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カテゴリ:■主に映画の話題
  • 勝新太郎=座頭市
    [ 2012-05-12 18:17 ]
  • ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ
    [ 2012-05-02 17:12 ]
  • 「風の又三郎」1957年版
    [ 2012-03-03 19:02 ]
  • 恋するトマト
    [ 2012-02-09 01:26 ]
  • ベルイマンの「叫びとささやき」から、いろいろ久しぶりに思って散漫に書いてみました
    [ 2011-09-07 17:51 ]
  • 「父と暮らせば」 黒木和雄監督
    [ 2011-08-29 03:15 ]
  • 「天然コケッコー」 監督:山下敦弘
    [ 2010-06-02 00:55 ]
  • 「街のあかり」 アキ・カウリスマキ
    [ 2010-05-30 16:28 ]
  • 「らくだの涙」
    [ 2009-12-17 20:38 ]
  • 「マルホランド・ドライブ」  デイヴィッド・リンチ
    [ 2009-11-23 18:05 ]
勝新太郎=座頭市
 子どもの頃、親戚の子の家にしばらく厄介になっていた時分のことだ。
 誘われるままに町の映画館に行った。当時は人口数万の田舎にも各館特色を持った映画館が10館近くあった。誘われたのは当時のアイドルグループサウンズメンバーたち主演の映画。が、これからの話は、二本立ての、方や一本の勝新太郎の「座頭市」のことだ。思えばこれがぼくの最初に接した座頭市なのだ。

 その多様な角度からのカメラワーク、江戸時代の村や町の人間臭いリアリティに実にこだわっている。そしてなにより勝新太郎=座頭市のキャラクターの存在感。彼の動物的感性とも言えるようなアドリブ臭さい熟れた演技、、と今だと説明するわけだけれど、もちろん当時はなんにも考えないで、映画が始まるとそのスクリーンにたちまち釘付けになっていた。
 勝新太郎が動物的な役作りに拘っているのは、物を食べるというシーンによく表れている。(この映画だったかは忘れたが、市っつあん、映画が始まるとさっそく牢屋の中、這いつくばって床に落ちた食い物を貪るシーンから始まったものだ。)

 なのに親戚の子は、お目当てのアイドル映画が終わったので、退屈そうに「もう帰ろう」と言うのだ。
 厄介になっている手前というか、でもないけれど仕方なく共に帰ることにした。しかし、頭の中では座頭市を狙う殺し屋どもの、水たまりのあぜ道を走る足下の映像が頭に焼き付いたまま、制止していた。

 そこで、最近放映されているテレビドラマシリーズの「座頭市」を録画し観ている。
 もともと映画のシリーズも幾本もあり、それはぼくの子供時代から続いていたわけだ。やがてシリーズはテレビに移り、最終章はぼくが20代後半あたりの記憶だから、かなりの長寿のキャラクターだ。
 TVシリーズでも、爽快というよりどちらかと言うと暗いトーンだ。毎回登場する各地のヤクザはほとんどどうしようもなく悪だし、村人は貧しいし娘は売られるし、上は悪代官だし。作りとしては、かなり省略形のダイナミックな物語運び。今のテレビ視聴者についていけるだろうか。いろいろ考えても現代では制作されそうもない。テレビ側にしてもだからこその再放送なのかもしれない。
  
 中でも昔大変な印象を残したテレビシリーズがある。座頭市ファンでも有名な「最終回-夢の旅」を先日再び観る事ができた。
 悪酔いし悪夢にうなされるが、夢のなかで座頭市の目が開く設定で、全編に夢の感触の満ちたシュルレアリスムのテイストの、テレビドラマではかなり稀有な存在の作品だろう。
 しかしもっとも目に焼き付いていた場面の、目が開いてかえって勘が狂い、座頭市の切られてしまう手足がバラバラに散らばりもがく姿のシュールなカットを、なんと今回観たら「カット」していたようだ。このシーンは夢の描き方として映画全体のスタイル上で大事なカットででたいへん残念。他のシーンは忘れていたことも多いのに、このシーンだけは記憶に焼き付いているのだから。
 
