カテゴリ:■主に映画の話題( 114 )

それでもボクはやってない

 周防正行監督という人は、すごくプロな人だなあと思った。
 この映画は前作の『Shall we ダンス?』の娯楽性極地から方向転換、と思われながら、いやいやもっと賛辞すべき完成度。
 観客をスクリーンに引きずり込む力のある娯楽性、それをまったく犠牲にしていないつくりで、この監督の映画の話法はたいしたもの。

 観終ると、のちのち、登場した人物たちの印象的なシーンが眼に焼き付いているのに気づく。
 ほんの短い映像だが、ぜったいに見逃しては勿体無い、そういう各役者たちの、演出時におけるその場での、完璧に計算されたような表情の、ある捜された角度で映されたシーンが網膜に残っている。
 いくつものシーンを、ぼくは明け方、夢うつつに思い出しながら、目蓋に上映して反芻してしまった。
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 法廷内に集中する後半、冷徹に、無表情に書類に目を通す裁判官が映されるカットと、その表情を計りかねる弁護士の表情など、まさに完璧。
 そのシーン、裁判官の眼鏡の奥にある眼の表情が伺えない。
 役にある裁判官の演技を映すそのカメラからの角度たるや、弁護士から見る裁判官の角度なのだが、監督は最上の構図を掴まえている。

 そういうシーンはいくつもあるのだが、周防正行監督 という人は演出家として、職人的な意味でも相当実力のある人だ。

 監督は、ニュースにあった「痴漢冤罪事件」の裁判への、自らの関心の発端から、長い時間をかけての取材と裁判傍聴などの体験となどを材料に、練りに練ったリアルなドラマにした。しかしときおり脇役に存在する人たちの、それもリアルがゆえにユーモラスに映るようなエピソードが、ちよっと息抜きをさせてくれる。

 だが、日本の刑事裁判への監督が込めた思いは、ハピ−エンドにしない現実性をどうしても選ばねばならなかった。
 そういう意味では、後味の良い娯楽性ではないが、多くの観客は、はらはらし、希望し、がく然とし、落胆し、と主人公の行く末をともに案じながら、まったく疎いといわざるをえない刑事裁判における現場にある世界に目を開かされる。

 「3年間かけてシナリオを書きましたが、この内容は全部僕が驚いたことで、そういうことだけをリアルに積み重ねただけなんです。」という監督の驚きはぼくら観客の驚きになった。

 昨夜テレビで放映されたので、お茶の間でたくさんの人が観ただろう。
 茶の間で、お父さんはお母さんに「あんた、若い子のそばに乗っちゃダメよ !」と必ず言われそうだ。明日の電車内は、けんけんがくがく化・・。(笑) いやいや男にとっちゃ笑い事じゃないものな・・・。

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by past_light | 2008-03-02 20:41 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

市川崑監督のりっぱさ

 市川監督が亡くなったと突然ニュースの字幕に「えっ」とおもう。
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 九十を超えていたとはいえ、なんだか、まだひょっと今年あたりも新作があらわれそうな人だった。
 新藤兼人さんもすごいが、市川崑さんもそうとうすごい監督で、・・といったって、昔から馴染んだこの名匠の作品に、リアルタイムで触れたものにしかなかなか伝わらないかも知れない。
 その名の存在を忘れる間もなく、コンスタントに映画を世の中に登場させていた人だ。「ビルマの竪琴」「野火」などの名作もあるが、同時に軽くて楽しい映画も多い。ぼくは日本のニューシネマ、ロードムービーの傑作だったと思う「股旅」などは当時、本当に惚れ込んでいた。これは谷川俊太郎さんがシナリオに参加していた作品でもあった。
 中期から後期に位置するか「細雪」なども、さほど高予算とは感じられない画面だったけれど、女優たちがまさに市川さんのいわば優れた陶器の作品の中に美しく美味しく贅沢に盛られて、味わいのある軽さとでもいいたい風流を獲得していた。
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 天性の映画・映像センスを、もうたまらなくデリシャスに味合わせてくれた。その若々しくみずみずしくもある感覚。それは、観客動員数を満足すらさせる娯楽映画「金田一シリーズ」でもデリシャスだった。
 いやそれはむしろ、娯楽映画であるからこそ、悠々と、その持ち前のセンスを、職人的に、いわば優れた映画デザインとでも言いたくなるスタイル。日本にありがちな、べたべたした湿度を振払ったような、その画面の切れ味美味しいカット割り、間、役者の表情を挿むタイミング、色彩感覚、空気感、そしてなんといっても、映画の始まりのタイトルから出演者の名前が流れる字幕。それが太明朝または太ゴシックでばっちり画面にレイアウトされ映り出す、それがすでにワクワクさせる時間だった。

