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「初恋のきた道」 ・・・永遠の家

  この頃、この映画については、もう神話化しているほどだった。  話題がネットでもたくさん掘り起こせるような感じだった。

 神話化というと、ほんとうにこの映画はそんな上昇する魂の輝きを思い起こさせる。

 「初恋のきた道」の予告編にも使われていた、 久世 光彦(作家・演出家)さんの映画の推薦文がある。

「この映画は乾草と花の匂いのする『聖書』である。私は実に久しぶりに『永遠』ということについて考えた」

 この言葉、見事に映画「初恋のきた道」を凝縮し、あらわしているなあと感心した。

  とすると、とても芸術的難解な映画かと、御覧になっていない方は思われるかもしれないけれど、そりゃ誤解と言うものだ。
 もうひとつネットで見つけた「ホッチkiss」さんという人の感想もとてもうまいので、そういう映画だとも紹介したい。

「はうぅぅ、チャン・ツィイー可愛いよう~、可愛すぎるよう~。どうしてとっとこ走るんだよう~」

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「ディさん! 先生が名前を聞いたよ!」


 芸能人なんかがよく聞かれるのに「初恋はいつですか?」という質問が多々あるけれど、「あれからずっとです!」などときっぱり答えられる人は、世界中を探しても数えるほどしかいないでしょうか。
 蛇足で言うと、西欧で思い出せばどうしてもキリスト教のお話になってしまう。「テレーズ」という乙女が、主イエスに熱病のように恋をする修道女の映画があったが、これは現実の、ここはちゃんと異性のハナシだ。

 外の空気をも運んで村に到着した二つ年上の先生。目で追い、少しはなれた場所から同じ方向に歩き、彼の通る道を待ち伏せし、毎日の水汲みも学校の側の井戸に変えたり、手にとられるかわからないけど、時間をかけた美味しいお弁当を毎日山盛り・・。

 これもネットで見つけたハナシ。
「一緒に観ていたオクサンが、・・結局ストーカーの映画なのね・・と言ったのを聴いた旦那は愕然とした」という(笑)。


 女の子にはだれでも覚えがありそうな・・というのはとっくに昔の話かもしれないが、先生に恋をして、毎日がドキドキ。その後、いつかめでたく結婚という人はいないわけではない。でもやっぱり現代だと、あまり聞かなくなった話なのも逆に興味深い。
 というのも、この映画の初恋の舞台は1950年代の中国の農村である。現代のハリウッドも日本の映画制作者も、発想すらできなかっただろうか、シンプルな初恋の成就する映画。ものすごいカウンターパンチ。 チャン・イーモウ監督の現代に対するひとつの挑戦状ではないか。
 あのデカプリオ版映画「タイタニック」のポスターが、二枚もこの田舎の家に貼ってあるのに気づいた人は多いんだろうか。

 その時代の村には電気も水道もないし、なんにもないけど、だからこそ、自然の風景に溶け込んだ暮しからしか生まれそうもない一途な恋情・・だと思いこみそうだが、一方ではそれはまた実は革新的なことだったのだ。


「当時、自由恋愛など村では初めてのことだったので、村では評判になった」

 恋の経験がない人はいない・・だろうと想像するが、それは確かじゃないからいいとして。 誰でも一時は熱にうなされるような時間を知っているだろうと思う。寅さんは知っている。ぼくもイチオウ知っている。たしかに発熱するよ。 多くの男性が(けっこういい年配でしょう)泣きに泣いたという感想も多かった。ぼくはそんな涙は流さなかったが、胸が始終熱くなったし、心の洗われる感情が立ち昇る経験があった。
 初恋の時の眩しさ、無垢なる至福な魂の支配下に置かれた人の輝きがあったからだ。

 主演のチャン・ツィイーは、むずかしかっただろうと思う。でも素敵な表情が永遠に残った。
 走る初恋、愛おしい後ろ姿の表情。そしてチャン・イーモウ監督は、これでもかと彼女の表情をアップでスクリーンに映したかった。
  永遠が今なのだ、と。

「ある人が娘の心を持っていってしまった。割れてしまった丼だけでも残してやりたい」
「では、心をこめてなおさないと」


 しかしその愛情の顕現も、母との二代にわたる女気質だと思えば、より胸の熱くなる話ではないか。
 映画の冒頭から、ディの母は「夫が死んだその悲しみで、泣き過ぎて目が見えなくなった」という神話も語られている。

 母の敏感な感覚は、ディの心の変化を、音符を聴き分けるように知っている。それゆえの深い優しさがなんとも伝わって来て、木の歴史のような母という人の確かな実在感がある。

 映画は、「黄色い大地」でも感じさせた中国の田舎の「黄色い自然」を思い出させた風景の映像によって、村の美しい四季の変化に合わせるように、初恋の行方が語られて行く。

 一時間半足らずの短い時間の映画なのが、かえってより「永遠」を感じさせるという不思議さが生まれたような気がする。
 語りべであるチャオ・ディの息子の、母と語るシーンにしても、とても静かな感動をさせてくれた。

 死と別れと悲しみと冬の、そしてそこから生きていくための明日へ向かうシーンはモノクローム。
 ラストシーン、チャオ・ディの顔にオーバーラップするカラーの「初恋のきた道」、
  重なるその道は、永遠の家へ至る道。


 チャン・イーモウ監督はこの映画を「中国の伝統である詩的な物語。愛について、家族について、そして家族の間の愛についての物語」と要約している。

                                 (2002.5.28)

初恋のきた道 (The Road Home) 原題「我的父親母親」/ 2000年 89分 米中合作
監 督 チャン・イーモウ(張芸謀) / 出 演 チャン・ツィイー/スン・ホンレイ/チョン・ハオ/チャオ・ユエリン / 2000年 ベルリン国際映画祭銀熊賞
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by past_light | 2004-09-29 01:40 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(2)

チャン・イーモウの「あの子を探して」

 「人生万事塞翁が馬っていうんですか、そういう言葉があります」(チャン・イーモウ)

  チャン・イーモウ(張芸謀)監督は、ちゃんといいもんつくる監督というわけで、話題の人です。
 これを書いてる頃、レンタルビデオ「あの子を探して」と「初恋のきた道」は、いつ店を覗いても全部貸し出し中。なかなか観れないでいた。 そしてやっと「あの子を探して」が一本あって、この機会を逃すとまたいつ見れるかわらないので借りて来て観た。

 中国映画というと注目の作品が最近は多い。
 チャン・イーモウ監督の名を知らないもう10年以上前だろうか、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の映画に「黄色い大地」という映画があり、その大陸的なスケールの映像と繊細な悲しみとの両立した映画は、中国映画が話題になりはじめた頃だが、その中でもとても感動した映画のひとつだ。 その撮影カメラを担当していたのがチャン・イーモウ監督だったそうだ。

  チャン・イーモウ監督の映画は、名前を覚える以前からけっこう観ていることに気づいた。
  「菊豆」「赤いコーリャン」「紅夢」「秋菊の物語」はみんなビデオやTVで観ている。主演の女優コン・リー(鞏俐)は、監督と公私共にカップルだった時期があるそうで、ふたりは共にその映画によって世界的にも有名になった。

 コン・リーは中国の百恵ちゃん・・などと言われた時期があるそうだが、映画での最初の印象は、かなり美人で、官能的女性という役柄もこなせる女優という感じだったが、年齢とともに、たくましき女優に特徴とされるような男性的な精神さえますます感じさせる人になった。それは「秋菊の物語」という映画の中の女性としても、役柄としても同時に表れて来ているようだし、「活きる」という映画もその点からも興味をそそられる。