 今回知ったが、この回は「砂の女」など、安部公房作品をよく映画化していた勅使河原宏の演出作。彼の演出のドラマは、視聴率などを無視したようなかなりテレビの枠をはみ出した挑戦的な作りだ。また特にこのシリーズでは、当時のATG映画的な前衛スタイルや、その時代の映画監督たちをよく起用している。これは自らもよく監督を兼ねた勝新太郎の選択だろうと思われる。監督・黒木和雄の演出では、映画でも共に仕事をした原田芳雄が登場したりと、毎回玄人好みの映画寄りの作りだった。それも勝新太郎の存在と己の制作プロダクションの力あればこそだからだったんだろう。

 勝新太郎の存在感と、そのパーソナリティからも醸し出すオリジナリティの強さ、台詞回しのアドリブ的な抑揚など、もう今の役者の世界では見いだせない種類のものかもしれない。また彼の歌も、先日ユーチューブで画家のバルティスの前で演奏しているビデオを観たが、三味線の腕もかなりのものだ。また、自ら監督の映画版も、シャープな演出の監督としての才能が豊かに現れていたのに感心したこともある。

 勝新太郎の「座頭市」は勝新太郎が作り上げたユニークな人物像である。可笑しさと哀しさと切なさと無邪気さ・・、特にユーモアと殺気とのブレンドされたキャラクターは他に代えられない魅力。子供とよく遊ぶ設定も多い。それは良寛のエピソードすら思い浮かばせる。
 つまり座頭市のキャラクターの底から滲んで浮かび上がるのは、幅の広い、人間のさまざまな複合的な味である。
 
 しかし、数十年前もの映像になると、勝新のみならず、登場するすべての役者がもうこの世の人でないことも多くなり、ふと不思議な余韻を残すものだ。
by past_light | 2012-05-12 18:17 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)
ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ
 太宰治は、もしかしたらある男性像の典型を生涯、それを演じたのではないかとよく昔思った。
 物語り作家としての才能も並々ならないのに、自己に矛盾した愛憎に振り回されていたのではと。そのような作品も結果書かねばならなかった。

 この映画の人間像も、人間失格の人物像にしても、精神の底に感じられるものに真実の苦悩を感じないのだ。この時代、破壊的な人生を演じるのはなにか世の中が許容した、ひとつの男像のスタイルであったような甘えが透けて見えるのは何故か。
 演じれば演じるほどに人間に無理が祟る、葛藤に疲れる。支離滅裂な人間として家庭では破壊者として君臨する。

 ひるがえれば、この時代のこの男たちに付き合う女とは、なんと強い精神と肉体を与えられたものか。
 それに甘えた男たちと女の物語は、今も続いているだろうが、このヴィヨンの妻は、女の無垢の不気味なほどの強さが男を震え上がらせさえする。彼女の上に立つ男の精神は見当たらないだろう。

 松たか子のキャスティングには不安があったが、見終わればなかなかに素晴らしい役だった。
 浅野忠信のキャスティングには不安がなかったが、むずかしい役で、鑑賞しながら、型にはまらないように、と願うような不安が生じた。

 現代に生きる生活者にとれば、非人非人とはむしろ社会の上層に住みつつ、自我の欲望に無意識なまま精神の成熟から遠くへだたって、誠実な人間性を喪失した者たちこそに与えられるべきものだ。

「生きてさえいればよい」は、簡単な言葉だけれど、いつの時代にも生活者の底から立ち上がる声だ。
by past_light | 2012-05-02 17:12 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(4)
「風の又三郎」1957年版
「風の又三郎」 原作:宮沢賢治 監督:村山新治 脚本:清水信夫 1957年

 この映画を観たのはたぶん中学生の頃のことだった。
 しかも学校の図書館で授業の中で、ある先生が観せてくれたのだ。
 先生は誰かは忘れたけれど、きっとその先生自身が感銘を受けて生徒に観せたいと思ったのだろうと今では思う。