 かの記録映画「東京オリンピック」は、小学校で引率されて町の映画館を貸し切りで鑑賞したが、その経験は強烈だった。子供の目にもその監督の想像力、独創性はよく伝わった。あの暗闇のなか、その色彩と映像と沈黙の音に、ぼくは興奮し続けていた。筋肉の躍動するスローモーションや、アベベ選手の黙々と走る長回しの、粒子の荒いフィルムが映るスクリーンに目を釘付けにした。
 子供の頃のことだから、後になって知ったことだが、「賛否両論」と巷の大人の間ではわかれていたという。「国民映画だから記録映画らしくしろ」みたいな阿呆な意見があったという。それを知って、あの映画を理解しないなんてよほどのバカだろうとしか思えなかった。案の定、政治の世界より国民意識レベルが先に行くことが多いように、それは未だにそうであるだろうか。多くの日本人は、市川監督の、この世界に紹介される独創的な記録映画を喜んだ。

 市川監督は晩年、「ぼくは映画の職人」を極めたい。という目標をお持ちだったという。その老境ですら、映画づくりに関心を失わない監督の言う「職人」の意味は、深いと感じた。

 と、話は尽きないが、ぼくにとっては創作者として「りっぱな」、大好きな市川監督の御冥福をお祈りします。
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by past_light | 2008-02-14 01:27 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)

電車男

 おおざっぱだけど、人は内向きと外向きに分けられる。かなりいい加減に言うとそうだ。
 「オタク」というのは内向きの部類の人に多いのだろうか。いやまてよ、と思う。いくら人付き合いが好きで、広く浅くたくさんの人と付き合っていたとしても、なんだか対人コレクションみたいになってしまっては、それもある種のマニア的な趣向ではないか。

 「電車男」を観て思ったのは映画全体のでき、スタイルはともかくとして、こういう純愛ものは内向きオタクな主人公だから成り立つ、という感想だ。
 主人公に気持ち悪いと言う感想もあるだろうし、ちよっと、しっかりしろよ、といらつく人もいるだろう。相手の女性も居そうで居なそうなところが奇妙な感じもある。
 一般的に女性なんかどうだろう。「電車男」、そういうと前に流行りみたいなモテ方もあったらしいから、世の中はプロパガンダで左右されるキワものだ。がそれは本物ではないだろう。
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 それでも人は生まれたからには社会の中でバランスをとって生きて行くことになるのだけど、当面、外向型、つまり外向きに意識がある人の方が社会という形の中で生きて行きやすいようだ。が、よくよくみれば現代では、この電車男に代表されるように、人付きあいは苦手だとしても、パソコンにはめっぽう強くて、処理能力が鋭ければ、今の社会や企業の中で重宝されるから、生きにくいのかどうかは経済もかんがみれば簡単にきめられない、複雑だろう。人は、じつはあながち社会の表舞台にいるからといえ、倖不幸も分かりにくい世の中でもあるだろう。

 しかしこの主人公は、オタクという先入観とか誤解されて認知されたイメージに隠されていた重要なファクターを思い出させた青年だ。つまりよくも悪くも子供の「ピュア」な資質を持ち続けているということ。それであるからこそ、この純愛映画が成立するのだ。

 ネットの顔も知らない仲間、ある意味では、しょっちゅう会って相談などできるというような、ありもしない現実より密接な応援とアドバイスに囲まれ、最後のハッピーエンドに向かってのマラソンである。
 途中までは緻密に用意したマニュアルの中でかえって道を迷い、パニクリまくりながら。お話だからなあ、と大目に見たくなるほど物わかりもよくて、優しくもある素敵な女性にフォローすらされながらだが。

