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「ヘタがいい・・119」
 竹中直人の2作目に当たる「119」を観ていて、この人の映画作りは、人に対しての愛情が基本にあるのだな、ということがしみじみと伝わり、それは気持ちがよい時間だった。

 「119」は伊豆あたりの海辺の小さな町が舞台で、人々の暮らしものんびりだが、主役達の消防署もたいした事件も起きないから、いつもリラックスムードだ。
b0019960_18121902.jpg でも、それは隊長役の竹中直人が「ぼくたちの仕事は待つことなんです」と言うように、日々署内で「待つ」彼らの姿のいろんなシーンがぼくには心地よく感じられる。
 どう待てるか--という姿の中にも、人生でけっこう目立たないけど楽しみ方のようなものが出るものだろう。
 ついつい机の前で昼寝してしまう彼らには、誰かのオナラの音や匂いもそんな日々のアクセントだ。
 マドンナ(鈴木京香)の突然の出現は、そりゃ彼らにとって素晴らしき日々の訪れだ。待ったかいがあるというものか・・・。

 それにしても海のあるこの町の時間はくりかえす潮の満ち引きのようにゆったり・・、どこにも火事や事件らしい兆しは無い。
 マドンナがいつまでも去りがたくなるこの町が、観ている観客にも同じく去りがたい。
 それでもささやかないくつものエピソードが、この町を訪れては過ぎていく。

 ところで監督竹中は、配役たちに巧さを求めていないということがこの映画でも感じられる。
 少々うそっぽいおおげさな表情だっていいんだ。その役者のもともと持っている顔なら・・なぜか納得だ。
 熱演されるとたまったものじゃないかもしれない。この映画にはオナラの「間」が不可欠なんだ。

 それでも、竹中がもともとグラフィックデザインを学んだという履歴が、彼のどの映画でも感じられるのは、破綻が起きない映画作りのセンスにおいてもあらわれている。現在までそれはいい方に生きているようだ。
 もちろん・・ きっとそれは諸刃の剣というセンスでもあると思うのだけれど。

b0019960_1545973.gif 表面的にドラマチックな話や演出を押し付けられる映画も多いけど、ドラマチックな波は本当は人の心の中で起きているはずだ(現場だよ現場)。そういう能動的な感性を失うと、人は仰々しい大作と称する派手なアクションとかドラマのなかにジェットコースターに乗るがごとく身を任せ、想像力も自らの感性も使うことなく足を掬われるのかも知れない。

 巧くなんて無くていい、そこに存在するだけで君は意味がある・・と言うとしたら、それは万人の本来自然な姿なのかも知れないとは思わないか。

 こんな日本の風景を映画で観たのはひさしぶりという気がする。
 毎日のニュースの中の日本は、この映画の中にはまったくない。

(1994年作 --「119」 監督:竹中直人  脚本:竹中直人 筒井ともみ 宮沢章夫  音楽:忌野清志郎
出演:赤井英和 鈴木京香 竹中直人 塚本晋也 温水洋一 浅野忠信 津田寛治 岩松了 石堂夏央 宮城聰 石川真希 本田博太郎 伊佐山ひろ子 マルセ太郎 三東廉太郎 真田広之 大塚寧々 周防正行 松岡錠司 奥山和由 須賀不二男 久我美子)
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by past_light | 2004-10-31 19:50 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
「立花隆が語る武満徹・・言葉よりも語るもの」
 ずいぶん前に、自分のサイトに、けっこうこつこつと日記らしきものを書いていたことを思うと、最近は、そんな日々に懐かしささえ覚えるほどだ。
 検索で見つけてくれて、そんな古い記事を読んでくれた人が報告してくれたりすると、有難いような申し訳ないような気持ちだが、・・本心はただただ嬉しい(笑)。

 もちろんそんなことは年に一度か二度のことだが、今年もあるところのブログを書いている人が見つけて紹介してくれたものがある。
 自分でも思いだして読んでみた。誤字脱字なんぞをそれで急いで直した。(^-^;