 フイルムは16ミリだったんだろうか、それとも8ミリフイルムとして学校に供給されたものだったのか。ずいぶん古さを感じる画面だったが、監督:村山新治版の「風の又三郎」の製作年は、いま調べるとぼくはすでに生まれていた年だ。

 壁にかけられた白い掛け軸を広げたような画面に、陰影の深いモノクロの又三郎の映像が現れ、あの「ど・ど・ど・・」の印象的なフレーズの歌が流れた。
 実に不思議な体験だ。又三郎が風とともに図書館の暗闇に現れたような幻視的な体験だった。

 映画全体の記憶とか、その出来映えの善し悪しとか、つまり思えば少年には二の次である。
 美術授業の中でスライド画面で観た巨匠たちの絵も、シュルレアリスト画家の絵のみにあらず、すべて言わば少年には「超現実」であった。音楽の教材として授業で聴かされたシューベルトの魔王のレコドの時間には頭の中で完全に映像が動いていた。

 田舎の中学の、日々なかなか文化的な接触の少ない時間の中で、一人の先生が紹介してくれる映画や絵画や音楽、それらはなんとぼくらの記憶に深く刻まれていることか。
 そのような体験を子供に与えられることこそ、教育というものの中にある一番の人間的な恩恵じゃないだろうか。
 考えれば以前からだが、そういう話があまり語られない教育の世界に日頃から何かぼくは大きな違和感を覚えている。
 そして、この映画「風の又三郎」は、そんな印象的な、強く記憶に残る映画のひとつとして出会った作品。

 CGはおろか、せいぜいモンタージュ合成された映像で表現された風の中の又三郎。そのシンプルな映像との出会いの体験を、大量に安直に映像に接することのできる、いわば感性が麻痺しやすいこの時代に、もう一度できないものかと思うし、子供たちにも出会って欲しいという気がする。
by past_light | 2012-03-03 19:02 | 未分類 | Trackback | Comments(4)
恋するトマト
大地康雄が企画・脚本・製作総指揮・主演。とクレジットで驚いたけれど、映画の製作に対しての思いが伝わるできあがり。
物語の始まりから登場する富田靖子との、農村でのほのぼのエピソードから、いざ急展開。
次に関わるルビー・モレノとの経緯で舞台がフィリピンに移ってからの意外な展開といい、観ていて物語に引き込んでくれる。
富田靖子もルビー・モレノも、なんと前半の短い登場だけの贅沢な配役で心残りするほど。
ルビー・モレノは久々だったけれど、すごく女優の質、才能を感じさせるいい演技だと思う。ぜひ女優を続けて欲しいと思った。

フィリピンで失意と放浪の後の主人公の大地康雄の活躍。
それについていく観客としては、フィリピンと日本の関係のリアルな現実 (いわゆる例えば人身売買的に世界のベストテン、10位の日本のこと) などを見せつけられる。我々も複雑な思いでドラマを観て行くので、主人公の心の軌跡と重なって、ドラマとして成功している。
やがて出逢うアリス・ディクソン演じるフィリピン女性が素敵。
その素敵な女性との出会い、そこから映画は (門外漢で恥ずかしいが) 農業の面白さ、苦労などのメインテーマに回帰する。
観終われば、わかりやすい構成だけど、制作者の誠実な気持ちが余韻に残る。

しかし、実のところその茨城の農家も、きっと苦しめている「現在」の放射能のことも脳裏に浮かばずにはいられない。
大地、自然の恩恵、そこへの暴力が、食する人間や生物に還ってくること、事実として忘れてはならないことだという思いがさらに強くなる。
by past_light | 2012-02-09 01:26 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
ベルイマンの「叫びとささやき」から、いろいろ久しぶりに思って散漫に書いてみました
数十年ぶりベルイマンの「叫びとささやき」を観る。19世紀の医療限界もあり末期がんの痛みを演じる迫力は圧倒。 至福感は一瞬の中にしかない。という言葉にするとアホみたいな種に到達。生き物を苦しめ余裕噛ましてる偽善的な人生は、地獄へ至るというトーデンとケーザイカイへの警告的内容(笑)  (9/4ツイート)