 それでも電車男のいちばん愛しくて、切実にぼくらに響くのは、その途上ですっかり自信を失った自分をさらけ出す場面だ。

 「人を好きになるのは苦しいです」「いつか、必ずダメになるんだろうと思っていた」
 恋愛は電車男にとっては免疫のないものだった。むしろ生涯、自分に縁のあるものか疑わしいものだった。それでも仕方ないと思っていた。縁がないということは、ある意味では無事に自らの楽しみの中に埋没して安住もできるということだ。しかしどこかで、ずっとそうして一人で生きて、自分は歳を取って行くのか・・、という底知れずな孤独と不安があった。
 それを、その恐怖を、正直に彼女に伝えられたこと、そして他者と心から繋がりたいと、おさな子のようにあらわにできたことだ。
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by past_light | 2008-02-06 01:55 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「殯(もがり)の森」 河瀬直美監督

 10年ほど前のカンヌでの新人賞の「萌の朱雀」と、この作品「殯の森」のみを観ての感じたことなので、不確定的な感想でしかない。
 それはこの作家の監督、河瀬さんという女性の「パーソナリティ」が、ものすごく影響している作品ではないかということ。
 彼女はその話ぶりなどからも感じることに、その語られる内容とは裏腹に、どこか活動家、闘士のような「力」による伝えかたをしてしまう、そういうものだ。
 カンヌで評価されるのは、日本的感性というよりも、たぶん映像の個性とは別に、皮肉にも論理的、言語的に作品が説得力を感じさせるものだからではないか。

 「萌の朱雀」にも感じたことだが、この作品でも、老人たちのホームにおけるような前半のドキュメンタリー現場を、とてもうまく融合して物語を伝える手法の成熟感、それはすごく感じる。それから「萌の朱雀」では、やや脆弱過ぎた感のある録音、音響も、この 「殯の森」では、目の醒めるような環境音がすばらしく、それが映像の魅力に負けていないほどだ。

 物語はどうか、それはたぶん大きく観客を選んでしまう。
 もし近しい人の死とか病、愛しい人の喪失感をごくごく最近体験した人には、主人公たちの心の内にある闇の深さ、突然の感情の表出、そして抽象的にしか伝えられないような奇跡、癒すようなエネルギーの湧き昇る場面を、その観客が共有することはありうる。

 が、公式サイトにある河瀬直美監督の言葉や、また監督自身があきらかに意図しているものが、()、あまりに明確に思われるので、かえってそれは「おしつけがましさ」として感じられてしまう、という意見もありうる。ぼくは観賞後に、どこか抵抗感を持たざるをえないものが自分の内から生じたこと、それは率直に言いたい。まず、強引である、と感じた。力で「そうでしょう」と迫られているような、それに抵抗を覚えた。

b0019960_1938505.jpg 作者は劇中で、「そうせなあ、あかん、ていうことはないよ」と登場人物に語らせるが、それが、また劇中にあるエピソードの、ふたりが割れたスイカをむさぼる時、むしろその相手の口にねじ込むような場面に、なにかどうしても重なるような伝え方、という感じがしてならない。
 それは森へ彷徨い出すきっかけの発端からの強引さもある。物語の整合性をうんぬんする趣味は元々ないけれど、それでも携帯電話の使われ方も現実感、危機感のないものにすぎる。それが作者側の都合として感じられてしまうのが、どこか気持ちに残ってしまう。
 その森を彷徨う発端からの強引さは、現実的に職としての介護をしている方には、非合理のままドラマに押しやられているような感じが残るのではないだろうか。

 「萌の朱雀」では、すくなくとも物語へのその種のそのような強引さはなかったように感じる。いや物語の性質的にも押さえられていたかもしれない。「殯(もがり)の森」、それは監督の成長なのか・・、彼女の活動家、闘士のようなエネルギーにまかせた「力技」じゃないのか。しかしそれも才能と呼ぶのだが。
 それには語られる世界とはどこか遊離した落ち着かなさのようなものがのこる。が、それもまたこちら側の問題だと言われればそれまでにもなろうという、やっかいなもの(笑)。

 映画での「森」、「自然」と人間、というモチーフとしては、小栗康平監督の「眠る男」、そして「埋もれ木 」を思う。もし、「では、強引さ、力技と感じさせないものはなにか」という問いには、このニ本をぼくは言うだろう。

 しかし力技、ということでは、主演の尾野真千子、彼女の抑えた表情と、突然のトラウマの表出、感情の爆発的で悲痛な叫び、「いったらあかん ! いかんといて !」の場面は女優の魂を感じて素晴らしい場面だ。