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さて「あの子を探して」は、チャン・イーモウ監督が、そのコン・リーとのコンビに終りを告げ、新しい方向を感じさせる映画なのかもしれない。 ユーモアのある話運びと、ドキュメンタリー的な演出方法との見事コラボレーションな感動を生み出している。

  出演者はすべて素人。村の村長もTVアナウンサーも自分を演じる。子供たちは何万人のオーデションの中から選ばれたとはいえ、別にものすごい才能を買われたというような選択ではないことは見れば誰にもわかるだろう。

 監督のインタビューをネットで見つけて読んだ中で面白いのは、中国も最近はTVの影響が無視できないようで、役の彼らに脚本を見せないという方法をとったそうだ。

 「・・リラックスして普段と同じようにふるまう演技をしてもらうのは大変でした。私達はまったくこのストーリーと同じように順番に撮影して行きました。1日目に起った事は1日目に撮り、次の日に何を撮るか教えませんでした。脚本を見せませんでした。見せなかったは、テレビの演技のまねをするのを恐れたからです。」

  「・・まずカメラにフィルムを入れずに置いておきました。村の人々は最初、取り囲んでみていましたが、二週間ほどすると飽きて人だかりがなくなりました。そのときを待っていたんです」「中国人は、最近ますます大衆文化、特にテレビの影響を受けている。脚本を渡したら、きっとその役をどのように演じるべきかを問い考える。そして、唯一のお手本となるのはテレビで見たもの。彼らがその真似をしたら、引き出そうとした自然な表情が失われてしまう」と言っている。
 イラン映画も素人の自然な表情を引き出すのがうまいけれど「あの子を探して」もびっくりするほど。

  僭越なハナシだけど、ぼくが昔8ミリ映画を撮った時にヒロインをやってもらった女の子も(もちろん素人)、一週間に一度のロケに出てくると、自分なりに役を作ろうとしていたのがうかがえた。
 それは、やはり堅く不自然で面白みのないものだった。それでなんとか肩の力を抜いてもらおうと苦労したけど、なかなかむずかしかった。
 そこで「カット!」の切れ目を無くし、笑って欲しい場面ではホントに可笑しくなって笑い出すまでカメラを回し続けた。
  そんなフィルムの中には、ふくれっつらで怒る表情を撮ったシーンも、彼女が吹き出して笑うところまで撮ってあり、それがとてもいい表情なのでそのままつないだ。できるかぎり故意の役作りを削り取ったそのナチュラルな彼女の表情で、なんとかフィルムの中のヒロインは自然の天候の変化のように生きたものになったと思う。

 「あの子」を探すミンジ役である13歳の魏敏芝(ウェイ・ミンジ)を演じる少女は、まさに天然の花の開花 !。
 彼女にしても探され厳選されて主役に抜擢されたわけだが、時にスクリーンに特別輝くような魅力を放ち登場する、というようなヒロインの登場とはみごと異質に、なのだけど・・、彼女はこの映画を観終わった人に忘れられない印象を残すだろう。それはもちろん探される方のホエクー少年の独特な表情、他の生徒達ものことだ。

 「泣き笑い」というと日本的だが、笑ったり微笑んでいる隙間に、突如として涙が頬を伝う経験をする人が多いだろう。 その涙も、この映画を良識的にというか(正常に?)・・ちょっといじわるに観賞する人も、やはり拒絶できないのではないかと思う。

 そしてアナウンサーに「どうしてホエクー君を連れ戻したかったの?」と、問われたカメラの前で見せる、村の臨時代用教員であるミンジの、その答えを探す表情に映画の主題が凝縮されていたと思われる。

 登場した時からミンジは寡黙だが、その一途に直進する性格で、不可能を図らずも可能にしてきた。神の加護に包まれながらのようにだ。
 監督が撮り直しのできないシーンとしていたテレビカメラの前で、アナウンサーのいくつもの質問のなかから「どうして学校にいけない子供がいると思いますか」という問いに、「お金がないから」と初めて答えるところに、中国の田舎の現状と、そこに住む彼女たちに切実な心の声が聴こえる。 そしてホエクーを探し回る最初の動機は、今は問題ではなかったことがわかる。

  めでたいハッピーエンドに終わるまでの途上、村に帰る車中でも撮影されるふたり。 アナウンサーに「都会でなにが思い出になったか」と問われるホエクー少年が、「食べ物を恵んでもらったことは忘れない」と答えるのも、映画の中で彼らを見守った観客に説得力を持つ深い印象を残す。

  興味深いのは、登場する中国の大人たちのほとんどが、とてもドライなことである。 いやミンジにしても、最初だけホクエー探しに協力してくれる少女にしてももっぱらドライである。 しかしけしてずるい狡猾なドライさではなく当然とも感じさせるのは、それが中国の近代化されていく大きな現実を生き抜くためだろうというのが伝わって来るからである。そういう必然的な生活感のあるドライさ、とでも言えるものだ。

 この映画で、山間部に学校のある地域、甘粛省というのは、中国でももっとも貧しい地域のひとつらしい。

 「この作品は、今の中国で都市部と僻村と経済的に格差があまりにある事を、風刺しているのでしょうか」という問いに、チャン・イーモウ監督はこう答えている。「複雑な事を考えて私はこの作品をつくったわけではありません。けれども今の中国の都会では、商業主義がはびこって、たぶん人々の心の中で忘れがちになっているのは、素朴な愛だと思います。今の中国で当たり前に起るであろう事を描いたつもりです」

 そういう話はまた置いておいて・・。ぼくは、TVカメラの前のミンジを見ていて、突如としての込み上げる泣き笑い・・とまらない涙が自分としてもショックでした。(笑)

  ◇後日談として、映画を観た方には面白いだろう監督の話です。(これから観る人は後で読んだほうがいい)
 「彼女が子供を捜しに行くという設定ですので、一緒に町に撮影に行きますよね。私たちは、撮影のとき以外は、彼女を一切町に出しませんでした。というのは、都会に対する恐怖心みたいなものを残したかったから。だいたい25日間くらいそこにいたのですが、撮影のとき以外は外に出さなかったんです。テレビ局での撮影のときも、まず彼女を外の車で待たせておいて、スタジオ内の準備が全部できてから彼女を呼びました。アナウンサーは、彼女に答えられようもないような質問をするわけですが、私はミンジーに「いろいろ質問されるけれど、必ず答えなければいけない」とそういうふうに言っておきます。彼女は一生懸命答えなければならないんですけど、答えられないんです。これは中国の観客が見ると、とても面白かったと思います。テレビ局のある一面を風刺しているといいますか、そういう場面になったと思います。その後の彼女が泣いて喋り出すシーンは、とてもうまくいきました。ただ、彼女はあの時点ではメディアだとかテレビだとかという考えはなくて、何もわからない状態であったと思います」

 「彼女が泣くシーンですけど、彼女がホエクーのことを思って涙を流すはずはないんです。というのは、あの2人は実生活でしょっちゅうケンカばっかりしていたからです。ホエクーは幼く見えますが、実際は彼女より1歳年上です。ですから、彼女のことは絶対先生なんて言わないし、いつもいじめてバカにしていたんです。だから、ミンジーにいくらホエクーのことを思えと言っても泣くはずがない。でも、どうしてもあそこで『ホエクー』って言って泣いてもらわなければならない。で、何をしたかと言いますと、耳元でこっそり囁きました。お父さんやお母さん、お姉さん、妹のことですね。彼女の家はひじょうに貧しいのです。ですから、そういうお家の状況を思い出して泣いてもらったのです」

  「子供たちとのエピソードは言い出したらキリがないのですけど、今回は私にとってもいい思い出になりました。私は自分の心が清められたように感じましたし、大きな経験を積んだなと思いました。 」
                        (2002.5.17 )