 武満徹さんの本業の音楽より彼の文章の方がぼくには馴染みが多かったが、映画に対しての鋭い感性と、思い入れのつよい文章も読みごたえがあった。
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「立花隆が語る武満徹・・言葉よりも語るもの」

 武満徹の音楽は独特な響きを感じさせる。しかし難解と言えばそうも言えるし、ぼんやり聴くという態度では聴き逃してしまう濃密な音楽でもあり、ぼくもなかなかきちんと全編を通して聴くことは正直少ない。それに時々なんだか聴いていると不安感を覚えるものもある。(それは彼が生に内包される死を常に意識していたということによる世界観、あやうく浮遊するようなバランス感覚から生まれたものなのかもしれない)。

 音楽以外の表現媒体の作品にも広く関心を見せた人で、映画の感想・随筆なども非常に興味深い内容で、しかも詩的な表現で語れる人でもあった。そういった言葉にぼくは、音楽より先に惹かれたと記憶している。
 そんな武満徹の音楽は映画やテレビドラマでも聴くことができ、多くの印象的なサウンドトラックを創ってもいる。映画「砂の女」や、その原作者の安部公房の小説の映画化されたものなどに、ぼくは強い魅力を感じていた。
 亡くなる少し前、ニュース23のために書かれたシンプルなクレジットタイトルソングを記憶している人も多いだろう。(その紹介とともに出演した武満徹を見た時は、病気のことは知らなかったが、なんとなく肉体的な命の長くない人の姿ではあった。)
 またぼくは、もう10年以上前になると思うが、なかなか再放送されることのない笠智衆が主役の特別ドラマだった「波の盆」という題(だったと思う)の・・その美しい曲が流れるドラマをもう一度観たいとも常に思い続けている。
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 そして話は変るが、何年か前にその武満徹は亡くなった。
 それから一週間後ぐらいに放送された番組があった。
 その夜、偶然テレビをつけたら、その番組が始っていた。あわてて録画した。
 そのビデオを久しぶりに観た。このビデオは最初の部分がテープトラブルでぐしゃぐしゃになっていて、それでもこれはけして捨てられないので、ドライバーでビデオカセットのケースを開け、なんとかスムーズにテープが巻けるようにした。
 理由は武満徹の貴重な記録・・というだけではなく、その番組の進行を任せられた立花隆という人に感じている頭脳的な天才というか、そういった印象を超えた、他では出会えない突然現れた感動的な表情が、この番組にはあるからでもある。

 縁のあった作曲家・演奏家や作家、・・と様々な著名人がインタビューで武満徹を語る映像、武満徹の生前の記録映像、写真、それに武満徹の曲の演奏、また最後の大作になった演出された映像・谷川俊太郎の詩と書き下ろされた音楽の融合した美しい遺作「系図---Family Tree」が放送された。

 その案内をベテラン女性アナウンサーと対話形式で解説していく立花隆は、各ビデオ映像が終わると一拍の間もなくすぐに話し出す・・。その解説は武満徹になみなみならぬ関心と尊敬を持ち続けた人の熱い思いが充分に感じられるものだ。しかも立花隆特有の早口によって、的確な言葉で埋め尽くす。アナウンサーは頷くか時折補足する程度だ。
 しかし・・なぜ、こんなにもいつにもまして喋りまくるのだろう。息を吐く間もないように・・・。でもそれは最後に解る。この世を去る日の武満徹の一日を描写する話に。

 ・・・・「武満さんは、病院からその日、家に帰った。いつもは映画や音楽が好きな人だから、ビデオやCDなどを、持っていきますか?と聞くと、その日は「いらない」と言ったという。それじゃ、ラジオでも・・。とラジオを置いていったそうです。
 その日は偶然にというか・・・ラジオではバッハの「マタイ受難曲」を特集している日でもあったんです。「マタイ受難曲」は武満徹がもっとも好きな音楽である。というより特別な曲なのである。
 武満徹が作曲する時には、必ず儀式のように「マタイ受難曲」を聴いてから始めるほどの生涯切り離せない音楽なんです。亡くなるその前夜、武満さんはそのラジオで「マタイ受難曲」を聴いたであろうと思います。・・そのことは・・・・武満徹という人は・・・幸せな人だと・・・・思います・・・・」・・・・

