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「ゆれる」 監督・西川美和

 後味はいわばよくはない。それにはちゃんとした理由があるのだが。
 しかし脚本と監督、三十代の西川美和という人の力量は驚かされる。それにこの映画は役者がもっとも好むつくりなのではないかと思わされた。
 見終わればまず、兄役である香川照之が、ものすごいうまい役者だということが、彼の代表作の作品にもなるだろうということも思われる。香川の顔、背中、それにその身体から醸すような「むっ」とした演技は、最近あまり他の演技者では感じなかったほどレベルの高い表現だとおもう。主役のオダギリジョーも充分。その風貌、キャラクターに漂うイメージとしての存在が生きた感じだし、文句なしに巧い。
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 後味がよくないというのは、たぶんこの監督の持ち味にもなるのだろう。すっきりとエンディングを迎えるような作品はこの先も作らないんじゃないかななどと思わせる。
 設定も登場する人物群もさほど複雑じゃないし,むしろシンプルなのに、描かれる人間の心理は怪奇というほど複雑、曖昧で、それはたぶん観客が注意して観ればみるほど、かえって迷宮の様相になる。想像し,深読みすればするほど、いくらでも登場人物たちの内的なドラマは,観客にとっては繰り返しひっくり返るような、終わりのない不安に投げ込まれてしまう。

 以前、映画を知る前に、この映画の監督がテレビで受け答えしている番組を観ていて、「友人がなぜか人を殺してしまう」という悪夢を観て、それがベースで物語を構築したという話や、人が善人と悪人とに単純に分かれるということに対する疑念、むしろ一人の人間がはたして善人か悪人か決定づける物差しがあるのか、一人のなかに言わばジキルとハイド的に共存しているものが人間じゃないのか,などというふうな話をしていたので、この人の映画もやや想像した部分があったけれど、なるほどこんな風に彼女は描くのかと思った。
 人間の内部のアメーバ状の「ゆれる」世界を、硬質ともいえるような隙のない構成で構築する。そういう並外れた力には敬服する。その映像、カットも、ところどころ女性性の成せるとしか思えない独特なものがあるし、全体を見渡せば男性的ともいえるような輪郭を感じさせる。
またジャンルとしてもミステリー、サスペンスです、と単純に言えないような世界を作り出したことも賛辞されるだろう。

 人間、考えれば、終わらない謎が沈殿したまま生きていることはあるだろう。
 たとえを言えば、あのとき「こうして、こうした」と思い込んでいたが,何年も経ち、とつぜん「あのときぼくはこうしなかった」と思うと、どこに正しい答えを残しながら生きているのかなど、わけが解らなくなるものである。

(2006年の作品)
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by past_light | 2009-09-27 20:07 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

『おくりびと』

 昨年、話題をさらった映画。もうテレビで放映しちゃう。だんだんテンポ速くなりますね。
 海外でも評価されたのは、その対象となる多くの日本映画がやはり、その国柄独特の風土,風習が色濃く描かれていたものが目だつのだが、これは何処の国だろうと同じような関心事なのかもしれない。
 今村昌平の「姥捨て山」をテーマとしたものなどは、今となるとおとぎ話に近い話に思えるが,土着性のなかにあるあんがい人間の根本的な、シリアスなテーマ性を感じさせるので、そこに普遍性が隠れている。

 対して、『おくりびと』で描かれる、今もつづく納棺師というしごとの内容をよく知る人などもやはりほぼ稀だろう。主演の本木雅弘自身が、長く企画を温めていたという。原作にあたる「納棺夫日記」の作者、青木新門さんを何度も訪ねて映画化の許可をもらったという。
 が、シナリオ段階で、原作者としてのクレジットを拒否することになる青木さんは、「送られてきたシナリオを見るとね、親を思ったり、家族を思ったり、人間の死の尊厳について描かれているのは、伝わってきて、すばらしいんです。ただ、最後がヒューマニズム、人間中心主義で終わっている。私が強調した宗教とか永遠が描かれていない。着地点が違うから、では原作という文字をタイトルからはずしてくれって、身を引いたんです。」(2009年の毎日新聞)と述べている。
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 このはなしは意味深く、たしかにうなづくしかないものだ。
 しかし、「宗教と永遠を描く着地点」を描くとすれば、これは可能なのかどうか、また違う映画である必要もあったかもしれない。それでも映画「おくりびと」は、いままで描かれなかった「死」と「生」との交流を感じさせているものとは思える。