「 あの子を探して」
チャン・イーモウ (張芸謀)監督   1999年アメリカ・中国合作 106分
'99年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞
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by past_light | 2004-09-28 02:01 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

向田邦子ドラマ『あうん』「または玄関の話」

 テレビでお正月恒例だった「向田邦子のスペシャルドラマ」のはなし。

 この年(2000年)、のドラマは例年とはやや違っていて、加藤治子大女優が役として出ていなかった。でも味のあるトーンの声とあの語りのやさしさで、ドラマを運んでいってくれるナレーションは素晴らしかった。

 田中裕子と小林薫のベテランの味がいつものように楽しめたが、それも他の役者さんたちの地味だが確かな仕事ぶりがあっての話だ。
 年齢相応の渋味が、いぶし銀のように光る森繁さんや、娘役の市川準の演出CMでもお馴染みの少女も、お父さん役の役者さんも、自分のいる場所をくっきり感じさせて、しっかりとドラマの土台・設定を創っていた。

 ドラマの中身は、映画でも高倉健が出演していて、なかなかよかった記憶がある話・・有名な「あ、うん」だ。
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 昭和初期のこの時代・・ぼくは生まれていないのに懐かしく感じるのは何故だろうといつも思う。
 特にぼくは日本住宅の典型的な造りの家が好きなのだ。
 「がらがらぁ」と開く玄関は特に贅沢なものに感じる。そういう古くなり味のある存在感を漂わせる通りから少し奥まった玄関の、そのまた奥に、ささやかに広がる生活空間を想像することのできるような家。
散歩などの途中に出会うと、とても懐かしくてうらやましく、「住んでみたいなぁ」といつも思ってしまう。

 ところで男の友情も、「あ、うん」が付くほどの関係というのは今頃はあまり話にも聴かない。
 このドラマの時代なら、よく存在したかどうかは定かではないとしても、、やはり戦争とか、そんな究極の状況に居あわせた人たちの関係には「死」を共に前にした経験が人の関係に深さを与えるのかもしれない。
 だからといって、そんな時代が良いというのはまったくの浅薄だし、そういう状況でなければ深い関係が成り立たないと認める気はもちろん少しもないのだが。
 人の関係も環境だけに形作られてしまうとすれば、それは悲しいことだろう。

 ドラマ「あうん」の出来はまあまあというところなんだろうか。
 それでも、「会社を倒産させて無一文になったが、今まで通りおつきあい願えますか」と玄関先で顔をあわせる小林薫と田中裕子のシーンは良かった。 
 これは原作、脚本の力だろうとも思うが、もうひとつ素晴らしかったのは・・娘が、いったん壊した縁談の相手と喫茶店で逢っていることを帰ってきたその玄関先で咎められ、叱られるシーン。

  その時、加藤さんのナレーションの、
 「その時の叱る母の声とその顔にあるのは、娘が急に女として目の前に映りはじめたことへの戸惑いと、またそのうとましさに、意地悪をしたいかのような、そんなふうにわたしには思えました」(注 : 正確な台詞ではないです)
 というような言葉がかぶさり、確かに場面 、田中裕子はそれを見事にあらわしていた・・。

 その文学的なナレーションは、とても深く状況を言い表わしていて、TVドラマの本来あるべき姿の強さを感じた。
 ナレーションというものはこういう力があるのですよね。よく考えればむずかしいが魅力のある道具です。

 それに、思えば玄関という場所で、いろんなドラマ・葛藤が生まれるというのも、なにかと象徴的です。
 外と内との最初に触れあう場所、そこにある危うさと色気、そんなものが玄関という場所には存在する。
 向田邦子のドラマには、そんな玄関と云う場所がうまく生かされている。

 振り返って見ればやや不自由な、道徳的にも圧力の強い時代・・だが今の世の中とは違う、現代では喪失したような、静かなのに内に激しい、そんなエロティシズムが人と人の関係にあることを向田邦子のドラマは思い出させてくれるような気がする。
( 2000.1記述 2004.9修正)
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by past_light | 2004-09-27 02:38 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(2)

ダイアリーノートから

■「フライト」(2001.10.20)

今週は福岡へ飛行機で行った。この時期フライトは特別に飛行機嫌いではなくても想像力が妙な方へいく。
まして飛行機嫌いだと、さらなる緊張をしいられる。それは機内の乗客を見ていても、なんとなく共有している感覚だ。というか・・寝たふりしている人が多いような・・。

東京へ帰る日の飛行では、あの離陸の血の気の引く上昇を済ませると、窓際に座ったぼくに、雲海が眼下に見える位置にいるひさしぶりの感覚・・。
地図の断片のような海との境界、陸地に広がる垂直と水平の交差する現代文明のシャープなライン。
たった1時間と数10分で博多弁とお江戸をまたぐ・・その便利さ。

美しく凛々しいスチュワーデスの唇に消えることのない笑みは、彼女達の任務だと理解していても、地上ではなくここでは、おおげさなほど頼もしく見える。
そして想像する・・なにしろ日常的なフライトなのだ彼女達には。

 安全と現代文明・科学技術は相似形にあると思い込んでいたような僕らの日常は儚い幻想だった。

 ぺシャワール会の中村哲氏は「今回のテロ事件は終わりの始まりだと私は思っています。 経済的繁栄と安全が両立する社会が成り立たなくなったのです。 今、日本は少し貧しくなっても安全に平和で暮らせる社会か、豊かだけれども危険と隣り合わせの社会のどちらかを選択しなければならなくなったと私は思います。」と言っている。ぼくもその通りだと感じている。
 そして、少し貧しくなる・・ということの受け入れることの難しい人たちとはどんな人たちだろうなあと思う。

 ワールド・トレード・センターから幸運にも生還した人の話に、その危機的状況で、初期段階には、まだ日常的な感覚の中で人は思考してしまうこともあるという。
 それはひどい場合、残した仕事に帰ろうとする人もいるそうだ。
 また、中村氏は「アフガン・パキスタンでは、250円の薬が買えないためにばたばたと人が死んでいきます。 しかし、扁桃腺が腫れただけでロンドンやニューヨークへ飛んで診察してもらう金持ちがいます。 彼らは日本の小金持ちがびっくりするほどの財産を持っています。 その一方で一発の銃弾の値段は8円です。8円で人殺しができます。」とも言っている。

 安全と贅沢・・・そういえば「100人の村」の話のなかにあるものに、これからの時を、ぼくらはどう反応していくだろう。

■「戦争とは」(2002.1)

 井伏鱒二の特集を先日NHKで観た。映画監督の今村昌平さんが、井伏さんの語りと現代の指導者達の語り方を比較して、井伏さんの低声な言葉を聴いていると、「声高な言葉は信用できない」と言った。
  井伏さんのことは太宰治にまつわる話ぐらいしか、よくは知らなかった。荻窪に長く住んでいた井伏さんは、今ぼくが住む場所から近い距離だったんだなと、テレビ画面のなかで、池のある公園に散歩に来て、ボート管理人と語らう姿を見ていて思う。
b0019960_13452550.jpg 井伏鱒二は訪ねて来る開高健らと酒を飲み交わす。間の多い静かな語り口の井伏さんを、質問攻めにする開高健が子供のように慕っているのが画面からにじみ出てくる。
 井伏さんの度々アップにされる顔から、「黒い雨」の執筆の為取材した頃のことを語る時も、その沈黙の時間のほうが、こちらには雄弁と充実が感じられる。

 井伏鱒二代表作の一つ「黒い雨」の映画化で、今村監督は井伏鱒二原作に忠実に映画化することによって、今までのやや声高な作風から低声の表現の力強さを獲得したのかもしれない。このモノクロームの映像と静かな恐ろしさは、それまで今村映画にやや反発していたぼくの視線をちよっと変えた。