 ツイッターの方では、原発の事故以来の関連情報の海外からも含め絶えない状態が未だに続きます。
 かたやTVなどではほとんど核心的な情報が流れないようになっています。
 地震と原発事故後半年、政界のニュースなどでは自民党時代から続いた国の姿がまるで繰り返す安心のように、かのマスコミもしがみ付きたいのかと思うように、なんとも緊急性のない薄められた現実に麻痺感漂う顔があります。
 内に賑やかな報道もお祭りのように過ぎて、首相もどじょう救いの竜ちゃんに変わりました。が、ともあれ辞め立てほやほやの菅さんが、自らの吐露する原発事故後の経緯記事や、TVでの暴露ハシナが出てきました。官邸にいた人も発言し始めましたが、役職の間はずいぶん言えないことが多いのだろうと思われます。
 が、それらはツイッターなどではかなり以前より流れて知ることのできた情報ですが、お茶の間で流れるマスコミに触れるだけでは、ほぼ初耳という人も多いだろうと思います。

 事故の直後、少なくとも「キレ菅」などと悪意的に揶揄されてしか伝われなかったような東電への総理の殴り込み、「撤退したら東電も東日本も終わる」と威嚇して来たのはかなり大事な役目だったわけです。
 東電は言わば自らおこした大事故に怯み退散しようとしていた。つまり後始末を政府に丸投げするつもりだったということ。運営し専門的な作業に従事し、責任当事者で当然最も原発の内部を知るはずの東電が逃げて放置したらどんなことになっていただろうか。

 そんなことすら充分に伝えないマスコミというのはなぜ・なんなんでしょう。日本の半分近くの大地から、むろん首都も含め、当分人の住む環境でなくなる事態が起こりえていた。
 事故直後、建屋の屋根の吹き飛んだ原子炉に、自衛隊のヘリのデモンストレーション的な空からの放水は、その効果は焼け石に水であることは承知の上でした。
 あれは諸外国、ことにアメリカに「本気」度を見せて収束への意志を見せるためだったことは、その後報道もされたが冷静に考えればうなずけることでした。
 つまり福島第一の原発事故とは、国土と国民にとって相当な危機だったわけですが、一部の記者などが発信し過激と排除されたその情報は、数ヶ月して後々になぞられるように発表される。パニックを怖がった、確かにその内容は事故直後と比較すれば衝撃が薄められる時期を狙ったものだと思えます。しかし遅くてはいけなかった情報も含められてしまい、不必要な被曝をしてしまった住民が居たのだから、冷静な対応をしていたと言えない国の姿があります。
 事故の状況は一進一退しながら、やがて土壌の汚染や食物への心配と拡大したか変化しながら、このところ話題も少なくなって来たようなマスコミですが、実のところ炉心溶融から地下へ落ち始めているのではないか、という心配は続いています。
 現実的には事故の状態の全貌は誰も見ていないということ、いや人が肉眼で確認できる場所では未だないわけです。

 その日突然断ち切られた日常から、はるかに違う場所にいる人たちもいる。
 しかし、そして免れたかのぼくらの日常は、からくもたしかに続いている。それがどうのといっても、ふたたび天変地異かなにかが足元で呻けば、それもまた途切れるだろうことは暗黙の覚悟。ならと、ことさら嘆いて暮らすのも精神には無理なのかもしれない。

「放射能が降っています。静かな夜です」 「開けない夜はない」 和合亮一 (福島の詩人のツイート)
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 ベルイマンの「叫びとささやき」から、いろいろ久しぶりに思って散漫に書いてみました。

