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カテゴリ:■主に映画の話題( 114 )
"不在"の悲しみと美--「東京日和」
 1997年の映画。竹中直人の監督処女作「無能の人」を観た時は、予想を超えた彼の映画センスと才能に驚いたし、映画はたいへん面白かった。3作目の「東京日和」が、時々行く図書館のビデオコーナーにあった。最近はこうして消極的なかたちで見逃したりしている映画に出逢うことが多い。

 この映画の原作となる本は(「東京日和」荒木陽子+経惟-筑摩書房刊)。今は亡き荒木陽子さんと夫の写真家・荒木経惟氏共著によるフォトエッセー。
 竹中直人は書店でこの本に出逢い、目頭を熱くしたひとりだという。それはまったくぼくも同じ経験があり、アラーキーの写真集は買ったことがないけれど、書店で立ち見した、この亡き妻との写真の記録や、彼の飼っている猫とベランダの風景なども加えて、こちらの網膜とハートの記憶に残る写真だ。

 映画は、モデルとした二人の実像からは距離を置き、架空の夫婦の記録として観るように望まれているように思う。それでも、どうしても有名なふたりのせいか、そこにしっくりいかない観客もいるかもしれない。
 しかしモデルの一人である荒木経惟は「かえって僕自身のドキュメンタリーになった。夫婦では語り得なかったことを映画は語っている」と言ったという。
とすればなおさらに、ぼくはこの映画の主人公である写真家(島津)の心の軌跡に胸の熱くなる思いだ。
 人は、表面には充分には表すことのできないほどの、実は相手に対しての感情を持っているのかもしれない。

 映画の中の陽子を演じる中山美穂には、最初からいつか消えていくあやうい存在としての透明感がみごとに漂っている。観客の視線は映画の最初から悲しみの予感と、儚いが故に持つような美しさを彼女に投影しがちだが、その助けなくしても中山美穂は、彼女の持つシルエットと表情で、これ以上を求められないほどの適役に感じられる。
 この映画の陽子はもうすでに記憶のなかの亡き妻のように、不在ゆえの悲しみと美に染められているのだ。劇中の日常のなかでも陽子はフッと居なくなってしまうことがたびたびある。彼女には不可解な奇行も観られる。その危うさも夫婦の絆のひとつの理由でさえあるかのように感じられる。問いつめれば関係が壊れていくような・・個としての人の孤独に対するなんともしがたい故の思いやりがある。

 結婚記念日、新婚旅行で行った柳川で遊ぶふたりのエピソードの中にも強く感じられるものは、前述した夫(島津)の伝えきれない陽子への思いである。ふたりが旅の散歩の途中、気まぐれのように散髪する島津が、ちょっと待たせ過ぎた陽子の見えない姿を捜すシーンでも、それは溢れるように描かれる。
 小舟で疲れて眠る陽子の寝姿には、彼でなくとも観る者の胸に込み上げる思いがあるだろう。
 街角で妻の一人で歩く姿に出会い、島津は「結婚してから初めて、ひとりで歩く陽子を見た。考えてみれば、陽子は私がいなくても、ひとりで生きていけるのだ」とその時改めて発見したように思う。

 島津は妻に、「そんなに見ないで」と言われ、「うん、見ないようにする」と答えることがある。

 この映画は女性に理想的な夫婦像のようにも受け取られている話も聞いた。どういう理想かは別にして、実は相手の孤独と自分の孤独の混じり得ない運命(そんな題名の本が劇中も登場する)・・そんな一線を、二人の男女が共に抱えながら、その内にある思いを十分に伝えきれないままに・・、なお共に生活し探究される夫婦の関係というものに、もしかしたらある形の美があるのかもしれない。それはまた・・終わり得ない恋愛に等しく映るかも知れない。