 全編、「緑」に浸され、侵食される映像・・。
 それは、それでもたぶん、もう一度この映画を確かめたいという謎めいた誘惑を多くの人は捨てきれないだろう。

 #「やっぱり森とか、天気とか、なにか私達が手を加えない、加えられないようなものに対して、生かして頂いているんだとか、生きている実感を得るとか、なにかそんな物語が作れればいいなと思ったんですね。 だからあえて主人公達をたった二人だけ森の中に放り込んで、そこで起こる、一 言で言えば洗礼のような物を受けながら、彼らがここにいる実感を得ていく。それを見てくれた人が、主人公達に共感を覚えながら、今いる位置とか、じぶんを育んでもらっているものとかを感じてもらえる映画になればいいなと思って。」
「公式サイト」
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by past_light | 2008-01-18 19:45 | ■主に映画の話題 | Trackback(2) | Comments(0)

いつか読書する日

 映された背景の景色に見覚えがあると思ったら、長崎を舞台にしていた。
 それでも、作者の意図により架空の地方都市という設定で、禁欲的に風景は使われている。懐かしい者にはもったいないとも思うけれど、そういう意図は正しいと言える映画だった。
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 田中裕子は、この映画で主演女優賞をとっているけれど、テレビで向田邦子のドラマなどでもたいへんな存在感で演じているから、特筆するほどの演技かどうかは別にしても、彼女の下記の話に現れているような、なんとも演技とは違う次元で、田中裕子という女優の魅力がたっぷりに味わえた。

 『2004年の3月中旬から4月中旬にかけて行なわれた撮影に先駆け、主演の田中裕子は実際に長崎の町で牛乳配達の修行に励んだ。

 「撮影に入ってからも、ほとんど毎日のように朝3時に起きて4時にメイクを開始して、5時に牛乳配達のスタートです。今日も石段を駆け登るところから1日が始まりました。体力勝負で、体力だけ使っているような感じがするんですけれど、撮影が始まって2週間ぐらいが過ぎてわかってきたんですが、体力を使うことで余計な力が抜けてきた気がするんです。ハアハア言いながら階段を登るんですが、その時に運動靴がすれる音だったり、牛乳瓶が鳴る音だったり、あるいは夜が明けてくる色だったり、風だったり、そうしたものが体を抜けていって、その分、体が軽くなっていく感じがするんです。せつない物語ではあるんですけれど、そのせいで重苦しさは抜けていると思うし、私が感じた音や色や風が映像に映るといいなと思っています。それにちょうど桜の花がはらはらと散る時期になって、だいぶ暖かくなったのも嬉しいですね。そのぶん日の出も早まってきて、スタート時間がどんどん早くなってるんですけれど」(田中裕子)』


 大人の因縁もある秘められた恋心の、長い年月の熟成が切ないが、相手役の岸部一徳もとても好きな配役で、ふたりのクライマックスともいうべきラブシーン、というかなんというか、「いままでしたかったことぜんぶして」というような、五十代を迎えた男女の高まりの不器用さと露さが、とっても切なくて悲しくて、ハレンチで、嬉しくて(笑)、ふたりのシルエットが愛おしくて文句なしにすてきでした。

 大人というのは、少年少女の頃の遂げられない思いを持ち続けたり、禁じたり、しちゃったらどうしたって哀しいです。でもそいつは美しくハレンチで、セクシーなんだ。
映画のオフィシャル。サイト
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by past_light | 2007-11-24 20:20 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)

夢と日常を和解させる淀川少年〜淀川長治物語

 スクリーンのなかに箱庭のように浮かび上がる明治から大正にかけての神戸は、夢のような華麗な風景、映画に魅了されていく淀川長治少年の楽園のようでもある。
b0019960_02554157.jpg 亡くなるまで何年もおつき合いがあっただろう大林監督の淀川さんへの敬愛が、小中学生までの長治少年役の子役さんによって託され、じわり伝わってくる。
 この子役さんの天才的な表現力はなんという素晴らしさだろう。
 「野ゆき山ゆき海辺ゆき」の林泰文くんが登場した時も素晴らしかったが、長治少年を演じる子役はさらに凄い。

