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アートカレンダー、イランかな?
素材ルームというのがありまして、ずいぶん更新さぼってましたが、新年カレンダーアップしました。
PDFデータになってます。ちよっと遅くなった年賀状にも使えます(笑)。
壁紙用もあります。ウインドーズの人は自己解凍型をダウンして下さい。
押売ではありません(笑)。個人使用のフリー素材です。

Owner Main Linkのリンクの素材ルームをクリックして下さい、トップページにあります。
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by past_light | 2004-12-29 15:34 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)
池澤家の系譜からモスラ
 ◆池澤夏樹さんの9.11テロ事件以後発行していた「新世紀へようこそ」。
 池澤さんは書く時に、どこかで聞いた話では書き直しを重ね「つるつるにする」ということだった。
 「新世紀へようこそ」には読者を扇動しようとするような空気がなかった。柔らかく静かに、世界で起きていることの背後にある事実を一緒に考えようという著者の気持ちの流れが感じられた。
 思い起こせばそのころもつねに、ブッシュ(暫定)大統領(笑)は、不安や胸を騒がせる言葉を意図して使っているようにさえ感じられる演説だった。他者の話を聴く耳なんてのを拒否しているかのようにさえ聴こえる語りかけ方だ。

 池澤さんのお父さんはあの福永武彦だということを聞いて、これは小説も読んでみないとと思って「スティルライフ」だけは読んでみた。理工系を通過した人らしいので、それも興味深いが、ぼくは馬鹿系しか通過していないので、どこまで親近感を感じるかはいまだ不明だ。
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  福永武彦は「廃市」で知ってから読んだ作家で、これぞ純文学という感じがしたものだ。それで瞬く間に文庫本で入手できたものはほとんど読んだ。
 「草の花」を、こいつ好きかもしれないと思ってそのころの友人に薦めたら、ずいぶん気に入っていた。彼は病棟ものが好きだったのだ(笑)。
 「海市」は凄くエロチシズムを感じ、わくわくと読んだ。登場する女性から浮かび上がるイメージ、その美しさと漂う官能には頬が染まりそうだった。小説のなかの女性にこれほど惹かれた経験も珍しかった。
 「幼年」など、少年期特有の孤独と幻想的な心象風景で描いたものも、読者の心の深くに染み込んでくる静かな世界が感じられた。
 福永さんは写真で見ると、もう時代の純文学作家の肖像そのもの。ひょろりとした背の高い、いかにも胃を壊してしまいそうな感じだった。
 しかし反面、生み出されたひとつの世界の完成度は確たるもの、宝石のようだ。

 ◆池澤さんは39才でデビューの比較的遅い登場だというが、それは熟されて意図されたかのようだという。
 以下に対談記事の抜粋があった。

林 私、池澤さんが福永武彦さんのご子息だってこと、このあいだ初めて知りましたよ。
池澤 そう? 昔、吉行(淳之介)さんと石原慎太郎さんと僕と、あと何人かとメシを食ってるとき、吉行さんが石原さんに「君、知ってる? この人、福永さんの子供だよ」と言ったのね。石原さんは知らなかったわけ。彼は『草の花』(福永武彦)のファンなんですよ。「へえー」と驚いたら、吉行さん、うれしそうに「いやあ、言ってみるもんだねえ」って。(笑)
林 男の作家って、姓をそのまま受け継ぐことが多いからわかりますけど、池澤さんの場合は……
池澤 両親が離婚して、僕は母についていったんで、姓が違うんですよ。吉行さんも言ってたけど、「息子が作家になる場合、親父のこと言わないよな」って。
林 女の作家と対照的ですよね。
池澤 そう。女の人はまず父親のことを書いて出てくるでしょう。
林 それがデビュー作になって。
池澤 男の場合は、北杜夫さんだって父親(斎藤茂吉)のことを書き始めたのはずいぶんあとになってから。吉行さんもそんなに書いてない。なんとなく親父というのは煙ったいんです。僕もべつに隠してるわけじゃないけど、父親のことはそんなに書いてないし。
林 でも、お父さまがお書きになったものは、よく読まれました?
池澤 読みました。こんなもの書いてる親父だと、あとやりにくいなと思って(笑)。今になって思うと、けっこう負担でしたよね。下手なもの書けないというか。あまり半端な出方はしたくないし。