 映画は曖昧ながら回想的な語り方がされる。
 彼女がまだ生前、島津が友人を呼んだパーティの夜、陽子はその中の一人の名前をなぜか間違ったまま何度も呼ぶので、つい友人のひとりが訂正したことが彼女を傷つけてしまい、「どうして、早く教えてくれなかったの」と島津に執拗に怒る。
島津は妻が不在となった日々のなか、ふと立ったキッチンに貼ってあるガスの注意書きに目が止まる。
 その工事者の印にある名前は、彼女が友人の一人を間違って呼んでいた名前だ。
 「・・無意識にこびりついたことって、あるんだよね・・」と、その日まさに来客であるその友人の前で、島津は激しく嗚咽してしまう。

 ラストシーンで、最高の日をはしゃぎながら笑いあう電車のなかの二人の声は、坂本龍一がオーケストレーションしたエモーショナルな美しい曲で覆い隠される。
 不在ということは甦る過去の悲しみと美だ。

 映画にはたくさんの友情出演のような贅沢な配役が楽しめる。意外な人も意外な役で何人も出ているので、お楽しみあれだ。アラーキーは、ラストのプラットホームで過去を、陽子を見つめるように登場する。
しかし、ものすごく可愛い顔で・・・・。(2001.7.28) 
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by past_light | 2004-09-22 18:21 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
デヴィッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」
 この映画の話の前に、デヴィッド・リンチという、ぼくの中でもなにか輪郭のはっきりしない、この作家の印象がいまだにあるのが、とても面白い現象だと思うので、ちょっと過去の作品から話を進めてみたい。

 デヴィッド・リンチの作品に、ぼくがまず出逢ったのは、日本でのデビュー公開となる「エレファントマン」を劇場で、ということになる。
 モノクロの重たい陰影の中での、モダンとクラシックの交差する独特な印象だった。 この映画の前にあたる「イレーザー ヘッド」という不気味な、気持ち悪さの支配する悪夢のような映画が、それを知っている人には、つぎのこの「エレファント マン」に対して、ヒューマンドラマと言っていいようなその内容にも、モダンホラーのようだと疑惑と不信を買ったようなところがあった。

 「イレーザー ヘッド」はビデオで後に観た。それはカルトと呼ばれた頃の、もう一度見たいとは思わないような悪夢・・と表現できるようなものだったが、暗黒怪奇性爆裂で、彼が一度は作りたかったというものなのかもしれない。

 「エレファント マン」には、主人公の生誕ながらの波乱と迫害、そしてついに繊細な善と愛に出逢う、その言いがたき生涯の物語を、崇高な宇宙的空間へと、ある意味では宗教的な次元へと、主人公の魂を羽ばたかせたような、そんなところに、ちゃんと監督の物語への愛情を感じさせた。
 それにデヴィッド・リンチだからこそ、映像として直視できる多くの観客を持ったような気が、今のこの時になるとよけいに感じることがある。

  その後は、有名になった人だから、いろいろ賛否を聞くのは御承知かもしれない。ぼくは、けっこう好きな方なので、悪評高い「デューン・砂の惑星」も封切りで観て、まずその美術センスにけっこうハマった。 原作を知っている人は怒ってもいたようだが、それを知らないぼくは、後半のダイジェスト版のような話の進行にも、それなりに楽しんだ。続編につながりそうな終り方だったが、それは作られなかった。しかしスターウォーズよりおもしろく広がるような気がしたものだ。

 美術というと、この人はもともと絵も描く人で、映画と呼応するなかなか素敵な絵も美術誌で見た。 「ブルーベルベット」も封切りで見たので、やっぱりぼくは好きなんだろう。スクリーンで観たこれは、その迷路のような話といい、同じくのちの「ツイン ピークス」につながる変態的ムード、そしてその映像がぞくぞくさせて、十分当時は過大評価した覚えがある(笑)。
 カンヌでグランプリという「ワイルド・アット・ハート 」も、わけのわからないテンションの高さと、あっけらかんとした無邪気さのぶちまけ方に、当方はちゃんとノレた。 こういうバカにしようと思えばできそうな映画をつくるセンスに気持ちがよかった。

