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「マリナの瞳」

 日本は四季がわりあいはっきりとあるほうだから、異常に雨の降らない風土という過酷さはなかなか実感がありませんが、アメリカがイラクの前に爆弾を落したアフガニスタンの映像を見ていると、昔この国が緑豊かな土地だった事が信じられないような気がする。

 以前テレビで、アフガニスタンの監督の映画のメイキング、というにはあまりになまなましいドキュメンタリーが放送されていました。途中から観ていて、ひとりの少女が噴水の水の中に縄跳びをしながら走って来るシーン・・。
 監督の「笑顔で、楽しそうに」という指示にもかかわらず、少女の瞳は笑顔をつくる事ができず、悲しみしかないのです。そのシーンは映画の中で希望をあらわすはずの映像でした。監督の弱り果てる顔が映ります。笑顔を忘れた少女の顔。十三才というには、その少女の瞳はあまりに見る者にはつらい。

 別のシーンでは「悲しい顔で相手を見て欲しい。だから悲しいことを思い出して」という指示がされます。しかし少女はすぐに泣きはじめてしまい涙が止まらなくなってしまう。「ただ」悲しい顔でいることができない。またしても監督は困り果てる。 しかし、少女の悲しみはアフガンの歴史であり、戦争と悲惨な経験、過酷な生活しか知らない事ゆえの深い傷と記憶からなのだと監督は言う。

 街頭で物乞いや残飯を得るしか生きていくすべがないという少女や少年たちのつかの間のしごと、映画のキャストとして報酬を受け、食事を貰う。彼らの表情はどちらにしても日本の子供たちを見なれた目からすれば、かるく感想さえ口にする事のできない気持ちがしてくるものだ。

 そして撮影は終わり、少女は単に別れの悲しみというには大きすぎる感情の渦の中に入ってしまったかのように泣きじゃくりながら手をふり帰っていく。

 プリントされたフィルムを前に、セディク・バルマク監督は当初のアフガンの希望を表現する内容を意図した目的をきっぱりと捨てる。希望をあらわしたはずのタイトル「虹」という文字は消え、笑顔のシーンのフィルムはすべて切られ、倉庫に眠る。マリナという少女に出逢ったことで監督は、アフガンの今はまだ悲しみの深さこそ伝えられるべきなのだと思ったのだろう。そして「オサマ」とうい名の映画が残った。(後に映画としてアフガン零年というタイトルになったようだ)少年のふりをして髪を短くしなくてはならなかった少女の生きる姿がアフガニスタンの国とかさなる。
 
 ずっと戦争の中で生きてこなくてはならなかった少女は「戦争は嫌いです。もう二度と戦争になって欲しくない」と言う。
 90パーセントの国民が貧しさに喘ぎながら暮らすというアフガニスタンの今。国内にしかし、いかに問題があるとはいえ、そういう渇いた貧しい大地に、豊かな国の爆弾は落されたのだということは事実なのだ。(2003.6)
Tracked from さるおの日刊ヨタばなし★.. at 2005-09-28 13:34
タイトル : 映画鑑賞感想文『アフガン零年』
さるおです。 『OSAMA/アフガン零年』(2003年)を観たよ。 監督はセディク・バルマク(Siddiq Barmak)、使命感に燃えてがんばって作った作品に違いない。 出演はマリナ・ゴルバハーリ(Marina Golbarhari)、この人は女優さんではない。この映画のとおりに生きてきた、アフガン..... more
by past_light | 2004-11-06 18:17 | ■コラム-Past Light | Trackback(1) | Comments(0)

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