2005年 02月 13日 ( 1 )

適当「となりの山田くん」、前説「癒しと慰め」ヘリクツ編つき

 ■前説
 何年も前のこと。録画しておいた宮崎アニメで有名なスタジオ・ジプリのテレビ特番を見た。 上映中の「となりの山田くん」の製作風景などを1年に渡って追ったものだ。
 アニメキャラのタッチからは想像できない、なかなか細かいところにものすごく神経を使って、納得の行くものをつくろうという高畑監督の意気込みが感じられた。多分、観客は見逃して気づかずにいるようなところに大変な労力を使っているようです。
 この題材が発表された時、ぼくもびっくりしました。テレビの似たようなキャラのアニメが昔あって、内容はだいたい似通っているので、「これを映画デ・・」という意外さを覚えたのはやはり誰しも同じだろうと思う。
 宮崎アニメとは真っ向から対照的なものを創ろうという思いもさることながら、ちゃんとこの題材を選択する必然性を強く持って挑んでいるのがわかる、とても面白いテレビ特番だった。

 主題歌のアーティストに矢野顕子が選ばれ、まるで彼女しかないというタイトルソングが生み出されはじめると、難航していた作画の製作が、す〜っとスピードを増して順調に完成に向かうところなど、こんなところにも不思議な縁が感じられる。
 その矢野顕子が企画書を渡された段階で、引き受けた理由を話していた。
 『「癒し」という言葉は消極的な感じがしていたが、この企画には「慰め」と書いてあり、慰めると言うのは家族とかそんな関係の中で、されていく大事なもので、積極的なものだと思う』というようなことを言った。(多分この頃、旦那の坂本龍一の癒し音楽に、ある意味の対抗意識があったのだという感じが見て取れたのはぼくだけだろうか)
 ぼくは、癒しというのは、不特定多数に電波のように流されゆくものという一面もあるだろうと思う。厳密には双方の出逢いと、相手次第で効果とか伝わり方も変わるようなエネルギーのようなものだろうか。現在の言葉の使われ方は別として、本来からいえば否定的には感じない。
 しかし「矢野顕子の言う--慰め」という意味も、家族や友人など親しい関係から、その場のタイミングでしか可能ではないスキンシップのなせるものだろう思った。必要な人が必要な時に、自然に受けいれられる環境が、家族とか親しい間にのみあるものなのかもしれない。
 そういうことで言えば今のこの時代に、あえて--慰める--という言葉を使うのもなかなか勇気のいることかもしれないと思った。
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■映画感想
 観た人はわかるけど、「適当」は「となりの山田くん」のテーマだ。
 この年縁あって、スタジオジプリの、このアニメ映画を観ることになったのは、姪が遊びに来ていて、「スターウォーズでも観ようか」と言うと、「山田くんがいい」ということなので、それでは、ということで観たのだ。

 ちょっと久しぶりの映画館は、自販機の缶ジュースの値段に呆れたり、予告編の歪んだ耳をつんざく大音響や、アメリカ映画の予告編のこけ脅かしは不快で、料金は高くてサービスの悪い映画館に、観客数の少なさを同情できなくなっている自分がいた。こういうことが--適当--だと、先行き不安は解消しようもないと思う映画興行界か。
 しかし「適当」という文字を改めてみれば、「適度に的を得ている」という言葉になるのに、普段「適当だな」とか言うと、かなり否定的な響きに使われている感じがする。

 「となりの山田くん」で高畑監督が意味したのは、ジプリの前作である宮崎監督の「もののけ姫」に対してのアンチテーゼということらしい。「生きろ!」ではなく「適当」というわけだ。
 「もののけ姫」のメッセージは、感じるものにとっては世紀末的サバイバルな人生に、なんとか逃げずしぶとく生きろ、というような励まし、そんな人間的包容力を要求するようなやや大きなメッセージがあったように感じられた。
 それは高畑監督の言うように、そのメッセージの刺激が観客に与えたのは、確かに一時的な興奮を呼び覚しただけかもしれないし、簡単に生きる力を持続的にそこから掴みとることなど、かなり嘘っぽいセンチメンタルなことかもしれない。
 しかし「もののけ姫」が、答のない結末を余儀無くされたようにその問いかけは、観客にとってはどこかこころの深く公案的に存在しえたかもしれない。

 それでは「となりの山田くん」の「適当」はどうかというと、ある意味では、もっと時代の病に深く関わった必然としてあらわれて、今の時に再生されたものではないかという気がする。

 「生きろ」で力が湧いて来る人はまだ、きっかけがあれば自分の足で立ち荒野にひとりで旅することもできる人だ。一方、制作風景の話でも書いたが、癒しより「慰め」が身近な関係から必要とされる人の心の疲労は、実はもっと身近で日常的で切実な出来事かもしれない。そんな人は自分の中から「適当」の感覚の記憶の浮上を必要とする人だろうか。

 --頑張る!--って、どういうことなのか・・、それを先入観を捨て、その実際の--頑張る姿--を直に見つめてみると、意外に自分から望んで発動したものなのか、環境と自身の刷り込まれた観念より圧力を加えられて、むりじいしている姿なのかわからなくなるものかもしれない。それは立ち止まれば見えて来るものなのか。でも、立ち止まることが怖いという人もいる。

 「適当」は真ん中の--感覚--を意味するものだろうか。「勝つことの夢」を追いかける、その過程が時に他者を排除し傷つける、容赦ないイボ猪の突進のようであったりすることもあるかもしれない。それは他者のみならず自らもを破壊することもありうるかもしれない。「適当」はそうテキトーに誰もが持ち合わせているとは言えない、絶妙なバランス感覚なのだ。

 もちろん、どちらの映画のテーマがすぐれているとか、賛成反対を言っているのではないことは明らかなのです。
 こんな話をすれば、「となりの山田くん」が、そんなめんどくさい映画なのかと思われると、ぼくの責任になりそうなので、映画とは全く別物の感想かもしれないし、変な先入観をぼくが与えたら、こりゃまた適当じゃない。実際、子供達がよく笑う楽しい日常的なギャグセンスの笑いに満ちた映画であることを言わなくてはいけない。お母さんの声優役、朝丘雪路が素晴らしい。それからまた、例の矢野顕子の素敵な歌も楽しかった。彼女は「適当」の先生として声も聴ける。

 それにしてもこの感想は、西脇順三郎の「批評はそれ自体、ポエジー(創作)でなくてはならない」という、ぼくの強迫観念かもしれないのですね。で、「適当」かどうかかなり疑わしいのです。
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by past_light | 2005-02-13 20:31 | ■主に映画の話題 | Trackback(1) | Comments(4)

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