 最初に観たのは20代前半。たぶん岩波ホールでの封切りだから懐かしいにもほどがあるのですが。当時、ヨーロッパ映画3本立てあたりの何かの伴映。ハイコントラストモノクロの心理戦、「ペルソナ」に出逢ってからベルイマンに心酔を始め、それからしばらくして観て、それも決定的になったきっかけの、当時新作の映画という記憶が「叫びとささやき」だ。

 この頃の岩波ホールとは、インドのサタジット・レイ、ブニュエル、ベルイマン・・と、今ではミニシアターというメディアで上映されるしかない、海外の映画との出会いの機会を日本ではまっさきに提供した。少数派の観客に向けた映画の唯一の封切りの場所ということだったような感じ。

 そしてベルイマンも集中して上映された時期があった。
 とうてい大劇場には不釣り合いな、小さな教会で観るにすらふさわしいかの、例によって牧師が信仰の内省的な苦難を曝す「冬の光」とか。神という位置と人間の地上における地団駄。
 当時それは日本人若輩者の、正直言えば掴みどころのない内容の、北欧のキリスト教的背景の精神の葛藤。ロマンとか恋愛とか、若者の青春のテーマからすると、距離があきらかに感じられた。
 しかし人間の精神の空間に複雑にもつれて、一筋縄で答えを括れず、墜ちた地球のエデンに放置されたアダムとイブの苦悩には、ただ呆気にとられもすれ不思議に圧倒もされるものだった。
 それはやはりある程度今でも、テーマに内在するものにはぼくは距離を持つ者ではある。しかし人の「自我」の姿の裏も表も、厳密に照らし出そうとすれば、夏目漱石が唸りそうな人物たちにある種の親近感を禁じ得ない愛おしさがあるのも変わらない。
 突詰めれば、人が自我の牢獄を自覚しながらに、自由になることなど叶わずに捕われたまま、その狭い空間の矛盾の中で右往左往した人間を演じることの辛さを、濃密に人格にしたとすれば彼や彼女の叫びとささやきになる。

 ベルイマンとは徹底して同じテーマで動いていた人だと思う。
 「処女の泉」などでは無垢で清廉な少女が苦難と不条理に殺される。当時はかなりショッキングな内容と描き方だが、それが神話的に高められる。神の存在、不在の答えも、人間の悪事や良心の中でしか描くことのできない宿命から、飛躍するように奇跡という手法が映画の力で持ちこまれる。そのことでかろうじて救いが完結するが、映画には不思議な感情がのこる。

「叫びとささやき」はベルイマンにしては後期の入り口なんだろうか。
 僕の十代後半からしばらくというものは、「男と女」のルルーシュなんかのブームもあり、フランス映画なども年に何本も上映されていたし、イタリア、イギリス、つまり商業的興行にしてもヨーロッパ映画もかなりの数を持っていたと思う。
 やがてアメリカ映画が日本を席巻してしまう時期が来るが、そんなころやっと上映されたものは「ファニーとアレクサンデル」あたりか。

 話をもどして。「叫びとささやき」を改めて以前録画していたビデオではあるが見直していると、当時より怖さが増して感じられた。それは「死」に対しての内的な距離というようなものが接近した年齢のせいもあるのかなと思いつつだったが。

 三人姉妹の埋めがたく取り繕う精神の距離、真実の冷え冷えした関係。メイドであるアンナの無垢と無防備の母性が、唯一体温を感じさせる人物像で、地上での神聖を体現する。死のベッドから呼ばれる残った姉妹とアンナのプロット、「これは夢よ」「あなたには夢でも私には意味があるの」これは超現実的手法を上質に用いるベルイマンの素晴らしい表現であり、またそれゆえいかなるホラーより怖いものになっている。

