁科明子も復帰後初めての本格的なドラマ出演だと思う。

 働き過ぎで亡くなってしまった、やさしい父親との過去(少し前までの好景気と豊かさをも象徴する存在)も、まだ生々しくよみがえりそうな日々の中、悲しみと寂しさを乗りこえて頑張ろうとする母親の生存への力み(現代の生活者)、そしてそんな働く母に気を使い、甘える対象を喪失し習慣のように父の亡霊に語りかける娘の、湧き昇る日常の閉息感からの自由への衝動・・。

 そんな日々の中で、偶然出逢った青年との、彼女の生への情熱としても大切な、ある約束の遂行がドラマの発端だ。
 ・・「これから・・私、少し変になるかもしれないけど・・私を信じてて下さい」と、彼女が母と教師にいう言葉からドラマは展開する。
b0019960_12340317.jpg 退学した同級生へ接近。ウソとマコトの入り混じった曖昧な交流から、その傷を乗りこえ共感と友情を見い出す物語のラストまで、ドラマはずっと深刻ぶらず爽やかだ。

 また携帯電話という存在が、単に現実的なアクセサリーではなく、ちゃんと気持ちを伝える愛すべき道具として登場する。山田太一の積極的に現代を描こうというモチーフでもある。

 大滝秀治演じる住職、かれが老いて行く自分を言う、「もう、だれにも愛されてないから」という孤独。
 住職という父に関心が希薄な、息子である寺を継がない友だちの父親。かれが実利的な奥さんの達者な小言に思わず怒鳴る時に口にする「すぐに結論が出せない、曖昧なのがオレの生き方なんだ」という言葉。
 そして、深田恭子と仁科明子演じる母子家庭で、葛藤の終焉をむかえた母と子が、「お父さんは、もう居ないの。なぜお母さん助けてって言わないの ! 」「だって、大変そうだと思ったから」
 と本音をぶっつけ会う場面。
 それらはひとりひとりの孤独と、溢れる情愛の接近を感じさせ、深く伝わり心の動く脚本だ。

 人の正直なところの弱さを認めた上で、それを包み込んでしまおう、さらにすすんで、弱さを問題としなくなった人の心のすがた、互いの共感を軸とし人間の関係を手探りするような山田太一の試み。
 それはこのドラマ「そして、友だち」では、主人公の友だちの家庭の舞台でもある都会の街にしずかに共存している「お寺」という場所をとおしても、象徴され、暗示され、そして共時的に模索されている。それは先述の大滝秀治の住職という役の中に、あらわれる人間的な迷い、そこにおぼろげにも輪郭となっている。
 そういう意味では山田太一の宗教的な接近であり、その表明とも感じさせられた。
 人の関係を特別な設定に頼らず、現実のありふれていながらも誰しも解決に迷っている題材に目を向け、脚本家として踏み込み、そのなかから新しい人と人の関係、距離を見つけたいとしているように感じる。

 山田太一のドラマは、物語の締めくくりには時としてファンタジーをすら思わせる大団円を迎えることもある。
 それは、奇麗すぎたり理想的に終わる話に思われるかもしれない。
 しかし絶望とはまた、希望への隠れた内在する運動のプロセスと言うことができるだろう。もともとあった場所、ものに、気づく旅なのかもしれない。

