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カテゴリ:■主に映画の話題( 114 )
おばあちゃんの家
 韓国のがばいばあちゃん、がばいばあゃんのもうひとつの原形、なんていうときっと陳腐な表現です(じゃ書かなきゃいいですけどね(笑)。そう、どこにも説教、教訓、語録、そういった形では残せない、言ってみればコマーシャルの匂いがないのが、この映画、そしておばあちゃんの存在感。

 想像したように、主人公の少年を除いて出演者はすべて本職の役者さんではなかった。そのことがますます、都会のソウルから来て預けられた現代シティ坊主のおばあちゃんの孫、その小憎らしい可愛らしさの少年との対比を際立たせた。

wave 腰の曲がったまま、険しい田舎道をやすやすと登っていくかのような、そのおばあちゃんの足腰にぼくらは驚くが、きっとけして辛くないわけではないだろう。でもそれは、日々の生活の中のおばあちゃんの姿、表情をみていれば、そういう苦労は当たり前のようなもの。そんなことに感心しているだけで終る映画ではない。
 教育とはきっとまったく無縁だし、言葉も発することができないおばあちゃん。しかし自らの胸を手のひらでポンポンと叩く「ごめんなさい」が豊かな「ことば」であることは、おばあちゃんとの生活の日々によって無言で伝わって行った少年のこころを観ていればわかる。

 少年の都会から持ち込んだ遊び、食の好みを見ていると、ああ、どこの国も同じだなあ、と日本のぼくらも苦笑いが出そうだ。字幕は「フライドチキン」だけど、少年の発する「ケ○タッキーチキン ! 」や「チョコパイ」の韓国発音がなんだかすごく耳に残る。

 なにひとつ少年を叱るわけでもない、むしろ表面上の言いなりのように見えるおばあちゃんなのに・・、それは孫の少年に媚びていたり、遠慮している姿ではなくて、なんというか、それは神聖なほどに無垢な姿に感じられて、ぼくらに驚きと新鮮さの気持ちが起きる。
 おばあちゃんはそこに生きていて、そして単にできることをしている。そういう生活のペースがある。そこに意図されたなんのメッセージもないのに、孫の少年のこころに染み込むような影響を与えて行く。それはまた新鮮に思われる物語だが、じつはそれはぼくらがすっかり忘れていたせいでのことだろう。

 イ・ジョンヒャン監督は「亡くなったおばあちゃんの深い愛情に感謝する映画をずっと撮りたかった」と語っている。

2002年/韓国/87分

<映画の詳細>
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by past_light | 2007-05-08 18:33 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
ダーバビル家の「テス」 ロマン・ポランスキー
 ありがちなことでいうと、「あのときああすれば・・、あのときこうなっていたら・・、あのときすれちがわなければ」などと人は時に思うことがあるだろう。
 そういう意味では、テスの生涯を見ていると、そういうありがちなことを想起せざるを得なくて、こんなに悲劇的でいいんだろうか、と原作のトーマス・ハーディを責めたくなる。
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 もうかれこれ封切りに続いてのニ番館で観てから20年以上がたった。
 そのやわらかな自然光線に浮かぶ時代の、コローやミレーの絵を思い出す風景と、テスを演じたナスターシャ・キンスキーの珠玉の美しさ可憐さ、そして官能的な彼女の顔を、こうしてじっくり見られる幸福な映画であり、テスを他の女優に置き換えることの不可能ささえ感じるポランスキーのもっとも愛される映画でもある。

 この時代としては、軽々しく口外しては異教徒的とそしりを受けるようなテスの神秘的な体験が興味深く、それは「夜、外で横になり星を見ていると、魂が星へ吸い込まれそうになります。わたしは魂を星へ飛ばすのです」というものだ。

 その幸福感をテスは物語の最後でも望むが、ストーンヘンジの石の上の空は厚く曇っていた。
 彼女はただひとり愛する夫に真顔で言う。「生まれ変わっても会えるかしら」。

 テスはダーバビル家の先祖の眠る墓の前で、「私もそこで眠りたい」という。
 それほどテスの人生は辛く疲労に満ちている。
 テスは信心深いのだが、むしろ明らかに真摯なるゆえの異教徒として生きる者の時代の苦難を体現していると言えようか。

