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カテゴリ:■主に映画の話題( 114 )
「バベットの晩餐会」~芸術家は貧しくありません~
 久しぶりに一本の映画のことを話してみたい。

 「バベットの晩餐会」という、随分昔に見たデンマークの映画。
最初が三十年ほど前で、当時住んでいた街の近くの映画館でやっていたのだが、その時は実は観ずに終わった。

 上映中の頃、たまたまこれも暫く振りに街で出遭った友人が、ちょうどその映画を観た帰りで、「ぜったいSさん向きだから観た方がいいですよ。」と言われていたのだが、なんだか結局上映中は観ずに終わった。その後、暫く経ってテレビで観たのだった。
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 当時、何故食指が動かなかったのか考えれば、聞けばグルメ映画の部類なのか?、と誤解しそうな世の紹介記事にも責任の一端はあった。

 そのテレビで観てのことだが、なるほどと、彼が薦めてくれた意味は当時、半分ほど理解した。
何故半分くらいかというと、説明すれは、同じく、同じところを感じていたとしても、頭で感じるのと肚で感じるのとの違いということだろうか。
 そしてまた30年ほど経ってみて、同じ映画を再び観れば、誰だって感じ方のポイントとか、深みとか違うのは当然なんだろうが。いや、何か根源的に達しなかった場所へ達するような実感、というのもあるものだろう。

 映画の原作者は、デンマークでは紙幣の絵柄にもなったという、女流作家カレン・ブリクセン(1885~1962)ということ。
 1987年度のアカデミー外国映画賞を取った。ガブリエル・アクセル監督作品。

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19世紀後半、デンマークにある海辺の小村。牧師である父の家庭に生まれ、父の死後の年月も流れ、意志を継いで永遠のように信心深く、慎ましく生活を送る姉妹。
姉妹は村の清貧な生活と信仰のシンボルのような存在だ。

そこへ、花のパリから政変のために逃れて来たバベットという女性が、姉妹の前に倒れこむように現れる。
妹のかつての恋人でもあったフランス人歌手の、「彼女は料理ができる」という手紙に手にして。

使用人を雇う余裕などないと思うが、無給で良いというバベットには無下に断れず、そうして姉妹と三人の暮らしの物語は動き出す。
バベットは閉鎖的でもあった村人の警戒を、すぐに解いてしまうような不思議な女性だった。
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清貧そのものな暮らし、姉妹の食卓。慎ましすぎるほどに禁欲的だ。味覚を楽しむなどという習慣など全くないに等しい。
そこへ料理人として腕をふるうことになるバベットなのだが、姉妹は食事を楽しむということは元来望んでもいないこと。

それでもパリでは才能ある料理人だったバベットは、非常に限られた日々の予算からも工夫を試みるのだが、限られた素材自体の質素さもあり、なかなか満足の行く料理を作るということもできないでいる。
ある意味では芸術家のフラストレーションが堆積する状況でもあるわけである。

しかし、ある時買った富くじが当選する。それはパリに戻って生活を立て直す事のできるほどの金額だ。
しかしバベットは、およそ今後、人生最後であろう彼女の料理人としての才を、思う存分発揮することに費やすことにする。

姉妹にとっては念願の、亡き父の生誕100年の祝い。
長年親しく懇意の信徒を招きたい晩餐会の料理。それをバベットがすべて任せて欲しいと申し出てくれるのはありがたい。
ありがたいが、彼女のせっかくの賞金からの出費だ。辞退したい思いもある。しかし、この家での最後の頼みだろうと思い、バベットの申し出を受け入れる。
招かれる客は11人だ。

やがて村には注文された食材が運ばれてくる。
生きた海亀やウズラ、・・いわゆるフランス料理の第一級の食材、高額なワインなど・・。村人には目にしたこともない食材。それらから連想される晩餐会の食卓は、悪魔の食卓かと姉妹と村の人達は恐れ戦く。

