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「埋もれ木 」〜耳をすまし、凝視する世界の「夢」

 ■小栗康平監督の作品はこれですべて観ることができた。なにしろビクトル・エリセを思わせるほど少ない作品の数。それはこの作家の個性と、この時代における商業的な需要ともが関係する。しかしひとつひとつの作品の印象は非常に強い。

 ○天のポイントが貯まったので、DVDを注文し、日本の映画は高いなあ、とぼやきつつもプラス1500円ほどで購入した。1500円以上の映画のDVDを買うなんてはじめてのことだ(笑)。

「埋もれ木 」〜耳をすまし、凝視する世界の「夢」_b0019960_3574139.jpg ■「埋もれ木」が劇場公開された頃、反応をネットで垣間見て、そのなかには戸惑い、または理解不能、という感じの意見も多く見られた。
 前作の「眠る男」をぼくは二日続けて観たほど好きな映画作家だ。実は 逆にその反応の理由はだいたい想像できもする。
 しかしそれは、人として生きるということの中のある意味、非常に本質的で重大な問題を孕んだものだと思っている。それを「埋もれ木」を観おわり改めて気づかされるような思いがした。

 前に小栗さんの本を読んだ時に、この映画に対して業者間の反応にも「この時代にまあよくこんな映画を」と、やや嘲笑するかのものがあったという。小栗さんは内心「この時代だからこそ」という思いがあった。と書かれていたことを思い出す。まあ、ある意味ではそうとうに贅沢な映画作品の創出ではある。

 ■この映画の「ファンタジー」という言葉にもし誤解が生じるとすれば、それは観客側の己の中の澱んだ固定観念としての「ファンタジー」というものを見つめ直すという意味で、もっぱら自らに挑戦すべきものであるものだからだ。
 これほど物語り、ストーリーという形体を解体してしまったことで生じただろう観客の戸惑いの反応とは、言ってみれば従来の幾多の映画を観て、登場する主人公に寄り添ってドラマに着いてゆき追いかけ、展開され映し出される場面、そして主人公の心情を、安楽な椅子に座り、疑似体験して楽しむことを期待しても提供されない欲求不満でもあるだろう。しかしこの映画を幸いに体験する観客にとっては、それは映画を見るという意味の問い直し、自らの習慣化した姿勢、概念の解体でもある。

 ■たとえば映画を観て、そのドラマに、アクションに、楽しみ、おもしろがり、興奮し・・、映画館を出て行楽地から帰る時のようにぐったりし、ぼんやりし、白日の現実の日常が色褪せて見えるなら、それはぼくらが娯楽と言う麻薬を味わったのである。(その楽しみを否定していっているのではない、事実としてである)

 しかし「埋もれ木」を観終った後、正しく体験したなら、日常のいつもの光景、できごとが・・、たとえばあなたが台所で皿を洗う時、その皿のぶつかりあう音は生き生きと聴こえることだろう。自身の手の動きを不思議に思うかもしれない。または蛇口から流れる水の音に耳をすますかもしれない。そこに生活の細部に気づかれずに眠っている驚きがあることを。
 それはなんと、ふだんの日常のなかに「ファンタジー」は埋もれていたということに気づかされる瞬間である。
 既製のデコレートされた魅力的な作り物を与えられ、物語・「ファンタジー」を掘り出す力を失ったぼくらには、自らの現在の地層から、それを能動的に掘り起こす作業、決意が必要なのだろう。

 ■映画の中に印象的なエピソードがある。
 家族に養老院へ入れられると気分を害している老婆は少女たちに、自分の母が山にひとりで入って死んだ話をする。
 母はいつも「山に入ってお迎えが来てくれれば、そんな幸せなことはない」と言っていたことを思い出して語り、「おれは、その頃まだ若かったから、わかんなかった」という。そして、せがれたちにくっついていないと生きていけない自分を「どうしてこんなに弱くなったのか」と嘆く。「だって足がわるいんだから、しかたないよ」と少女たちに慰められるが、老婆は、「そんなことじゃねえ、おれの性根が、・・ちがうんだよ」と叫びむせび泣く。
 物語、神話を失ってしまった現代人の迷いがここにもある。