 自我の牢獄に隔離され、イノセントの出口のない人間。内に外に誤魔化し、我が儘に愛を求め、また求められ拒否する、他者との関係の絶望的な様相。さらけ出されて直視せざるを得ない醜悪さに満ちた芝居の日々のなんと地獄なんだか。
 ここに登場する人物の描かれ方の、底意地の悪さと言えばまた愚直すぎる表現にしかならないが、ベルイマン自身の精神とは、どうにも強靭なのか。夏目漱石の病理をはるかに凌駕して映画に登場する人物は底なしに苦悩しているように思われる。

 「金持ちが天国へいくのは、らくだが針の穴を通るより難しい」という言葉があるが、言わば知に長けていようと、利己的、自己中心的な精神とは、それそのものが自らの牢獄なのだが、人はその場にただ縛られることを選び螺旋に繋がれた犬のように動くだけだ。
 アンナに象徴される母性の、すべてを受容する無垢な精神だけが本当には神の方にあり、観念の神には不在であることをベルイマンは表現しているように思える。

 実はベルイマンとは難解とは言えないシンプルなことを表現し続けたと思われます。
 それはこの「叫びとささやき」では、映画の終わりに誰でもわかるように伝えられている。死んだ次女の日記の中に書かれた、病状の良い清々しい午後、姉妹たちが見舞いに訪れて、久しぶりみんなで庭園を散歩する記述にあります。

「愛する人たちがここにいる。このとき私は、この一瞬に幸せはあるのだと悟った。私は人生に感謝した」
by past_light | 2011-09-07 17:51 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(6)
「父と暮らせば」 黒木和雄監督
井上ひさしという人の力も、この原作・戯曲のすごさも、あらためて知らされたような気がする。
それが背景にあり生まれたとしても、やはり映画としても素晴らしい作品。

この映画を観ていても、舞台劇としてもきっと素晴らしいものだろうと確信される。
親子二人の広島弁による対話が美しく、しかも深いやりとりばかりで、胸が熱く詰まる。
静謐な背景,場面、静かに映される映像が控えめだからこそ、主題が深く内省的に我々に届く気がする。

黒木監督は映画化を井上さんにお願いするにあたり、映画になれば、「世界に観てもらえる」と快諾を得たそうだ。
それはできあがったこの映画を観て納得されたことだろうと思う。

ぼくとしては、今、現在として、観ていて思わないでいられなかったのだが、原爆と原発を同列に話すと笑う人々がいると思う。が、あえて置き換えても自然と思われるのではないかと感じた。
生物として、人として,命ということを考えれば、むしろつながりを感じての反応は正常ではないかと。

それを、恐ろしさを、肚に真に感じた者、経験したその後の人間の誠実な精神の反応は、この親子ときっと同じだと思う。過去の話ではなく、我々自身に常に問いかけられている命の核心に触れるものだ。

素晴らしい脚本を得た配役としての、宮沢りえも、故・原田芳雄も、代表作になるしかないと身震いの出る濃密な時間だった。
by past_light | 2011-08-29 03:15 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
「天然コケッコー」 監督:山下敦弘
 原作のことも知らず鑑賞した者としては、比較する理由もないので、ひたすら一編の映画として観る。
 まだ少年と少女たち、年下の子供たちと席を並べての田舎の学校生活。その来ては去る四季、自然と共にあることの恩恵、そこに日々彩られていく物語。それは実に楽しくさわやかな情緒を残して記憶されていく映画ということにつきるだろう。

 今更ながら言いたくなる、都市生活で得られることの叶わない、季節とともに移り変わりゆく住民たちの出来事、そこに暮らす人たちのスローペースな心模様、ぼくらがそれをじっくり味わいつつ、人が毎日なにげなく生活することの贅沢をも思い出させもする。

 設定や題材としては、それほど新しいとか斬新とか、そんな部類ではないのだ。が、主人公の少女のナチュラルな存在感が、切ないほど観客の胸に寄り添ってくる。彼女が周りの愛すべき人たちと共に生活する時間のかけがえなさ、愛しさと懐かしさ。それに初恋の記憶のようにぼくらが熱く思いを辿るのは、少女のその等身大の視線が、普遍的にぼくらの心の内奥にある故郷としているものに通じているからである。
by past_light | 2010-06-02 00:55 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
「街のあかり」 アキ・カウリスマキ
最近、観た映画の感想を書くのも、ずいぶん時間が経ってからになってしまった。
今年観た映画は少ないが、昨年の後半は少しふだんより多めに観ていたのだけど、この作品もその中の一本。