このあたりからのユーモアのある描写も興味深い。
映像には寒村の暗さが基底にあるのだが、この映画全体にかよっている温もりのようなものは、この辺にも理由がある。

しかし晩餐会に腕をふるう料理は、バベットの懇願でもある。そこで姉妹と招かれる村の信徒たちは、食事についてはけして語らず、なにが出てきても黙して食するようにという合意がなされる。
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やがて次々と運ばれてくる皿を、黙々と平らげていくお客たちには、驚きと至福に登り詰めていく表情が現れる。当初の怖れは優しさに満ちたの表情へと変化する。
バベットの一世一代とも言える創造的な食卓は、パリの名店の味を承知した招待客の一人、旧知の将軍を除けば、姉妹と招かれた村の信徒たちには初めての味覚ばかり。
運ばれてくる料理に驚き、「これはパリで、以前一度だけ食べたことのある絶品と同じだ」、饒舌に解説する将軍にも、ただ黙って頷くだけだ。

信徒たちには、実は何を食べているのかさえ理解できないのだが、晩餐が終わると彼らは天の国でダンスするかの夜だ。

幸福な一夜が終わり、姉妹たちはバベットに礼を言い、パリへ戻ってまた、その才能を羽ばたかせるだろう彼女を讃える。
しかしバベットの口から、「賞金は晩餐会に全て使ってしまった」と聞いて驚く。
そしてこのまま、姉妹の使用人としてこの村で暮らすのだという。

姉妹は「それでは一生貧しいままですよ」と、バベットに言わば慈愛の言葉をかける。
そしてバベットから毅然として、いや当たり前のように発せられた言葉が、「芸術家は貧しくありません」だった。

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 長々思い出しつつ粗筋を話したが、つまり、この言葉の響き方が30年前とは違うということだった。

 それは、「武士は食わねど・・」とか、プライドとか、「物より魂」とか、そんなニュアンスのメッセージではない。

 バベットの内にある創造性や想像力、繊細さ精神性・・、およそそれは、幸にも人にとって与えられた内的な豊穣である。
 それはまた、清貧の中で精神性豊かに生きてきた姉妹と、ある意味では通底する阿吽の言葉でもあるだろう。

 言ってみれば信仰も芸術も、同じく昇華された場所が天の国なのだ。
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by past_light | 2016-06-13 02:45 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
もっとお付き合いしたい隣人
震災後1年、放送された、前・後編のテレビドラマ。
キルトが幾つもの小さな個性がつなぎ合わされた生地で構成されるように、人のつながりもかくあればというドラマだ。

b0019960_18311951.jpg山田さんのドラマは近年「老い」の先について、生活者視線でのテーマの展開が増えた。
笠智衆さん出演ドラマでもテーマとして描かれていたが、むしろ山田さんにとって現在の方がより切実なテーマのはず。
それは、それぞれ時代のドラマを観ていて、大きく左右しドラマの内容にも影響していると感じる。
こちらも同じく年齢を重ねているわけだ。一歩遅れてではあってもじわりじわりと心と体の距離も近くなっている。

自立しながら近しい人達、隣人と、楽しくやれないか、誰でも想像はすることだ。
このドラマのキルトの家のような場所の存在は、どこでも探せばなくはないものだろう。また作ろうとすれば作れないはずもない。
が、そこで問題になるのはむしろ人間の個と個のつながりについての方のことだ。

山田さんにいつも感心するのは、こんなめんどくさいテーマに果敢にと言うか、いや、ふわりと、自然に取り組んでしまう誠実な脚本家であることだ。
自分にある問題の必然性と、世の中にある問題の必然とを、ごく当たり前に合わせ鏡にして、自らの答え、そして社会の可能性としての物語りを洞察していこうという、いわばテレビドラマ脚本家に存在の少ない作家性だ。

幾人もの魅力的な登場人物が、老いの先を案じて様々な選択をしていく。
むしろ無理矢理選択しないでいることも、やわらかい多様な選択なのだということもある。
継ぎはぎの面白さ、美しさ、可能性。
山田さんはいつも決定的な答えなど声高に言うことはない。
知らず知らず頑なになったぼくら生活者の思考に、もうひとつ角度の違うやわらかい光を当ててくれる人だ。

