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ベルイマンの「叫びとささやき」から、いろいろ久しぶりに思って散漫に書いてみました

数十年ぶりベルイマンの「叫びとささやき」を観る。19世紀の医療限界もあり末期がんの痛みを演じる迫力は圧倒。 至福感は一瞬の中にしかない。という言葉にするとアホみたいな種に到達。生き物を苦しめ余裕噛ましてる偽善的な人生は、地獄へ至るというトーデンとケーザイカイへの警告的内容(笑)  (9/4ツイート)

 ツイッターの方では、原発の事故以来の関連情報の海外からも含め絶えない状態が未だに続きます。
 かたやTVなどではほとんど核心的な情報が流れないようになっています。
 地震と原発事故後半年、政界のニュースなどでは自民党時代から続いた国の姿がまるで繰り返す安心のように、かのマスコミもしがみ付きたいのかと思うように、なんとも緊急性のない薄められた現実に麻痺感漂う顔があります。
 内に賑やかな報道もお祭りのように過ぎて、首相もどじょう救いの竜ちゃんに変わりました。が、ともあれ辞め立てほやほやの菅さんが、自らの吐露する原発事故後の経緯記事や、TVでの暴露ハシナが出てきました。官邸にいた人も発言し始めましたが、役職の間はずいぶん言えないことが多いのだろうと思われます。
 が、それらはツイッターなどではかなり以前より流れて知ることのできた情報ですが、お茶の間で流れるマスコミに触れるだけでは、ほぼ初耳という人も多いだろうと思います。

 事故の直後、少なくとも「キレ菅」などと悪意的に揶揄されてしか伝われなかったような東電への総理の殴り込み、「撤退したら東電も東日本も終わる」と威嚇して来たのはかなり大事な役目だったわけです。
 東電は言わば自らおこした大事故に怯み退散しようとしていた。つまり後始末を政府に丸投げするつもりだったということ。運営し専門的な作業に従事し、責任当事者で当然最も原発の内部を知るはずの東電が逃げて放置したらどんなことになっていただろうか。

 そんなことすら充分に伝えないマスコミというのはなぜ・なんなんでしょう。日本の半分近くの大地から、むろん首都も含め、当分人の住む環境でなくなる事態が起こりえていた。
 事故直後、建屋の屋根の吹き飛んだ原子炉に、自衛隊のヘリのデモンストレーション的な空からの放水は、その効果は焼け石に水であることは承知の上でした。
 あれは諸外国、ことにアメリカに「本気」度を見せて収束への意志を見せるためだったことは、その後報道もされたが冷静に考えればうなずけることでした。
 つまり福島第一の原発事故とは、国土と国民にとって相当な危機だったわけですが、一部の記者などが発信し過激と排除されたその情報は、数ヶ月して後々になぞられるように発表される。パニックを怖がった、確かにその内容は事故直後と比較すれば衝撃が薄められる時期を狙ったものだと思えます。しかし遅くてはいけなかった情報も含められてしまい、不必要な被曝をしてしまった住民が居たのだから、冷静な対応をしていたと言えない国の姿があります。
 事故の状況は一進一退しながら、やがて土壌の汚染や食物への心配と拡大したか変化しながら、このところ話題も少なくなって来たようなマスコミですが、実のところ炉心溶融から地下へ落ち始めているのではないか、という心配は続いています。
 現実的には事故の状態の全貌は誰も見ていないということ、いや人が肉眼で確認できる場所では未だないわけです。

 その日突然断ち切られた日常から、はるかに違う場所にいる人たちもいる。
 しかし、そして免れたかのぼくらの日常は、からくもたしかに続いている。それがどうのといっても、ふたたび天変地異かなにかが足元で呻けば、それもまた途切れるだろうことは暗黙の覚悟。ならと、ことさら嘆いて暮らすのも精神には無理なのかもしれない。

「放射能が降っています。静かな夜です」 「明けない夜はない」 和合亮一 (福島の詩人のツイート)
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 ベルイマンの「叫びとささやき」から、いろいろ久しぶりに思って散漫に書いてみました。

 最初に観たのは20代前半。たぶん岩波ホールでの封切りだから懐かしいにもほどがあるのですが。当時、ヨーロッパ映画3本立てあたりの何かの伴映。ハイコントラストモノクロの心理戦、「ペルソナ」に出逢ってからベルイマンに心酔を始め、それからしばらくして観て、それも決定的になったきっかけの、当時新作の映画という記憶が「叫びとささやき」だ。

 この頃の岩波ホールとは、インドのサタジット・レイ、ブニュエル、ベルイマン・・と、今ではミニシアターというメディアで上映されるしかない、海外の映画との出会いの機会を日本ではまっさきに提供した。少数派の観客に向けた映画の唯一の封切りの場所ということだったような感じ。