 番組の二時間ほどの間、ずっと蓋を閉められていた扉が、彼の悲しみの感情が、突然、堰を切って溢れだし、押し寄せた逆らいがたい感情の洪水に胸を塞がれ嗚咽をこらえる立花隆は、初めて沈黙をもってアナウンサーの補足の言葉にただただ頷くしかなかった。

 その場面はそれまでの言葉以上に、何にも増して立花隆の「思い」を語り、心を動かす。
 そんな・・、ぼくには奇蹟を見るような説得力を持つ映像だった。
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by past_light | 2004-10-30 19:35 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(2)
満月
 満月という日は、実はなぜか事故も多いけど、日頃よりなんとなく月の光がさらに神秘的に感じられる。そんな一昨日の夜空だった。
 狼男の伝説ではないが、人を善くも悪くも・・いつもよりエネルギーの高まるような、またはバランスを危うくするような、そんな光に感じる。

 以前、じっと長いこと見つめていて、なぜかすごく怖くなって恐怖感を覚えたことがあった。
 今でも、だからか、あまり長い時間見つめるのは止めにしている。その理由は不明だけど、けっこうそんなことも何かの本に書いてあったような気もする。

 月は人を狂わせる・・。 これもずっと以前、夢の中で出てきた月はさらに怖くて、大きな月が目の前に展開されて月蝕のようなシンボリックな映像が印象的で・・そんなこんなが、そのころユング心理学に関心を持っていた共時性を感じさせた。  昔の人や未開の地の住民が月を怖れたり敬ったり、意味を与えていたことが少し解るような時期でもあった。

 イタリアのタビアーニ兄弟の「カオス・シチリア物語」のオムニバス映画のなかにも、文字どおり狼に変身してしまう新婚の男の・・そういう話があった。
 最近この兄弟の映画の話がとんと聴かれなくなったが、月の神秘と人を狂わせるような、そんな光も感じられる面白い映画だった。
 この映画の最後の話には短いが非常に詩的な、説明を省いた洗練されたエピローグがあって、その映像に捕り憑かれたようにビデオを何度も観た。
 月は出てこないがこれも月の光にてらされたような不思議な話だった。

 亡くなった淀川さんも月が好きで、その書かれていた本の中で、・・月が奇麗だと、風呂場から素っ裸のまま庭に飛び出し、その月に向かって吠えたそうだ。 冗談だと思われそうな話だけど、ぼくには淀川さんの-月の面-を象徴するようなエピソードで頷けた。
 できれば・・ぼくも時には月に向かって思いっきり吠えたいものだが・・・。

 満月になる日に以前アップしておいた、頂いた月齢のJavaアプレット。
 最近はたまに思いだしたようにしか自分でも覗かなくなった。
 その日の月の満ち欠けがわかるだけなんですが、当時なんだか自分のために作ったようなページだ。今ではドビュッシーの「月の光」もミディで鳴ります。

リンク-月齢 
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by past_light | 2004-10-30 03:04 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(4)
「フォロー・ミ−」・・結婚とはなにか。
 結婚とか、なんてこと考えたこともなかった時に観た映画。キャロル・リード監督その意外なラブコメディ。いやコメディではないかも知れない。なぜならテーマはどこにでも、今の時代なおさらのように見られる夫婦の関係についての深い洞察も持っ た映画だからだ。