 舞台となる山形の地方のもつ独特の緩やかな時間感覚。少数の登場人物。派手な動きをすることもなく、ユーモアはあるものの、全体とても地味だ。
 それはもう一つの主役、死者たちの寝姿の存在が,生きてあるもとの均質にさえ感じられる。それは「死の尊厳」を感じさせ、映画全体が持つ静かな大気のなかのような清々しさでさえある。
「静謐」。この言葉は、この映画の感想にもよく使われているが、たぶんそれはこの映画で描かれた目に映るものとしての映像のより奥、その見えない領域を感じ取れた人が思わずにはいられない言葉でもあるだろう。
 経験的に、納棺された死者を見る度に、その「静謐」を感じる。
 生は喧噪と欲望と飾ることの楽園でもあるが、だれもが辿り着く死の静寂は、そこからは謎である。
  ぼくらが他者の死を見るとき、ぼくらの何もかもが終わるときの、すべてを脱ぎ捨て何も持てずにその静けさへ回帰することをおぼろに想像するのだが、やはりそれはどうしてもあくまで予感にとどまり、どこまでも謎だという方がふさわしい。

 納棺師として、死者を旅立たせるための丁寧な所作を行うときの主役の本木雅弘はすばらしい。この映画の性格そのものを集約した場面であるだろう。
 彼は劇中で、その死者を扱う仕事への多くの偏見,差別に会う。それは身近な妻からでさえだ。
 しかし、そのいざ納棺の場面に立ち合うことをとおし、どんな説明も必要のない価値を目の当たりにする。

 ぼくなどは個人的には葬式無用というか、お墓無用というか、ばちあたりものだが、それでもこの映画の納棺師が、死者の旅立ちの準備をさせるその行為のなかの意味はとても尊い美しいものだと感じる。身近な死者と生きて見送るものとが互いの気持ちを確認するための時間なのだ。
 映画の終わりのエピソードになる、子供のころ忘れた父親の「顔」が浮かび上がるシーンは、この映画が最後となった峰岸さんの、なんともいえない穏やかな表情。今になると、胸が熱くなる奇跡的な画面。

滝田洋二郎・監督 2008年
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by past_light | 2009-09-23 18:41 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(9)

「硫黄島からの手紙」 監督・クリント・イーストウッド

クリント・イーストウッド自身が半ば冗談めかして「日本映画のつもり」と言うのも、半ば本気ということだろうと思う。なぜこのように戦争を描いた日本映画が日本自身でつくれないのか、と考えさせるものだった。
内容には日本とアメリカと、どちらが正いか、というような愚かな視点はもちろん無いし、日本でさえこれほどフェアに描けるのか疑問を持つ。作者自身、戦場とは、善悪、敵味方に白黒の判定をつけるような単純な世界などないことをよくよく感じているということだ。
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映画は徹底して戦場での「人間」の状態を見つめる。とくに極限の状態での人間の姿を描いた映画では「野火」もそうだが、敵味方という立ち位置を超えて人間が描かれるものとしては「戦場のメリークリスマス」も忘れられない。どちらも原作が相当に優れたものとして存在する。
戦争もの、ということで合わせて思えば、優れたものというのは、戦場における非日常の状況の中で、露になる個としての人間性の様相を描いているかどうかだ。

(この映画ではたとえば、青年が憲兵になり、同行する上官が、ある家の犬を「通信のさまげになる」から「射殺しろ」という命令に、銃声だけを聞かせ犬を射殺したふりをしてその場を救おうとするエピソードがあり,米兵捕虜に治療を受けさせ、語りかける日本の隊長もいる。ひるがえって、上からの命令も無視し勝手に部下に自爆して死 ぬよう強要する隊長もいるし,日本の投降兵を遊びのように射殺する米兵もいる)