 そしてベルイマンも集中して上映された時期があった。
 とうてい大劇場には不釣り合いな、小さな教会で観るにすらふさわしいかの、例によって牧師が信仰の内省的な苦難を曝す「冬の光」とか。神という位置と人間の地上における地団駄。
 当時それは日本人若輩者の、正直言えば掴みどころのない内容の、北欧のキリスト教的背景の精神の葛藤。ロマンとか恋愛とか、若者の青春のテーマからすると、距離があきらかに感じられた。
 しかし人間の精神の空間に複雑にもつれて、一筋縄で答えを括れず、墜ちた地球のエデンに放置されたアダムとイブの苦悩には、ただ呆気にとられもすれ不思議に圧倒もされるものだった。
 それはやはりある程度今でも、テーマに内在するものにはぼくは距離を持つ者ではある。しかし人の「自我」の姿の裏も表も、厳密に照らし出そうとすれば、夏目漱石が唸りそうな人物たちにある種の親近感を禁じ得ない愛おしさがあるのも変わらない。
 突詰めれば、人が自我の牢獄を自覚しながらに、自由になることなど叶わずに捕われたまま、その狭い空間の矛盾の中で右往左往した人間を演じることの辛さを、濃密に人格にしたとすれば彼や彼女の叫びとささやきになる。

 ベルイマンとは徹底して同じテーマで動いていた人だと思う。
 「処女の泉」などでは無垢で清廉な少女が苦難と不条理に殺される。当時はかなりショッキングな内容と描き方だが、それが神話的に高められる。神の存在、不在の答えも、人間の悪事や良心の中でしか描くことのできない宿命から、飛躍するように奇跡という手法が映画の力で持ちこまれる。そのことでかろうじて救いが完結するが、映画には不思議な感情がのこる。

「叫びとささやき」はベルイマンにしては後期の入り口なんだろうか。
 僕の十代後半からしばらくというものは、「男と女」のルルーシュなんかのブームもあり、フランス映画なども年に何本も上映されていたし、イタリア、イギリス、つまり商業的興行にしてもヨーロッパ映画もかなりの数を持っていたと思う。
 やがてアメリカ映画が日本を席巻してしまう時期が来るが、そんなころやっと上映されたものは「ファニーとアレクサンデル」あたりか。

 話をもどして。「叫びとささやき」を改めて以前録画していたビデオではあるが見直していると、当時より怖さが増して感じられた。それは「死」に対しての内的な距離というようなものが接近した年齢のせいもあるのかなと思いつつだったが。

 三人姉妹の埋めがたく取り繕う精神の距離、真実の冷え冷えした関係。メイドであるアンナの無垢と無防備の母性が、唯一体温を感じさせる人物像で、地上での神聖を体現する。死のベッドから呼ばれる残った姉妹とアンナのプロット、「これは夢よ」「あなたには夢でも私には意味があるの」これは超現実的手法を上質に用いるベルイマンの素晴らしい表現であり、またそれゆえいかなるホラーより怖いものになっている。

 自我の牢獄に隔離され、イノセントの出口のない人間。内に外に誤魔化し、我が儘に愛を求め、また求められ拒否する、他者との関係の絶望的な様相。さらけ出されて直視せざるを得ない醜悪さに満ちた芝居の日々のなんと地獄なんだか。
 ここに登場する人物の描かれ方の、底意地の悪さと言えばまた愚直すぎる表現にしかならないが、ベルイマン自身の精神とは、どうにも強靭なのか。夏目漱石の病理をはるかに凌駕して映画に登場する人物は底なしに苦悩しているように思われる。

 「金持ちが天国へいくのは、らくだが針の穴を通るより難しい」という言葉があるが、言わば知に長けていようと、利己的、自己中心的な精神とは、それそのものが自らの牢獄なのだが、人はその場にただ縛られることを選び螺旋に繋がれた犬のように動くだけだ。
 アンナに象徴される母性の、すべてを受容する無垢な精神だけが本当には神の方にあり、観念の神には不在であることをベルイマンは表現しているように思える。

 実はベルイマンとは難解とは言えないシンプルなことを表現し続けたと思われます。
 それはこの「叫びとささやき」では、映画の終わりに誰でもわかるように伝えられている。死んだ次女の日記の中に書かれた、病状の良い清々しい午後、姉妹たちが見舞いに訪れて、久しぶりみんなで庭園を散歩する記述にあります。

「愛する人たちがここにいる。このとき私は、この一瞬に幸せはあるのだと悟った。私は人生に感謝した」
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by past_light | 2011-09-07 17:51 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(6)