 物語を辿り終えたぼくらは、テスがどうしてこのような不運な運命に翻弄されたのかを想う。階級の実体なき名誉、貧しさ、・・いや透けて見えるのはやはり、男性社会のエゴイズムに犠牲とされたすがたでもあるだろう。

 だが、ブレッソンの描いた「田舎司祭の日記」や「ジャンヌ・ダルク裁判」に共通する真摯な人間の水晶のような美しさは、ナスターシャ・キンスキーのテスによって、それは単なる悲劇ではなく。イエスの生涯が単なる悲劇ではないのと同じように。・・誰の一生にも、たとえどんなに短い一生でも、なんらかの奇蹟があるような思いがするものだ。

上映時間 171分  フランス/イギリス   公開 1980
監督: ロマン・ポランスキー
原作: トーマス・ハーディ
脚本: ジェラール・ブラッシュ ロマン・ポランスキー ジョン・ブラウンジョン
撮影: ギスラン・クロケ ジェフリー・アンスワース
音楽: フィリップ・サルド
出演: ナスターシャ・キンスキー ピーター・ファース リー・ローソン
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by past_light | 2007-03-02 02:44 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
三丁目の年の暮れにみる夕日
 年の暮れに押し迫り、寒くなってきた。小掃除のつもりで動き始めたらけっこう二日続けて中掃除程度になってしまった。始め出すとそういう性分なので、やらないかやるかという選択肢になりやすいのだが、それで年末身体を冷やして新年に風邪をひくということを繰り返しやすい。今回は暖かいからと、油断していたら二日目は見事危ない冷気がやってきた。
 窓を拭くのはたいへんだ。壁を拭くのもたいへんだ。めったに覗かないたんすの裏を覗くのはこわごわだ。油汚れは落ちづらい。・・・ふだん気に止めないように見てみぬふりをしていると、たまにジッと見ると見るべきものがたくさんあるのに途方に暮れる。時間の経過は埃をも積らせる。内側もちょいと、すす払いも必要。
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 先日、「三丁目の夕日」を録画していたのを、やっと観る。テレビサイズではCGの東京も箱庭みたいでファンタジー。リアルを追求したというより、そういうことなんだろう。きれいすぎるとは思うけれど、誰もが想い出の中の少年の日々が美しいように、当時を知らない世代でさえ懐かしいという感想があってもおかしくない。過去の光に投射されたメモリアルフィルムだ。ドラマはよくできていて楽しく見れた。
 それに、空想、想像が、少年たちや、まだテレビが目新しいものだった頃、大人たちでさえ頭の中いっぱいに広がるように、映画も大きな画面いっぱいに映像化されるのは、わかりやすいほどだが納得してしまう。技術進歩と便利さによって恩恵を享受しながら、これは確かに失っているもののひとつ。

 駄菓子屋の文学先生と捨て猫みたいに居着くことになる子供との間がとくによかった。自動車修理工場の家族と集団就職の少女とのエピソードといい、現にむかしはそんな話がよくドラマにあった。どちらのエピソードも定番みたいにありふれているし、泣かせ所も読めに読める。それでも配役たちの楽しんでいるような演技で、映画はすごく成立ちを感じさせる。そういう意味ではかなりアナログ、人間の魅力が重要だと再確認させるような映画だろう。
 もちろん少し脇の役になるとあまり魅力が引き出されていないような配役もあったが、二人の主要な子供がよくて、文学先生の家に居着くことになる少年が、当時のある少年の原形をとても感じさせていていい。言葉ではなく、首を横にふるという伝え方で、オジサンへの愛情の意志交換をするところなど、泣かせ所の品格をちゃんと感じさせるから後味がよかった。
 映画のはじめの頃の、やや軽薄なカメラワークと、だんだん後半落ち着いたように変わってしまうようなところとか、いろいろいちゃもん付けたくなるところは大いにあるはずだけど、結局のところ楽しめたということで、丸く納まるような映画。続編がつくられるということだが、テレビの連続ドラマにしても当たるだろう。しかし映画としては、作る側の緊張感を持続するのはたいへんになるだろうけど、期待している人はたくさんいるだろう、ぜひいい映画にしてほしい。
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by past_light | 2006-12-30 15:13 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
目が離せない
 先日、タルコフスキーの「ノスタルジア」を放送していたので、昔のビデオが痛んでいるので再録画してみた。翌日ちゃんと撮れているかどうか確認のチェックをしていたら、なかなか消せなくて一時間ほどは観てしまった。