 ファンタジーと言うと、このドラマでは死んだ父親役の三浦友和が深田恭子を陰から見守りサインを送る。
 そのサインの意味が最後に明らかにされるが、それは「大丈夫。真直ぐ行け」というものだ。
 このシンプルなサインは「信頼」を意味し、ぼくらを応援しているものかもしれないが、 理屈は抜き、ただただ視聴者が心に受けとめればいいのだろう。
テレビ朝日放映(2000.1.19)
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by past_light | 2005-02-24 22:28 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
山田太一ドラマ-1『小さな駅で降りる』
 山田太一は、基本的に現代が抱えている問題を避けた、いわば逃避的な夢物語を書くわけではない。かといってそんな時代をただただ、なぞるような流行りものという視点でドラマ作りすることも全くない。
 同時代を生きるひとりとして誠実に問いかけ、その向こうにある可能性としてのメッセージを込めた脚本を書いてくれる。
 綿密な現場の取材に裏付けられながらも、けっして時代のあからさまなリアルさだけを追求していないところにも感心させられる。そんな数少ない、脚本家としての責任を自覚したかのような精神の人である。
b0019960_17531291.jpg ドラマの中に込められるものというのは、日常ぼくらが時に圧倒されがちな現実の壁の前で、柔らかな精神を麻痺させ、窒息しつつ方向感覚を失いつつある日々に、ある意外な方向から起きる無垢な形とさえ思える事件や、そんな登場人物の自由闊達な無邪気さによる出来事の注入によって、その窒息状態に風穴を開けてみせるのである。

 「小さな駅で降りる」では、主人公になる中年のエリートサラリーマンふたりが、会社のリストラ真っ最中に、社長直属で新しく設けられた合理化のための戦略チームの仕事を成功させようと張り切っている姿で始まる。
 しかしその姿からは、のちの伏線として感じられるような、やや追い詰められたような頑張りが見えてとれる。
 リーダーである中村雅俊演じる部長が、最も信頼関係にある部下を演じる堤真一と、昼食をとるため店の前で順番待ちしている場面でもそれは感じられる。

 「こんなとこで・・なんですけど・・」
 「なに、辞めるのか?」
 「は・・?」
 「会社・・」
 「辞めませんよ」

 彼らの奥さんを演じるのは樋口可南子と牧瀬里穂。
 彼女たちの柔らかさと無邪気さが、その後、彼らを本当にそうさせるまでの物語は、山田太一の脚本家としての力を充分感じさせるものだ。

 趣味を楽しむのんびりとしたような奥さんふたり、彼女たちは山田太一ならではの風穴を開けようと試みる、そんな無邪気な天使だ。

 身近にリストラの嵐。見るものによっては、それを助長するかの視線を覚悟しなくてはならない夫たちの仕事。そしてそんな企業常識であるか、利益を確保するためにやむを得ないとされる合理化という名の突然の首切り。
 この時代にある中年の男たちにしてみれば、自ら進んで会社を捨てるなどという考えなどみじんもない。そんなことは人生を捨てることにさえ匹敵する。

 「疲れてるんだ ! ずっとずっと仕事なんだ」
 「だから休もう」
 「なに言ってる ! 休んでどう生活していく。家庭の平和も仕事あってのことだろう。 休め・・?バカなことをいうな。 男の仕事をなんだと思ってる。」

 ・・そんな展開になるのは、妻たちの企みで内部告発めいた文書が社長に届けはじめられるところからで、夫たちの仕事の曖昧な価値というものが浮き彫りにさえされてくる。

 「2年、休もう」「今休む方が、60歳になって休むより楽しいと思うの」

 脇役としては贅沢な出演者である登場人物たちも重要だ。
 山崎努の小売店から自力でのしあがった昔気質のスーパー経営者。典型的リストラに遭遇するかの中間管理職である柄本明。また二代目社長の後見人・子守役みたいな専務を演じる佐藤慶など、彼らが説得力のある現実感を象徴的にドラマに与えている。 彼らは現代の歪みを白昼の中にさらす存在でもある。
 なかでも山崎努演じるスーパー経営者は、
 「今の時代のやり方についていく気はないよ」「そんなに儲けてばかりでどうする」
 と、奥さんの痴呆症状の出会いをきっかけにして、この時代の駅を突如降りる。
 「いいかい、最後に残るのは会社じゃないぞ。カミサンだよ」

 合理化による会社の生存競争にも、角度を変えてみれば他の世界に全て目をつむり突進する、そんな猛牛に追い立てられているかのように、あるタイプの女性には見えるだろう。
 彼女たちはテレビで、スペインの街なかに牛を放してその前を逃げまどう男達のニュースを観て、「どうして、男って、わざわざ牛の前を走るんだろう」と呟く。