「父と暮らせば」 黒木和雄監督

井上ひさしという人の力も、この原作・戯曲のすごさも、あらためて知らされたような気がする。
それが背景にあり生まれたとしても、やはり映画としても素晴らしい作品。
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この映画を観ていても、舞台劇としてもきっと素晴らしいものだろうと確信される。
親子二人の広島弁による対話が美しく、しかも深いやりとりばかりで、胸が熱く詰まる。
静謐な背景,場面、静かに映される映像が控えめだからこそ、主題が深く内省的に我々に届く気がする。

黒木監督は映画化を井上さんにお願いするにあたり、映画になれば、「世界に観てもらえる」と快諾を得たそうだ。
それはできあがったこの映画を観て納得されたことだろうと思う。

ぼくとしては、今、現在として、観ていて思わないでいられなかったのだが、原爆と原発を同列に話すと笑う人々がいると思う。が、あえて置き換えても自然と思われるのではないかと感じた。
生物として、人として,命ということを考えれば、むしろつながりを感じての反応は正常ではないかと。

それを、恐ろしさを、肚に真に感じた者、経験したその後の人間の誠実な精神の反応は、この親子ときっと同じだと思う。過去の話ではなく、我々自身に常に問いかけられている命の核心に触れるものだ。

素晴らしい脚本を得た配役としての、宮沢りえも、故・原田芳雄も、代表作になるしかないと身震いの出る濃密な時間だった。
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by past_light | 2011-08-29 03:15 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

「天然コケッコー」 監督:山下敦弘

 原作のことも知らず鑑賞した者としては、比較する理由もないので、ひたすら一編の映画として観る。
 まだ少年と少女たち、年下の子供たちと席を並べての田舎の学校生活。その来ては去る四季、自然と共にあることの恩恵、そこに日々彩られていく物語。それは実に楽しくさわやかな情緒を残して記憶されていく映画ということにつきるだろう。
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 今更ながら言いたくなる、都市生活で得られることの叶わない、季節とともに移り変わりゆく住民たちの出来事、そこに暮らす人たちのスローペースな心模様、ぼくらがそれをじっくり味わいつつ、人が毎日なにげなく生活することの贅沢をも思い出させもする。

 設定や題材としては、それほど新しいとか斬新とか、そんな部類ではないのだ。が、主人公の少女のナチュラルな存在感が、切ないほど観客の胸に寄り添ってくる。彼女が周りの愛すべき人たちと共に生活する時間のかけがえなさ、愛しさと懐かしさ。それに初恋の記憶のようにぼくらが熱く思いを辿るのは、少女のその等身大の視線が、普遍的にぼくらの心の内奥にある故郷としているものに通じているからである。
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by past_light | 2010-06-02 00:55 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「街のあかり」 アキ・カウリスマキ

最近、観た映画の感想を書くのも、ずいぶん時間が経ってからになってしまった。
今年観た映画は少ないが、昨年の後半は少しふだんより多めに観ていたのだけど、この作品もその中の一本。
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前作でカンヌの賞をとってからにしては、この「街のあかり」の評判が地味な印象で期待と不安があった。
しかし、正直実に深い味わいと感動を持って観終えることになった。まったくカウリスマキはここまで来てしまったのか、次回作つくるだろうか、というような杞憂を想起させるものだった。敗者三部作完結という予告もあったというだけではなく。

敗者という意味ではしかし、彼の映画で登場する人物が徹底的に敗れた場所はシステムの中でだけである。
カウリスマキは、もう一度「マッチ工場の少女」の底なしの孤独と敗北感から始める必要があったのだろうか。
 彼自身その後の「浮き雲」の幸福な結末の理由を、制作時のソーシャル的な必要性として述べている。実は彼自身はハピーエンドをいつも望まない人なのだ。

登場する人物の、幸運とはほど遠い出来事と彼ら自身の選択は、なにか剥き出しにされた人間という生物が、物理的に拠り所のない、誤魔化しの効かない領域で、互いぎりぎりからの真の連帯感を見いだす。その通過儀礼の如きドラマである。
 そしてそれはそのままカウリスマキの内面の声として映画から聴こえて来るものだ。

 『俺の女房は「芸術とは単純化だ」という意見でね。これが正しいかどうか知らないけど、俺はちゃんと守っているからね。だって、いろいろのガラクタで飾りたくったら肝心なものがどれかわからなくなるだろう?
 俺の場合はそれは「連帯感」というやつさ』 (カウリスマキ)


★ヘルシンキからカウリスマキファンに愛を込めて
★シネアートのカウリスマキ特集ページ
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by past_light | 2010-05-30 16:28 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「らくだの涙」