 ■この映画はぼくらに、自らの内に夢「ファンタジー」を創造する能動的な力を誘発しようと働きかけるが、かといって襟をただし緊張して観なくちゃいけない、ということではない。
 それは、たとえば河合隼雄さんがクライアントに対するときの聴き手としての姿勢のように、「いわば、ぼーっと・ただ聴く・しかし身体ごと聴いている」とも表現されるような受動的な状態で、観客はいたってくつろいで鑑賞すべきものであり、言ってみれば、耳をすまし、静かに見つめることが、ただただ必要とされることなのだ。

 耳をすまし、凝視するからこそ、聴こえてくる音があり、視覚は触覚にさえ近づく時がある。目の前の光景、そこから呼び覚まされる感覚、モネの観た自然のヴィジョン、またたとえばセザンヌのいう「サンサシオン」、そういった感受性にへとつながるものなのだと思われる。
 それはまた、意識の表層から無意識の層へ向かって掘り起こされた夢、ファンタジーでもあるとも言えるものだ。もちろん小栗監督のこの映画の素材は、そうした耳をすまし、凝視された世界から掘り起こされたものだろう。
 推薦のコメントを書いた山田洋次監督が、「誰にも似ていないし、誰にも真似できない」と評しているもの、それはこれだろう。

 ■バトンタッチして遊び繋げていた少女たちの「物語」は、やがて町の住人たちの日常の物語に合流し、それは「埋もれ木」の登場において町が夢を見る盛大な夜になる。そして物語は自立して生き続ける。
 たがいの三つの吊り橋から、「じやあ、また」と別れる三人の少女たちの自立した「夢」がはじまる。

 ■小栗さんの伝えようとするもの、それは「眠る男」からさらに進化して造形化され、実にシンプルにあらわされつくられたたものがこの映画「埋もれ木」だろう。
 しかしそれを紡ぐ作業現場はたいへんだ。CG処理による虚構の使い方も、前作に増して現実の再構成としてふんだんに使われている。映像としてのクライマックスの「埋もれ木のカーニバル」のシーンも美しいが、中盤にある、田舎道を列をなし山を背景にし町のみんなが子供たちと歌いながら歩いてくる夜のシーンが、とくにCGの魅力をよく引き出している。このような夜の場面は、ぼくらの記憶にある肉眼では体験してはいても、フィルムに焼き込まれての再現はできず、スクリーンに映るものではないからだ。
 しかし逆説的には、映画を「つくる」こととは、なんと技術的な能力の集合であるかはメイキングを観ての苦笑、溜息である。

製作・公開 2005年:日本:93分
監督 小栗康平
出演 浅野忠信 坂田明 大久保鷹 夏蓮 登坂紘光
小栗康平オフィシャルサイト
Tracked from ラムの大通り at 2007-06-15 17:31
タイトル : 『埋もれ木』
------おや、頭抱えてるニャあ。 「う〜ん、この小栗康平の新作は分からない。 ぼくには、ほとんどお手上げだ」 ------どういうところが? 「うん。映画は、ある『山に近い小さな町』の ちょっと変わったエピソードが 並行していくつも語られるわけだけど、 最後になって、『あれ?』って思ったわけだ」 ------???? 「果たしていままで自分が観てきた話って、 人間の物語だったんだろうかって。 ネタバレになるから、あまり詳しくは話さないけど、 そういう現実離れしたシーンで映画は終わる。 一緒に観た人...... more
Tracked from てんびんthe LIFE at 2007-06-15 21:21
タイトル : 「埋もれ木」
「埋もれ木」特別完成披露試写会 明治安田生命ホールで鑑賞 本年度カンヌ国際映画祭出品作品、そして今週末6月25日より劇場公開。でもこれが一般人に試写会として見せるのは初めてなのだそうです。開映前に、小栗康平監督と作家で監督の友人立松和平氏のトークショーあり。立松氏は「皆さん幸せね、今日はタダで見られて…」みたいな事ばっかりいってた。わたしは個人的に監督さんの話を聞くのは好きなんです。二人とも「内容には触れない」の連発でこれは一体どういうことなんだろうとかなり作品に対する興味をそそりました。キャッ...... more
by past_light | 2007-06-02 03:58 | ■主に映画の話題 | Trackback(2) | Comments(0)

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