 現代ではもちろん、女性でも男社会で頑張る人はいるから男だけの世界の話ではないし、このドラマでもやはり頑張る女性が出てくる。
 なかでも根岸季衣の役は象徴的で、エリートでベテランのOL、しかし夫婦関係は壊れ、離婚を決意した彼女はリストラの影におびえている。
 「今は仕事、失したくないんです。プライド、持ってたいんです・・」

 作者である山田太一は誰かを非難や批評をしているわけではない。そう誰しも事情がある。
 しかし、ただ現代の風景を黙って容認するだけでいいのか・・。
 おかしいと思ったらおかしいと言わなくてはならないのではないか。そんなふうに感じさせるメッセージは、人がこの世に命を受けて生を謳歌せず、時代に翻弄されて、がむしゃらな日常の中で人間の尊厳を見失っていいのか・・というようにも聞こえる。

 樋口可南子と牧瀬里穂の奥さん役を観ていて思い出したのは、スペインの映画監督ビクトル・エリセの言う(現代では必ずしも定説たり得ないのはもちろんだが)
 ---周辺にいるからこそ、世界の深さと真実を感じとっているのは女性と子供ではないか---という洞察だ。
 子供の視線といえば、中学生の娘が感じ取っているものに、ある種の鍵があると思う。
 「お父さんは忙しいの、わかってるし・・。ふたりとも私のことちゃんとやってくれてると思う。別になにが不満というわけじゃないけど、でも・・なんか・・むかつく」

 ふたりの妻たちは決定的な手段で夫たちを休ませようとする。
 ふたりの夫は、自分たちがギリギリのところで頑張っていたことを妻が理解していたことを、そのとき素直に喜ぶ。
 部長役の中村雅俊は、緊張が突然ほぐれたかのように膝ががくがくと折れ、その場にへたり込んでしまう。

 よく晴れた日、彼らは鈍行列車の旅に出る。
 途中、急行通過待ちの小さな駅に列車は止まる。
 勢いよく駅を通過する急行列車。
 それを見送る彼らは、 そしてその小さな駅で降りてみようという。

 「こんな旅初めてだね」
 「時間はたっぷりあるさ」
 「お金はないけどね」
 久石譲の音楽がそんな空気にとても合っている。

 小さな駅で降りた彼らの旅は始まったばかりだ・・。
 (2000.3月 12日テレビ東京)
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by past_light | 2005-02-19 20:37 | ■主に映画の話題 | Trackback(3) | Comments(0)
「幻の光」と「ワンダフルライフ」
 「幻の光」と「ワンダフルライフ」は是枝裕和という監督の作品。
 「誰も知らない」でついに一等賞という監督になった。しかしその映画はまだ観ていないので、感想は書けないのが残念。
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 「幻の光」(1995年)は江角マキコの初出演・主演ということ。
 アップの少ない画面。画面のトーンも暗く、テレビの画面だから、さらに表情もよくは伺うことができない。しかし、それがマイナスかと言うと、意外にそんなこともないのだ。抽象的なドラマの雰囲気がより抽象的になって、妙に心に残ろうとでもするかの画面だ。

 多くが遠目のシルエットで静かに語られるスタイル。それがこの映画では印象的に網膜に残るようだ。それは登場人物の心の中がそのまま風景になったような画面ということだ。
 言葉による説明もほとんどされないので、彼らの行動の動機も想像力を要求する。しかし、想像すること、じつはそれを空しく思う。そんな心の情景を嫌と言うほど知っている人、馴染んでしまっている人にとっては、ということかもしれないが。
  説明できない人の心の軌跡を描いていると思えば、ラストに近い主人公の言葉にされた「長い間の問い」も、もしかしたら必要なかったかもしれない。