 つまり目が離せないというのはこういうことで、アメリカ映画などの「目が離せない」というのと全く意味が違うんだろうか。たとえばむかし、スピルバーグの「インディジョーンズ」なんて劇場で観ていたとき、確かに目が離せなくて楽しかったが、後に二度と観たいと思うものではないとわかった。観終って、まるで遊園地から帰ったような気分だった。どこを捜しても何んにも残っていなかった。それでいいという人もいるだろうが、映画を観るということでいうと、なんとなくうまくダマされているような気分。

 目が離せないのはタルコフスキーだけではなく、ビクトル・エリセとか、日本でいえば小栗康平の映画もそうで、小津安二郎もそうだ。
 考えてみれば、静かで、だいたい派手なドラマが展開するわけでもなく、ときに寝てしまう人がいるような映画。
 目が離せないというのは、映画としての映像としての、息づく命の「呼吸」があるからだろう。見逃してしまうということが勿体無い。そこにひとつひとつの呼吸が、感性の鼓動が連なっているからだろう。
 8mmだけど、つくった側の経験でわかることは、作者というのは何度も何度もそのフィルム、その光と影の造型の世界をしつこいほど辿っているということ。愛し、思考しているということだ。
 こころをなににたとえよう。
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by past_light | 2006-12-12 01:44 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
劇場型病理
 藤原智美という人のブログみたいなサイトがあったので、覗いてみた。
 そこにパトリス・ルコントの「仕立屋の恋」の、雑誌に掲載されたらしいレビュー記事があって、読んでみた。

 レビューの最後の方に

 『イールが恋人に殺人犯の汚名をきせられるラストシーンの「君を恨んではいない。ただせつないだけだ」というセリフが、ひどく哀れでグッと胸がつまった。』

 とあって、そうでした、そうでした・・。と共感して読んでいたら、次に、

 『「場内が明るくなり帰る段になって、後ろの席から若い女の声が聞こえた。「ヤーだ、あのハゲ(イール役のミシェル・ブラン)、夢に見そう」 唖然とした。そして近頃の若い女の感性というのは、みんなそうしたものなのだろうかとおもった。だとすれば、それこそ病気ではないか。まったく「病」というのは、どこにでもあるものだ。現代病理学のネタはつきない。』(http://www.fujiwara-t.net/mv001.html)

 とあって、これもぼくもまったく同じような経験があって思い出した。
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 二十歳ぐらいの時に、かの有名なヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランド主演の「欲望という名の電車」の上映が終り、感動に震えながら劇場の階段を、場を共有した集団と降りていたときに、一人の女の声が聴こえた。「な〜にぃ、あの、キチガイ女ぁ」。ぼくもこれには唖然とした。

 「近頃の若い女」というわけでもないと教えたくなった。

 映画のなかのビビアン・リーの演じた哀しさ痛々しさは胸に迫る力があった。ぼくが感動に打ち震えたのは、ラストに近いシーンでの、映画の主題が凝縮されたような彼女のセリフだった。

 病院からの迎えが来て彼女を力づくで連行しようとする。そういった粗暴さをなによりもっとも怖れる彼女は必死に抵抗する。が、後に控えていた一人の男が歩み寄り、無理矢理連行しようとする男達を制止し、紳士的に彼女に接する。彼女は涙にぬれた眼を拭いながら、紳士の差出した腕につかまる。・・・

 「わたしは、人の親切だけを頼りに生きて来ましたの」

 さてさて、確かにだ。人間の社会の病理とはいったいなんだろう。
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by past_light | 2006-11-30 02:47 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
ボウリング・フォー・コロンバイン
 このドキュメンタリー映画について、映画の内容については他の人のブログを読んでいると、ほぼ書くことがなくなるので、感じたことを書いてみたい。