 それから宇宙の特集も観た。ブラックホールや発見されつつある太陽系に似た惑星たちの話。
 遠い未来だが、確実に地球は膨張する宇宙のなかで、いずれ太陽に飲み込まれるだろう。そのころ地球人は新たな住処を求めて今住む太陽系を去らねばならない。もちろんそれまで種が生き延びていたとしてだ。
 ブラックホールにしても、宇宙の星々の誕生と死においてシヴァ神とヴィシユヌ神みたいな存在に聴こえる。
  真空は「なんにもない」という昔の常識は覆り、「真空のエネルギー」がものすごく意味を持つものだということが解ってきたようだ。
 で、こじつけに聴こえるでしょうが、「間」も「低声」も--真空のエネルギー--と関係しているということなんですね。ぼくのなかでは・・・。
b0019960_13434749.jpg ■これからJ.クリシュナムルティという人の言葉を掲載したい。(本屋に行けばどうしても精神世界のコーナーに入れられてしまうインド生まれの教師)

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ■ 戦争

 戦争は最大の破局のひとつである。最大の悪は他人を殺すことである。
いったんあなた方がそのような悪を自分の心の中に容認すると、あなた方は無数の小さな災いを解き放つ。
 あなた方は戦争そのものを責めず、戦争で残忍な人間を責める。
 戦争の責任はあなた方にある。あなた方が自分の毎日の貪欲、悪意、激情的行為によってそれを引き起こしたのだ。
 われわれがこの競争的で冷酷な文明、その中で人と人が対立し合う文明を築いたのだ。

  あなたがたは戦争の原因、他の人々の中の残虐性を根絶することを欲する、自分自身がそれに耽っていながら。これは偽善に、そしてさらに多くの戦争に帰着する。
 
 あなたがたは第三次世界大戦を回避することはできないかも知れないが、しかし自分の精神と心を暴力から、そして敵意を起こさせ、愛を妨げる諸々の原因から自由にすることはできる。するとこの暗黒の世界に、精神と心の清らかな人々が現れ、そして彼らから多分、真の文明が出現するかも知れない。
(1945ー46年にかけての16の講話より)
 
 戦争はわれわれの日常生活の壮大で血なまぐさい投影である。
われわれは我々の日常生活から戦争をせき立てる。そして我々自身の内なる変容なしには、必然的に国家的・人種的対立、イデオロギーをめぐる幼稚な争い、兵隊の増員、国旗の崇拝、そして組織化された殺人を招くおびただしい蛮行が起こる。(「教育と人生の意義」より)
 
 これまで正義のための戦争と呼ばれてきた様々な宗教戦争があった。
が、いかにして戦争が正義でありえようか?他人を殺すこと--いかにしてそれが正義でありえようか?
そしてわれわれの日常生活の憎悪、競争、敵意、威信の追求、--これらが戦争を引き起こすのだ。
そして暴力に他ならない戦争は、まさに無秩序の真髄である。
 
 人間がイデオロギーの域内で生きているかぎり、戦争は避けがたい。
(1965年のインドでの講話より)

         (ススナガ・ウェーラペルマ編--Saying of J.Krishnamurty--より。大野純一・訳)

 ■「レッテル」

 あるものに名前をつけることによって、私は単にそれを一つの範疇(はんちゅう)に入れただけで、それを理解してしまったと考えるのです。そしてそれ以上に細かく見ようとはしないのです。

  しかしもし私がそれに名前を付けなければ、私はそれを見るように強いられるのです。
  私は全く新しく、出会ったものを調べるような気持ちで、その花に近づいていくのです。私は以前に見たことがないかのようにして、それを見つめます。

 命名(名付けること)は物や人間を処理するための非常に便利な方法です。
 あなたは、あれはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言うことによってレッテルをはり、それからそのレッテルを破壊することができるのです。

  もしあなたが人間にレッテルをはらなければ、あなたはどうしてもその人間を見なくてはなりません。
  そのような時、人を殺すということはきわめて難しいことなのです。

 あなたはレッテルのはられたものを爆弾で破壊して、自分が正当であると感じることができます。
 しかしもしあなたがレッテルをはらず、それゆえその対象である独自のもの・・それは人間でも花でも事件でも感情でもかまいません・・それを見なければならないとしたら、あなたはあなたと対象との関係と、そのあとに続く行動との関係を考えざるをえなくなるのです。

 このように命名したり、レッテルをはることは、何かを処理したり、否定したり、非難したり、あるいは正当化するための非常に便利な方法なのです。

(J.クリシュナムルティ--The First and Last Freedom --1954--日本版「自我の終焉」より)


「男性性と女性性の働きを自分自身の内にはっきりと見ることができます。一方または他方が肥大させられると、不均衡が病気を起こすのです。表面的な軽い病ではなく。深部の病気を。
私は個人的に自分自身の内部で、異なった事情や気候のもとで気づいただけでなく、また攻撃的で暴力的なさまざまな人について気づいたのですが、男性性を女性性が引き継ぎ、十分な女性性に取り囲まれる時、男性性は攻撃的でなくなり、何の抵抗もなしに引っ込むのです。・・男性と女性が完全に調和すると、両者の性質が変わるのです。・・・」(ディスカッションより)
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by past_light | 2004-09-26 02:33 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(0)

「相合い傘」

 「寅さん」といえば、テレビ東京で断続的な全作放映があって、たまに懐かしい作品に出会っては、途中から観てしまうということがある。
 途中からでも観ていられるのは「寅さん」ならではということもある。
 だいたい昔観た記憶が微かにあることが多いので、お馴染みの「とらや」を舞台とした登場人物面々と寅さんとの、人情をしっかり核にしたやりとりがおもしろおかしく、それにまたかなしい。
 この映画を観ていると、その心を許した関係に起きる、ときにそれに甘えたり、我がままな馬鹿げたやりとりの中にも、その話につきあう僕らの情と心のありかを、ふと確かめたりしてしまうこともあるように感じる。

 二十歳前後のころに劇場で観た「男はつらいよ」シリーズは、その頃もっとも脂の乗った「寅さん」でもあり、毎年「キネマ旬報」のベストテンに入るほどの出来映えでもあった。その頃友だちとも「三本立て寅さん映画祭り」のような企画に通ったこともあった。 それは同時に「ルイス・ブニュエル」とか「イングマル・ベルイマン」とか、芸術的、難解、・・とか時に言われる映画とも並行してのことだった。

  ある時、ブニュエルの「昼顔」を友だちと観た。観終わってから友だちが、「(あのシーンで)、となりの席の奴がさあ、『ここは笑うところじゃない』とか、ぶつぶつ言ってんだよ」とちょっと憤慨して言った。
 そのシーンというのは昼だけ娼婦になるという、普通の恵まれた主婦である「昼顔」カトリーヌ・ドヌーブの、そのなにも知らない旦那に嫉妬する「昼顔の客」であるちんぴらが、その旦那を銃で撃ち、自らも警官から逃げる時にあっけなく銃で撃たれる、まるでアマチュアの8ミリ映画のような淡泊な画面で淡泊な死に方をするシーンだ。b0019960_18520662.jpg 友だちは、そのシーンで大きく声を上げて笑っていたので、となりの観客が聞こえよがしに言ったものかもしれない。他の客からもそのシーンでの笑い声はあった。 それはブニュエルの、ある意味では望んだ観客の反応だとぼくは思ったので、友だちの「おかしければ、笑っていいんだよ」という意見にまったく賛成した。
 いったい「ここは笑うところじゃない」なんて言葉の出る硬直した人の感受性が、ブニュエルのみならず、どんな映画制作者も喜ばせないだろうということはあきらかだ。しかし、そんな感じの映画マニア、当時けっこう他にもいただろうか・・。