 忘れられないシーン、お礼に貰った活動写真の1等席チケット2枚。友だちと観るために映画館の入り口で待つが、来た友だちは「淀川君から貰ったお弁当を食べた時から、なんだか落ち着かないんだ(この友人はいつもお弁当はおイモだったのである)、淀川君と対等で居たいから断わりに来たんだ」と言う。
 その時に「ほら、2枚もらったんよ」と自分の胸にチケットを差し出す時の長治少年が、そのまま淀川さんのしぐさ、あの女性的ともいえるスマートでダンディな身ぶり、モーションにまさにそっくり、ぼくは眼を見はり胸が熱くなった。

 活動写真と現実の間にある壁を超えた、いわば夢と日常を和解させ、歩み寄らせようとするかのような淀川長治少年は、スクリーンと観客席を軽々と行き来して、人生の最初に関わってくれた愛すべき、懐かしい登場人物たちと、かけがえのない時間を過ごす。

 もともと裕福きわまりない暮しから、逃れられない時代の変化にも翻弄され没落していく淀川家を、長治少年の姉が「最初からなに不自由なく持っていた者は、失していくのが楽しみ、宿命なんよ」と言う。

 市川森一さんとの共同脚本。よくこなれた語りと台詞もふたりが力を注いだということが伝わってくる。
 こういう映画話法、軽快さと深さを同時に滲み出す映画作家は、やっぱりめずらしいと思った。

淀川少年--淀川長治物語~神戸編~サイナラ」

(テレビ朝日で淀川長治さんの一周忌特別番組である、大林監督の「淀川長治物語~神戸編~サイナラ」の当時の感想より)
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by past_light | 2007-08-29 01:08 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

ベルイマン、その名の響き

 イングマル・ベルイマンが亡くなった。

 なんだか亡くなった人の冥福ばかりを続けて言わなくなてならないが、そうは言おうと、自分が関心があった人のことだけを上げているわけだ。世の中では毎日、世界中で人は死んだり生まれたりしている。

 小田実さんも、ちょうど自民党大敗が進行の夜に亡くなったそうだ。
 あの強面、鋭い目で、体制をにらみつけていた、椅子に座った、少し猫背の大きなシルエットの姿がとても印象的だった。
 この人はいわば日本人ばなれした迫力を持った平和活動家でもあり、こんな人は、もうなかなか出てこないんじゃないかと誰しも思うのではないか。
 御冥福をお祈りします。

 ベルイマンは、ぼくが二十代のはじめにシビレた映画監督で、題材には背景にカトリック的な精神風景があるので、そういう縁がないともう一つ入っていけないのではと思われそうだが、映画として見事に引き込まれる魅力のかたまりだった。カトリックで思い出した極めつけは「冬の光」という映画で、主人公の牧師さんがなんでこれほど苦悩するのかぁ・・・というものだが、話よりも、日本人であり青年であったその時のぼくの内部とのギャップが衝撃的だったのかもしれない。

 スゥェーデン、北欧の街の陽射しを感じさせないその映画での空気が、憧れのような意味で、それも魅力だった。映画の内容におけるシリアス、緊張感そのものが、ふやけた脳髄に冷気を吹き込んでくれるような映画体験をそのころは感じたものだ。けして難解という感じではなく、むしろその抽象性のほうがぼくは好きだったかもしれない。
b0019960_03070769.jpg 「ペルソナ」というモノクロ映画を最初観たのだったと思う。
 今でももう一度観たいと思いながら果たせていないのだが、この陰影の強い映像と女優たちの不可解にすら突き進む、おそろしいほどの苦悩、悪意、矛盾、愛憎とのぶつかり合いなどは、後にして思えば、ウディ・アレンは絶対真似してはいけないんじゃないかと思うものだった。

 「野いちご」は、老人の名誉の授賞式に向かう車中がいろいろと内容濃いものの詰まりものだった。キリコの街のような夢のエピソードがこわくて楽しい。フロイト的でもあるイメージも満載だ。
 ベルイマンが、まだ若いときなのに、こんなひとりの老人の精神風景をリアルに描くということに誰しも驚いただろう。ぼくは半年ほど前にひさしぶりにビデオで見直してみたら、まさにそのとおり、どうしてこれほど切実感があるのだろう・・と数十年の時の流れも自らの精神の中に見つけたものである。ああ、まだまだぼくは老人じゃないですが、念のため(笑)。

 この映画でも印象的な、息子夫婦の関係における夫婦、結婚における意地悪で悪意にも感じられるかもしれないほどの、男女の内部の真実をえぐりにえぐりつつも、なぜかどこか普遍性を求めているとしか思えない愛への固執が、ベルイマンの、きっと神への問いかけとも通じるのかもしれない。
 ご冥福をお祈りします。