 音楽が、ウィンダムヒル・レーベルのものかと思ったんだけど、このへんは確かめていない。
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  次の「ワンダフルライフ」はセリフの多さから言えば、比較にならないほど「言葉」を聞くことができる。
 しかし、この映画は映画そのものを場に借りた寓話となっていて、死後の中空の期間をドキュメンタリーのように語りはじめることから、そのアイデアにも身を乗り出してしまった。

 登場する人は、役者さんも含めて、きっとほんとうにあった自分の過去を語っているように思えるような話が多い。だから思い出を語り、探り、確かめるような、その表情が、聴いているぼくらにもナチュラルに楽しいのだ。

  「あなたが、いちばん幸せだった瞬間を思い出して、決めて下さい」
 そうすれば、その瞬間の感情に永遠に住むことができる。
 ということだから、死んだ後の世界の入り口を話にしたとはいえ、ほのぼのと春の光の中でまどろむような雰囲気だ。まるで学芸会の準備をするような感じ。

  テレビ出身の監督という話だったけれど、まるで映画という媒体の特殊さに、のめり込もうと意図したかのように、つよい映画への愛情も感じられる。
 ふたつの作品とも、強引に我のテーマを押しつけようとはすることなく、ドキュメンタリー的な作りを感じるのも、日本映画の中では新鮮だった。
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by past_light | 2005-02-17 20:06 | ■主に映画の話題 | Trackback(5) | Comments(4)
適当「となりの山田くん」、前説「癒しと慰め」ヘリクツ編つき
 ■前説
 何年も前のこと。録画しておいた宮崎アニメで有名なスタジオ・ジプリのテレビ特番を見た。 上映中の「となりの山田くん」の製作風景などを1年に渡って追ったものだ。
 アニメキャラのタッチからは想像できない、なかなか細かいところにものすごく神経を使って、納得の行くものをつくろうという高畑監督の意気込みが感じられた。多分、観客は見逃して気づかずにいるようなところに大変な労力を使っているようです。
 この題材が発表された時、ぼくもびっくりしました。テレビの似たようなキャラのアニメが昔あって、内容はだいたい似通っているので、「これを映画デ・・」という意外さを覚えたのはやはり誰しも同じだろうと思う。
 宮崎アニメとは真っ向から対照的なものを創ろうという思いもさることながら、ちゃんとこの題材を選択する必然性を強く持って挑んでいるのがわかる、とても面白いテレビ特番だった。

 主題歌のアーティストに矢野顕子が選ばれ、まるで彼女しかないというタイトルソングが生み出されはじめると、難航していた作画の製作が、す〜っとスピードを増して順調に完成に向かうところなど、こんなところにも不思議な縁が感じられる。
 その矢野顕子が企画書を渡された段階で、引き受けた理由を話していた。
 『「癒し」という言葉は消極的な感じがしていたが、この企画には「慰め」と書いてあり、慰めると言うのは家族とかそんな関係の中で、されていく大事なもので、積極的なものだと思う』というようなことを言った。(多分この頃、旦那の坂本龍一の癒し音楽に、ある意味の対抗意識があったのだという感じが見て取れたのはぼくだけだろうか)
 ぼくは、癒しというのは、不特定多数に電波のように流されゆくものという一面もあるだろうと思う。厳密には双方の出逢いと、相手次第で効果とか伝わり方も変わるようなエネルギーのようなものだろうか。現在の言葉の使われ方は別として、本来からいえば否定的には感じない。
 しかし「矢野顕子の言う--慰め」という意味も、家族や友人など親しい関係から、その場のタイミングでしか可能ではないスキンシップのなせるものだろう思った。必要な人が必要な時に、自然に受けいれられる環境が、家族とか親しい間にのみあるものなのかもしれない。
 そういうことで言えば今のこの時代に、あえて--慰める--という言葉を使うのもなかなか勇気のいることかもしれないと思った。
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■映画感想
 観た人はわかるけど、「適当」は「となりの山田くん」のテーマだ。
 この年縁あって、スタジオジプリの、このアニメ映画を観ることになったのは、姪が遊びに来ていて、「スターウォーズでも観ようか」と言うと、「山田くんがいい」ということなので、それでは、ということで観たのだ。