 ◆ネット検索してると、なになに・・池澤さんの娘さんが声優をやっているという。しかもかなり人気の女の子みたいだ。

 ★池澤春菜プロフィール
 '75年12月15日ギリシャ生まれ。出演作品に「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」「忍ペンまん丸」「マリーのアトリエ 」など。現在はアニメ「とっとこ ハム太郎」「超GALS 寿蘭」「だぁ!だぁ!だぁ!」に出演中。声優とし てだけでなくラジオや舞台でも活躍している人気声優・池澤春菜。?!


 父親のことはなかなか出てこないけど、娘も親父の事はあまり言わないものなのか(笑)。しかしアニメもプレステもやらないからぼくは初耳でした。

  春菜さんの生まれがギリシャということですが、池澤夏樹さんは日本で作家としてデビューする前にギリシャに長期滞在していて、その時のお子さんのようだ。 
 池澤夏樹さんは日本に帰国し、なかなか日本に馴染めなくなっている時期、当時、岩波ホールで上映されることになったテオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」の字幕を依頼され、その仕事がかなり精神的な助けにもなったということだ。
 池澤さんはギリシャでこの映画を観て感銘を受けたらしいが、まさか日本で上映されるとは思えなかったと言う。
 ぼくは、この映画をテレビの完全版を2回にわけた放送で観た。
 今ではミニシアターもたくさんあって、いろんな国の映画を観ることができるが、当時の岩波ホール、エキプ・ド・シネマの功績は大きい。この配給システムを立ち上げたのは、川喜多さん、高野さんという、ふたりの女性だというのも現在の女性が発揮しているパワーにも繋がるような気がする。

  岩波ホールでは、ベルイマンやルイス・ブニュエル、サタジット・レイ、そして小栗康平の「伽椰子のために」など、いい映画をたくさん観せてもらったし未だに健在なのもうれしい。

 そんなこんなで、興味深い池澤家のルーツを垣間見た。

 そういえば忘れていたが、福永武彦にはあまり知られていない仕事の一つがある。それは「モスラ」の脚本である。中村真一郎氏らとの共同脚本だったと思うが、東宝がゴジラに続く怪獣映画のアイデアとストーリーを、純文学作家に頼ったというのが面白い。
 子供の時に観て、わくわくしたあの「モスラ」。ピーナッツの歌う「モスラ~やっ、モスラ~♪」のアイデアを、わくわくして考えていたのかもしれない福永さんたちを想像すると、かなり頬がゆるむぞ。
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by past_light | 2004-12-26 20:45 | ■Column Past Light | Trackback(1) | Comments(6)
クリスマス・キャロル
 スクルージじいさんは、けちでしみったれ、町のみんなのきらわれもの。

 「ふん、にんげんなんて、すきじゃないのさ」

 なんたって、わしは高利貸し、容赦ないビジネスだもん。
 金はあっても使うもんか。・・ぼろぼろカーテンにぼろぼろベッド。

 死んだ同業者のマーレイの亡霊に、「俺のようになりたいか」と忠告されるけど、
 「そんなものはしんじないぞ」

 一番目の幽霊は過去を見せてくれた。
 「しあわせだった、彼女と結婚するはずだった。おれはばかものだ」

 二番目の霊は現在の霊だ。
 「人生は楽しまなくっちゃな。気がつけば終りの時だよ」

 三番目の霊は、一番こわい。
 「たすけてくれ ! すっかりわかったよ。こうして教えてくれたのは、まだ望みがあるからなんだ」

  十数年ぶりの「クリスマスキャロル」。
 病弱のはかない少年のソプラノも、なんて、せつないお歌のうたい方・・。

 スクルージじいさんが、クリスマスの朝、三つの悪夢から目が醒めて、人生を大好きになり、生まれ変わるシーンのすばらしいこと。
 この役者さんは、スクルージじいさんに普遍的な印象を与えたんだね。