  それから、ひさしぶりに観たデヴィッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」だ。 これは安心して誰にでも薦められる(笑)。 未見の「マルホランド・ドライブ」というのも、どうやらまた迷路のようですからね。
 そういえば、 デヴィッド・リンチだってこちらと同じく年齢を重ねているわけだ。 老人が主人公で、静かに胸に染みてくる映画を作ったっておかしくはない。だけど、やっぱりどこかリンチ臭いから安心。
 冒頭のたぶんクレーン撮影での描写は確かにデヴィッド・リンチだし、その近づくカメラに映る家の、カーテン越しの窓の向こうから「ドサッ」と聴こえる音が、意味深で期待させるのもそうだ。まあ実は、それはそんなに深い意味とも言えないという演出のようなので、遊びだと思う程度でいいだろう。ちゃんとすぐに種明しがあるからなあ。でもファンはそこを深読みしたくなるんだ・・というマニアな視線に応えているのかなあ。やっぱりでも、はっきりしないや(笑)。

  主演のリチャード・ファーンズワースという人、ぼくはどこかで見た人だと思いつつ・・あとで思い出した(映画・赤毛のアンのマシューだ)。 いつも困ったような味のある表情をしたこの俳優の、その老境における最後の作品になった。彼は「自分のための映画」と満足したと言う。

 実在し新聞などで紹介された実話がモチーフ。七十三歳のアルヴィン・ストレイトは、長く喧嘩別れしていた兄が倒れたことを知って、周囲は呆れたり冗談だと思っている間に着々と旅支度をはじめる。
 ついに、歩く程度の速度というほかないトラクターで、6週間をかけての兄との和解をはたすための旅にでる。 自転車も追い越す速度だから、トラクターから360度オープンに見える景色が、音楽とともに心地よすぎるぐらいで、映画を観る方は、旅する彼の肉体の実際の辛さを忘れてしまいそうだ。

 ゆっくりとした単調そうに見える旅の中で、縁ができて出逢う人々との語らいから、ストレイトの過去も、そのナチュラルに生きた生活のリズムさえ滲み出て来て、なんとも言いがたい思いにさせられる。

 同年代の老人と出逢った時の、戦争中の経験を語る場面も年齢の重さならではだが、若者たちとの夜の野外の食事で、「歳をとって良かったと思うことは」と質問され、「細かいことは気にならなくなる」といい、そして「じゃあ、嫌なことは」と聴かれて、「若いころを覚えていることだ」と言う。するとみんながシーンとなるのがいい。
  「若いころを覚えていることだ」・・彼らはともかく、ぼくはあんまり響いてきそうなんで、ゾッとしたよ(笑)。

 ようやく長い片道の旅の終りがくる。 兄との再会の言葉少ないシーンは、静かで、そしてこちらにも胸に込みあげる思いがある。
  玄関先に停められた、疲れ果てたようなトラクターを見て、「あれに乗って会いに来たのか?」と言う兄の胸の内に生じた熱い感情が、こちらにも押し寄せてくるのだ。

 ふたりが見る美しい夕暮れの空、スクリーンに映る空の場面は上昇し、そして星の中に入る・・、それは奇しくも「エレファント マン」に通ずる普遍的な魂の円環を思わせる。(1999年・アメリカ) (2002.6記述 2004.9ちょっと修正)
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by past_light | 2004-09-22 02:10 | ■主に映画の話題 | Trackback(5) | Comments(4)
「往生の物語」~「野火」
 世の中連休ですが、海外に行く人も激減しているというわけじゃないし、バカンスも経済状態と同じく両極化しているかもしれない。
 その一方のせこい?遊びのひとつといえば、今はぜんぜん縁がなくなったが、パチンコ。20代のころは、ぼくもちょっとはやった。
 今たまにテレビ画面で見る最新型のパチンコ台の騒々しさはすごいが、あれも好きな人にとってはイージーリスニング程度なんだろう。その騒音が快感アイテムのひとつだろうということは想像できる。
 しかし、ただでさえパチンコ店の中は、そこに勤める人が難聴になるのは間違いないと思われるが、・・そんな話をしようとしたわけじゃなかった。