 語られる話は深刻だし、リアルで頭を抱えたくなるしろものなのに、なんてエンターテーメントとして成立しているんだろうか。それにまず、マイケル・ムーアという個性に脱帽する。
 しかし、それが糾弾されている国そのものの個性、アメリカらしいスピーディでテンポのよい進行で、挿入されるアニメも効果的に彩る演出。なんとも観ていて正直言っておもしろい。それが不謹慎に思われると、どこかで自分の心の良心という条件付けに引っ掛って人はあわてるかもしれない。
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 突撃インタビューというと、遠慮なしにずけずけ無骨で無神経に・・、と先入観を抱きやすい。しかしムーアは、あのファーストフード中毒がもたらしたとしか思えないアメリカ的な風ぼうで、実に繊細で気持ちのやさしい、やさしい対応をする人だった。

 しかしいわゆるドキュメントされているアメリカの姿は、ある世界が行き着く先をすでに象徴的に見せているんだろうし、それは日本のここ何年かをみても加速しているものかもしれない。

 惨劇の状況を伝える映像なども、僕らは凍り付いて観ているわけだろう。それには、映画監督のルイス・ブニュエルが、ずいぶん昔に言った言葉も思い出された。
「過去シュールレアリスムは、最も過激な芸術運動であった。・・しかし今日では社会そのものが過激になり、芸術の解説に暴力を使うのは、あまり効果のないことになった」

(ボウリング・フォー・コロンバイン2002年・カナダ)
映画のオフィシャルサイト→http://www.gaga.ne.jp/bowling/
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by past_light | 2006-11-27 18:46 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
「過去のない男 」アキ・カウリスマキ
 過去がない男にはこれからの未来しかない。誰しもにあたりまえのようだが。

 しかし、実は過去がないように生きることはむずかしいことだ。
過去とは自分への条件づけとして自己イメージの枷にさえなる。が、人は過去に頼り、自らのアイデンティティ、プライドとしていつまでも過去の人生にぶら下がりがちだ。そんな過去を持つことが幸福かどうかはわからないのがなぜかといえば、人生が前にしか進まないせいだ。
老人ホームで、自らの過去のプライドによって、かえって人との間に居場所をなくす人もいるという。
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 コンテナハウスに辛うじて住処を見つけ、救世軍の配給食にホッとする生活であれ、人が生存する際に寄りかかり連帯するのはやはり人であり、小さくみえてもささやかな愛だ。

 男は冒頭から災難により記憶を失う。心電図では死んだはずの男がむっくり立ち上がる。それほどでなくては人は過去から訣別できないのか。過去を失った男は、捨て猫が拾われるように無垢な善意に助けられ、「前にしか進まない」人生を新しく取り戻す。

 救世軍に勤めるイルマの人生は、就寝のための音楽がロックであるように、長きにわたり静かすぎるほどの過去なのだろう。語るべき過去などない。それもまたどうであれ、前にしか進まない人生だ。

 カウリスマキは、ここにお安い感傷はなく、最低限の生活の日々を生きる人々の姿を軽快にすら見せる。ゴミ箱を住処とする友人さえ心配するのはゴミが増え過ぎて寝場所を狭くされることだ。
 カウリスマキはけして絶望を見せない。それは社会の無慈悲なシステムが絶望を強いるからだ。しかし、人はシステムの奴隷、僕ではなく、生を謳歌すべきために生まれた人類だからなのだ。

 さすがに、ブレッソンを思わせる無表情でミニマルな映画スタイルとはいえ、いつもの生活者の心を歌う音楽が彩る独特な世界だ。彼が尊敬すると言うそのブレッソンとの決定的な相違をいうなら、やはりカウリスマキ色に彩られ、野良猫が膝に抱かれて感じるような、じわじわとした内部からの温もりだろう。

Tendernessの「カウリスマキ特集」ページ、kitayajinさんの詳細なレビュー記事は下記にあります。
★カウリスマキ特集ページへリンク
★リンク-kitayajinさんの新作紹介の記事
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by past_light | 2006-11-09 20:44 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
「至福のとき」 チャン・イーモウ
 もしかしたら、多くの人がこの映画にチャップリンの「街の灯」に似た感想を持ったかもしれない。それからぼくは映画を観ていて連想したのはカウリスマキの映画でもあった。社会的には弱き者たちの、それゆえの連帯感と無垢なる至福。