 この映画はその年のキネマ旬報の記録をみると、批評家的には20位ぐらいにやっと入るぐらいの位置付けだが、読者選出では5位である。この年にもたくさんの映画を観た。印象的な作品がたくさんある。外国のものだけでも「スケアクロウ」「ジョニーは戦場へ行った」「ブラザー・サン・シスター・ムーン」「ロイ・ビーン」「恋のエチュード」・・・。
 映画を語り合っていた友人と、結婚なんてずっと 先の話だと考えながらも、この映画『フォロー・ミー』は、理想主義的(ロマンチシ ズム)なお伽話というだけで済ませたくなかった思いがあった。もちろんそれはとて も難しいことだという予感に満ちてはいたのだが。
 ともあれ今結婚されている、またこれから結婚を考えているすべての方に本気で薦めたい映画のひとつかもしれない。 ミア・ファローという女優のキャラクターの生きた映画という記憶もある。サントラの旋律も歌も素敵だ。イギリスという国柄もよく背景に感じられ、街のあちこち日常的な光景も楽しめる。
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 全く違った環境と価値観を持った二人が、違いがかえって縁を呼び、楽しい恋愛期間を過ごした後めでたく結婚する。が、気がつけば、いつか旦那は仕事人間。妻に妻 らしくあることだけを要求し、やがてそんな夫婦も退屈な型にハマる。独身時代はヒ ッピー的放浪や、自由と柔らかな日常を送っていた奥さんは孤独と窒息と愛の渇きに 落ち入っている。その妻の不審な日常の行動に不安を持った旦那が、私立探偵に調査 を頼むというシチュエーション。
 と、それだけならありふれた話に思える。しかし私立探偵は『屋根の上のバイオリン弾き』の父親役のトポルという個性的配役。彼のク レージーで温かい眼差しがフォローする依頼人の奥さん。ふたりはやがて一言も会話 を交えることなく、あてもなく街を彷徨い散歩することで、お互いの心に温かい灯をともし、そして素敵な話が始まる。
 これはまさにプラトニックな関係の極地とも言えそうで、観ているぼくらの胸をすら 温かくしてくれる。

 ぼくがこの映画で感心するのは、けして重くならずコメディタッチで爽やかに描かれながら、結婚生活を送る人々に囁かれている、ある「深さ」だ。
 ミア・ファロー演じる奥さ んの旦那への言葉に現れる夫婦の落ち入る現実感と尽きせぬ理想。そしてトポル私立 探偵の軽やかに生を歓喜しようとする姿。そんな彼らを、あまりにも甘い、理想的すぎる、現実的でないと思うか、そのへんを今直に観ているぼくらの、心のリアクショ ンを、現在形で充分に正直に味わってみることではないか、ということだ。これこれこうなんだなんていう結論なんてものに意味はない。映画、創作物の、お話に接しての生きたリアクションに、本来正しい答えなんてないのだ。なんであれ人の感じたも の、感想は、その人の今の心を正確に現わすだろう。それは貴重な経験、忘れている 自分との対面かもしれない。
 映画『フォロー・ミー』は、あるユニークなあったかい ハッピーエンドが用意されています。
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by past_light | 2004-10-28 18:55 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
ウディ・アレンの「世界中がアイ・ラブ・ユー」
 時々、とってもウディ・アレンの映画が観たくなる。ぼくは、そんな病を抱えている。
 そうは言っても、ずいぶんただでさえ御無沙汰しがちな映画観賞だから、彼の映画だからといって新作を待ち望んだかのように映画館に足を運ぶというわけではない。ウディ・アレンの映画はほとんどがビデオというのが実体なのだけど。
  それでも映画館で観た記憶する映画に「カメレオンマン」があり、フェリーニの「女の都」とカップリングの、ぼくにとってはまったく涎ものの粋な組み合わせだった。
「カメレオンマン」は、彼の映画でも映画館で観た時はアイデアに感心しながら笑いこけた。でも後になってビデオで再見したらあんまり乗れなかったのが不思議だった。
 その三鷹にあった映画館も今は影もかたちもなくなったが、そのころはビデオがまだまだ一晩レンタルするだけで1,000円も取られた時代だった。