 話を「寅さん」に戻そう。先日観た朝丘ルリ子が再登場のマドンナ二作目「相合い傘」は、シリーズの中でも、けっこうリアリティのある寅とマドンナとの関係性が、ヒリヒリするほど伝わる作品だ。
 やはりこの映画は、マドンナ役の力量と設定に大きなウエイトがあると改めて思いいたる。
 また朝丘ルリ子という女優の巧さが、温美清のこなれた柔軟な演技と絶妙に絡み合っていて、他のシリーズに時々物足りないと感じさせるマドンナとの関係性の現実味に、しっかり重みを与えている。
 それゆえ、ふたりの別れはいつにもまして哀しい。最後の作品には四たび朝丘ルリ子が出ているのだけど、まだ観ていない。

b0019960_18255329.jpg もういつからか、ぼくは新作を観なくなっていて、たまにテレビで歳をとった寅さんの、そのあきらかにエネルギーの少なくなった姿に接して、映画もシリーズとしては無理が来ていることを感じていたが、初期から中期の作品にこうして再会すると、まだ若くて元気な寅さんの迫力が、この映画の生命力そのものなのだと思われた。
 温美清という人は、スクリーン以外の場面では穏やかな枯れた話し方をする人だったのが印象的だった。

 ぼくが観たマドンナとして記憶に残る名作は、この朝丘ルリ子さん出演作、佐藤オリエさん出演作、それから逆求婚されそうだった寅の慌てぶりが、かなしくおかしい八千草薫さん出演作、人気シリーズ吉永小百合さん出演作、新人で抜擢、当時のアイドル榊原ルミさんの、無垢な瞳の演技で強い印象を与えた作品(寅次郎奮闘記?)・・当たりがなつかしく思い浮かぶ。        (2002.3)

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by past_light | 2004-09-26 02:30 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(2)

「我々に潜むテロリズム」

 人間の暴力性は、原始的に動物人間の時代から引き継いで残しているものかもしれない。それをほとんど多くは解消してこられなかった。
 外面的には進化したように見えても、内面的には先史時代からさほど進化していないだろう。
 (その暴力も巧妙に機械化され、死んでいく相手の顔が見えず、実感のないまま、死者の数字が数えられる)

 ユングが、ナチス時代のドイツを飲み込んだものが、荒ぶる神のような「元型」の作用というような話をしていましたが、集団心理は普段無意識的に生きていれば、容易にプロパガンダに洗脳されるということだろう。
 動物の群れがなどが同じ方向に移動したりしますが、そういう部分でも動物と同じ思考停止状態はいつでも起こり得るようだ。

 復讐心にかられたテロリストに冷静さを求めるのが難しい、だから同じスタンスで、いやケタ違いの破壊力で追い詰めるのは得策なんだろうか。
 殺戮に麻痺した心理状態を続けていれば、感化される暴力性が伝染病のように国々を覆うかもしれない。
 それは、アメリカの学校で鬱屈していた少年たちに銃を乱射させるかも知れません。

 逃げまどう、どう猛な動物が追い詰められ逃げ場を失えば、決死で向かってくるかも知れません。テロリストも同じだろう。
 しかし、一つだけ違うのは相手は人間だということ。試みれば「会話」もできるということだ(これを平和ぼけと嘲笑する人は多い)。
 理由がなく絶望はないだろうし、死を賭けた復讐もないだろう。追い詰められた表情は見えるのではないか。
 実際上は、死んでいくのはどう見ても市民が大多数にしか見えない。

 テロには、その枝を刈り取り根っこに到達して根絶できるという従来の思考に疑問を持つ人も多い。
 それは、「たんぽぽの種子のように叩けば飛び散る種子で、他の大地に転移し結果として増殖させないか」という視点だ。
(最近はますますこの言葉の重みを感じないだろうか)


 追い詰め絶望させるのは、そのまた絶望的な反応しか生み出さないのではないか。
 「彼らは邪悪な人間だ」、ショートカットで物事を運ぼうとするのは、自らに潜む邪悪さを知らない。

(「対話」とは、一方的に要求してばかりでは成立しないのは意外に忘れがちな常識だ。 相手の話も静かに聴こうという態度は、場の雰囲気、心のオープンさには不可欠だろう)

 イエスが村人に石を投げられる娼婦を助けた時、
「自分だけは、心にやましいことのないと思うものだけが石を投げなさい」と言ったことを、イエスの話を読んでいる国の人は覚えていないだろうか。
 賢明な父親は、子供を叱る時も「逃げ場」を残すのでした。逃げ場と言っても物理的なことではないのだ。

 今の世界は誰でもテロリストに成りうる世界をどうも作ってしまっているような感じがしてしかたない。

 ダライ・ラマは「戦争は一つの選択肢だが、ネガティブな選択はネガティブな結果を招く」と言っていた。
 逆に言えば、ポジティブな選択をすればポジティブな反応と結果を招来する可能性があるとも言える。
 それはすぐには目に見えないかもしれない、多大な時間がかかるかもしれない。
 しかし、掻き回し汚れた水を綺麗にするにも、注意深く静かに待たなくてはならない。
 人類の、世界の度量がためされることだろう。

 ネットで読んだ、マイケル・J・ローズという人のコメントのなかに、「・・思い出してください。『わたしたちが無知であるという目印は暴力、不正、悲劇への私たちの信念の深さ*にあります。青虫がこの世の終わりと呼ぶものをマスタ-(師)は蝶と呼ぶのです。』蝶は青虫の変態から生まれます。 もし愛への跳躍が報復への跳躍に勝るなら人類はこの悲劇から再生することができるのです。」
 という話は、ぼくにはある意味で考案として今でもこころに残っている。

*(そういう習性はなくならない、しかたない、というぼくらの頑固な固定観念・概念と言い換えてもいい)
---2001.12月に書いたものをすこし修正加筆しました。---
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by past_light | 2004-09-25 20:33 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(1)

ロベール・ブレッソンの三本

 ■「バルタザールどこへいく」

 ロベール・ブレッソンという映画監督がいます。多分、「最近面白い映画ない」と聞かれても気軽には勧められない人の映画だ。いわゆるサービス、派手な演出、効果などは皆無、無縁の人。

 ぼくは最初にその頃一番新しい「ラルジャン」という泥棒の話を観た時、その普通なら映したくなるような場面を映さない--音だけ聴かせることによる事態状況の表現 --プロ俳優を嫌い、演技に頼らない--俳優の表情が変化しない(なのに伝わって来る感情)、手が語るカットの多い独自性。・・なんて禁欲的に美味しいところを削り取ってしまう映画作家だろうと、困惑とともに不思議な関心を持った。

 そこには楽しませてくれたり夢を見せてくれたり、 観客の眼球と感情に、すべて御馳走を詰め込んでくれる娯楽性とは、まったく大きく違うものが存在するようだ。観客が積極的に感じ取り読み取る力を要求される、言わばある種の緊張感がある。

 ブレッソンがつくるような映画には、時に観た人の人生に影響を与えかねない 1作品の衝撃がある。新しい視野、感性の発見の驚きと楽しさが精神をリフレッシュさせる。 

 映画は娯楽じゃないのか。楽しめない、解らないというものでも観なくちゃならないか? --という問いがあるとすれば、以上のようなことを答えるだろう。衰退を言われる想像力とは、こと映画に関していえば、受動的になりがちな、網膜に映る垂れ流しの映像を麻薬とするのみではなく、観客の能動的な参加があって成り立つものだろう。