普段の日常においては曖昧にぼんやりとし、あからさまには浮き上がる事の無い人間精神の基底に沈む闇、隠れた深部が、容器の底の沈殿物をかき回すと上澄みに表れるよう、いわば仏教でいうような、餓鬼、阿修羅、そんな精神のヒエラルキーが、そもそも地上の人間の精神の中のことをあらわしたものとよくよく感じられる。そんな場面が戦場では出現し、コントラストを持って白日に暴露される。

「人間の検証」とは事の後では遅すぎるのではないかと思われる。
いったん状況が極限に追込まれたときのそういった人間を真に想像できる者は、甘美的な、あるいは脅迫的な言葉を並べて他者を地獄へ煽動することはないだろう。しかしいざ煽動される側も、普段の自らの精神の闇には注視することなく、偽物を偽物と気づかず、外部の価値観に翻弄された習慣の延長に、もしや地獄はあることを肝に銘じなくてはならないのだろう。
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by past_light | 2009-09-12 21:19 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(7)

上映終了後のエレベーター

ぼくは,昔、八ミリ映画をつくったことがあり、ほとんど一行づつの短いアイデアの羅列なのだが、巨匠たちの映画から感銘を受けたショットの記憶が書いてあるメモがある。たとえば・・。

・転がるボールをパンフォロー
・市川崑の早いカット、音声先行、間の抜けてぽかんとした表情・・
・勘違いだが,「それから」の見事な藤谷美和子の手の動作・・
・森の中へ消えるブニュエルの放浪者・・現われる別のふたり組・・
・スローモーションでの水の落下ショット
・雨の中のふたりのアップ,雨が美しい・・
・「急速なパンは赤に対しては効果的だが,くすんだ緑などに対しては効果的ではない。・・新たなコントラストを作り出すものでない限り・・。」(アントニオーニ)

・・などなど読んでいると、映画が好きってことは,一見どうでもいいような、なんでもないシーンに惹き付けられるものである。
中に,できたら映してみたいようなアイデアがあり,「アスファルトに列をなして生えている耳」なんてシュールなものもある。
が、ストーリーの事はほとんどメモがない。

結局つくった映画には、存在を忘れてほとんど参考にしなかったメモだが、いくつかは頭の中に残っていたらしくてそれらしきシーンをつくっている。
それで、ああ、この情景はいつかあったことだったと思いだしたエピソード。


「映画館で,上映が終わり、帰りの下りエレベーター。
後ろ座席にいたふたりの女の子も同乗してくる。
さらにエレベーターの箱の後ろから、ぼくには同乗しているみんなが見える。
幾人かの男たちがむずかしい顔をして沈思黙考している。あきらかに映画の余韻に内省しているのだ。
エレベーターの中はしーんとしている。
ふたりの女の子は「くすくす」と顔を見合わせて笑う。
一人の女の子が「はーっ」とため息をつき,「あー疲れた」と声を出す。
もうひとりが肩をすぼめ、くすくす笑いながらうなづく。
突然大きな声で「ね、●●のケーキ買って帰ろー」「そーねー」とふたり突然元気になる。

エレベーター、着地し、「チン」と鳴り、扉が開く。
正面には、これからの鑑賞を心待ちにしての期待に満ちた映画青年とおじさんたちの顔」

これナンの映画だったんだろうー・・。
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by past_light | 2009-08-01 20:18 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(42)

『河童のクゥと夏休み』原恵一監督

きっと、なんとなく子どもにねだられて、映画館に着いていったお父さんとかお母さんとか、子どものアニメ映画だし昼寝でもしとこう。なんて思っていたら、なんだかこりゃ大人の映画かと思って、びっくりして、引き込まれて、突如涙が出て来て困ったなんて経験をされたんじゃないか。逆にそんな感性が鈍っていたら要注意かもしれない。

このアニメ映画は二年ほど前にキネマ旬報のベストテンの5位に入っていて、なんだか気になっていたのだけど、テレビで放映されたので、最初の15分ぐらいを見逃したけれど、そこから録画して観てみた。