 ちょっと久しぶりの映画館は、自販機の缶ジュースの値段に呆れたり、予告編の歪んだ耳をつんざく大音響や、アメリカ映画の予告編のこけ脅かしは不快で、料金は高くてサービスの悪い映画館に、観客数の少なさを同情できなくなっている自分がいた。こういうことが--適当--だと、先行き不安は解消しようもないと思う映画興行界か。
 しかし「適当」という文字を改めてみれば、「適度に的を得ている」という言葉になるのに、普段「適当だな」とか言うと、かなり否定的な響きに使われている感じがする。

 「となりの山田くん」で高畑監督が意味したのは、ジプリの前作である宮崎監督の「もののけ姫」に対してのアンチテーゼということらしい。「生きろ!」ではなく「適当」というわけだ。
 「もののけ姫」のメッセージは、感じるものにとっては世紀末的サバイバルな人生に、なんとか逃げずしぶとく生きろ、というような励まし、そんな人間的包容力を要求するようなやや大きなメッセージがあったように感じられた。
 それは高畑監督の言うように、そのメッセージの刺激が観客に与えたのは、確かに一時的な興奮を呼び覚しただけかもしれないし、簡単に生きる力を持続的にそこから掴みとることなど、かなり嘘っぽいセンチメンタルなことかもしれない。
 しかし「もののけ姫」が、答のない結末を余儀無くされたようにその問いかけは、観客にとってはどこかこころの深く公案的に存在しえたかもしれない。

 それでは「となりの山田くん」の「適当」はどうかというと、ある意味では、もっと時代の病に深く関わった必然としてあらわれて、今の時に再生されたものではないかという気がする。

 「生きろ」で力が湧いて来る人はまだ、きっかけがあれば自分の足で立ち荒野にひとりで旅することもできる人だ。一方、制作風景の話でも書いたが、癒しより「慰め」が身近な関係から必要とされる人の心の疲労は、実はもっと身近で日常的で切実な出来事かもしれない。そんな人は自分の中から「適当」の感覚の記憶の浮上を必要とする人だろうか。

 --頑張る!--って、どういうことなのか・・、それを先入観を捨て、その実際の--頑張る姿--を直に見つめてみると、意外に自分から望んで発動したものなのか、環境と自身の刷り込まれた観念より圧力を加えられて、むりじいしている姿なのかわからなくなるものかもしれない。それは立ち止まれば見えて来るものなのか。でも、立ち止まることが怖いという人もいる。

 「適当」は真ん中の--感覚--を意味するものだろうか。「勝つことの夢」を追いかける、その過程が時に他者を排除し傷つける、容赦ないイボ猪の突進のようであったりすることもあるかもしれない。それは他者のみならず自らもを破壊することもありうるかもしれない。「適当」はそうテキトーに誰もが持ち合わせているとは言えない、絶妙なバランス感覚なのだ。

 もちろん、どちらの映画のテーマがすぐれているとか、賛成反対を言っているのではないことは明らかなのです。
 こんな話をすれば、「となりの山田くん」が、そんなめんどくさい映画なのかと思われると、ぼくの責任になりそうなので、映画とは全く別物の感想かもしれないし、変な先入観をぼくが与えたら、こりゃまた適当じゃない。実際、子供達がよく笑う楽しい日常的なギャグセンスの笑いに満ちた映画であることを言わなくてはいけない。お母さんの声優役、朝丘雪路が素晴らしい。それからまた、例の矢野顕子の素敵な歌も楽しかった。彼女は「適当」の先生として声も聴ける。

 それにしてもこの感想は、西脇順三郎の「批評はそれ自体、ポエジー(創作)でなくてはならない」という、ぼくの強迫観念かもしれないのですね。で、「適当」かどうかかなり疑わしいのです。
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by past_light | 2005-02-13 20:31 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(4)
リストラの雨あがる
 黒澤明の遺作稿の脚本を映画化した「雨あがる」。
前に残念ながら1時間近くも見逃してしまって、テレビで途中から観た。