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 ぼくにとっての「バルタザールどこへいく」は特に衝撃だった。
 一頭のロバが最初の飼い主から、人から人へ渡っていく過程で出逢う身勝手な人間や、また親切な人間、あるいは平凡な人間との日々の生活に関わり、淡々とドラマが進行するのだが。
 その善悪を言わないロバの目が見ていく人間世界と、そのロバの波乱万丈の生涯と運命を観ていると強く心が揺れた。
 そしてぼくは、この映画の主人公であるロバに、イエス・キリストを感じた。それは直観的なもので説明できないものだった。それは次に観た「少女ムシェット」にも繋がるものだった。
 どちらの話しも映画の上では悲劇のように見える。しかし、これは単なる悲劇ではないのだ。イエスの生涯が単なる悲劇ではないのと同じように。


 ■ブレッソンの「ジャンヌ・ダルク裁判」
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 ともかく史実に忠実、当時の裁判記録などを精密に脚本としたという話だ。
 ブレッソンには、「淡々」という言葉が浮かびつつも、人の深い感情の底に突き当たり、そして突き抜けたというような、厳しい冷たさが観終わるとあって、それはなにか人を根源的に揺り動かすようなものを持っているように感じさせる。
 常に静謐な映画なのに、心底動揺させるものだ。

 この映画が裁判記録に忠実だとすれば、ジャンヌの言葉には、それが狂気のなせるものなのか、真実の天からの啓示だったのか、誰もがどちらかを選ばねばならない。 ブレッソンは彼の主観をいっさい感じさせないようにも見える。 しかし、忠実に再現されようとしたジャンヌ像は、確かに「声」を聴いたのだ、という方にぼくは投票しようと思う。

  よく、手や足もとだけの映像での語り方がブレッソンにはあるが、この映画での、火あぶりの処刑台へと急かされる、そのジャンヌの足取りの映るシーンはたいへん素晴らしいもので、これは、それだけでブレッソンが映像作家としての孤高に位置する理由が理解されるものだ。 これはもうリュック・ベッソンの騒々しい「ジャンヌ」とは、次元の違うものだと言うほかない。



 ■「田舎司祭の日記」

 自分が不幸では人を助けたりできるものだろうか、という問いは当然のことのように思っていた。
 不幸とまでは言わずとも悩みを抱えたまま、また苦しんでいる他の人の心を助けることなど、はたしてできるのか・・・と。
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 ブレッソンの初期の映画「田舎司祭の日記」は、わりと正統的な作りでバックに音楽さえ流れる、ストーリーもかなりはっきりとした映画だったが、なんとも、じっと観ていると主人公の表情にある孤独と苦しみを、そのまま全編に充満させたように、重苦しく、しかも終わりまで救いが見出せないような映画にも思える。

 彼はある田舎の地区に派遣されている若い神父だが、ずっと体調が思わしくなく生気がない。社交的にも不器用で、彼としては誠実に接しているはずの村の人たちには、なかなか好かれないし、うとましくさえ思われている。
 彼の表情に明るさがなく、いつも思索しているように悲し気で苦し気なその表情を見れば、同情したくてもそれもできかねるところさえあるが、それでも自分の心には誠実すぎる程に誠実で、周りの人間にも真実を見ようとする。
 そしてそんな日々の心の日記を欠かさない。自分の神への信仰心というものにも厳しく見つめ直していたりする。

 そういう彼は、ある出来事から現世でのすべてを憎しむかのような婦人に、いつも子供扱いされていたが、ある時の対話で彼は彼女の心に強い変化を起こす。
 彼自身の苦しみからも導き出されたような、自分を超えたような祈りが通じたのか、彼女はずっと忘れていた深いやすらぎを見い出す。
 しかし彼女はそれがきっかけとなるかのように、この世を去る・・。
 それは突然の事故なのか自殺なのかははっきりしない。
 しかし彼女との対話そのことは、若い神父の胸に閉まったままなので、二人の対話を覗き視た人の噂で他者には誤解を招いたりする。
 理解ある先輩の神父との対話も、信仰と言う観点から果てしない距離を感じ、彼にはまるで最期の別れのような気持ちがする。

 やがて彼の体調はのっぴきならなくなる。
 彼は都会の病院に行き、その病気は想像以上に重いことを知る。友人を訪ねたそのアパートで、彼は急激に迫る死期に、あっけなく人生を終えてしまう。
 しかし苦しみながらも、彼は表情にやすらぎを残したようだ。

 彼の一生は不幸だったのか、その物語は可哀想なのか・・・。もしそう言ってしまえば、彼の生きた時間を否定しさえするような気がする。
 彼は与えることの難しい人の心に、やすらぎを、彼を通して導き入れることができたことを思うと、それは彼自身のものでもある苦しみに向き合っていたからこそ起こり得たような気がする。

 ブレッソンの映画を観ると、誰の一生にも、たとえどんなに短い一生でも、なんらかの奇蹟があるような思いがする。
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by past_light | 2004-09-25 03:04 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(7)

◆スティーブン・キングのドラマと映画から

1.「恐怖のおとしまえ」

 スティーブン・キングの小説のほうは読んだことが全然ないんですが、映画はテレビなどでも、なにかと観ることが多いですね。
 おっと、そういえば話題の頃、「IT/イット」は、図書館でその異様に分厚い本を借りたことがあったんだ。そしてそれからどうしたかというと、数ページを見て、これはだめだと閉じてしまったのだった。
 だめなのはワタシのほうで、キングに責任があるかどうかは別。
 まずの理由は、その翻訳された文字列を見て、ホントにこういうものなのか、と思うほど汚い言葉の連続だったような気がするせいか。異論のある人も多いだろうから、これは極私的な印象であることは忘れないで欲しい。

 映画の方ではホラーばかりでなく、「ショーシャンクの空に」とか、すぐれたエンターテーメントを筆頭に、彼のファンも多い。いや、作家キングの顔そのものがホラーだと思う人も多い?(笑)。

  BSで以前、スティーブン・キング特集のテレビ作品や映画が放送されていて観ていました。

 「悪魔の嵐」などという古典的なタイトルだが、いかにもキングらしいと思われる、閉ざされた環境の中で起こる恐怖。それは聖書のシンボリックな記述が、よくアメリカでホラーとしてモチーフにされて扱われることなども思い出させる。テレビ用の作品だが90分の三回連続のモノだった。

 アメリカのちいさな島の田舎を舞台にすると、町民全員が親族のように切り離せない運命共同体になる。そういうベタベタとした怖さもある。日本だと「八墓村」みたいな状況だと思えばいいのかもしれない。 しかしそれにしても、なにか一部の宗教には「恐怖」を道具として、人の頭脳とこころを麻痺させ、人を--信仰?--に向けさせ、コントロールしたいがためのようにしか感じられない伝統があるようなのが、ぼくにはいつも不快だ。
 テレビで盛んに「神を畏れよ」「悔い改めよ」・・と偉そうに説教するテレビ牧師がこのドラマでも映るが、それそのものに、「ホラー」が根付く環境を与えていると思う。
 強迫的なるものにぼくは真実も真理も感じない。むしろ強迫的なものの想念の物質化・形象化、それがデーモン・ホラーだろう。
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 特集では後日「IT/イット」も引き続いて放送され、奇怪な機会なので楽しみに観た。
 なるほどこういう話だったのか。分厚い原作の本の理由は、30年を経て、ふたたび子供の頃の恐怖の体験と向き合う、かつての少年少女たちの恐怖の原点との再会のものがたり。