  聖書のはなしに「放蕩息子の帰還」というのがある。
 もともと良い子もいいけれど、神は放蕩の果てに疲れ果て、そして気がついて、わが家に帰ってくる息子を、たいそうお喜びだと言うことだ。
 なぜなら、なくなったと思っていた捜し物が見つかったのだ。死んだと思っていた息子が帰ってきたのだから。

 みなさん、そして高利貸の人も(笑)・・メリークリスマス!!
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by past_light | 2004-12-24 01:52 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
もとの木阿弥陀さま
 木や植物の生命力には驚かされることがある。
 前にテレビで見た木も、数百年はおろか生きのびてきて、ある日、人にはいったん枯れかけていたように思えていたその古い大木に雷が落ち、それで死んでしまったのかと思えば、太い枝やからだの一部が裂かれたというのに、逆にそれで再び生き返るきっかけになり甦って花を咲かせたという。

 人間も時に逆境によってダメになる人ばかりではないようで、それをかえってバネにして活き活き生きるきっかけにしたという逞しい話もある。
 そういう話を知れば、見習わないとなあ、なんて思いながら観ていたりするが、翌日には忘れている(笑)。

 雷が落ちて甦った木も、逆境により新たに道を開いた人も、ある意味では、今まで自分につもり積もった無駄なものを排除する、浄化するという機会になって新しいエネルギーを得たということなのかもしれない。

 猫などを観ていて感じるのは、調子の悪い時、健康のすぐれない時、誰に文句をいうということもなく、 ひたすら休息し、眠り、静かに回復を待っているように見える。
 そういう時、じたばたしてもはじまらないことを見せてくれる。
 人間はなまじ考えるというか、正確には、うだうだと迷うとか、あれやこれやと心配し想像を巡らすというエネルギーの浪費に落ち入ることで損をしているような気がする時がある。

 だからといって「よし、悩まないぞ」なんて決意しても、だいたい元の木阿弥になっていることが多い。
 じたばたしないで、ゆっくり休み、または腹を据えてじっと待てるか。

 「わかる」というのは、頭の中ではなく、「腹でわかる」とか表現もあるように、もっと深いところで起きることなのだろう。
 それが「自然体」という、または「無為」というような境地なのか。

 人間は、植物や動物より思考機能とか自由意志を発達させたが、元からあった、自然に備わったような能力をかえって喪失しやすい傾向にあるのだろう。
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by past_light | 2004-12-22 20:32 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
弧と個と子っとん
 岡本太郎という画家は、子供時代、母の岡本かの子の、机に向かう時間を邪魔しないように柱に縛り付けられたという経験を持つ人で、その頃の太郎氏の母の記憶というのは、泣きながら見ていたその背中だったという。

 前後に想像を思い及ぼすことがなければ、常識的には、ひどい親だとか、可哀相にとか、そういう感想が出てきやすい話だろう。

 ある時、家族3人で泊まった旅館での翌朝のこと、太郎は旅館の女中さんから「もちろんちゃん」と呼ばれからかわれるので、いったい何故かと思ったら、昨夜の家族3人での議論のなか、小さい子供である太郎が、父の一平と母かの子とまったく対等に、「もちろん・・・もちろん・・」と議論していたのを女中さんは盗み聴きしていて不思議で可笑しかったということだったそうだ。
 これも聞くと笑い話のようで可笑しくも聞こえるのだが、それは太郎にとっては子供ながら心外だったという。岡本家族にとっては三人が対当に対し語る、たとえ幼い息子であろうと、それが当たり前だったのだという。

 後年、岡本太郎は、母としてのかの子というより、妹か恋人のような、かの子の印象を語っていた。
 そんな往復書簡集のある手記などを見ると、常識的に思う親子の関係も、もっと視野を広げても考えてみることができそうな気がする。

 以前観たTVでの番組があった。
 アマゾンで暮らす少数民族の話。村のシンプルな共同生活の姿にもいろいろと感じさせるものがあった。そこにはもちろん、現代社会にそのまま適用するには、すでに摩擦になる要素もあるにはあるだろう。が、そこには共同生活というものの本質的、象徴的な関係の原初的な姿がある。