「キルトの家」山田太一脚本

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by past_light | 2014-12-21 18:34 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
勅使河原演出の「アントニー・ガウディ」
もうずっと昔に、今はなくなったらしい吉祥寺のバウスシアターで二度ほど観た。
少し横道すると、バウスシアターで再び二度目に観た時はお正月で、その時は二本立てだった。
そのもう一本はユーリ・ノルシュテイン の「話の話」で、初めて出会ったこれも独特なアニメ。
手描きの可能性の頂きを感じさせるアートな作品だったが、お正月に観るにはちょっと暗いよねと隣の席の配偶者に言われたものだ。
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それからテレビでも観たし、テープに録画しても観た映画。記録映画のジャンルだけど勅使河原宏監督の演出と武満徹のサウンドトラックが、単なる記録ものではない独特な味わいを持った映画として、創造性のあるドキュメンタリー、オリジナルにしていたと思う。

資料的な意味合いや記録を主に置けば、外観や建物全体の作りとか、また成立ちの歴史的な背景などのナレーションを詳細に、それらがメインになる場合が多いかも知れない。
が、勅使河原作品では単に少ない字幕の説明が時折加味され、ひたすらガウディ建築作品の細部をカメラで舐め回すように撮る、ディテイールに食い入るような視線をカメラに託していた。

ガウディの建造物のディテール、それに武満さんの音楽が共になっての画面は、本当に至福な静寂の瞬間を時折感じさせた。瞑想的とでも言えるだろう。
またスペインの広場の賑わいや街の夕暮れの情景、映画エンディングの旋律、それら音楽は映像にセレナーデのように付き添い、詩情と叙情を持った一編の物語のように、映画が成立していたのではないかと思う。

勅使河原さんの作品は、後期の「利休」とか、初期作品が好きなぼくにはあまり評価できないものは別にして、どれもなかなか再放送もされないので観る機会の少ないものだが、この作品、一時間10分ほどのテレビ放送枠にはマッチしない作品でもあるから、残念ながら今後も難しいかもしれませんね。
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by past_light | 2014-12-01 18:56 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
佐々木昭一郎&中尾幸世
なんと「四季ユートピアノ」を見逃してしまった。しかし翌日からの4本はなんとか観ることが出来た。

佐々木さんの作品は、主に今はどうかと思うNHKが生み出せた貴重で最良の映像作品であり映像作家だろう。NHK遺産と言いたいほど。
しかしまあ十数年前ほどまでは唐十郎演出などのドラマもあったから、経済的にはそれほどでないはずの大方のテレビ局が、志も精神も劣化しているだけかもしれない。
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ぼくは正直言うと、明るくポエジー溢れる映像と、陽光の中の自然が背景にある作品ばかりから出会ったので、初期の作品をじっくり観るのは初めて。
たしかいくつかトーンの暗さに意外に思ったのはその後だった。つげ義春原作の「紅い花」のドラマも観たはずだが、その時も佐々木さんがこの原作をモチーフにしたのは意外だった。

その最初に出会っていた明るい作品とは、「夏のアルバム(1986年)」や「クーリバの木の下で(1987年)」だ。今でも当時録画したVHSのビデオテープがタンスに仕舞ってあるはず。
特に夏のアルバムの、あの爽やかさ、キュートな旅情、風のような詩情は、日本のドラマ放送作家の存在にして、信じられないほどで驚いた。
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ところで初期の作品となる、マザー(1969年)、さすらい(1971年)や、よくこんなに前衛的実験的なテレビドラマを放送できたと思う、夢の島少女(1974年)など。登場する主人公は、だれも社会の中心で陽を浴びている少年少女、青年ではなく、片隅の周辺で生きている。
妄想と現実・事実とが入り乱れての時間の進み方は、難解で抽象的と思われがちだが、よりリアルな人間の精神・心理状況を描く方法として現実感があるものだ。