 淡々とした物語の運びやシーンの繋ぎは、晩年の黒沢の作品をそのまま観ているようなところもあり、「まあだだよ」という映画をぼくは映画観で観ていたので、この不思議な静かな語り口に、ちょっと興味をおぼえる。
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 「雨あがる」の物語はすごくシンプルなようだ。前半を見逃していても後半の話についていける。
 主人公の侍は、腕がものすごく立つのに奥さんと職を求めて旅道中を続けているようだ。
 しかし、ある地区の殿様と息が合い、彼の人格がめっぽう気に入られ、その城にお勤めできそうになる。
 翌日の腕試しみたいな試合にもケタ違いの強さを見せる。
 相手に不足している家来達に業を煮やして殿様が相手をする。思わず本気になって川に落としてしまった主人公に怒った殿様。
 宿に帰る主人公は、またしてもこの話は無になるかも知れないと自分に腹をたてる。

 林の中で過去の賭け試合の負けの恨みを晴らそうと、束になってかかる十人ほどの刺客と戦う主人公の強さは、ものすごい。
 「椿三十郎」のシーンを思い出させる。

 宿はいろんな人の泊まる宿。旅芸人やら物売りやら、主人公の奥さんは「みんな貧しいけれど、暖かい人ばかりですね」と主人公とうなずきあう。

 これもテレビでよく観ていた画家の30分特集の、その日は「ルノワール」だった。
 彼が都会生活時代のレストランでの想い出を話している。
「1階では、みんな貧しい労働者ばかりが食事していた。しかし、そこはいつも賑やかで笑い声が絶えなかった。2階では、暮らしにゆとりのある人たちが食事していて、少し会話が聴こえた。3階では、上流階級のお金持ち達が食事していた。そこは死んだように無言と悲しみの場所だった」

 ところで奥さんと主人公の会話は、なんと丁寧語なんだ!!
 「今帰りました」「お帰りなさいませ」・・・。
 あんまりきれいな会話なので現代人のワタシなんか、ここに書こうと思っても忘れちゃうぐらいだ。ちよっと大袈裟に言うとカルチャーショックみたいな感じだ。

 翌日諦めて宿を発とうとするふたり。そこへ城からの使いがくる。
 昨日の無礼は大目に観るが、過去の賭け試合が発覚した以上、やはりお勤めまかりならんという話。
 送別の心差しを渡されても断ろうとする主人公の隣に奥さんが出てきてまっすぐに相手の眼を見て言う。
「こころよくお受け取り致します。私も賭け試合だけは止めてほしいと、常々思ってきましたけれど、考えが変わりました。主人にはお好きなだけ賭け試合をしていただきとう思っております。困っている方を助けようとしてしたことでございます。人は何をしたか・・ではなく何のためにしたか、だと思うようになりました。そちらのでくのぼうにはお分かりにならないことだと思いますが」

 また旅に出るふたり。奥さんが先きに歩いて主人公は10メートルぐらい後ろを歩いていく姿が印象的だ。
 後ろを歩いてくる主人を見つめながら、「誰よりも立つ腕を持ちながら、花を咲かせられないでいるこの人。人を押し退けてまで上に立とうとはできない人。でも、この方こそ価値のある方だという気がする」と、奥さんは思う。

 清々しい景色に感嘆するふたり。
 殿様の「かならずお連れ申せ」という城からの使いの馬が走る。

 話の筋を書いてしまったけれど。
 いつも思うのは、「ネタバレ」なんて心配は、おどかすだけのストーリーのヤワなものにのみ配慮すべきだろう。
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by past_light | 2005-02-10 20:02 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(2)
みんなのみんわ
 冬の部屋の風物というとストーブ。灯油を使ったストーブの石油の匂いがぷ〜んと漂うのは、なんといっても昔からあるスタイルの石油ストーブだろう。