  このところ続けて溜まっているビデオを何本か観た。 取りあえずは禁断症状のウディ・アレンと思い、気になっていた「重罪と軽罪」を観はじめたら、どうもどこかに記憶があるシーンが出てくる。それでも結局最後まで観てしまったが、やはり前に観ていたことを忘れていたのだ(^-^;。
  ウディの映画はストーリーを覚えていないことが多い。他の映画でこんな経験はない方なので、彼の映画には、なにかそんな妙な独自性があるということにしておきたい(笑)。
 ニューヨークが舞台になることが多い彼の映画だ。残念ながらあの事件以後、今では「マンハッタン」などの名作を観るのは、当の彼に限らず複雑な思いがするだろうけれど・・。
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 ウディ・アレンの映画には微妙な当たり外れがある。微妙というのは、大きく失望するということがない程度の外れもあるということなのだが。
 同じニューヨークが舞台であれ、別れたカミさんといい友だち関係だったりするのであれ、その旦那がまた人のいい世話好きだったりしちゃってね。
 吃りがちに早口で喋る、大人になった悲観論者のチャリー・ブラウンみたいなのに、けっこう女にもてないというわけでもなくて、実は病気みたいにいい歳をして(あえて常識人ぶるとね)美貌の女性に恋ばかりしては短い蜜月でかならず振られたり。
 インテリらしい友人関係、きまって精神分析好きの彼ら、それから恵まれたニューヨーカーの中流階級の生活。意地悪に言えば自己満足にどっぷりな世界・・。どれも似たような設定に見えるものが多い。

 少しづつ温かだったり冷たかったり、深刻だったり、軽薄だったり、淋しかったり、空しかったり、病んでたり・・。
 無神論なのか神を信じたいのか、民主党支持なのか共和党支持なのか(ちょっと冗談だが・・笑) まあとにかくはっきりしないし、なまぬるいっちゃあなまぬるい。これが「煮え切らなくて、いけないよ、ゆるせない」という人はいるだろう。でも時に気付く人には、そこに強烈な皮肉も透けて見える。
 ベルイマンとフェリーニが好きだということがはっきり分かるのも、どこか滑稽なほどなんだけど、それでも現代のアメリカ、ニューヨークという街や人がよくも悪くも身近に感じられる。
 そんな空気がフィルムから満喫できるウディならではの映画づくり。

  それからそれには、会話の機関銃を浴びるみたいに字幕を追わなくちゃならないのも、ほどいい苦痛が快感に変わりそうなほど。
 フランスのエリック・ロメールなんかも会話を追うのがけっこうたいへんだが、ロメールもウディも別に哲学的な言葉が出てきたって、たいしていちいち意味を分かる必要なんかないのは一目瞭然。喋っている時のパリジャンやニューヨーカーの表情とか関係が面白いのだけれど、ウディ・アレンの映画は、万年メランコリーな顔とひとりごとみたいな口調で、吃りながらまくしたてる彼の出演シーンが、ぼくには特に楽しい。彼自身が登場しない監督だけの映画はぼくはやや敬遠するほどだ。
 シュワちゃんよりもウディを、きっとぼくはアメリカのともだちにするだろう。
 「世界中がアイ・ラブ・ユー」は、そんないつものウディが、アメリカ名物、古典的スタイルミュージカルを、クリーミーに美味しく、そしてコミカルにセッションさせた、アイ・ラブ・ユーな映画だ。(2002.3.8)
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by past_light | 2004-10-27 21:33 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
自然災害
 昔から地震のない年はないぐらいで、家が揺れはじめるたびに今度はついにか、と東京にいると思います。
 昨日、新潟で起きた地震も、東京でもかなり大きな揺れを感じましたし、その後もたびたび揺れます。
 テレビの映像で見るだけでも、山間部での被害は都市部とはちがう被害の深刻なことが判ります。田舎に住んだ経験がある人にはわかるかもしれませんが、けっこう山の斜面を削り取ったような場所に民家があるケースは多い。また、交通が遮断された場合、住民が孤立してしまうというのもたいへんです。