以前「天空の草原のナンサ」でモンゴルの遊牧民の家族の日々を描いた監督の最初の作品。驚くことにこれが卒業制作の映画ということ。
過酷なゴビ砂漠での辛抱強い撮影の期間が想像される。

「天空の草原のナンサ」も、ドキュメンタリーとドラマをすごくうまく融合していて、ドラマと言っても作為的な作り事ではなく、結果、家族のそのままの日常が納められるという独特な感じだったけれど、この「らくだの涙」も同じように作られている。

「天空・・」以上に、遊牧民の家族同様、「らくだ」という動物がもうひとつの大事な主役なので、それは撮影の機会をひたすら待つという、作り手の忍耐が感じられる画面でもある。

撮影隊の一番の苦労は、難産の末の出産し、なぜか育児拒否した母らくだと、その後の子らくだの行く末。その母らくだをなだめたり、子らくだの子育てに家族も四苦八苦していく日々、そして治癒までをそのままに追う撮影。
とはいっても、当の映画の中の家族は、ゆったり、のんびりしているようで、なんとなく観ているこちらが日頃から性急で心配性なかなしい現代病のように感じたりする(笑)。

難産の末に生まれた、白い子らくだの砂嵐の中の姿が切ないが、それらの日々にあるも、家族のテントの向こうに広がる風景が圧倒的に美しい。

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家族は、母らくだの育児拒否の心を癒すため、街まで馬頭琴の演奏家を探しに男の子兄弟を送り出す。
数日後、家族のもとへ着いた演奏家が、伝統的な治療法である民族独特の儀式を施す。

それは今で言う「音楽療法」というか、なのだけれど、それは音楽の根源的な力を見せつけられる奇跡のような画面が出現する。まず、馬頭琴をラクダのこぶに掛けると、母ラクダの泣き声にその馬頭琴が共鳴して風のような音楽が生じるのがすごい。

そして演奏家の馬頭琴の調べにのせた一家の若い母親のきれいな声の歌を聴いていると、母らくだが心を緩ませていくのが自然に思われる。
やがて、らくだの涙が母らくだの目からぽたぽたと落ちる。

企画として意図されたとしても、起ることは現実なのだから眼を見張り胸が熱くなる。
使い古された言葉で申し訳ないが、やはり「奇跡」に映る。
このシーンのみでも観る価値は大きい。

しかし、それら日常を受け止める家族の淡々と騒ぐことのない姿がなんとも豊か。
「天空の・・」と同じように子どもがやはり素晴らしい。次男ののびのびしたところと、長男のもの静かで優しい表情のコンビが頬を緩ませる。
実在の四世代の遊牧民の家族の暮らし、家族それぞれ自分を日常のまま演じることが、とても新鮮に感じられるつくり。

監督・脚本:ビャンバスレン・ダバー/ルイジ・ファロルニ 2003年・ドイツ

2015年12月 、名シーンの動画へのリンク入れました。ユネスコ無形文化遺産に登録。

「雌ラクダをなだめる習慣」、ユネスコ無形文化遺産に登録

「雌ラクダをなだめる習慣」、ユネスコ無形文化遺産に登録11月30日~12月4日にかけて、ナミビアのウィントフックでユネスコ無形文化遺産保護条約第10回政府間委員会会議が行われた。会議でモンゴルの「雌ラクダをなだめる習慣」が賛成され、緊急に保護する必要がある無形文化遺産に登録された。「雌ラクダをなだめる習慣」とは子ラクダを拒絶した雌ラクダは、草も食べず水も飲まなくなって、毛並みも悪くなり、群れから離れて一頭で遠くを見て、時々ふり返っては鳴くようになる。そんな時、遊牧民はラクダの母子の心を通わせるための知恵を働かせ、雌ラクダを子ラクダに慣らすため叙情歌を歌うのである。リンベ(横笛)やモリンホール(馬頭琴)の伴奏で特別な歌を歌うと、母子が感動し心を通わせるようになる。この歌の内容は、栄養たっぷりの乳を飲むために生まれてきた可愛い子ラクダを、どうして拒絶するのか。朝起きると唇をぴくぴくさせて待っている。どうか濃い乳を飲ませてやって「フース、フース、フース」、「フース、フース、フース」などと、3、4番まで歌うと、雌ラクダの目から涙がこぼれて子ラクダに乳をやるようになるのである。

Posted by モンゴル通信 on 2015年12月3日

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by past_light | 2009-12-17 20:38 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「マルホランド・ドライブ」  デイヴィッド・リンチ