wave 目の不自由な少女ウー・イン(ドン・ジエ)と、運命的にこころ通わす、さえない中年男のチャオ(チャオ・ベンシャン)。
 度重ねるお見合いでもなかなか結婚できないでいる。実はリストラされて失業中、一介の労働者の中年男チャオ。しかし結婚したい一心で、悪気はないが身勝手な軽いつもりのウソを重ねて行く。最初はそれこそ身勝手な御都合あわせのウソだった。
 が、徐々に見合い相手が厄介者扱いしている前夫の連れ子である目の不自由な少女ウー・インを、成行きとはいえ助けたいだけの思いで、今度はつぶれた工場の仲間と一緒にウソを重ねることになる。だが、それによって少女は今まで人と関わることで味わったことのない至福のときを過ごす。

 「あの子を探して」「初恋のきた道」に比較すれば、ずいぶんと映画として地味な印象も与えるだろう。大きく盛り上がるストーリーが用意されているわけでもない。
 それは近代化が進む中国の都市、大連での話で、「あの子を探して」にも感じたが、都会人たちは経済成長する激動の中国のなかで、自己責任の生活力を試され、なんとなく生存競争もすごい感じで、人の心もドライに流れがちのようだ。

 経済的な格差ゆえと言われる、結婚率の低くなった若年層の話題が出ている日本も重なって見えるのが興味深い。これはもちろん短絡的に格差とか単純なことにすべて帰結するものではないと思うけれど、一般的には相当現実的な話しだろう。

 経済格差広がるかたちの社会。そこでは、チャン・イーモウは意図したように社会的に取り残されて行くような人たちの暮しをひときわ注視しているようでもあり、それがカウリスマキの映画を思い起こさせるところのことだろうとも思う。
 が、カウリスマキのように徹底した連帯感を持って、というかどうかは別だ。チャン・イーモウにはその後の「英雄(Hero)」などがあるように、映画のつくり手としては野心的であり、商業的に成功することも視野に入れていて、それはまたどこか器用に見えるバランス感覚のある作家で、また作品の良し悪しとは別の話にもなるだろう。

 当初コメディとして語られたかのようなこの物語りは、目の不自由な少女ウー・インが、自ら現代中国の都市の荒野へ、「至福のとき」の温もりだけを頼りと勇気として旅立つ姿で終るが、それは中年男チャオの物語の行く末と同じく、不確実であり、けしてハピ−エンドとは受け取れないものでもある。
 しかし、たとえばカウリスマキの描く、滅びゆく世界の生活者の人々の(肝心なものは目には見えない)愛と勇気は、現代社会の狼たちの、かたちのある勇気とはまた別種の、別次元の普遍的なものなのだと思われる。

 姿を消した少女が残した「至福のとき」の感謝を語るテープの声に、重ねて読み上げる少女への手紙は、チャップリンの「独裁者」で、最後に切々と床屋が語る、世界のどこかしこに存在する、勇気と希望に飢える生活者へのメッセージとさえ重なって聞こえるものでもある。               (至福のとき (2001/中国))

映画のオフィシャルサイト
http://www.foxjapan.com/movies/happytimes/index.html
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by past_light | 2006-08-17 17:47 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(8)
無用の妖怪
 「妖怪大戦争」という映画。
 多分、水木しげる原作の映画化だろう。最初を見逃して途中から観ました、テレビ録画。
 ぼくは日本のお化けが好きです。伝統芸ひとすじ、専門職みたいな妖怪たち。

 映画はだんだんSFXふんだんで、ハリウッドスタイルなメカが登場するのはちょっと意外でひいたんだけど、日本の妖怪たちは水木しげるの精神をちゃんと受け継いでいる。
 どうにも戦えないキャラばかりで笑えるが、全国各地から盆踊りと勘違いして集結する妖怪たちの数で勝負だ。

 パワーレベル段違いな帝都悪役にどうやって勝かと言うと、そこが水木しげる的妖怪たちの見せ場なのである。
 ネタバレだけど、ネタがばれた方がいい場合もある。
 ぜんぜん頼りにはならないはずの「あずきあらい」。
 誠実に、ばか正直に、ざるのなかのあずきを数えるだけが取りえの妖怪が偶然の救い主になる。これぞ無用の用。悪意や憎しみだけが餌の悪役に、ひと粒の健康食品がやさしく決定的なダメージを与えるところが世界へのメッセージだ。