絵のタッチとか、あまり好きな部類じゃないと思いつつも、人物の、特に子どもの移り変わる表情の変化など、こと細かく演出しているのに感心した。そしてリアルということを改めて思い直した。
物語は江戸時代から化石化したようにして、ひよんなことから少年にこの時代に救われ、目を覚ました河童の子どもと少年とその家族の話からはじまり、少年の学校のいじめとかシカトとか、少年と河童クゥの遠野への仲間探しの夏休みの旅とか、どこへ行っても人ばかり、という動物もため息出そうな閉塞感など。
そしてやがて河童のクゥと家族がマスコミに翻弄されたり、といった話が展開する。
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河童のクゥと少年とその家族構成とか、ETによく似ているが、過大なアクションシーンなどで盛り上げることはなく、展開する話はけっこう現在の社会のリアルな匂いがつよくて、作者の意外に大人の批評的な目線が、ことにマスコミ騒動などの場面では辛辣である。
それがすごくリアルだというのは、話の持って行き方というより、そこに登場する人物たちの一挙一動をみごとに捕らえた場面などの積み重ね、そして作者の透けて見えるシニカルな視線が感じさせるものだろう。

もちろん作者は、善なる人、子どもの一挙一動の細かな表情や動作の変化を、アニメという世界のなかで、むしろ実写では演技者が現すのがとてもハイレベルな次元でしか成立しないかもしれないことを、ていねいに見せている。
そういう細部があるからこのアニメ映画がとてもリアルな物語に感じられるのだろう。

例を挙げると、家族がテレビ出演中の、司会側のアシスタントよろしくな女性タレントのリアクション。もうまったく周りが見えていないって、こういうシーン。意外にかくれてるけれどあるなあ、と思うところなど。タレントはリアクションの自己演出に夢中で河童のクゥの前を行き来したりして足を踏みそうになるような場面でクゥがびっくりしている表情が映されたりする。
それから、いじめられたりシカトされたりしていたクラスの少女と、少年との対話のシーンなどはとくに見応えがある。子どもの心の奥底の鬱屈した感情、いったん子どもが心を開いたときの清々しさ、少女が「話ししてくれてありがとう」と突如泣きじゃくる場面は、むしろ大人にこそ痛切である。

アニメにはめずらしく130分を超える長さだが、作者がそれでもやむなく切ったシーンを想像させられる。
背景は実写でもなかなかこんなに美しく撮るのは難しいというほど丁寧に描き込まれている。
どうせリアルというなら「実写にしては」と思う人もいるかも知れないけれど、河童のクゥという存在や、現代では住処を追われた異界の生き者たちを作り物とCGで描くとかえってそれから遠ざかるだろう。それに飼い犬の活躍とか全体を見渡すと、アニメという世界の持つ表現が、現実とファンタジーを融合し内面の世界を具象化する手段としての可能性を、これもまた宮崎ジブリの世界とはやや違う形で伝えられるのではないかと思ったりする。
130分余りを見終えた頃には、クゥとの再会を切望するような自分がいる。

監督は『映画・クレヨンしんちゃん』シリーズですでに絶大な人気というとだが、ぜひここはピテーエー推薦とかハンコ押してあげてほしい。
映画のオフィシャルホームページ
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by past_light | 2009-06-19 16:46 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

「はい」、という返事、ドラマ「ありふれた奇跡」

山田さんの例のドラマ、最終回でした。(フジテレビ  ドラマ 「ありふれた奇跡」脚本・山田太一)

期待どおりというか、さわやかにハピーエンド。
ふりかえると、隅々に現代の日常にそっと隠されたかのようなテーマがあやとりのように絡まっている話だ。
設定は現実的なのに、そうとうファンタジックな展開になる、といってもいい話の流れのなかで。

といっても、へたな芝居のような深刻さがないのがいい。
大げさなメッセージはないといってよく、それらは視聴者へバトンタッチされるかのようなもので押付けがない。
登場人物たちそれぞれのように、人はいろいろありでもよくて、たとえば女装を楽しむオヤジさんたちのように、「いくらか隠し事があってよい」という「解決」であってもよいのだ。
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山田さんは、最終回になるとかならずみんなを集めて、気持を分ち合うかのシーンがある。見る人によっては、虫のよい纏め方にも感じるかも知れない。
それは山田さんが、ほんとうにやさしい、ということなんだろうなと思う。
登場してくれた人物にたいする眼差し、そして見届ける視聴者の、たぶん眼差しを信頼しているためでもあるだろうか。