 彼らには「幸せ」という言葉も「自然」という言葉もない。

 そういうことをあえて言葉で言えば、「みんな・・が、よい」と「村のまわり」に置き換わるという話だ。

 怪我をした一人の男の家に、村のすべてのみんなが集まる情景。見るにさして命に別状のありそうな怪我ではないのだが、夫でも兄弟でもないのに泣いている女達。今のぼくたちの住む世界から見ると、なにか懐かしく見えた。

 内容は様々だが、同じように悩んだり、苦しんだり、悲しみや喜びを経験する人間の精神・心というものに、「私」・「個人」という枠があてはまるのか。そういう言葉を思い出させる彼らの生活ぶりだった。
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by past_light | 2004-12-20 17:38 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
聴くこと
 朗読されたテープやラジオの番組があるが、視力に障害のある人には貴重なものだろう。ぼくも好きで何度か聴いた経験はある。

 経験からいうと、聴くというのはすごく集中力を必要とするもので、でも聴くことに入り込むとすごく楽しい時間になる。
 聴くという行為は、精神の静かさが土壌にないとだめだが、聴きはじめると静かさが生まれているということにも気づくことがある。

「聴く」というのは「繊細に感じる」ことに近い。

 感受性とは、ある意味「待つことのできる」精神の、心の状態とも表現できるのかもしれない。

 人との対話などの場において、相手の話を静かに聴くというのは、けっこうより難しい。なぜなら・・自分から見て反対意見や先入観をくつがえすような話を、内心ぶつぶつ言わずに白紙で聴ける人は意外に少ないからだ。
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by past_light | 2004-12-17 20:21 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
2001年11月15日の未消化で不完全な文
ニュースステーションに出演した大江健三郎さん。そして錯綜しての長いハナシの断片

■先日、ニュースステーションに作家の大江健三郎さんが出演していた。大江さんが生放送に出るのはほとんど初めてということだ。

 また、アメリカの学校で、アフガンの映像をテレビで観た翌日、自作の反戦Tシャツを着て登校し、反戦グループを作ろうとしたせいで、登校停止処分になってしまったケィティ(15才)さんと、その母親がライブ中継で結ばれて出演していた。ケィティさんが保守的だといわれているその土地で、様々な中傷や脅迫を受けているということがわかる。学校の友人の意見も、多くは大人と同じように、学校の空気を壊したという非難のようなものが聞かれた。しかし一方で、ごく親しい友人の中に彼女の勇気を讃え、賛同する意見もある。が、その地方裁判所でも彼女の訴えは否定され、結局その学校には行けなくなったようだ。
軍人が家系にいたケイトさんの家の母親は、娘と意見は異にするけれど、中傷にあう娘の言論の自由を守るために一緒に行動しているという。インタビューのスタジオも、中傷や妨害を懸念して地区から離れた場所を使い行われているようだった。

 そういえば、パキスタンから日々ライブな情報を伝えてくれている通称「オバハン」の「緊急レポート」に、取材で滞在している、あるメディアの記者が「いやぁ、ウチの社なんて、反米スタンスの記事や、難民関係の記事は幾ら送ってもボツにするンですから……。」と嘆いている様子も伝わってくる。
ぼくらは、新聞やテレビから毎日知らせてもらえる情報に、どこまで素直に接したらよいかというジレンマを改めて経験しているようだ。

 ■番組のなかで、大江さんは「わたしもピンチ、友人もピンチ、アフガンも、社会もピンチ・・」と表現していた。いろんな意味で、「発言する」というなかにある難しさも含蓄されている言葉なのかもしれない。
興味深い発言として、久米さんの「ショートカット」発言があった。大江さんの書く本には、なかなか結論へたどり着かないという、そういうものを感じる、と。つまりショートカットではないということだ。
大江さんは「本来ぼくは単純な人間で、AからBへと結論へ急ぐのを避けるためにも何度も書き直す作業をしてるんです」ということ。
ぼくが思い出していたのは、ブッシュ大統領が映る画面から何度も聴こえる「彼らは邪悪な人間です」などの発言。それはやはりショートカットの代表か。