 ファンヒーターだとファンの回る音が、部屋の中の静かな冬の時間をかなり壊してしまっているという感じだ。
 2000年問題とか言われたときは、電気が必要ない昔ながらの石油ストーブが復活したりしていたけれど、ストーブの上でお餅を焼いたりお湯を沸かしたり、なんてことはファンヒーターでは望むべくもない。
 かといってそんなストーブは、マンションやアパートなんかだと警戒されて推薦されないという時代の向きもあるんだ。

 テレビの画面で時々、いくつかのヨーロッパの街並とか風景が映るのを見て思うのは、古いままに残る建物や石畳の道が、そのまま新しい現在、文化の風と溶け合っているように感じるのに比べ、ふりかえって日本の街には、もうなんともオリジナルな風景が少なくなっている気がするということだ。

b0019960_2028459.jpg われわれ生活者の家も、数十年しかもたないといわれる既製の、あっという間に建つ住宅ばかり。しかも周りとのコーディネーションなんて余裕は頭にないばらばらの住宅街。それだって、みなさんご苦労してお建てになったんだ。外野は黙れだろう。

 古い日本独特の家屋がどんどんと消えて行くのは、老朽化して住めないというせいだけでもなさそうだ。まわり中をビルに囲まれたり、土のスペースも無駄だだとばかりに隙き間もなく、まるで谷間におちる闇のごとく、太陽も隠されれば、住人にとって諦めるように時代に責め立てられているような気持ちになるだろう。

 熊谷守一が何十年も門から出なかったと言う家の写真を見た。
 ミニチュアならトトロも出てきそうな森のような庭。それは人に内なる豊かさがあれば充分な宇宙だったのだろう。虫に眼を奪われ、蛙に話しかけ、日陰に休み、小さな庭も一日をかけての散歩になることも多かったという。

 日本らしさといって思い描く源風景といえば、お寺のあるような山間など各地方の風景、結局どこも自然と切り離せない生活空間ということになるのだろうか。
・・しかし駅前はどこも似たり寄ったりなのはどうしたものなんだろう。「どこの田舎も、都市に、東京に、似せよう近づけよう、とした」というこれはツケか。
 列島改造、いっときの狂騒曲。田舎に住んでいた経験のある人には笑えない気づけば自虐の歴史だ。

 稀に残って大事にされている藁葺き屋根の風景とか、そんな画面も時にテレビに映る。
 実際、藁葺きの屋根は日本の風土にむちゃくちやマッチした根拠があるらしい。一見冬には寒そうだが、夏には涼しく冬には暖かいのだという。
 何年かに一度、屋根の張り替えに新しいすすきが屋根に張られていく。
 そのわらぶきの屋根が日に焼けて古くなり始めたころ、周りの自然風景と絶妙に馴染んでいくという姿は、風格と重みある建物のもつ実在感だ。
 それは言うまでもなく、維持して行くには手間もかかる。現代では職人も少ないし、その費用もけっこうなものだろう。

 都会の一角の小さなスペースに住んで、昔話の民話のような家が贅沢な生活空間のようにも見えるのは、それもまた時代錯誤な日本人の根拠のないノスタルジーかもしれないのだが。
 そして向田邦子のドラマに出てくる玄関も、ついにいつか博物館で見ることになるのだろう。

 ・・で、結局何が言いたいのかわからない。昔風の質素なもの、またはそんなつくりが、今では贅沢品で、それから高価になるのかまったく残念と言うことか?。
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by past_light | 2005-02-05 20:41 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(2)
ダンサー・イン・ザ・ダーク
 ビデオなので、劇場版とはオープニングが違うという。
  手持ちカメラだから、そういう臨場感とその場のリアルな感覚は実にうまくかもし出している。
 だけど、観る方にはとっても疲れるやりかただ。単なるハンディカメラというせいではなく、対象に寄りのままターンでブランコ状態なのだな、これは。
 それでも強引に見ていただきます、と言われているようで、「はい頑張ります」と、こちらも言わずにはいられないようなそんな力はある。
 しかしそれはまた、ビョークとセルマという、主人公が分けられないほどに密着したからの力でもあるのは忘れてはならない。
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  才能を自認しているのだろうラース・フォン・トリアー監督は、いかにも「こういうミュージカルをつくってやろう」と思ったんだろうと想像できる。
 昔、人の温度を拒絶する現代美術・コンセプチュアルアートというもののなかに、乾いた美術館の建物の匂いばかりが際立つようにしむけるような、そんな脳髄だけを求める、ある不快感しか感じさせないものを見たような気がする。なんとなく似ている空気が漂っていたのが気にかかる。