リアル、あるいはドラマチックということに拘れば、きっともっと別の選択もある。若年層を念頭に置くような衝撃的な展開だってもっと作りえるだろう。しかし、「リアル」「現実」とはなんだろうか、と思わせてくれるような、山田太一の特色というものがそこにある。

それがたぶん、この人の脚本を好きじゃないというだろう人の、ツボにハマる台詞の、その特徴的なやりとりのなかにあるのかもしれない。それは今回は非常に挑戦的にさえ感じられるほど。

山田さんの、しつこいと思われてもいい、とでも決意したかのような台詞の数々に、きっとこれは譲れなかったものなんだというように感じる。

役者が話す、聴いている相手はかならず「はい」、あるいは「うん」と相づちを打つ。ふたりで聴いているとしたら、どちらかが「ハイ」と言い、交代で言うことも多い。複数、何人かでの場面では、誰かがかならず「ハイ」と返事する。
そうやって、話している人は安心して話を続けられる。

このドラマでは、そういう「聴く」という姿、目の前の相手にちゃんと向合う。という人の姿がある。
それは言ってみれば現代のぼくら日常のなかで、登場人物たちその対話の場面が、たとえば「ファンタジー」と映ってしまうかのような、そんな現代社会に生きているのか、、、という自省の念さえにつながる。
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by past_light | 2009-03-20 01:22 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

若毛のイタリアン

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「ものすご下品ね」
「はい。二十歳ぐらいでしたか、これミニコミにコピーして好評だった」
「好評 !」
「映画観たやつが、言い当ててるよ、と言ってた」
「それであなたもそう思ったのね」
「いいや、観てませんでした。のちに感動しました。好きな映画です」
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by past_light | 2008-06-23 03:06 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)

裏から廻ってくださいな

 成瀬巳喜男の未見の映画が3本テレビで放映されていたので録画した。
 観ていて、テレビというものの存在がなかった時代、またまだ普及はしていなかった時代ということもあるが、題材は、家族や近い人間関係の中で日常巻き起こるドラマ。丁寧に、とても緻密に描かれているものばかり。
b0019960_18423646.jpg それは小津安二郎も同じ部類だが、小津の映画の多くの場合は、家族間のことに終始し徹底した印象がある。
 成瀬の特色は一方に男女の「愛」に執拗に迫ったものが多いと感じられた。
 その筆頭は「浮雲」だろう。

 成瀬は、「小津はふたりいらない」と松竹を追われた、と本などには書かれている。 小津作品同様、原節子さんもよく出演している。「めし」「山の音」など、これらがいちばん印象的。
 しかし成瀬作品ではなんといっても高峰秀子さん。「浮雲」ほか多くの作品がある。16才ぐらいの出演作「秀子の車掌さん」などのスナップ写真を見ると、こんな可愛い顔、いまの日本で見ることはできない。なんていいたくなるほど。
 杉村春子さんも傍役が多いが出てくると存在感ある人だ。むっつり顔も印象的だが、ニコニコしている顔もすごく味がある。演技の幅広さハイブローな人。

b0019960_18431838.jpg この時代の女優はものすごいプロ意識。
 高峰秀子さんの銀幕での印象と、彼女がインタビューなどに答えている言葉を読んでいると、その印象のギャップにいわば戸惑う。高峰さんは、クールでわりとそっけない。
 「ないですねぇ・・」で始まる受け答えが多い(笑)。

 この度観た三本には、戦後、価値観の激変する時代の農村の家族間の軋轢や、女の自我、自立、自由などが、なんだか今の時代から見てしても、かえって進歩的に見えたり、恋愛にしても結構大胆、その先鋭的なこと。なんとも新鮮でもあり、意外に驚くほど。

 古い価値観がどんどんと新しい世代の新しい価値観に追いやられていく。価値観の大きな変動期、その中で日本の老いたる人と若い人が、どんなふうに対立したり和解したりしていたかがとても興味深くて面白い。それから日本家屋って、けっこうなエロティシズムがあるんですよね。
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「裏から廻ってくださいな」

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by past_light | 2008-05-24 20:15 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)