今度の事件から、ネットで見られる様々な掲示板などでも、「ショートカット」な応酬が、匿名でされているのが目につく。事件に遭遇した当事者の心境も、傲慢に想像して決めつけてしまう「代弁者」としてのような立場を主張する感情が剥き出しにされたような意見もよく目にした。
が、実際はぼくが知りえた限りで言えば、WTCの事件の被害者の家族、からくも脱出した人の文章などにネットでは出会うことができたが、それらは非常に冷静なもので、読む側には精神の静寂を要求されるものだった。
ニューヨークタイムズに広告された、退役軍人の、「私たちの存在の原始的な部分に力を貸さないで下さい。」という言葉も、ぼくは大事なメッセージだと常々感じている。ショートカット思考は、マインド(精神)の原始的な条件づけです。すぐに「暴力」に繋がりやすい非常に危険な、結論へ急ぐ姿だと思う。

 ■ユング心理学にも接点がある、ぼくらの卑近な話。
「男性らしさ」という固定観念に執着していると、おのずと「男らしくないもの」が簡単に分離される。ふたつの箱に物事を分けやすくして、整理しやすく、解った気になる。
が、実際の生ではそうはいかない。男性が恋に落ち、現実に単純化できない感情に出会うと精神は落ち着かなくなり、精神、思考は落ち着き場所を捜す。早く答えを求めたくなる。自分の感情(エロス)を一刻も早く静めたいという「男らしさとしての」観念・知(ロゴス)の要求が対立をつくり葛藤する。
そして彼を非常に短絡的な行動に駆り立てるかもしれない。そこで彼は外面の男らしさを死守するために、性急に感情にケリをつけようとするかもしれない。
「好きか嫌いか、はっきりしてくれ!」と彼女に突然迫るかも知れない。「結婚か別離か」とも。暴力的な身勝手な表現もありえるかもしれないし、自分の精神へ暴力が向かうこともあるかもしれない。
実際の姿を描写すれば、精神は未熟で、簡単に解答がないものへの忍耐がない、そういうことがぼくらの問題であるかのように思われる。個の未熟とは問題の根本ではないのか。

 ■個の集合である人類に必要な平和への智慧の道はあるのか。
インドで生まれ世界各地を講話して旅し、物理学者デビッド・ボームや多くの著名人とも分野を超えて討論、問答した、クリシュナムルティが使う「洞察(insight)」という言葉について、よく思い出すのに以下の例え話がひとつある。

「前線で敵を偵察することを指示された兵士が、帰って来て報告する。『隊長、敵は我々でした』」

 ところで、大江さんは久米さんと「明日は佳境ですね」と、翌日もテレビに出るということが番組内で約束された。

 ■次の日、大江さんは家族と昨日の反省会をやって、モニターばかり見ないようにと言われて来たそうだ。下を向いてばかりいるように見えるからだと。
 この日、大江さんが持って来た言葉から七つを紹介した。そのなかに「さとる」「とりなす」「注意」「まなぶ」ことから「さとる」へ、和解を招来できる「とりなす」人、「言葉」、そしてそんな「新しい人」。

 大江健三郎さんの息子さんは大江光さん。彼の音楽を最初に聴いた時、「無垢と不思議」という言葉が浮かんだ。しかしお父さんは、その音の中にもっと深いもの(悲しみとか・・救済とか)をも感じ取られたのだと、どこかで読んだ気がしする。
それは光さんが言葉では現せない、伝えない、心の中の声をも聴かれたのか、と思う。そう言う意味では、光さんの音楽はまわりとの関係や聴き手とを、「とりなす」ものなのかもしれない。ぼくらは誰でも、本来「とりなす」智慧を持っているのかもしれないし、していることもあるのか。
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 ■クリシュナムルティは、あらゆる権威の危険、依存、信念に含まれる問題など、懐疑する必要をもいう。また「わたしは誰のグル(師匠)でもない」というスタンスを必然とした。
クリシュナムルティは「思考は物質である」という。精神分析的なアプローチも疑う。それは検閲し、分離する観察者を生み出すのだと。偏見を免れない性質を含んだままの観察では、容易にごまかしが利く。分析とはまた「時間」を使うものだからだ。時間とは思考を含む。思考は過去・既成の知識を拠り所とするせいで、おのずと限界があるという。じゃあ、考えなくいていいのか・・。