 地震をなんとか切り抜けたお年寄りが、その後疲労して亡くなるケースなど、実感としては、自分も年令を重ねないとわからない避難生活のしんどさも想像します。こういう時、肉体の若さや健康はなによりもありがたいことです。

 ニュースの中の住民の方が語っていた。「阪神の時も先日の洪水の時も他人事だと思っていたけど、自分があってみると、とんでもないことがわかりました」

 被害に合われた方々にお見舞い申し上げます。


 先日も台風による大雨の被害が生々しく報じられたりしていました。
 
 ぼくも子供の時になんどか浸水で畳をびしょびしょにされたり、窓下に見えた畑が翌朝、池に変わっていたり(実はそれは申し訳ないですが楽しい思い出です。というのも、どこからか流れ着いた金魚がたくさん金魚鉢に客人となり、宝石のように見えたぼくの子供心の興奮があったのです)しました。
 でも深刻な時もあり、近所の低い土地にある住宅が水に浸り、川のなかを渡るようにお腹まで浸かって歩いた記憶もあります。

 何年も前、島原半島の南の町に田舎があった頃に帰郷した時、まだ静まりきれない火山の噴煙が、風向きによって降ってくる日があって、夕方、自転車で海辺の町を散歩していた時、ひどくなってきた灰のなかをあわてて帰ろうと家路を急ぎました。
 それでも途中、中学生の頃に住んでいた借家の前にさしかかり、懐かしさもあって自転車を止めて眺めていたら、犬が居たので愛嬌を振りまいたつもりで顔を近づけたら、突然ぼくの顔をめがけて飛び掛からんばかりに吠えられました。びっくりしたぼくは「なんでかなあ?」と思いながら家に帰ってみると両親が大笑いします。
 鏡を観ると灰で真っ白、無気味に暗黒舞踏団のメンバーに入れそうな顔でした。

 これも以前、諫早の、例の海を塞き止めてしまった効果があったのかどうかを、地元で問うている方がいらっしゃいました。
 ぼくは自然というものを人間がすべてコントロールできると思うとしたら、それはかなり傲慢な感じがします。 
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by past_light | 2004-10-25 20:54 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(1)
ブッシュにダマされた
恐怖感を悪用した低レベルのネガティヴ・キャンペーン・・CMが流れているそうで、その話題がありました。オオカミに失礼だ、たしかに。

抜粋・・・

連中は、これはグリーンピースのCM撮影だといったんだぞ!

オレたちは平和なオオカミの群なんです。生活上、望むものは
木々が豊かな森に住むこと
小川からきれいな清水を飲むこと
新鮮できれいな空気を吸うこと

リンク-海外ボツ!News
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by past_light | 2004-10-25 20:39 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)
フランソワ・トリュフォーの柔らかい話
 このところ、BSNHKではフランソワ・トリュフォーの何本かを連続放映しているようです。

 この機会に、下記ページへの、またまた誘致コメントさせてもらいます(笑)。

 トリュフォーと言えば、ゴダール。ゴダールについてはファンにはたくさんのコンテンツがあると思うので、その分野に進出する気はとうていありません。

 ただ一番好きなのはどれだろうと思うと、「男と女のいる鋪道」あたりのわりとはっきりとした物語と言うことになるだろうと思う。
 「ゴダールのマリア」あたりの映像はとんでもなく魅力的だけど、「ゴダールの・・」と付いたタイトルの映画はなんとなく消費されていく映像と言う感じがして仕方ない。

 本題のフランソワ・トリュフォーは、まあ各映画のできうんぬんは置いておいても、まるで古い友人の消息を聞くようなものなんだ。ぼくには。


★リンク「フランソワ・トリュフォーの柔らかい話」
別ウインドウで開きます。
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by past_light | 2004-10-22 18:36 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
「旅の映画と70年代」
 芭蕉という人は旅に明け暮れていたのだと思うけど、長く旅を続けると、一般的な旅と云う感覚とは違った情感が感じられたりする。それは「心の旅」というニュアンスに近くなってしまう旅人の姿だろう。