『夢の島少女』での中尾幸世さんと、その後の『四季・ユートピアノ』や、『川の流れはバイオリンの音 〜イタリア・ポー川〜』(1981年)になどつづく海外ロケものとの、それら彼女の存在感の幅の広さというか、それはいわゆる女優というジャンルでは言い表せない独特な在りかた、存在感だ。市井の人、いい意味の素人感というか現実感というか、これは稀な人ではないかなと思う。

佐々木さんの褒め言葉としては十分すぎる説得力のある「うん。見ていて飽きないんだよ、あの子って。」という言葉に頷くばかりだ。
初登場の『夢の島少女』で、なかなか決められなかった主人公の少女だが、最初の印象ですぐ彼女に決めてしまった。「まず声が良かった。」という佐々木さんらしい音への敏感さがよく現れた一言もある。
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独特のドキュメンタリー的な物語の作りかた、(佐々木さんによれば「ドキュメンタリーは「事実」を追求するけど、フィクションは「真実」を描くよね。」)というフィクション。
いわゆるアマチュアを登場させる演出に対しての成果というか、ブレッソンなんかにも感じる必然性を思うが、それに対しては明確な答えがインタビューにある。

「役者が生き生きした言葉を、使っていない。そのために「音」として輝いてない。理由は明らかで、誰かが書いたセリフを読まされているから。」
最初ラジオドラマに有名作家と有名俳優を使って、完全に失敗、本人にはゼロ点だったという。

「僕の作品のなかでは、その人が、あたかも本当にその場で呼吸しているように生き生きしてもらわないと困る。」という話は、実は厳密なリアリティを欲求していると言えるだろう。

「だって、電車に乗ってる人でもいろんな運命を背負っているわけだけどさ、悲しくったって、みんな、そんなの隠して座席に座ってるよ。--そういう姿がきれいなんだと思う、僕は。つくった姿は、みにくいと思う。」

天下のテレビ局はもう一度彼のようなドラマディレクターを生み出せるだろうか。

インタビュー記事のリンクhttp://www.1101.com/sasaki_shoichiro/index.html
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by past_light | 2014-11-26 20:06 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
今は昔の若者たち~若者たち 三部作
決まって食事のお膳に座ると喧嘩が始まる。怒鳴り合い、取っ組み合いが始まる。
消化に良くないよね。せっかく佐藤オリエが支度した御馳走が台無し。

無残な思いも残るが、反対にそうでもしなくては吐き出させない思いも遠慮無く吐き出す。
そこが汲み取るべきところだろう。
行儀も品もないが、兄弟友人、とことん本音を隠さない。
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黙っていれば、飾っていればと、そんな礼儀上だけでは済まない関係がある。
ペルソナは通用しない関係。暑っ苦しいけど誤魔化せないから本音は隠さない関係だ。

考えると今だって貧困にあえぐ、経済の格差もかわらず広がっている。
オカシイと思うことと、仕方ない世の中なんだから、と思うことと、人々も葛藤している。

佐藤オリエが「平和運動は続けましょう」かつての恋人に熱く言う。
兄の山本圭はとことん理想主義的だが現実にコミットしての諦めない強さがちゃんとある。
長男の田中邦衛は熱い、暑苦しい程の情からでしか接することはできないが、犠牲精神とたくましさはマッチョ級だ。
次男の橋本功がまた底抜けに楽天的で強靭だ。末の弟の松山省二の揺れ方が切なくていい。

とにかく今の若持ちたちの世代と思われる人に、いっぺんご覧になって見て損はないと言いたいと思う。
映画やドラマだから、誇張や凝縮された時間の進み方はヘビーだけど、今では信じがたいフジテレビや、その局にいた演出家が熱い思いで制作していた物語だ。今と違いを比較して考えてみるのもいい。
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by past_light | 2014-11-24 19:02 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
アルモドバルにはものの考え方の自由さを問われる
いろんな映画的要素が錯綜したような実に奇っ怪な作品だが、観ていてなんとなく最初ブニュエルを想起した。
思えばペドロ・アルモドバルもスペインの作家だからか、の面はどれほどかは別にして。
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古典的怪奇映画のようなモチーフと未来的な要素、アート感覚な映像・・、それら断片を積み重ねて、やがて全体観終わると、アルモドバル色という他ないような独特な怪奇映画という作品。それらスタイルが交じり合いながらの異色なエンターテーメント性はいつもどおり高い。