 追記>ミケランジェロ・アントニオーニ監督も続いて亡くなりましたね。
アントニオーニ監督の作品はたくさんは観ていませんが、登場人物の後ろにはつねに、こわい異星のような空虚が背景に広がっていました。
アントニオーニ監督の作品の過去ログの感想はこちらにあります
 ご冥福をお祈りします。
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by past_light | 2007-07-31 03:11 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

午後の遺言状

 いつも、プロの役者、演技者という存在をどちらかというと否定的に語っているようにぼくは思う。が、それは作品、作家の意図というか、由来する理由がある。むしろ職業的俳優がときに病的ともいうように演じることで、彼、彼女がテーマとなってしまうような場における、その「我の現れ」の観る側の不快感のようなものだろうか。

 多分、役者さん側にとれば、気持ちよく演じさせてくれる監督なり演出者はありがたいものかもしれない。反対に素材としてのみを要求されてプロの力量を必要とされない監督などにたいしては、まあ複雑な思いもあるのだろうか。
 しかし、竹中監督のいうような「存在」そのものを必要とされるという幸福もまたあり、だからなんとも心持ちは「複雑」ということでいいんだろう。

b0019960_03112508.jpg だいぶ前に録画していた映画だが、なかなか観る気持ちになるのに時間がかかった。 新藤監督の映画には好きな作品も多い。独立プロ時代の社会派的な題材の作品が相当に印象の強い方だが、やはりそれらの中には忘れられないものが多い。筆頭は「裸の島」だろうけれど、そのころほかにも生活苦に喘ぐ庶民が主人公の作品が多く、なかなかそのテーマは重い。いま九十を過ぎても独り生活し、次の制作のブランをお持ちだろう、その人生の持久力にも感嘆する。

 「午後の遺言状」では、老いと死に関して、そのテーマは観客が年代が高ければ高いほど、物語に心の至近距離が近い。
 もうここに登場された三人の女優さんもこの数年の間にこの世を去られた。
 杉村春子さんも 乙羽信子さんも、当時この映画で賞をとられているが、認知症の役を演じられた朝霧鏡子さんは賞に昇っていないのが、ちょっと不満だ。だいたいこういう役だと演技としての対象から外れることが多いのは、演じやすいという先入観があるのだろうか。とよく思う。でも 朝霧鏡子さんの役、その無垢で無防備で儚い表情は非常に印象的であり、彼女がどこかで映画をつま背かせることがあれば、そうとうなダメージであったろうとおもう。

 それにしても 杉村春子さんのプロとしての演技はこれはまた、実はそれで独立した楽しさを味合わせてくれるので、なんとも、いつもながらうなりつつ拝顔してしまう。
 この映画での役がまた、演劇人としての彼女をそのまま持って来たものといってもおかしくないので、もうなんの遠慮もなく演じておられたのが清清しい。
 「次はどう出てくるか、・・」といった彼女の演技を見ることの楽しさがあって、だからといって映画の主題を壊しているわけではなく、それは映画の終りの彼女の為のラストショットを見れば納得されることだろう。

 しかも、彼女の台詞は聴き取りやすい。演技の押しの強さみたいなものが発声にも勢いを持っているし、映画に芯の通ったような頼りがいを持たせ、しかもそれは何故かどうみてもユーモアを合わせもって表れてくるから、重いテーマであっても作品は堪え難いものではなくなる。

 乙羽信子さんが飄々と相手を演じるが、それが間を空け、無気味に場を落とし、つかみどころをまたさっと逃がしてくれるようで、描かれていた物語のテーマの重さを「公案」のようにして、映画の後味も不思議にひと夏の避暑地の想い出のようになった。 

 おふたりの最後の作品にしてもまったく不都合はないと思われていることだろう。

「午後の遺言状」新藤兼人 監督 * 製作年 : 1995年* 製作国 : 日本
キャスト
* 杉村春子 (森本蓉子)* 乙羽信子(柳川豊子) * 朝霧鏡子 (牛国登美江)* 観世栄夫(牛国藤八郎) * 瀬尾智美 (あけみ)映画詳細
新藤兼人さんの-生涯現役 朝の活力源-という記事

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by past_light | 2007-07-12 17:13 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