リンチの大方の映画というのは、世界の暗部を描くかたちとしては圧倒的な形式かもしれない。それの真骨頂にある映画が「マルホランド・ドライブ」だろうか。
初期の「イレイザー・ヘッド」あたりは、その二度と見たくないと思わせ、うなされるような悪夢そのものの恐ろしさ、不快さ、音響もそのままの世界で、恐怖映画の斬新さがあったが、それもマニア的に感じた。
しかし「マルホランド・ドライブ」では、「ツインピークス」から続いているような、現実の世界と繋がり、重ね合わせた世界の暗部、呪術、ブラックマジックに操られた悪意の人物が暗躍し、平静な日常の太陽の光からは隔絶した闇の力が、ぼくらの世界を揺るがして不安になる。

ツインピークスでは、「ブラック・ロッジ」という言葉も散見されたが、これは善なるフォースの集団が「ホワイト・ロッジ」ならば、「ブラック・ロッジ」とは悪のフォースの集団ということである。これについてはリンチは、その神智学的な類いの知識があるのだろう。そういうアイデアを生かして取り入れたという気がしていたが、あくまで物語の要素としてだろう。
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健全な性善説の世界で生きている人には、どうしてもあまりお薦めできない。怖がりの方は観ない方が良い。
というより、「マルホランド・ドライブ」の物語を順を追って着いて行きながら理解しようとしたら、わけが解らないということになる可能性が大きい。
むしろ夢の物語が、時間軸も登場人物も、起きる事の次第も錯綜し、パッチワークのように継ぎはぎされ、解きあぐねる自分の心理の解釈も一筋縄でいかない秘密の層をなすように、そんな悪夢の展開を楽しむことがお好きならお薦めしたい。
謎解きにやっきになりたい中毒性もありそうだ。しかもリンチの映画に登場する女性はエロティシズムもブラックマジック的だ。

しかし、あくまでこの映画で描かれたのは、リンチ自身が言うように、「ハリウッドの暗部」を、「抽象として」描いたということで納得できるだろう。
田舎からダンス大会で優勝した女優志願の女性。彼女が夢を描いて着いた土地がハリウッド。その地に着いたときから彼女はマジックにかけられている。その後、彼女はハリウッドの世界で生き、「愛」や「挫折」や「嫉妬」や「憎しみ」を経験し、どうなっただろう。
富の集中するセレブな世界の闇に、平凡なぼくらは馴染みのないブラックマジックがかけられている。
葛藤と罪悪感、そのドライブの果てに辿り着くところは・・。

事の次第は整理すると単純なのだろうが、映画全体で、その世界、人間の暗部の感情が「抽象」として構成された意欲的な作品。キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」をふと思いだした。
こういう映画は作る作者自身の方が楽しいのじゃないだろうか。見せられるほうは、映画の展開に妙に釘づけになりつつも、観終われば、明るい太陽の下で解毒したくなる.
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by past_light | 2009-11-23 18:05 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「トウキョウソナタ」

黒沢清監督というのは昔、初期の「ドレミファ娘の血が騒ぐ」という、ちょっと稚拙なゴダールっぽいというか、実はぼくは良く理解できていない映画、それからその後観た二本ほどのホラー的な作品などからの印象からいえば、あまり好きな部類とは言えない人だったが、この映画は誰もが観て面白く観れる映画だと思う。
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ごく普通の家族設定。サラリーマンの夫と主婦,大学生と小学生の男の子のこども。でも当初から家族はバラバラな印象ではじまり、それが加速して行く物語が展開すると、黒沢清ならではとも言えるのだろう独特な場面が連続する感じもちゃんとある。

ぼくなどはサラリーマンの人の、時代の変化の中で安泰だったコースが、足下から崩れていくことの不安や、夫が家族にリストラ後の事を知られまいと必死に社会的体裁を繕うという姿は、現実的に男としては充分わかる部分は多々あるけれど、やはりどうかというとその人たちの反応は過剰で、コメディ的にも思える。しかし、現代のたしかに現実なのだと言う意見には異論はない。

夫婦役の小泉今日子と香川照之、ふたりの息子たちの演技もいい。香川は「あるべき」人生、家族像、親像、に頑固にハマった可笑しさ哀しさをよく体現していたし、物語の展開とともに、そこから再生する様、そしてこの映画の個性的な後半の展開にもよく着いて行けるキャラクターだ。
またとくに小泉今日子はこの映画では役としていままでにないキャラクターに思えた。ごく普通に見えるサラリーマンの主婦像だが、映画を通して徐々に彼女に感じるものは、単に鬱屈したとも言えず、必ず爆発するとも言えない、得体の知れない日常のぼんやりした感情。それが自然と表れていくような、この小泉今日子という配役に違和感を感じさせない、よくこなれた存在感が出た。