 そんな・・彷徨うような旅。

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 高橋竹山という津軽三味線の名人が居た。何年か前に亡くなった方だ。
 新藤兼人という監督が「竹山ひとり旅」(1977年)(この映画が好きでテレビでやると何度でも観た) という映画を撮った頃、そんな彷徨うような旅の映画がよくあった。
 篠田正浩監督が同じ年に「はなれ瞽女おりん」という、これも同じく盲目の三味線弾きの旅、女性版で、 こちらは人知れず野垂れ死にしてしまった。
 その骨が映るラストシーンはしかし、不思議に哀しくなかった。なんだかごく当り前のように見え、清々しさもあった気がする。この時代の人にはそんな末路もステータスがあったようにさえ感じた。

 市川昆の「股旅」(1973年)は、そういえば日本のニューシネマ的な青春ロードムービーと今なら表現するかもしれない。

 原田美枝子が体当たりの演技で衝撃的だった「大地の子守唄」(増村保造.1976年)、それからもっと以前の旅の映画というと、高橋洋子がデビューで存在を印象づけた「旅の重さ」(斎藤耕一.1972年)は、その時代の空気を、当時新人の高橋洋子が、旅の途上でかく汗と体臭で身近に伝えてくれるような、 そんな自由と孤独と悲しさを吉田拓郎の主題歌とともに初々しく映画にしていた。
 それは、ぼくのその頃の心にとっては等身大の旅の映画だったような気がする。

 何故だか、その頃の映画のなかには放浪する青春が描かれていた映画が多いのだが、アメリカも例外ではなくて「青春の光と影」だったと思うけど・・ 主人公のジーンズ姿と、走り出す貨車に跳び乗る旅に心の奥から憧れた。

 ジャック ニコルソンが主演した「ファィブ・イージー・ピーセス」(1971年)、
ジーン ハックマンとアル パチーノの「スケアクロウ」(1973年)の心の空洞を埋める放浪も、 痛いほど伝わる空気が満ちていた時代。

 老人が主人公ではあるが、アメリカが素晴らしく思える映画の一つ 「ハリーとトント」(1975年)の猫との旅。旅先で老衰して静かに死んでいくトントの表情も忘れられない。 自分が16年共に居た猫と別れてから、涙なくして見れないシーンだ。

 比較的最近ではアイスランドの作家の映画「春にして君を想う」(1991年)という、
これも老人が主人公で、「ベルリン天使の詩のブルーノ ガンツ」が天使そのまま終り近くに登場する。
 この厳しくも優れたファンタジーは、いつか詳しく書きたいと思っていながら、未だに果たせない(笑)。
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by past_light | 2004-10-20 19:59 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(3)
「山の郵便配達」 
 ■「山の郵便配達」 (原題)那山 那人 那狗 (あの山、あの人、あの犬)
          ・・・・・・・・・・・・タオの人

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 映画がはじまると、そこに浮び上がる風景に驚きます。1980年代の初頭、中国・湖南省西部の山間地帯。
 話は20年ほど前の設定のようだけど、中国には山水画の世界が永遠にあり続けてくれるんじゃないかと、目に映る景色に少しホッとします。
 でもチャン・イーモウ監督の「あの子を探して」にも感じられるように、どんどん都市部では自由市場化などで、人の内面も日本みたいにある部分西洋化されているような感じも受けるけれど、この「山の郵便配達」を観ていると、中国には「道〜タオ」がやっぱり生きているような気がして、そのおどろく風景とともに、登場する人の素朴さにも、しみじみ憧れを感じました。