彼の言う「気づき・注意・洞察・理解」という表現での、事物との、また他者を鏡とした関係による自分の反応を観察、知ることとは。
精神の解放と自由は、彼の実際的な話のなかでは、関係で起こる様々な自身の反応(条件づけ)を「正当化も非難もせずに見る」ということをまず言う。

しかし説明もこれまた錯綜しやすい、この「見る」、「観察者」とは、関係から生じる反応を対象化し、判断し、評価し、選択し、分析する(選り好みするかもしれない)主体で、それはおのずと偏見と恐怖等々に染まっているので、それ自身がむしろ「見られなければならない(気づかなくてはならない)」のだという。
まず「問題」よりも「問題の作り手」が問われるということだ。そしてそれが最初の問題だが最後にまわされているのではないか。
・・この話は興味を持った人が著作を読めばいいので端折るが、「観察者は観察されるものである」という言葉は物理学的に聴こえる向きもある。観ている、気づいているという「者」が、現実には偏見や恐怖で条件付けられたままでは、観ている者も観察されるべきものだということだろう。
「私は気づいている、分かっている。」しかし「どのように」、か。
量子力学のはなしに、こういう話がある。
「・・観測問題というのは、ミクロの世界では、測定するという行為そのものが対象の位置と運動を変化させてしまうということである。」
観察者が対象(観察対象)に影響を与えるという点では、乱暴に言うと先の話にもつながるように感じる。それ独自で確固として存在しえるものはないということか。

またふたたび卑近な例で言うと、他者に対して心理的に「思う」こと、(彼は冷たい奴だなど感情が色付けしている)は、ぼくらはそれが「事実」(誰でもがそう思うはず)などと思い込んだりしがちだ。

人と人の間とか、国と国との関係などにおいても、一方が絶対的に正しいという固定点で対応しはじめたのが今の対立する世界の姿をつくった一因でもあるだろうか。

 ■以下は、クリシュナムルティと デビッド・ボームとの対話「人類の未来」でボームの書く序文から短縮して抜粋。

「対話の始まりは『人類の未来はどうなるか?』という問いであった。
明らかに現代科学および技術は、破壊の可能性をとてつもなく増大させてきたからだ。・・話し合いから・・この状況を作り出した究極の原因は、広範囲にわたって混乱している人類の精神性にあることが明らかになった。・・それは長期にわたり、基本的には変化してこなかった。・・人間が現在進みつつあるたいへん危険な道筋から迂回する可能性がいったいあるのか・・。
・・一見するとこの精神性の問題を解決するには時間がかかるということを根本的には示しているようだが、クリシュナムルティの指摘するように、心理的な時間、つまり「なりゆくこと」は実は破壊的な傾向の原因そのものである。時間を問うことは、この問題をあつかう手段として知識や思考が適切かと問うということでもある。知識や思考が適当でないならば、実際に必要なものとはなにか?
この問いは「人間の頭脳は何世代にかけてあらゆる知識を蓄積してきたのだが、精神はその頭脳により限定されているのであろうか?」・・・
クリシュナムルティは、頭脳の条件づけに特有である偏見から本質的に精神は自由であり、中心と指向性のない正しい注意から生まれる洞察を通じて精神は脳細胞を変化させ、破壊的な条件づけを取り除くことができると強調している。この種の注意があること、この問いに大きなエネルギーを注ぐことが決定的に重要なものとなる。脳神経系についての研究では、洞察は脳細胞を変化させるかもしれないという言明に支持を与えている。」