だれもが本心を隠し、というか、けして家族にさえ面とは明かすこともできず、「家族」という形態を形として保ちながら、家族としては精神の内部から崩壊している、そのばらばらな様。そしてやがて形態としても保ち得なくなって行く過程は、こういう二時間の映画の中であるから、誇張的にも思えるだろうが、やはりそれは現代では普遍でありリアルである。

そして映画は、そのまま家族が破壊の一途へと進むのか、とだんだんやるせない思いになるが、最後にはドビュッシーの「月の光」のすばらしいピアノ演奏が、不思議な希望の光を、家族の静かな再生を伝えてくれて、気持ちよく観終えることができる。
この希望というか、感動というか、は、平凡と普通と無力の輪廻の中から生まれ、ぼくらがあるとき発見する、「突然変異」のもたらす驚きと感動である。

(下記は監督へのインタビュー記事から)
─それでは最後の質問ですが、黒沢さんは「映画史的に正しい」映画について言及されることがありますね。この映画を作られる上で、そういったことを意識された点はありますか?

黒沢:そうですね、なにか理屈を超えた形で、ある祝福がこの家族の上に訪れるという、それはつまり音楽ということなんですが、観客の方にはぜひ理屈を超えたある感覚によって、何かを感じ取っていただければうれしいです。映画の正しさって理屈だけではなくて、感覚的な正しさもある。この作品がそうなっていればとてもうれしいですね。


監督:黒沢清 2008年
公式サイト
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by past_light | 2009-11-19 19:14 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「ぐるりのこと。」

失われた十年とよばれた時代がありました。
たぶんバブル後の時代を言うんでしょうが、個人的にはよくわかりませんね。バブルな生活とは無縁だったからか、いつもピンこない話だ。

この映画だと、よくどこにでも居そうな夫婦の1990年代の10年の時間。
そしてその間に、この社会で起きていたいわゆるぐるりのこと。
旦那の方の法廷画家が傍観する当時の事件を反映した法廷を通して、振り返れば不安すぎるほどの変化が、社会の奥深くから起きていたというような再認識をもする。
人間の所業としてはいやな後味ばかり、そういう記憶にある事件がぐるりにあった。それはいうまでもなく今でも続いているようだ。
法廷画家の旦那は、ある意味では持ち前のひょうひょうとした性格が幸いするようにか、映画のなかではさして心理的にもコミットしていない風情で淡々と仕事をこなしていく。
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ぼくらの生活はだいたい主に自分の手ののばせるぐるりのことだけで過ぎていくようだが、毎日ニュースで聞いたり観たりするいろんな事件はどう繋がっているのか、ときどき思うこともある。

しかしあまりに理解できない事件などを目の当たりにすると、まったく無関係のものにしか思えないのだが、それでも社会で生きるある意味の不安という影響は与えているだろう。
夫婦,家庭という個的な単位にもさまざまな変化があるものだ。崩壊の瀬戸際もあろうし、そして再生の物語もあるだろう。個の再生とは、ぐるりの社会の再生にも、必ずちいさく繋がるのは歴然だろう。

学生時代からの付き合いのような、どこかにいそうな夫婦の10年。
法廷の被告たちを演じた脇を固めた達者な役者たちも短くても見どころ。全体、映画の見どころは多いが、とにかく夫婦を演じるふたりが実にハマっていて、こと妻の役、木村多江は入り込みすぎて、こちら観客も心配になるほどだ。
彼女自身がこの映画のこの役で女優として再生したかのような話をしていたことをどこかで読んだ記憶があるが、それはそうだろうという納得するものだ。

子どもを亡くしてからの情緒不安定な様子を演じるが、彼女自身が役に入り込みすぎてウツ的な状態だったようだ。
見せ場の一つである、妻が泣きじゃくりながら夫に悲しみの堆積した感情をぶつける場面などは、観ていても圧倒的だ。実際、夫役のリリー・フランキーの話によれば、役に入り込みすぎ、泣きすぎ、台詞が言えなくなるテイクも重ねたようだ。そのリリー・フランキーがとてもやわらかい存在感で受け止めているのが、まさに監督の意図した「ふたりのドキュメンタリー」を成功させていると思える。
それは撮影にも表れていて、実にワンシーンをカメラが長回しで録り続けることが多いから、演じる側も大変だが、出来上がりから感じられる、夫婦の各場面の集中力と緊張感はただならぬもの。初主演のリリー・フランキーが妻の苦悩を受け止めるその場面、元々のプロ役者とはまったく異質と感じるような自然さを、けして途切らすことがないのにも感心する。
監督は自身の前作の世界的な評価の後、自らウツを経験した時間を糧にして、制作に当り「人はどうすれば希望を持てるのか?」と問い、「希望は人と人との間にある」ということに行き当たったという。