「埋もれ木 」〜耳をすまし、凝視する世界の「夢」

 ■小栗康平監督の作品はこれですべて観ることができた。なにしろビクトル・エリセを思わせるほど少ない作品の数。それはこの作家の個性と、この時代における商業的な需要ともが関係する。しかしひとつひとつの作品の印象は非常に強い。

 ○天のポイントが貯まったので、DVDを注文し、日本の映画は高いなあ、とぼやきつつもプラス1500円ほどで購入した。1500円以上の映画のDVDを買うなんてはじめてのことだ(笑)。

b0019960_3574139.jpg ■「埋もれ木」が劇場公開された頃、反応をネットで垣間見て、そのなかには戸惑い、または理解不能、という感じの意見も多く見られた。
 前作の「眠る男」をぼくは二日続けて観たほど好きな映画作家だ。実は 逆にその反応の理由はだいたい想像できもする。
 しかしそれは、人として生きるということの中のある意味、非常に本質的で重大な問題を孕んだものだと思っている。それを「埋もれ木」を観おわり改めて気づかされるような思いがした。

 前に小栗さんの本を読んだ時に、この映画に対して業者間の反応にも「この時代にまあよくこんな映画を」と、やや嘲笑するかのものがあったという。小栗さんは内心「この時代だからこそ」という思いがあった。と書かれていたことを思い出す。まあ、ある意味ではそうとうに贅沢な映画作品の創出ではある。

 ■この映画の「ファンタジー」という言葉にもし誤解が生じるとすれば、それは観客側の己の中の澱んだ固定観念としての「ファンタジー」というものを見つめ直すという意味で、もっぱら自らに挑戦すべきものであるものだからだ。
 これほど物語り、ストーリーという形体を解体してしまったことで生じただろう観客の戸惑いの反応とは、言ってみれば従来の幾多の映画を観て、登場する主人公に寄り添ってドラマに着いてゆき追いかけ、展開され映し出される場面、そして主人公の心情を、安楽な椅子に座り、疑似体験して楽しむことを期待しても提供されない欲求不満でもあるだろう。しかしこの映画を幸いに体験する観客にとっては、それは映画を見るという意味の問い直し、自らの習慣化した姿勢、概念の解体でもある。

 ■たとえば映画を観て、そのドラマに、アクションに、楽しみ、おもしろがり、興奮し・・、映画館を出て行楽地から帰る時のようにぐったりし、ぼんやりし、白日の現実の日常が色褪せて見えるなら、それはぼくらが娯楽と言う麻薬を味わったのである。(その楽しみを否定していっているのではない、事実としてである)

 しかし「埋もれ木」を観終った後、正しく体験したなら、日常のいつもの光景、できごとが・・、たとえばあなたが台所で皿を洗う時、その皿のぶつかりあう音は生き生きと聴こえることだろう。自身の手の動きを不思議に思うかもしれない。または蛇口から流れる水の音に耳をすますかもしれない。そこに生活の細部に気づかれずに眠っている驚きがあることを。
 それはなんと、ふだんの日常のなかに「ファンタジー」は埋もれていたということに気づかされる瞬間である。
 既製のデコレートされた魅力的な作り物を与えられ、物語・「ファンタジー」を掘り出す力を失ったぼくらには、自らの現在の地層から、それを能動的に掘り起こす作業、決意が必要なのだろう。

 ■映画の中に印象的なエピソードがある。
 家族に養老院へ入れられると気分を害している老婆は少女たちに、自分の母が山にひとりで入って死んだ話をする。
 母はいつも「山に入ってお迎えが来てくれれば、そんな幸せなことはない」と言っていたことを思い出して語り、「おれは、その頃まだ若かったから、わかんなかった」という。そして、せがれたちにくっついていないと生きていけない自分を「どうしてこんなに弱くなったのか」と嘆く。「だって足がわるいんだから、しかたないよ」と少女たちに慰められるが、老婆は、「そんなことじゃねえ、おれの性根が、・・ちがうんだよ」と叫びむせび泣く。
 物語、神話を失ってしまった現代人の迷いがここにもある。

 ■この映画はぼくらに、自らの内に夢「ファンタジー」を創造する能動的な力を誘発しようと働きかけるが、かといって襟をただし緊張して観なくちゃいけない、ということではない。
 それは、たとえば河合隼雄さんがクライアントに対するときの聴き手としての姿勢のように、「いわば、ぼーっと・ただ聴く・しかし身体ごと聴いている」とも表現されるような受動的な状態で、観客はいたってくつろいで鑑賞すべきものであり、言ってみれば、耳をすまし、静かに見つめることが、ただただ必要とされることなのだ。