 水木先生はクレジットの最後に登場して、「憎しみだけの人生など無意味だ」のチャップリンの独裁者よりもすごく短いメッセージをぽつりと言う。
 「戦争はよくないです。ハラが減るだけです」

紹介サイトみっけ。↓
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=4975
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by past_light | 2006-08-14 19:34 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
引用よりカタルものナシ
b0019960_3251910.jpg シネアートにフランソワ・トリュフォーの特集をページにしたのもずいぶん前のことになった。以来なかなか続きができないが、別に商売でやっているわけではないから、誰も文句はいってこない(笑)。ただ、「 突然炎のごとく(Jules et Jim)」という映画を外しているのは、当初もう一度観なくては何も言葉が出てこないという気持ちからだった。同じ原作者の「恋のエチュード」は、充分堪能した覚えがあるのに、「 突然炎のごとく」は、まだまだ味わい尽くせない「なにか」が、その一見軽妙にも感じられる映画のタッチやテンポの奥にあることを、絶対的に感じながらも、それは言葉になかなかできないものなのだからだ。
 トリュフォーの評伝を借りて開いて見つけた箇所にあった、トリュフォーの心を打ったジャン・ルノワールの賛辞の手紙を読んで、そのひとつの理由があるような気がした。

 「『突然炎のごとく』は、今までに私がスクリーンで観たなかで一番的確に現代のフランス社会を表現しているように思えるということをあなたに申し上げたく、ペンを執りました。・・中略・・・色恋沙汰は、円卓の騎士たちにとってはとんだお笑いぐさで、ロマン派の作家たちにとっては、涙をこぼす口実です。『突然炎のごとく』の登場人物たちにとってそれはまた別のもので、あなたの作品はその別のものとは何なのかを我々が理解するのに役立ちます。
 それ以外の我々のような男たちにとって、自分たちが女たちとどういう段階にいるのかを知るのはとても大切ですし、女たちにとっても、自分たちが男たちとどういう段階にいるのかを知るのは大切です。あなたはその問題の本質を覆っているもやを晴らすのを助けてくれているのです。そのことと、他にもたくさんの理由から、心からお礼を申し上げます」


 ヌーヴェルバーグの父とさえ言われるルノワールからのこのような手紙に、トリュフォーは深く感動しただろう。
 このような文を読むと、色恋沙汰について語るにも日本人であることの限界さえ感じるのだが、次に引用させて頂く手紙が素晴らしいので、とうぶん『突然炎のごとく』について書くのはやめておきたいとさらに思う。

 「私は七十五歳で、ピエール・ロシェの小説『ジュールとジム』の恐るべきヒロイン、カートの成れの果てです。
 私がどれほどの好奇心をもってあなたの映画をスクリーンで観られる瞬間を待ったかご想像なさってください。一月二四日、私は映画館に走りました。あの暗い場内に座って、むりやり似せてあるのではないか、多少なりとも腹立たしいなぞらえかたがされているのではないかと恐れていましたが、たちまち我を忘れ、盲目的に経験したことをよみがえらせる、あなたとジャンヌ・モローの魔力にとらえられました。
 一連の出来事のすぐ近くにいたピエール・ロシェが私たち三人の愛の物語を語りえたことには、奇跡的なことはなにもありません。でもあなたにはどんな才能があって、どんな類似性があって、私たちの内奥の感情の核心を感じとるほどに事情がわかったのでしょう? この筋書きに関しては、私はあなたにとって唯一真の判定を下せる人間です。他のふたりの証人、ピエールとフランツはもういませんからあなたに「はい」とは言えないのです。愛情をこめて、親愛なるトリュフォー様へ」


■突然炎のごとく  JULES ET JIM
監督・脚本/フランソワ・トリュフォー
出演/ジャンヌ・モロー、オスカー・ヴェルナー、アンリ・セール、マリー・デュボア
原作/『突然炎のごとく』 アンリ・ピエール・ロシェ(ハヤカワ文庫)
撮影/ラウール・クタール
音楽/ジョルジュ・ドルリュー  (108分/1961年・フランス)
■作品紹介サイトhttp://www.herald.co.jp/official/truffaut_honoo_no_gotoku/index.shtml
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by past_light | 2006-06-18 03:27 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)