 しかしホラーの悲しさは結末を用意しなくてはならないことかもしれない。
スティーブン・キングが分厚い本を精力的に書き続けるのは物語の結末からの逃走なのかもしれない。彼には「恐怖」そのものが関心の核心なのだろう。恐怖の生まれる構造とも言い換えられるのか。
 ・・だから「物語」は、かならず終わらなくてはならないので、無惨だったりする。無惨とは、「IT/イット」でも地底の大王・「巨大蜘蛛」だったりする。
 エイリアンみたいな蜘蛛が、死の象徴だったとしてもSFX映像にしたら・・もうだめだ。 ・・だから結末はどうでもいい。「恐怖」とは?、ということを考えさせてくれる作品として観ていると、ぼくらも自分の「恐怖」との対決、いやその正体を確かめるヒントにも、ちょっとだけなりそうな気もする。


2.「Horror it Hello」 ・・恐怖よ、こんにちは 

 「IT/イット」の話をつづけると、7人の少年少女は、それぞれみんな苛められたり、家庭に問題があったり、コンプレックスが強かったり・・と、誰でもがいくらか覚えがあるような苦しみにもみえるが、それがしつこくかれらの日常につきまとう。
 そしてそれを自認する「よわむしぐるーぷ」なのだが、自覚した全員だからこそのように、かれらは団結し、楽しく遊ぶこともできる。
 誰もが他のみんなの苦しみを感知し知っているので、助け合うし、やさしく友の肩を抱くことができる。

 子供が忽然と消えたり、残殺されたりする小さな田舎。そこの大人たちは「恐怖」を、見て見ぬ振りをしてやり過ごす。
 ・・だから「おれはお前らの恐怖の象徴だ」というピエロの姿をした「IT」は、長く長く生きていられる。
 ついに逃げられないと感じた子供たちの決意、ここでは対決するという選択がされる。それは自分たちの個々のかかえる「恐怖」と対決する、ということと彼らには同じなのだ。

 地下下水道の闇の中に、その「恐怖」は居る。 この「恐怖」が最も困ることは、「怖がらない」ことだろう。冗談みたいに聞こえるだろうが。向かってくる戦う勇気ではなく、怖がらないこと・・。
 映画の話の上では、物理的にも戦って傷ついたり、やられたりもしてしまうし、・・やっぱり「恐怖と戦う」というメッセージのように受け取られてしまうようなお話に見てしまいそうなのだが、それはそれとして観客も力が湧いてくるとは思う。
 しかしもうひとつ感受されるべきものとして語られているもの、それは自分の恐怖と「向き合う」という話だ。
 といっても、目の前にナイフが突き付けられ、今にも食べられそうだというような、生体の危機を目の前にした緊急の場面の話ではない。そんなときはホラー映画を見ているような安楽な恐怖を抱く暇もないだろう。
 それは普段ぼくらが心に抱く、なじみの恐怖のハナシだ。


 3.「Halo(後光)」

 ギリシャ神話の勇者ヘラクレスの十二の苦行のひとつに、こんな話があるそうだ。
 だいたいの話は・・
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 「九つの頭を持った怪物ヒドラが洞窟に住んでいた。ヘラクレスは彼の師に、その怪物を征服するようにと命じられた。師はこう助言した、「神の子であり人の子なる者よ、我々はひざまずくことによって甦る。身を任せることによって征服する。放棄することによって得る。さあ、行きなさい。」

 洞くつに出かけたヘラクレスは恐れなかった。襲ってきたヒドラの頭を一個切った。ところがすぐに新しい頭が切った所に今度はふたつ生えてきてしまった。他の頭も切る度に、その頭はふたつに増えてしまった。 身の毛もよだつヒドラの頭を全部を切ったが、頭はすぐに再生し、とうとう最初の倍に怪物の頭は増えてしまった。

 やがて、ヘラクレスも疲れ切って力を失いそうになったとき、彼に、あるアイデアが浮かんだ。彼はヒドラの弱点を突然悟ったのだった。
 彼は怪物に掴みかかり、暗い洞窟の中から、外の日の光の中へ引きずり出した。 怪物は途端に息絶えて死んだ。」

  夜、歩いていたり、自転車に乗っていたりすると、灯の少ない暗い道のちょっと前方に、とぐろをまいた蛇がいるように見えることがある。
 もちろん、それはトラックなんかが落したと思われるロープの切れ端なんだが。うす暗い中で見ると、冗談抜きに蛇のように見えることはある。
 ・・よく見るとたしかにロープだ。また、もっとよく見ると・・蛇だ(笑)。こんな時、想像力が働くと、ファンタジーホラーみたいなものだ。
 ロープを見て跳び退いたり戦う人はいないだろうが、蛇だったら注意深くサッと跳び退くだろう。ロープが蛇に見えても跳び退く駄労?。
 明るい陽の光の日中には、ほぼ見間違わないものだが、薄暗い夜道ならはっきり見えないせいもあるのだ。

 生きていく中でのさまざまな不安とか心配、やはりそれは恐怖とも言い換えられるだろうか。
 ぼくらが怖がるものには、はたしてすべて実体のあるものなのかどうか、よく光に照らして見てみたいものだ。
 ・・と、怖がりのぼくも思っているのですよ。

 人が生きていくなかでも、ぼくらは自分で生み出したものに幻の体を与え、それに恐怖を感じることがあるのだろう。
  そういう意味では、ぼくらの人生も、ヘラクレスの難行に縁遠いというわけでもない。
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by past_light | 2004-09-24 17:53 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

「キアロスタミのジグザグ道~桜桃の味」

 イランの映画監督、アッバス・キアロスタミの「友だちのうちはどこ?」を観た時は衝撃だった。
 学校で、間違って鞄に入っていた友だちのノートを、明日の宿題に困るだろうと厳しい母親の監視にめげずに家を抜け出し、そのノートを友だちの家に届けにいくという話しだけど、その道のりのなんと遠いことだろう・・。
 だんだん日が暮れて、初めて出逢う暗い街角のひっそりとしたよそよそしさ、知らない人たちの視線や声、迷路のように少年の行く手を阻む友だちの家へ続く道・・。
 お話は翌朝の学校の情景で終わるのだけど、とても素晴らしい映画に出逢ったと思った。
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 その後BSで、続けてキアロスタミの「ジグザグ道三部作」であるという、残りの「そして人生はつづく」、「オリーブの林をぬけて」も観た。
 この監督もプロの俳優はあまり使わずに、その土地の住民を選んで出演させているのだが、それがもう、プロではこうはいかないだろうという存在のリアリティと実際的な生活感を、各出演者が醸し出しているのが観ていて楽しい。

 それで、これも録画してあった、その頃比較的最近作の「桜桃の味」を観た。
 自殺の計画にちよっとしたフォローをしてくれる人間を、埃っぽい土の丘に捜して廻る話しだ。
 そこで出逢う人の表情がとてもよくて感心して観ていた。
 なかなかイスラムの教えに忠実な青年たちは高い報酬にも応じてはくれず、観ているぼくにもほっとするような、または落胆するような不思議な気持ちを抱かせる。

 車で捜しまわるこの丘の道もジグザグだが、ようやくそこで出逢う、頼みを引き受けてくれそうな老人との場面に切り替わる時の、映画的な転換も素晴らしい・・。
 車中、その老人の語る深い真実味のある話しも、主人公の男の心を動かすのかどうかは、 それもまたジグザグ道のようだ。
 黙りこくってしまう男と老人の静かで押し付けようとしない対話の時間が美しい。

・・「もう一度、朝日を、夕焼けを、桜桃の味を味わいたいとは思わんかね」という老人の話しを 試してみるように、男は暫し、暮れていく街を眼下に眺めてみる・・。

 男は何故か、老人に念を押し手順を確認してくれるように、もう一度会いに行く。
その男の曖昧な心の揺れがぼくらには唯一の望みなのか・・。
 男は予定通り身支度を済ませるとその丘に行き、暫く夜景を眺め、自殺用の穴の中に横たわる。 雷が鳴り、天候は急変しそうだ。 穴に横たわった男の上に見えるのは流れる雲に見隠れする月。
 雷の光に時おり照らされていた男の顔も、やがて画面は暗転し、その表情も伺うことはできない。