けれど、今まで観た作品の、「オール・アバウト・マイ・マザー」や「ボルベール〈帰郷〉」などと比較するとなにかドライな感じなのがちょっと印象に残った。
以前の作品は「情」が実に色濃く感じられた。男女の性を超えた地点へ向かうような愛のカタチの模索が感じられ、それがある意味では人間の精神の深淵への謎なぞみたいで誘惑的だった。
もちろんこの作品でも同じモチーフが底流にあるようなのだが。

お話は無理強いされた性の残酷さだけが残ったように帰結したのが、少し消化不良になりそうで居心地がわるかった。
だが、これにも隠された複雑な情があると言えば言えて、再度深読みしたくなるものだ。

この映画でおこる悲劇もきっかけも、不条理さの自由な展開がブニュエルのような悪夢への迷路なのだが、ブニュエルのような軽さとユーモアまで到達するスタイルのシンプルな完成度とは違った世界だ。

ともあれアルモドバル独特な変態的感性の物語なのに、とにかく面白い時間の進み方だった。音楽がすごくよくて、たぶん曲単体で聴くより映像とともにで魅力的なサントラじゃないだろうか。
しかしまあ不自由さに陥りやすいこの世界の中で、アルモドバルって、その映画で語る自由な想像性の才能はいつも感心する。
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by past_light | 2014-11-07 18:40 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
勝新太郎=座頭市
 子どもの頃、親戚の子の家にしばらく厄介になっていた時分のことだ。
 誘われるままに町の映画館に行った。当時は人口数万の田舎にも各館特色を持った映画館が10館近くあった。誘われたのは当時のアイドルグループサウンズメンバーたち主演の映画。が、これからの話は、二本立ての、方や一本の勝新太郎の「座頭市」のことだ。思えばこれがぼくの最初に接した座頭市なのだ。

 その多様な角度からのカメラワーク、江戸時代の村や町の人間臭いリアリティに実にこだわっている。そしてなにより勝新太郎=座頭市のキャラクターの存在感。彼の動物的感性とも言えるようなアドリブ臭さい熟れた演技、、と今だと説明するわけだけれど、もちろん当時はなんにも考えないで、映画が始まるとそのスクリーンにたちまち釘付けになっていた。
 勝新太郎が動物的な役作りに拘っているのは、物を食べるというシーンによく表れている。(この映画だったかは忘れたが、市っつあん、映画が始まるとさっそく牢屋の中、這いつくばって床に落ちた食い物を貪るシーンから始まったものだ。)

 なのに親戚の子は、お目当てのアイドル映画が終わったので、退屈そうに「もう帰ろう」と言うのだ。
 厄介になっている手前というか、でもないけれど仕方なく共に帰ることにした。しかし、頭の中では座頭市を狙う殺し屋どもの、水たまりのあぜ道を走る足下の映像が頭に焼き付いたまま、制止していた。
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 そこで、最近放映されているテレビドラマシリーズの「座頭市」を録画し観ている。
 もともと映画のシリーズも幾本もあり、それはぼくの子供時代から続いていたわけだ。やがてシリーズはテレビに移り、最終章はぼくが20代後半あたりの記憶だから、かなりの長寿のキャラクターだ。
 TVシリーズでも、爽快というよりどちらかと言うと暗いトーンだ。毎回登場する各地のヤクザはほとんどどうしようもなく悪だし、村人は貧しいし娘は売られるし、上は悪代官だし。作りとしては、かなり省略形のダイナミックな物語運び。今のテレビ視聴者についていけるだろうか。いろいろ考えても現代では制作されそうもない。テレビ側にしてもだからこその再放送なのかもしれない。
  