オリバー・ツイストとポランスキー

 過去にも映画化されているが、ポランスキーがなぜ自らの一本に選んだのか、観るまでは不思議な思いだったけれど、観終ってなるほどの必然性を感じた。

 しかも、この映画は「戦場のピアニスト」の後、同じスタッフで挑まれている。
ロンドンの素晴らしく再現されたクラシックな街の陰影の映像を観てもそれは納得できるが、むしろたぶん、「オリバー・ツイスト 」のディケンズ原作にあるだろう込められた思いが、きっとポランスキーを捕らえたまま、以前より映画化をあたためていたのではないかと思われるものだった。
 過酷な運命に翻弄されてなお、生き延びる、その偶然と境のつかない幸運、そして生き残ったもの、死んでいく者の不条理。

 五木寛之さんのエッセイの中に、戦後、外地から日本へたどり着くまでに味わった少年の目に刻み込まれた、生き残った者と死んでいった者との、ある説明できない明暗の対比。それは---生き残った者は、どこかで死んでいった人を見捨て、ある場合はその死をさえ利用しなければならなかったような体験---の痛切な記憶に繋がるようなおなじ傷を、ナチ占領下のユダヤ人居住区の暮しを体験しているポランスキーも内面に刻み込んでいるという想像も間違いとは言えないだろう。
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 ただ従順であり無力である少年。粗暴な悪意にも羊のように縄をかけられて翻弄されるオリバーが、「どうか盗みをさせないでください」と懇願するほか、わずかな抵抗も見せない姿は、波乱万丈、立身出世の強さを身に付けていく主人公としてのヒロイズムなどとは、まるで到底隔たった存在だろう。
 むしろ善意の助け人の紳士が、「あの子になにかを感じたかい」と家政婦にも聞かずにはいられなかったものはなにか、と思いを巡らさなくてはいけないだろう。

 そして物語「オリバー・ツイスト」の普遍性とはなにか。
 それはその物語の終りにある、いくつもの鍵で厳重に囚われた絞首刑を待つ老人フェイギンとの面会、再会のエピソードに、物語の言いがたき深い思いが染み込んでいるようなシーンに、名作としての理由が、およそ八割方あるのではないかとすら思う。

 老後をひたすら心配して盗んだ財宝を溜め込んでいた老人フェイギン。
 「覚えているか、あれはお前にやる」と言う。
 絞首刑を前にして錯乱していく精神が痛々しい。

 以前フェイギンは、銃で撃たれたときのオリバーの傷の痛む腕に、「そんな痛みに効く、先祖代々から使って来た薬がある」とオリバーの腕に薬を擦り込んでやるエピソードがある。オリバーは、その「悪党」に「親切にしてくれた」と涙を流す。
 思いだすのは、その薬がどのくらい昔から受け継がれて来たか、フェイギンが独り言を続ける場面だった。
 「そうどのくらいだって、どのくらいかわからないほどさ・・」。
 「善」とは、しかし確かにどれくらい昔からかわからないが存在する。フェイギンにも。

 「絞首刑になる私を乗り越えていくんだ」

 オリバーは跪いて、フェイギンに「どうか許してください、一緒に祈ってください」と泣く。

 幸運に生き延びる者、罰せられて死にゆく者、我々は薄い運命の一枚で隣りあった羊たちだ。

〔製作・監督〕ロマン・ポランスキー
〔原作〕チャールズ・ディケンズ
〔脚本〕ロナルド・ハーウッド
〔撮影〕パヴェウ・エデルマン
〔音楽〕レイチェル・ポートマン
〔出演〕バーニー・クラーク、ベン・キングズレー、ジェイミー・フォアマン 
(2005年・フランス/イギリス/チェコ)
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by past_light | 2008-04-28 21:34 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

風の丘を越えて<西便制>について覚え書き

風の丘を越えて<西便制> (1994年 韓国)
監督: イム・グォンテク(林權澤)  原題: SOPYONJE (西便制)

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 興味深いことに、この映画で、たとえようもなく胸を打つ、パンソリという芸能にこめられたものに見られるように、きっと世界の多くの芸能などの、シャーマニズム的な面と言うのは、こういうことを言うのだなあと目を開かされる思いだった。