 ■大江さんの言葉では「とりなす・和解」という「新しい人」が話されていた。そして「注意」という言葉は、先述したことと繋がっているように感じる。本当のことは注意深くなければ知り得ないし、自分の偏見や暴力性にも注意がなくては簡単に見過ごす。「敵は我々」でもあるかもしれない。
七つの言葉の最後に、大江さんは、 障害者を家族に持つ人たちとのお付き合いから、みんなが元気であることに気づいたという話がある。
「とくに理由はないが、みなさん元気でいきましょう、とみんなそういう感じで言うのです。」と。
そんな経験から発見した言葉である「元気」を紹介する。大江さんは「ああ、自分が生きているのは『元気』を出しているからだ、と気づいたと言う。

もしかしたらすべては「新しい考え方」ではなく、誰でも本来「分かっている」と思っているようなことで、多くの人間が率直には向き合えない無垢な領域かもしれないが。
新しい人、というのも「考え」という次元に入れると古くなるのかもしれない。逆に言うと古くからあるものに実際には試みられてもいない「新しく実現」するものがあるのかもしれない。
人類にまず必要なものは、ひどく単純なものなのかもしれない。
-20001.11.15-のち修正-
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by past_light | 2004-12-17 20:11 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(2)
古本屋に行く心得
 べつに百円、二百円に困っているわけではなかったが、以前もういらなくなったと思しき本をでかい袋に二つ、大手の古本屋に持っていったら半分ほどしか受け取らなかった。

 「えっ、これ持ってかえるのっ?!」
 「こちらでおひきとりしてもよろしいですが」
 「は?」

 ・・まあ、そういう時代なんですね。店内は本に限らずモノが溢れかえっている。
 リサイクルしている・・というと聞こえも気持ちもなんとなくごまかせそうだが、どうも本来の姿とどこかちぐはぐに感じてしまうのは、なぜだ。
(その店の店内をよく観察すれば・・、ただで引き取ったと想像される本にも、ちゃんとなにがしかの値段がつけられて売られていくことも多いようだ。なるほど・・少し迷って「ん~、じゃあ、持って帰ります」と言ったぼくに失望したような「間」があったものなぁ・・。)
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 20年以上ぐらい前は、よく古本屋に通い、売ったり買ったりしていた。そのころはだいたい買い取り価格値の予測がつく感じだった。前もって腹算用して大きく外れることもなかった。引き取られずに持って帰るということもほとんどなかった。でも今では捨てる方が手間がなくていいのでは、とさえ思わせる値段と思った方がだいたいにおいていいようだ。手間どころか上記のやり取りのような後は、なんとなく気分まで損をした感じにさえその一日の中のシーンに刻まれてしまいそうだものな。金銭的にこだわると必要以上に貧しさを強調してしまいそうでもある(--;。

 とはいえ・・だ・・本を捨てるというのは、なんだか気が引ける。ゴミの収集に出される本などは、もう本としての尊厳をすべて剥奪されて無常の無情。

 そういうわけで、できれば図書館が引き取ってくれるというのは一番得策のようであるが、意外に図書館も重複した本などだと困ることもあるかもしれない。
 各地に、町内に、空いた家のスペースを提供するような人がいて、近所から持ち寄って出来上がる町内図書館、もしくは図書室みたいなものが、たくさんできるといいなあと想像した。コミュニティセンターのようにかしこまったパブリックな施設でもなく、なんとなく近所で気楽に自主運営できてしまうという感じでね。

 ところで、話にあるような半分引き取られず残った本は、他の古本屋では幾らかになることもあるということをお知らせしておきます。その労力が見合うものかどうかはその人次第ですね。
 ・・・なんか「無能の人」の日記みたいだね。
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by past_light | 2004-12-14 20:12 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)
ネットりした夢、または物質転送
 熱が出てたりすると、誰でも経験あるだろうが変な夢をみることがある。
 ある夏のころ、そんな調子で目が醒めて、ぷっと笑っちゃった夢がある。

 インターネット家電というのがひところ出てきそうな話があったけれど、今はどうなんだろう。
 それで、夢に見たのはインターネット冷蔵庫の夢だ。

 とあるホームページのリンクから、聞き慣れない会社の名前をクリックした。
 アイスクリームのどうやらオーダーになるらしい。だがどうも反応しているように見えないのだが・・、しかし見ると冷蔵庫の冷凍庫にはアイスクリームがあった。
 クリックするとアイスクリームが・・?!。あらあら不思議。
 食べながら「どうやって、料金を徴集するんだろう?」と考えた。
 ドラエモンもサイババもびっくり。
 しかし、ネットショッピングなどの経験のある人には、この夢も笑えないようなブラックな要素もあるんじゃないかとふと思う。