 中でも昔大変な印象を残したテレビシリーズがある。座頭市ファンでも有名な「最終回-夢の旅」を先日再び観る事ができた。
 悪酔いし悪夢にうなされるが、夢のなかで座頭市の目が開く設定で、全編に夢の感触の満ちたシュルレアリスムのテイストの、テレビドラマではかなり稀有な存在の作品だろう。
 しかしもっとも目に焼き付いていた場面の、目が開いてかえって勘が狂い、座頭市の切られてしまう手足がバラバラに散らばりもがく姿のシュールなカットを、なんと今回観たら「カット」していたようだ。このシーンは夢の描き方として映画全体のスタイル上で大事なカットででたいへん残念。他のシーンは忘れていたことも多いのに、このシーンだけは記憶に焼き付いているのだから。
 
 今回知ったが、この回は「砂の女」など、安部公房作品をよく映画化していた勅使河原宏の演出作。彼の演出のドラマは、視聴率などを無視したようなかなりテレビの枠をはみ出した挑戦的な作りだ。また特にこのシリーズでは、当時のATG映画的な前衛スタイルや、その時代の映画監督たちをよく起用している。これは自らもよく監督を兼ねた勝新太郎の選択だろうと思われる。監督・黒木和雄の演出では、映画でも共に仕事をした原田芳雄が登場したりと、毎回玄人好みの映画寄りの作りだった。それも勝新太郎の存在と己の制作プロダクションの力あればこそだからだったんだろう。

 勝新太郎の存在感と、そのパーソナリティからも醸し出すオリジナリティの強さ、台詞回しのアドリブ的な抑揚など、もう今の役者の世界では見いだせない種類のものかもしれない。また彼の歌も、先日ユーチューブで画家のバルティスの前で演奏しているビデオを観たが、三味線の腕もかなりのものだ。また、自ら監督の映画版も、シャープな演出の監督としての才能が豊かに現れていたのに感心したこともある。

 勝新太郎の「座頭市」は勝新太郎が作り上げたユニークな人物像である。可笑しさと哀しさと切なさと無邪気さ・・、特にユーモアと殺気とのブレンドされたキャラクターは他に代えられない魅力。子供とよく遊ぶ設定も多い。それは良寛のエピソードすら思い浮かばせる。
 つまり座頭市のキャラクターの底から滲んで浮かび上がるのは、幅の広い、人間のさまざまな複合的な味である。
 
 しかし、数十年前もの映像になると、勝新のみならず、登場するすべての役者がもうこの世の人でないことも多くなり、ふと不思議な余韻を残すものだ。
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by past_light | 2012-05-12 18:17 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)
ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ
 太宰治は、もしかしたらある男性像の典型を生涯、それを演じたのではないかとよく昔思った。
 物語り作家としての才能も並々ならないのに、自己に矛盾した愛憎に振り回されていたのではと。そのような作品も結果書かねばならなかった。

 この映画の人間像も、人間失格の人物像にしても、精神の底に感じられるものに真実の苦悩を感じないのだ。この時代、破壊的な人生を演じるのはなにか世の中が許容した、ひとつの男像のスタイルであったような甘えが透けて見えるのは何故か。
 演じれば演じるほどに人間に無理が祟る、葛藤に疲れる。支離滅裂な人間として家庭では破壊者として君臨する。
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 ひるがえれば、この時代のこの男たちに付き合う女とは、なんと強い精神と肉体を与えられたものか。
 それに甘えた男たちと女の物語は、今も続いているだろうが、このヴィヨンの妻は、女の無垢の不気味なほどの強さが男を震え上がらせさえする。彼女の上に立つ男の精神は見当たらないだろう。

 松たか子のキャスティングには不安があったが、見終わればなかなかに素晴らしい役だった。
 浅野忠信のキャスティングには不安がなかったが、むずかしい役で、鑑賞しながら、型にはまらないように、と願うような不安が生じた。

 現代に生きる生活者にとれば、非人非人とはむしろ社会の上層に住みつつ、自我の欲望に無意識なまま精神の成熟から遠くへだたって、誠実な人間性を喪失した者たちこそに与えられるべきものだ。