その話も当たり前のようでいて、しんどい夫婦関係とか(笑)、その上での夫婦の関係の、水平にも垂直にも広がる天国、地獄の地平を経験し見渡し,世の夫婦が、どうであれ自らも振り返る余韻を持たせる映画になっている。

映画は全体を通し、その夫婦のターニングポイントの「事」そのものはあえて描かず、その事の前後の日々を描くことで、観ていて必要以上な重さを避けられている感じがある。
それが物語の終わりまでに、だんだんと薫ってくる清々しさを残すことになったと感じた。

監督・橋口亮輔
公式サイト
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by past_light | 2009-11-12 20:58 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(15)

「グーグーだって猫である」

家は猫好きだから、ということもあるが、だからかえって登場する猫のポジションの扱いにも逆に厳しく観てしまう。
けれど、やはり猫に深い縁のある人が観るのと、そうでない人が観るのでは楽しみ方が多分に違うだろうという映画かもしれない。

猫の映像を見るだけで何割方の満足感を得てしまう場合は、映画の全体のできには寛容になりがちだ。
ところがこの映画にはもうひとつ客観性を持つには難点があり、なじみの土地が舞台になってしまうというのも大きなファクターで、この映画の舞台は吉祥寺なのだ。
家はずっとこの近辺を移り住んで暮しいている。映画は相当地元にサービスされた街の紹介がされていて、それも楽しんでしまうということもあるし、現実よりもフィルムの中の街は仕方なくも美しく、楽しげでもあるのだ。
加えて少し贔屓(ひいき)で観る主役の小泉今日子、そして上野樹理も、森三中、加瀬亮などの配役、それにかわいい猫が登場するわけだから、人には、観て損はないよ、と言うことになる。
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現在形の猫、「グーグー」の活躍は物語の中ではいまいちだけど、この映画の主題はじつはタイトルのとおりで、主人公の漫画家が先に飼っていて映画の冒頭で生涯を閉じる「サバ」という猫の存在が、主人公のこころに沈殿していて、映画の締めくくりまで存在は大きい。
十数年共に暮した「サバ」との主人公の気持ちの整理がつかないままに、「グーグー」が寄り添っている時間が描かれている。それだから「グーグーだって猫である」んだよ、ということになるんでしょう。

こういうところが、観客に同じような体験とか気持ちを共有できるかどうか、これは大きな違いになってしまう。
最初に飼った猫という存在はやはり大きくて、だいたい若い頃に、ひょんなことで捨て猫とか巡り会うことが多いし、後先など考えずにとりあえずアパートとかに連れて帰るとか・・、そしてその後の生活の変化、激動の、葛藤の時間を共にしたりし、そしてなんとか十数年を共に生きてくれていると、猫との暮した時間も鮮烈に思い出が多いものだ。

だいたい二代目の猫が、その飼い主のこころの空白を埋めるような癒すような、そういう役割を全く拒否することは難しい。といっても人間側からのことで、こと猫自身には関係のないことだ。おかまいなしに行動してくれるから、かえって埋めたり癒したりしているわけだけど(笑)。
この主人公の漫画家の夢で、あの世の「サバ」は、人間としてコミュニケーションをする。「のほほんと、あまり注意して見てあげられなかった」という飼い主の思いと、「ううん、とても楽しかった」という「サバ」との静かな対話の時間が、同じような思いをした人には痛切かもしれない。
そんな夢から主人公が嗚咽しながら目を醒ます経験は、多分多くの人が共感するものだろう。それは飼い猫や飼い犬などに限らずである。

つくった映画監督は非常に映画的なセンスのある映像と語り口を持っている人だという感想。一昔前までの映画監督にはこういうセンスの映画作りができる人はあまりいない。
若い人かと思ったらそんなには若くなくてそろそろ50代だから、たいしたもの。いや、映画全体として見終わっても、よい読後感があるみたいにこなれている印象を残すから、そこには年の功もあるかもしれないし。
コメディセンスとシリアスなシチュエーションとを物語としてうまく融合し、けっこう切ないけど楽しいみたいな、都会の街に日々吹いている風みたいな後味のある情緒を残した。
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by past_light | 2009-10-25 19:23 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

「崖の上のポニョ」

昨年、映画の方は見逃しながら、かわいい主題歌だけは何度も聴いた覚えばかりある。
意外に映画のベストテンなどからは外れて、大方の評判はあまり芳しくなかったのかと思っていた。
久しぶりにレンタルのカードを作ったので借りて観た。
結論から先きに、とてもいいです。