 この映画の監督にとっては「これは寓話です」ということで、不快感を訴える観客に牽制を用意したのじゃないかと勘ぐりたくなるが。
 確かに森のひょんなところに素敵な病院が出て来るし、セルマの働く工場もなんとなく整然とし過ぎているし、監督にとっても都合のよい設定だ。
 デンマークあたりだと、こういう悲劇的、そして悪夢と白昼夢の繰り返すお伽噺も、ミュージカルにしようというセンスも生まれるのかもしれない。

 しかしたぶん、セルマという女性像には感情移入はむずかしい。強引に感動しようと思えばできないわけではないが、それはどこか危ない気がする。
 子供への愛の「形」も自己信条中心的に、偏執狂的な思念に捕われて、ということも考えなくてはならない。それがセルマのすべてだと思えばそれも神性に見えようか?。
しかし実は、ビョークの魅力でぐいぐい・・だ。

  視力の狭いエリアをしか映せないハンディカメラの現実?と、夢のミュージカル形式とを移行する感覚は、不快感さえ覚えるほど新鮮だ。
 が、ラース・フォン・トリアーは、どうしてもラストシーンを強引に観客の網膜に映るようにしたかったのだろうか。それは賛否のピに決定的に嫌われる原因にもなった?。
 監督は結末を教えないで、と言ったらしいけど、脳髄の悪趣味がよけいに感じられる

 「ミュージカルのなかでは決して悲しいことは起こらない」セルマは言う。よけいにむごい。

■ラース・フォン・トリアー「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000年・デンマーク)
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by past_light | 2005-02-04 19:55 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
ラブ・ミー・テンダー
 以前ニュースにあった話。
 アメリカの刑務所の話みたいだった。収容されている囚人たちが周りにいる野良猫たちを可愛がりはじめ、その囚人たちの気持ちにずいぶん変化があったのだという。

 犯罪を犯した彼らの過去には、その育って来た環境、人間関係に、あたたかい交流の機会がほとんどなかったという人が多いという。もちろんそれは彼ら自身の体験談だ。
 テレビで、ネコの世話をしながらインタビュアーに語る彼らの穏やかな口調を観ていて、伝えられている情報はさりげないのだが、何か胸に来るものが感じられるニュースだと思った。

 「誰かの世話をする、なんて経験は初めてだからね」
 「自分の事しか考えたことがなったことに気がついたよ」
 「のらネコたちを観ていると、自分と同じだという感じがしてね」
 「こんなあったかい気持ちを感じるのは初めてという気がするんだ」


 発端は、収容所の周りに集まる野良猫たちの悲惨な状況、怪我をしたネコや病気のネコなどを見ていて、なんとかできないかという動きが彼らの中に芽生えてからだ。
 治療費が払える状況ではないが、ひとりの獣医の協力によってネコたちの生活をヘルプしたいというムーブメントにその拍車がかかった。
 獣医の協力にただ甘えるだけでなく、なんとか治療費の一部を自分達の手で払いたいということで、収容所の周辺の一角にバラックのフードショップを作り、「ホットドッグを食べてネコを救おう」というような看板を立てた。

 いやなニュースが多い世相だが、この一連のストーリーにはいろいろヒントが含まれているものだなぁ~と思った。 
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by past_light | 2005-02-03 18:34 | ■コラム-Past Light | Trackback | Comments(2)