 神田にあった場所柄、客には学生も多い、そのちょっと大きなパチンコ屋さんには、景品のなかに書籍があった。今ではなんでもありそうだが、その頃は「景品に文化」はそこだけだったと思う。なんだかんだの神田だからだろう。
 古本屋街を歩きに来て神田にくれば、時々そこに寄った。使うお金は可愛いもので、千円も使うとゾッとしたものだ。

 ある日、ちょっぴり勝って時間もないから交換に行った。文庫の棚を眺めて二冊の本を加えた。「O嬢の物語」と「チャタレイ夫人の恋人」。
 カウンターで交換嬢を勤めるひとりの女が受け取り、隣の同僚に「ふん、ほら」と軽蔑するかのように見せてから袋に入れた。

 「おい、これは有名な文学だぞ、アウトサイダー文学の元祖的なD.H.ロレンスのチャタレイ夫人は、ヘンリー・ミラーが、ぜひ読むべき書物に入れているし、O嬢だって・・」などと、彼女にぼくは抗議したわけではないが、さぞかしスケベな野郎だと思ったんだろう。
 しかし本屋で買わないでいたのは、なにかぼくにも裏の心理があるのかもしれないからスケベを自認する方がいいと深層心理で思っていたのが真相かもしれない。(くどい洒落です^-^;)

 「チャタレイ夫人の恋人」は素晴らしい本だった。ぼくは赤い棒線をところどころに引いては、その箇所を繰り返して読みもした。「O嬢・・」の方は途中で放棄して往生してしまったが、それはたぶん、D.H. ロレンスの他の本を続けて読みはじめたからだと思う。

 今は付き合いのない年下の友人だが、感情的に美しいものに対してなかなか敏感な反応をした。人のことは言えないが、知識的なことには疎いところがあったけれど、美を感知する能力は無意識にも持ち合わせているように見えた。 いっとき宗教的感情にも溺れた。美しいものには、ある時は愚直に感じるほど素直に見えた。 会わなくなってしばらくして、共通の女性の友人のひとりが、名前を出すのもいやがるほど彼を嫌っていることがわかった。 はっきりした理由は聞かなかったが、おそらく、ひどく失敬な態度や言動を彼女にしたのだろうと想像した。そういう話は他でも耳にしたことがあったからだ。 つまり簡単にいえば、特に女性に対してかなり我がままで、常識を欠いたことを言ったりするところがあったのだろう。 彼は無意識すぎたのかもしれない。
 ほんとうの毒に対して免役のない人は多いと思う。美に限らず、酔うだけでは危ないのだろう。宗教に関してはそんな大きな事件もあった。いわゆる頭のいいエリートたちが多かった。
  ウイルスにはワクチンというものがある。お母さん方が眉をしかめそうな、ある意味では世界の闇も、意識に注入することが必要なこともあるような気もする。

b0019960_19283861.jpg  録画溜め在庫ビデオのなかから、見ていない市川昆監督の「野火」を観た。

  「戦時下の極限状況での人間性と神の問題を描いた、大岡昇平の同名小説の映画化。船越英二の鬼気迫る演技が絶賛された。第二次世界大戦末期のフィリピン戦線レイテ島。日本軍は山中に追い込まれ、飢えと疲労で極限状態にあった。田村一等兵(船越)は病気を理由に軍隊から追い出され野戦病院に行くが、ここでも追い払われ、敗走する仲間の群れに入る。飢餓に苦しむ彼らは“猿”と称して、味方の兵士を殺し、その肉を食べていた・・・。」という1959年のモノクロームの映画。

 あらすじを読めばおどろおどろしく聞こえるが、ひどくグロテスクな場面は描いていない。しかし、飢えでもうろうと歩き、爆撃で虫けらのように死んで行く兵隊達の姿は、もう動物以下の、人としての尊厳を剥奪された姿だ。 その大地に散らばったたくさんの屍の泥沼の世界の上を、辛うじて命が残って歩く兵士たちの亡霊のような足取り。人間であるという最低限の存在感さえ希薄で死んだかのようだ。