宮崎さんという人は感心しちゃう。他に日本に誰が作れるかと思わせる。
映画評論家の中にはまるでだめな人が多いということがわかる。たぶん少なからず表現とか創作とか関わる人は、やっぱり宮崎さんはすごいと思うところがありありと感じられる作品だろう。

ことに、これほど子どもの内面世界に近くありつつ、大人の抑制、分別を排除して、想像を突き進める態度に敬服するし、苦しいながらきっと楽しい時間だろうと羨ましくもある。
映画では数十秒で終わるエピソードの部分に、迷いつつどれほど自身の無意識と向き合って時間をかけているかがテレビで放映されていたが、それはいざ観客としては、無念にもなかなか汲み取るほどには見尽くし感じ尽くせないものだ。制作途上の作家としての必然で、また特権的で贅沢な苦しみなんだろう。
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アマゾンのレビューにたくさんある感想を少し覗いてみた。
賛否に分かれるというより、既存のアニメファンにはなかなか受け入れられないという節の書き込みも多い。
子どもの反応の話も面白い。何度も観たがる子もいるし、あまり反応のない子もいるという。
お母さん方のなかには、ポニョの天衣無縫、奔放さ、母親の行動や、子が親を名まえで呼ぶなど、拒絶反応もある。
また物語の整合性とかのディテールの省略的な設定が、受け入れがたい人も多いようだ。

しかし考えてみれば昔話とか神話など、謎,不思議なまま接して無意識に残り、こころに影響を与える物語には事欠かないのではないか。
なぜ桃太郎は川から流れてくる桃の中から生まれたのかとか。浦島太郎が亀に乗り竜宮城で遊んで帰れば、お土産を開けてしまい老け込んじゃうとか。そこには魅力的な解けない「謎」が詰まっていて、それはぼくらの無意識にそのまま到達していつまでも謎として働いているような気がする。そのことこそ人間の心の深さ、不思議なのだ。

いろいろ思っていて、映画のオフィシャルサイトを見たら、宮崎さんの制作意図の解説があり、なんだ、このとおりの映画じゃないかと膝を叩いた。

「海辺の小さな町
海に棲むさかなの子ポニョが、人間の宗介と一緒に生きたいと我儘をつらぬき通す物語。
同時に、5歳の宗介が約束を守りぬく物語でもある。
アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、
キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く。
海辺の小さな町と崖の上の一軒家。
少ない登場人物。
いきもののような海。
魔法が平然と姿を現す世界。
誰もが意識下深くに持つ内なる海と、波立つ外なる海洋が通じあう。
そのために、空間をデフォルメし、絵柄を大胆にデフォルメして、
海を背景ではなく主要な登場人物としてアニメートする。
少年と少女、愛と責任、海と生命、これ等初源に属するものをためらわずに描いて、
神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである。」
宮崎 駿


とくに「ポニョが・・我儘をつらぬき通す」という下りは作り手の意図として潔く響いてくる。
ポニョというキャラクターは、まさに幼児の持つ底知れぬエネルギーと、それを使い果たしてぽてっと眠る単純なる生きる姿のすごさを思いださせる。

手描きにこだわった理由も、よく理解される絵の世界で、キャラクターの感触さえ感じられる柔らかさ。それらは海の描写にも、ふと、咲いている花の可憐さなどにも表れている。

シンプルな物語として味わえば、荒れ狂う海の描写や、古代魚の泳ぐ水に侵蝕される陸地、ポニョのパワフルで躍動感あふれる大波の上の走りや、ロウソク仕掛け動力のポンポン船の楽しさとか、主人公たちと同年齢に当る子どもにはきっと大きな影響を与える作品だろう。

それから大人が深読みしてユング的、象徴的な考察もいくらでも想像たくましくされる物語でもある。その材料にも事欠かない。
陸地を凌駕しようとする海、海の母、人間であることを捨てて海に住むポニョの父親、地上に接近してくる「月」、悠々と泳ぐ古代魚・・・。それから人が夢で傍観するように、謎のような宗介の母リサと海の母グランマンマーレとの「対話」の謎。

宗介とポニョはなぜあれほど惹かれ合うのか、ポニョが人間になってその魔法の力を失いともに生きる意味は何か・・。
宗介の試練はひとまず終わったが、ポニョと生きることで続く試練があるだろうし、やさしい宗介が、男性として、大母から受け継ぐポニョの持つ女性性、自然のエネルギーとの和解するこれからの世界・・。もしかしたらポニョは救世主かも・・。
とまあこれほどいろいろ想像させてくれる物語も久しぶりという感じです。
まさにファンタジーという名にふさわしい作品です。

2008 原作・脚本・監督: 宮崎 駿
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by past_light | 2009-10-23 18:36 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)

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