 物質転送というと、SF的な話だ。
 ものすごく未来になると、物質を原子、素粒子レベルに分解して・・、いやいやもっと現在では信じられない方法で転送し、物質として再構成・再現できるなんてこともあるかもしれない。
 「蠅男の恐怖」のリメイクであるクローネンバーグの「フライ」など、転送中のトラブルでの出来上がり再構成の恐ろしさとか悲しみが、なんとも切々たるものだったが。

 まあ、どこまでもSF的な想像みたいだが、あえてひとつ根拠として考えれば、SFではなくて、チベット・ヒマラヤなどに存在する、いわゆる人間としての学習を終えてしまった「覚者」という存在を、ぼくが本で知ったのはずいぶん前の話で、その書物には彼等にとっては物質の質料をコントロールすることが可能ということが書いてある。

 たとえば、聖書の中のイエスが、多くの飢えた民を前に、一つのパンから、ひとつかみちぎっては繰り返して分け与えた話で、いくら配ってもパンがなくなることがなかった。・・という話なども、その線からうなづいたりしたものだ。大方の唯物主義者、物理学者などは嘲笑するんだろうが。

 地球人の多くの人が、そんなレベルに達したら・・・まあ、ちよっと想像できないけれど、・・・ん~、、ついにお金はいらないかも。
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by past_light | 2004-12-13 20:35 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)
GABBEH ART
 イラン遊牧民カシュガイ族の手織絨毯の「ギャッベ・アート」の図版集を、以前、文庫で見つけた。
 「ギャッベ(Gabbeh)」とは、ペルシャ語で「粗い」という意味だそうだ。

 ぱらぱら捲っていくと、まるでクレーの絵のような色彩とフォルムや、原始美術的な線画、また幾何学的な抽象紋様にはインドのタントラ的な図を思わせるような世界などが溢れている。
 そしてその深い赤や青、緑の色彩といい、形といい、あんまり美しいので、ちよっと吃驚して、さっそく購入したものだ。

 遊牧民の女性たちの手によって染色された、太い粗目の羊毛の糸によって織られるそれらは、手本も図案もなく即興で作られるものらしい。
 柄にあるモチーフは、花や動物、人、そして目立つのはモダンアートのような幾何学的な紋様だ。
 前述のようにタントラの図も思わせるが、それらに多分影響を受けただろう・・アメリカの抽象表現主義に入れられてしまうけれど独特な世界を感じさせた「マーク・ロスコ」も思い出させる。

 元になる羊毛の糸は植物染料で染められるのだそうだが、写真で観ていてもなんとも深みのある目をひき付けて吸い込まれる感じのその色彩だ。

 ギャッベを織る女性たちはモダンアートなどという意識もなく、明快な美的感性をくつろぎながら発揮しているのかと、ちよっと沈思黙考したくなる豊かな図版集だ。
 色濃い血の通うような暖かみというのは、モダンアートが失いがちなというか・・、あるいは無理して出せるものではない「正直なもの」なのかと考えたりもする。

 余談だが、ジョン・レノンがオノ・ヨーコの個展に訪れたのが、ふたりの最初の出会いだが。
 ヨーコに天井を観るように促されたジョンが、そこに「Yes(はい)」と書いてあったことがジョンにとっては決定的なことだったという。
 そのころの「ほかの現代美術(コンセプトアート)には感じることのなかったあたたかみを感じた。」とジョンは後に言っている。 もし、その言葉が「No(いいえ)」 だったら、そのまま帰っていただろう、と。

 昔そういえば日本人に対して、「イエスマン」なんて皮肉の言葉があったが、Real(本当)な「yes(はい)」という肯定にはすごく力があるのかも知れない。

----図版は、京都書院アーツコレクション(81)「GABBEH ART」(¥1000)の中装丁。----
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by past_light | 2004-12-11 02:18 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)