  日本の今の首相は、戦争の一面だけをより強く見ていないだろうかと、ふと思う。 特攻隊の話の映画は子供の時ぼくも観たことがあった。誤解を恐れずいえば、子供心にも精神的な美が感じられた。綺麗すぎる。
 彼は「野火」を観るべきだと思う。これも多くの死んだ人や生き残った人の味わった、戦争のなかで起きる人間の尊厳剥奪されたリアルな姿だからだ。

 映画の主人公は、野火の煙りを見て「普通の生活をしている人に会いたい、そこへ行きたいと思ったのです」と煙りの方へ歩いて行く。
。(2002.5記述 2004.9修正・加筆)

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by past_light | 2004-09-18 18:29 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(3)
映画館の非常に不幸な状況
 映画館の非常に不幸な状況というのがありますね。いえ観客の入りとか経営状態とか、そういうパブリックなことではなくって、観客のひとりとして困ったこと。

 ちょっとむかしまでの映画館というのは、前の席に背の高い人(または頭部のでかい人)が座ってしまっても、混んでいる時は他に移ることもできずに窮屈な思いをしました。 最近はそういうことも、だいぶ多くの映画館では解決されている様ですが。そのせいで、異常に座席の列が上り坂になっていたりするところもあります。そういうところは後ろの席なんてもうスクリーンの位置より目線が高かったりします。それも、なんか落ち着かない・・・。

b0019960_19322892.jpg しかし困ったことで、もっとも印象的な出来事というのは、これも昔のことになりますが、神田にある岩波ホールで、小栗康平の「伽椰子のために(椰--ヤという字は間違いですがフォントにない)」を上映最終日に、もう一度観に行った時のこと。

 この映画は、ものすごく静かな悲しい映画なのですが、最終日ということでもあり満員で、しかも監督の挨拶までありました。それはまあよかったんですが。
 映画が始って暫くしたときのこと・・、スクリーンにむかってカメラのフラッシュをたいて写真を写している大馬鹿者がいたんです。
 「カシャ」っというシャッターの音もかなり迷惑ですが、それを上回る迷惑な出来事は、何度目かのシャッターの音に剛を煮やした近くに座っていたらしきオジサンが、怒濤のごとく怒鳴りはじめたんです。

 その声が「一括!!」というのではなくて、(気持ちはわかるが)もう、しつこい。近くにいたらしいカメラの主に、脅迫まがいの暴力的な怒りの説教にエスカレートして終らない。その怒鳴り声で、もう映画を観ているどころではないです。その声はいつまでも静まることがなく、仕方なく映画館の人がなだめにかかって、ロビーにその関係者を出してはくれたのですが、肝心な静かな場面はもう、・・・誰も、覚えていないでしょう。
wave
 ロビーに出てからも、そのおじさんの大きな声は響き渡っていました。ぼくは、2度目だったので、くやしいけど諦めましたが、初めてで最終日の1回きりの入場制限・・。そんなひとには、映画よりもこの事件のほうが印象に残ってしまったでしょう。
 ちなみに、そのシャッターを押している場面というのは、この映画で主演でデビューした南果歩の一応ヌードの場面です(^-^;)。

 ・・もっと昔のことになりますが、竹下景子-(現在を想像してはいけない(^_^;)-のヌードシーンがあった「祭りの準備」という映画のリバイバルの時にもそんなシャッター、フラッシュの馬鹿もんがいました。

 その時以来、ぼくは思ったんですが--光で投射されているスクリーンをフラッシュ焚いてうまく写るんだろうか?--疑問が湧いて、その後もこの疑問は答えが出ていません。 誰か、そんな大馬鹿もんがいらしたら、正直に教えてほしいですね。けして過去の時効になる過ちには、罵声をあびせたりはしませから。(1999.5記述 2004.9修正・加筆)

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by past_light | 2004-09-17 19:53 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(6)