 耳をすまし、凝視するからこそ、聴こえてくる音があり、視覚は触覚にさえ近づく時がある。目の前の光景、そこから呼び覚まされる感覚、モネの観た自然のヴィジョン、またたとえばセザンヌのいう「サンサシオン」、そういった感受性にへとつながるものなのだと思われる。
 それはまた、意識の表層から無意識の層へ向かって掘り起こされた夢、ファンタジーでもあるとも言えるものだ。もちろん小栗監督のこの映画の素材は、そうした耳をすまし、凝視された世界から掘り起こされたものだろう。
 推薦のコメントを書いた山田洋次監督が、「誰にも似ていないし、誰にも真似できない」と評しているもの、それはこれだろう。

 ■バトンタッチして遊び繋げていた少女たちの「物語」は、やがて町の住人たちの日常の物語に合流し、それは「埋もれ木」の登場において町が夢を見る盛大な夜になる。そして物語は自立して生き続ける。
 たがいの三つの吊り橋から、「じやあ、また」と別れる三人の少女たちの自立した「夢」がはじまる。

 ■小栗さんの伝えようとするもの、それは「眠る男」からさらに進化して造形化され、実にシンプルにあらわされつくられたたものがこの映画「埋もれ木」だろう。
 しかしそれを紡ぐ作業現場はたいへんだ。CG処理による虚構の使い方も、前作に増して現実の再構成としてふんだんに使われている。映像としてのクライマックスの「埋もれ木のカーニバル」のシーンも美しいが、中盤にある、田舎道を列をなし山を背景にし町のみんなが子供たちと歌いながら歩いてくる夜のシーンが、とくにCGの魅力をよく引き出している。このような夜の場面は、ぼくらの記憶にある肉眼では体験してはいても、フィルムに焼き込まれての再現はできず、スクリーンに映るものではないからだ。
 しかし逆説的には、映画を「つくる」こととは、なんと技術的な能力の集合であるかはメイキングを観ての苦笑、溜息である。

製作・公開 2005年:日本:93分
監督 小栗康平
出演 浅野忠信 坂田明 大久保鷹 夏蓮 登坂紘光
小栗康平オフィシャルサイト
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by past_light | 2007-06-02 03:58 | ■主に映画の話題 | Trackback(2) | Comments(0)

オール・アバウト・マイ・マザー

 ペドロ・アルモドバルという、舌を噛みそうで覚えられないスペインの映画監督の作品。
 ちょっとだけ噂は以前から聞いてはいたが、どういう作風なのかは想像できなかった。でもでもなるほど、ファンがいる理由はよくわかった。
 結論から言うと、とてもおもしろかった。アルモドバルさん、あなたは素敵だ。
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 女性が主人公で、けっこう男より逞しく感じるというのは、アクションなどではありがちだが、これは女性でしかあらわせない逞しさではないかと思う。
 しかも、程度の悪いアクションなどよりはるかに展開がスリリング。その映像の密度ありつつも軽妙なセンスとで、ワクワクさせる進行だから、扱われている「命」のテーマについて完全に煮詰めて理解されなくても充分楽しめるだろう。

 子供に対する愛情、と言葉にすれば陳腐だが、それはこの映画では男どもが想像し得ないくらいに深く、それは支配ではなく受容である、という真理に到達している。
 いわゆる、差別用語かもしれないと心配するのがばかばかしいが、「おかま」さんの深淵を垣間見せてもらえたような、これは同胞人間に対する「親愛」の薫り満ちて、気持ちのよい鑑賞だった。その役者さんがまた素晴らしいから説得力がある。
 ああ、かれらは「よろこばせたい、よろこんでほしい」のだと。

 世界は戦争や暴力の場面では「おとこ」ばかりが圧倒的に支配的だ。
 なんとなくも、おすぎが、「おとこ」「おんな」と発音するのかのごとくが腑に落ちた気がする。


 アルモドバルは、「生きることは、悲しみと喜び、そして受け入れてこその親愛により、こんなにもうつくしくなる」と男達に教えたいかのようだ。
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by past_light | 2007-05-23 20:03 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(11)

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