「生きてさえいればよい」は、簡単な言葉だけれど、いつの時代にも生活者の底から立ち上がる声だ。
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by past_light | 2012-05-02 17:12 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)
「風の又三郎」1957年版
「風の又三郎」 原作:宮沢賢治 監督:村山新治 脚本:清水信夫 1957年
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 この映画を観たのはたぶん中学生の頃のことだった。
 しかも学校の図書館で授業の中で、ある先生が観せてくれたのだ。
 先生は誰かは忘れたけれど、きっとその先生自身が感銘を受けて生徒に観せたいと思ったのだろうと今では思う。

 フイルムは16ミリだったんだろうか、それとも8ミリフイルムとして学校に供給されたものだったのか。ずいぶん古さを感じる画面だったが、監督:村山新治版の「風の又三郎」の製作年は、いま調べるとぼくはすでに生まれていた年だ。

 壁にかけられた白い掛け軸を広げたような画面に、陰影の深いモノクロの又三郎の映像が現れ、あの「ど・ど・ど・・」の印象的なフレーズの歌が流れた。
 実に不思議な体験だ。又三郎が風とともに図書館の暗闇に現れたような幻視的な体験だった。

 映画全体の記憶とか、その出来映えの善し悪しとか、つまり思えば少年には二の次である。
 美術授業の中でスライド画面で観た巨匠たちの絵も、シュルレアリスト画家の絵のみにあらず、すべて言わば少年には「超現実」であった。音楽の教材として授業で聴かされたシューベルトの魔王のレコドの時間には頭の中で完全に映像が動いていた。

 田舎の中学の、日々なかなか文化的な接触の少ない時間の中で、一人の先生が紹介してくれる映画や絵画や音楽、それらはなんとぼくらの記憶に深く刻まれていることか。
 そのような体験を子供に与えられることこそ、教育というものの中にある一番の人間的な恩恵じゃないだろうか。
 考えれば以前からだが、そういう話があまり語られない教育の世界に日頃から何かぼくは大きな違和感を覚えている。
 そして、この映画「風の又三郎」は、そんな印象的な、強く記憶に残る映画のひとつとして出会った作品。

 CGはおろか、せいぜいモンタージュ合成された映像で表現された風の中の又三郎。そのシンプルな映像との出会いの体験を、大量に安直に映像に接することのできる、いわば感性が麻痺しやすいこの時代に、もう一度できないものかと思うし、子供たちにも出会って欲しいという気がする。
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by past_light | 2012-03-03 19:02 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)
恋するトマト
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大地康雄が企画・脚本・製作総指揮・主演。とクレジットで驚いたけれど、映画の製作に対しての思いが伝わるできあがり。
物語の始まりから登場する富田靖子との、農村でのほのぼのエピソードから、いざ急展開。
次に関わるルビー・モレノとの経緯で舞台がフィリピンに移ってからの意外な展開といい、観ていて物語に引き込んでくれる。
富田靖子もルビー・モレノも、なんと前半の短い登場だけの贅沢な配役で心残りするほど。
ルビー・モレノは久々だったけれど、すごく女優の質、才能を感じさせるいい演技だと思う。ぜひ女優を続けて欲しいと思った。

フィリピンで失意と放浪の後の主人公の大地康雄の活躍。
それについていく観客としては、フィリピンと日本の関係のリアルな現実 (いわゆる例えば人身売買的に世界のベストテン、10位の日本のこと) などを見せつけられる。我々も複雑な思いでドラマを観て行くので、主人公の心の軌跡と重なって、ドラマとして成功している。
やがて出逢うアリス・ディクソン演じるフィリピン女性が素敵。
その素敵な女性との出会い、そこから映画は (門外漢で恥ずかしいが) 農業の面白さ、苦労などのメインテーマに回帰する。
観終われば、わかりやすい構成だけど、制作者の誠実な気持ちが余韻に残る。

しかし、実のところその茨城の農家も、きっと苦しめている「現在」の放射能のことも脳裏に浮かばずにはいられない。
大地、自然の恩恵、そこへの暴力が、食する人間や生物に還ってくること、事実として忘れてはならないことだという思いがさらに強くなる。
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by past_light | 2012-02-09 01:26 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)