 ・・・そして朝がくる。
 しかしその画面はなぜかビデオカメラの映像で、撮影スタッフや出演者たちのロケ風景である。
 監督の「ここで終わりにしよう。」という声がする。
 ・・こんな終わり方はいやだ、という人もいるようだ。
 また、あの老人の話しが男を救ったはずだという人もいるだろう。

 キアロスタミはどうして、こんな映画を創ったのだろう。
 それは「ジグザグ道」の意味の中にあるのだろうと思う。
 キアロスタミは---「ジグザグ道」は目標にたどり着くことの難しさ、あるいは大切な何かを捜すことのシンボルだ---と言う。
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by past_light | 2004-09-23 20:52 | ■主に映画の話題 | Trackback(2) | Comments(2)

「リリィ・シュシュのすべて」

 ■いい、わるい、おもしろくない、なんてことが言えない映画と言うのは時々あって困ります。むしろ、つくっちゃいけないんじゃ・・とか、どうしてなのかと、問いたくなると言う方が適切かもしれない。 映画の「採点・星取り表」などを、ぼくがもともと敬遠するのは、ひとつにはこういう時のためなのかとも思う。  この映画で大人は、ありとあらゆる十四歳の闇を具体的に見せられて、やりきれない思いもするだろう。しかし、仮面だけになってしまった大人の地獄も、あるとすれば大人は自覚した方がいい。「痛い」なんて、流行らせないでほしい。

 ■映画は140分もあって長いけれど、「言葉にならない」そんな風景を残すには必要だったのかは疑問もある。 手持ちカメラのビデオ映像は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を思いださせたが、そんなには不快じゃなかったし、夜の直接ライティングも、あからさま過ぎだけど、意図はよくわかる。
 映画は引込んで行く力はあった。しかし、登場する誰もを好きになれそうもない・・。誰にも感情移入なんてできないだろう、十四歳じゃないぼくは。
 しかし、仮面のみが豹変するのは、十四歳のリアリティである。内と外が非常にアンバランスな時期だ。善人が悪人にすぐになれる。それにぼくの「リリィ・シュシュ」もその頃確かに存在しただろう。そして、日々の心のバランスに貢献していた女神だったと思う。
  でも、「遺作にしたいほど」という気持ち、監督のどういうところから出てくるんだろう・・。ぼくだったら、いやだなあ、ある意味いやなほど現実的だとはいえ、エネルギーのない魂の迷子たちのどうしようもない老化現象を映した映画。 それは今までになくこの映画で、じゅうぶん描かれて、わかるけれど・・。

 ■ひとりの少女が、なんらかの立ち向かい方をするけれど、あまりにその設定も残酷で、唐突で、映画は事の重さも無視したようにさえ進んでいく、ぼくは彼女に、軽薄に「がんばれ」なんて言えないだろうし・・。「アラベスク」を弾く君も、別の闇を彷徨ってるんじゃないのか。
  ねえ岩井俊二、「エーテル」なんて美化するなよ。ぼくの誤解じゃなくても・・。
 それをミュージックビデオか、短いSONYみたいなCMの、美しく切り取ったような映像でサンドイッチして、岩井俊二さんよ、・・気持ちを寄せてしまって、図らずも肯定されているように誤解する少年少女が、ヘッドフォーンして歩くようだと、とてもいやだなあ。
 しかし、それは内部と外部、自然と精神のこれほどの断絶というリアリティがあるのも確かだと、みとめるけれど。でもそれが伝わるだろうか、かれらに。
  それは美しい光景ではなくて、ほんとうは無惨な光景なのだということが。そんな浸食的な孤独は、病みつづけ、押し広がる空洞の自覚をも麻痺させるだけだろう。美しく見せられると、それは毒が過ぎるかもしれない。

 ■でもたしかにたしかに・・、誰しもそんな十四歳の闇を覗いた経験があるはずだ。覗いただけではなくて、永久にはまってしまって身動きできない地獄にいる人も確かにいただろうし、とくに現代・・。この映画では、現代日本のニュースで見聞きしている十四歳が確かにここにいる。 
 ぼくに十四歳の子供がいたら、見せたいかと言えば、そうは思えないが、どんな感想を持つのだろうという関心はあるだろう。君に起きていることか、君の周りで知られたことなのか・・。
  僕らにもそのころ、いじめがあった。なぐったり、なぐられたり、ひとりを数人が取り囲む。むりやり喧嘩をさせて見物する。・・どこでそうなるんだろう、大人もどこかでやっている、戦争で、職場で、街角で・・。だからって、十四歳よ、まねすんな、そんな大人に、そのままなりたいのか。

 ネットでの、やり取りの言葉が画面に打ち込まれていく・・。どうしてこんなにナイーブなんだ。なんてナルシスに満ちているんだろう。「エテール」って、かっこいい言葉か。
 岩井さんは、「いじめとか少年犯罪とか、そっから切り取って見ちゃうと恐ろしい気がするんですけど、その根っこってみんな知ってるじゃんって。なんかそこを思い出してもらいながら、身近にいる14歳を見てあげたらなって気はするんですけどね」という。・・どうもぼくには彼の言葉が無責任に聞こえるんだけど、根っこって、そういう意味なの? だから、この映画は、物語としては「はじまり」にさえ辿り着けないのだろうか・・。
 しかし、あきらかにこの映画は無視できないものを持っている。根っこではなくとも、「どこか」、までは、リアルに浮き出させている映画だろう。しかもいわゆるリアルな映画とは異次元の、独創的な方法で「リアル」を描いている。
 でも・・岩井さん、ドビュッシーのイメージを、自己中的にねじまげないでほしいな(笑)。

 ■ぼくの十四歳を、ダイアリーに以前書いたことがある。
 思春期には特有の・・そのエネルギーの陽に当たる部分に隠れた、いわばある苦痛のようなものを、多くの人が、感じるのではないかと思う。肉体的にも精神的にも不安定で、変化の速度にも持て余してしまうという・・そんな時期でもあるだろう。 ぼくのそんなある時期の記憶を、ちょっと以前ある掲示板で話したことがある。 それはやはり・・「昨今の、極端な少年犯罪などが起るのはどうしてか」、というような疑問に応答してのことでした。
 『・・中学生の時にわりと鬱屈した期間がありまして、引越したばかりで、ひとりで夏休みを送っていたある日だったと記憶するのですが・・、ニ階の窓から見る下の狭い通路に野良猫が歩いて来ました。 ちょうどぼくは小刀を手に持っている時で、何も考えず、ぼ~っと、その下に歩いて来た猫の上から、垂直に小刀を落とそうとしている自分がいました。 (猫に縁もなく可愛いともなにも・・関心のない時期でもありましたね)  でも、ハッとし・・その行為のなかにあるものにゾッと目が醒めたようになって、 その行為はしないですみました。
 狙っている時は、ゲームの様な感覚、落としても当たらないだろう・・という、鈍ったような神経の状態があったように思います。  あの時、ハッとし、ゾッとした、その「なにか」、心のバランス感覚の揺り戻しのような・・?  そういうものに興味があります。「どうして?」というと、あれが壊れるとどうなんだろう・・・ということが浮かびます。』

 2001年/日本/2時間26分 監督・脚本:岩井俊二 音楽:小林武史 撮影:篠田 昇--デジタルビデオ撮影。
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by past_light | 2004-09-23 01:37 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

過去と現在、記憶のコラム。関連ありなTBはラヴリー。リンクはフリー。コメントはブラボー。


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