前作でカンヌの賞をとってからにしては、この「街のあかり」の評判が地味な印象で期待と不安があった。
しかし、正直実に深い味わいと感動を持って観終えることになった。まったくカウリスマキはここまで来てしまったのか、次回作つくるだろうか、というような杞憂を想起させるものだった。敗者三部作完結という予告もあったというだけではなく。

敗者という意味ではしかし、彼の映画で登場する人物が徹底的に敗れた場所はシステムの中でだけである。
カウリスマキは、もう一度「マッチ工場の少女」の底なしの孤独と敗北感から始める必要があったのだろうか。
 彼自身その後の「浮き雲」の幸福な結末の理由を、制作時のソーシャル的な必要性として述べている。実は彼自身はハピーエンドをいつも望まない人なのだ。

登場する人物の、幸運とはほど遠い出来事と彼ら自身の選択は、なにか剥き出しにされた人間という生物が、物理的に拠り所のない、誤魔化しの効かない領域で、互いぎりぎりからの真の連帯感を見いだす。その通過儀礼の如きドラマである。
 そしてそれはそのままカウリスマキの内面の声として映画から聴こえて来るものだ。

 『俺の女房は「芸術とは単純化だ」という意見でね。これが正しいかどうか知らないけど、俺はちゃんと守っているからね。だって、いろいろのガラクタで飾りたくったら肝心なものがどれかわからなくなるだろう?
 俺の場合はそれは「連帯感」というやつさ』 (カウリスマキ)


★ヘルシンキからカウリスマキファンに愛を込めて
★シネアートのカウリスマキ特集ページ
by past_light | 2010-05-30 16:28 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
「らくだの涙」
以前「天空の草原のナンサ」でモンゴルの遊牧民の家族の日々を描いた監督の最初の作品。驚くことにこれが卒業制作の映画ということ。
過酷なゴビ砂漠での辛抱強い撮影の期間が想像される。

「天空の草原のナンサ」も、ドキュメンタリーとドラマをすごくうまく融合していて、ドラマと言っても作為的な作り事ではなく、結果、家族のそのままの日常が納められるという独特な感じだったけれど、この「らくだの涙」も同じように作られている。

「天空・・」以上に、遊牧民の家族同様、「らくだ」という動物がもうひとつの大事な主役なので、それは撮影の機会をひたすら待つという、作り手の忍耐が感じられる画面でもある。

撮影隊の一番の苦労は、難産の末の出産し、なぜか育児拒否した母らくだと、その後の子らくだの行く末。その母らくだをなだめたり、子らくだの子育てに家族も四苦八苦していく日々、そして治癒までをそのままに追う撮影。
とはいっても、当の映画の中の家族は、ゆったり、のんびりしているようで、なんとなく観ているこちらが日頃から性急で心配性なかなしい現代病のように感じたりする(笑)。

難産の末に生まれた、白い子らくだの砂嵐の中の姿が切ないが、それらの日々にあるも、家族のテントの向こうに広がる風景が圧倒的に美しい。


家族は、母らくだの育児拒否の心を癒すため、街まで馬頭琴の演奏家を探しに男の子兄弟を送り出す。
数日後、家族のもとへ着いた演奏家が、伝統的な治療法である民族独特の儀式を施す。

それは今で言う「音楽療法」というか、なのだけれど、それは音楽の根源的な力を見せつけられる奇跡のような画面が出現する。まず、馬頭琴をラクダのこぶに掛けると、母ラクダの泣き声にその馬頭琴が共鳴して風のような音楽が生じるのがすごい。