 以前読んだことのある、チベット仏教のある派の本の中にも共通するような話があった。

 たとえば、ぼくらは内から起こるどうしようもないような否定的な感情といわれる、怒り、恨み、悲しみ、など、ふだん常識的、分別的には、「否定的」とスタンプされてしまう、そのような感情を、実際のところ、肯、否定抜きに、よくよく見たことがあるか。ということだ。言い換えるとよく味わった試しがあるのか。というようなことだ。

 よく見る、とか味わう、というのはそういう感情に「浸る」、とか、感情にふりまわされることによって外へ向かう行動を取る、というような意味ではない。また、そのような感情を忌み嫌ったり、単に抑圧する、また罪深いと思ったりするという方向へ向かうことでもない。わき起るその感情の出所からして、その「実物」を「よく見る、味わう」ということを言うのだ。すると、それはぼくらが慣れ親しんだ「もの」なのか。

 #映画のあらすじについてはこちらへ
 下記の本を読んでいて、十年ぐらい前に観たこの映画が、「なぜ」感動的だったかに思い当る気がした。
 貴重な記事なのでメモしておきます。


--------------以下は「神秘学入門」高橋巌著・「恨の美」の章より、部分的に抜粋。

「恨(ハン)」
(韓国の美学用語。朝鮮民族の詩、民謡、パンソリ(太鼓の伴奏で長い物語を演唱する
芸能)の主題をなす「情」の表現。)

 深い困窮を体験させられた朝鮮民族は、その苦悩、怨恨をはらすために、外へ向かわず、むしろ自己の内部に沈み込んで、一種の感情の和解に達しようとします。

 「恨(ハン)」を粘り強く、「恨(ハン)」を内的に深めることで、明るい生の地平を拓くところに、「恨(ハン)」の美を見ようとする。
 この体験は韓国語で「サキタ」(いい味に糖化、発酵させる)という動詞で表現できるようなプロセスである。
 「暗い、否定的な感情と粘り強く取り組み、それを鎮め、浄化し、新しい価値体系へと発酵させて行く」絶え間ないプロセスである。

 このプロセスは二元対立的ではなく、一元的、連続的なプロセスである。

 たとえば、同じ「恨(ハン)」でも、ニーチェの「道徳の系譜」におけるルサンチマン(怨恨)は、弱者が強者に対して、想像上の復讐によって埋め合わせをつけようとする。
 支配者ローマに抑圧された奴隷としてのイスラエル民族は、ルサンチマンを営々と主張できないので、その代りに正反対の「愛」を主張して、支配者を無力化しようとする。ルサンチマンから愛へのこの転化は、ヨーロッパ的、二元論であるのに対して「恨(ハン)」における価値の転化は、一元論的に、絶え間ない自己の浄化作用に向かう。

 韓国においては、この自己浄化のための契機として「モッ」(風雅)と「スルキ」(ゆとり)が文化伝統として伝えられているのですが、特にパンソリにおいては「モッ」の代りに「シキムセ」という言葉を用いる。「シキムセ」は、パンソリの唱者が「長い修練の過程で、調べが良く熱し、高い「モッ」を表現できるようになったときの表現能力」のことだが、この言葉は「サキタ」に由来する。たとえば、「誰それのパンソリには、シキセムが付いた」と言うような言い方をして円熟した芸をほめる。

 西便制派はパンソリ派の名前で、東便制の正統的な歌唱と異なり、「恨(ハン)」の感情をより深く歌い上げるという一派。-----------------以上



映画の中で、父ユボンが残した言葉は、「恨に埋もれず、恨を越えろ」である。

「彼ら(主人公)は、誰かに自分の存在を知ってもらうことを望んで芸の道を歩んでいる人達ではありません。実に、彼らは、生と死を無限に拡張させながら、その中で多義的かつ多様な宇宙を作り出す人達なのです。彼らは、世の中の秩序の中に生きながら“恨”を抱き、そして、その“恨”を受け止めながら、より大きな宇宙の秩序を作り出します。それこそが、世の中に対する憎悪から許しを学ぶ方法なのです」(イム・グォンテク)

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by past_light | 2008-03-09 20:47 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

過去と現在、記憶のコラム。関連ありなTBはラヴリー。リンクはフリー。コメントはブラボー。


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