 しかし気をつけないといけないのは、国というかたちのなかに住む人間の印象を、大雑把に括れないのは、ほんとうはどこでもおなじことだろうということ。どこの国も、政府、政治家というのは、堅苦しい硬直した姿のイメージしか伝わってこないので、そんなニュースばかりで知る外の国々のイメージを、なんの抵抗もなく無意識に受け入れたり許しては、人間の本来柔らかいはずの心に、とても失礼で幼稚なことだと思わないといけない。
 映画の持つひとつの大きな魅力、力は、その映像で様々な国の普通の市民のこころ、日常、ドラマに出会えること。 どこの国にもおなじように、男と女がいて、父と母と子供と、恋人たちと、・・食べて寝て、泣いて笑って、・・そういった共有している行為、人の生活の共通点があるのだという、あたりまえのことを思い出す。 それは、いつかひょんな時に、ふと忘れているとしか思えないことが、どうにもまかりとおるような気がするから・・。

 この映画も家族の話。 足で歩いて運ぶしかない山岳地区の郵便配達、長年勤め上げた父と、後継ぎとなる息子と、賢い犬との、二泊三日の徒歩によるはじめての旅、これこそ究極のロードムービーといっていいだろう。
 斬新な演出やカットなどはないが、誠実にしっかりと画面に映し出されるふたりの険しい道のり。 危険もふくむ辛さも多い山岳の道なき道・・。 息子の背にする重く、そして大切な郵便物の入ったリュック。父が長年黙々と従事したその仕事。 以前、その父に同行した上司が「こんなに辛い道だとは知らなかった。あなたに申し訳ないことをした。」と悔いたという。 息子はそんな深い実感も、さほど知らず父の仕事の引き継ぎを引き受ける。「ぼくなら二日で充分だ」と出かける前には軽い気持ちだった。

 公務につきものの出世にも無頓着に、黙々と続けたタオの人を想わせる父親は、その仕事のアドバイスに、「愚痴は言うな」「良く足元を見て歩け」「辛いがやりがいのある仕事だ」・・と言う。 下の道にバスの通るのを見て「バスならもっと早くいける、どうしてどこでもぜんぶ歩くんだ」とつい漏らしてしまう息子。「道は歩くものだ」と言う父。 多くの人(含む私)は、ちよっと自らが恥ずかしくなり赤面するかもしれない。
 恥ずかしいと言えば、この父は崖から落ちて気絶していたのを村の人に救われたことがあり、その時のことを思い出して「恥ずかしかった」と言う。 ぼくにはそれは、いわゆる自意識とはちがう無邪気な『恥ずかしさ』を思わせた。この父親の表情にはいつもそんな『優しさ』が漂っている。

 ぼくら観客には、どこまで続くのかと感嘆してしまう深い緑の木々と山々が、父と息子を包み込んだり、背景にいつも広がっている。 辿り着く配達先の、辺鄙な村々に住む山里の人々との、短いが暖かく、しかし気持ちのよい-距離-を持った交流。それは、この辛い仕事の休憩地点でもあり、触れあい互いに湧き出る泉のようでもある。

 そしてその道中で、過去にはなかった親父と息子の心の距離が急速に近づいていく。いつも留守がちな父だから、どうしても息子にあった過去の知らないがゆえの誤解とわだかまり、それが溶けていく。
 またそれは父にしてもおなじことで、青年になった息子とゆっくりと語り、背負われて川を渡り、寝床を共にし、そんな初めての息子との密接な時間なのだ。長い年月を生きた彼の仕事と、家族との想い出に出逢うことでもあった。 それはぼくらに、この映画の持っている時間感覚、胸に岩清水のように静かに染み入ってくるような感動の、その緩やかさに見事に沿っていて、しあわせな気持ちにさせる。

 そして、 映画のラストにいたるところが、きりりと締まっていて、とてもいいです。
 この映画、東京では岩波ホールで上映されたそうだが、いつも満員になっていたそうで、ともかくスクリーンで観た人はさらに幸せですね。

 1999年作品 2001年4月公開 (93分) 瀟湘電影制片廠=北京電影制片廠=湖南省郵政局 共同制作
 (原作)ポン・ヂェンミン(監督)フォ・ジェンチイ(脚色)ス・ウ

2002年記述2004年10月一部訂正。
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by past_light | 2004-10-20 02:17 | ■主に映画の話題 | Trackback(9) | Comments(10)