そして演奏家の馬頭琴の調べにのせた一家の若い母親のきれいな声の歌を聴いていると、母らくだが心を緩ませていくのが自然に思われる。
やがて、らくだの涙が母らくだの目からぽたぽたと落ちる。

企画として意図されたとしても、起ることは現実なのだから眼を見張り胸が熱くなる。
使い古された言葉で申し訳ないが、やはり「奇跡」に映る。
このシーンのみでも観る価値は大きい。

しかし、それら日常を受け止める家族の淡々と騒ぐことのない姿がなんとも豊か。
「天空の・・」と同じように子どもがやはり素晴らしい。次男ののびのびしたところと、長男のもの静かで優しい表情のコンビが頬を緩ませる。
実在の四世代の遊牧民の家族の暮らし、家族それぞれ自分を日常のまま演じることが、とても新鮮に感じられるつくり。

監督・脚本:ビャンバスレン・ダバー/ルイジ・ファロルニ 2003年・ドイツ
by past_light | 2009-12-17 20:38 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
「マルホランド・ドライブ」  デイヴィッド・リンチ
リンチの大方の映画というのは、世界の暗部を描くかたちとしては圧倒的な形式かもしれない。それの真骨頂にある映画が「マルホランド・ドライブ」だろうか。
初期の「イレイザー・ヘッド」あたりは、その二度と見たくないと思わせ、うなされるような悪夢そのものの恐ろしさ、不快さ、音響もそのままの世界で、恐怖映画の斬新さがあったが、それもマニア的に感じた。
しかし「マルホランド・ドライブ」では、「ツインピークス」から続いているような、現実の世界と繋がり、重ね合わせた世界の暗部、呪術、ブラックマジックに操られた悪意の人物が暗躍し、平静な日常の太陽の光からは隔絶した闇の力が、ぼくらの世界を揺るがして不安になる。

ツインピークスでは、「ブラック・ロッジ」という言葉も散見されたが、これは善なるフォースの集団が「ホワイト・ロッジ」ならば、「ブラック・ロッジ」とは悪のフォースの集団ということである。これについてはリンチは、その神智学的な類いの知識があるのだろう。そういうアイデアを生かして取り入れたという気がしていたが、あくまで物語の要素としてだろう。

健全な性善説の世界で生きている人には、どうしてもあまりお薦めできない。怖がりの方は観ない方が良い。
というより、「マルホランド・ドライブ」の物語を順を追って着いて行きながら理解しようとしたら、わけが解らないということになる可能性が大きい。
むしろ夢の物語が、時間軸も登場人物も、起きる事の次第も錯綜し、パッチワークのように継ぎはぎされ、解きあぐねる自分の心理の解釈も一筋縄でいかない秘密の層をなすように、そんな悪夢の展開を楽しむことがお好きならお薦めしたい。
謎解きにやっきになりたい中毒性もありそうだ。しかもリンチの映画に登場する女性はエロティシズムもブラックマジック的だ。

しかし、あくまでこの映画で描かれたのは、リンチ自身が言うように、「ハリウッドの暗部」を、「抽象として」描いたということで納得できるだろう。
田舎からダンス大会で優勝した女優志願の女性。彼女が夢を描いて着いた土地がハリウッド。その地に着いたときから彼女はマジックにかけられている。その後、彼女はハリウッドの世界で生き、「愛」や「挫折」や「嫉妬」や「憎しみ」を経験し、どうなっただろう。
富の集中するセレブな世界の闇に、平凡なぼくらは馴染みのないブラックマジックがかけられている。
葛藤と罪悪感、そのドライブの果てに辿り着くところは・・。

事の次第は整理すると単純なのだろうが、映画全体で、その世界、人間の暗部の感情が「抽象」として構成された意欲的な作品。キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」をふと思いだした。
こういう映画は作る作者自身の方が楽しいのじゃないだろうか。見せられるほうは、映画の展開に妙に釘づけになりつつも、観終われば、明るい太陽の下で解毒したくなる.
by past_light | 2009-11-23 18:05 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)