目が離せない

 先日、タルコフスキーの「ノスタルジア」を放送していたので、昔のビデオが痛んでいるので再録画してみた。翌日ちゃんと撮れているかどうか確認のチェックをしていたら、なかなか消せなくて一時間ほどは観てしまった。

 つまり目が離せないというのはこういうことで、アメリカ映画などの「目が離せない」というのと全く意味が違うんだろうか。たとえばむかし、スピルバーグの「インディジョーンズ」なんて劇場で観ていたとき、確かに目が離せなくて楽しかったが、後に二度と観たいと思うものではないとわかった。観終って、まるで遊園地から帰ったような気分だった。どこを捜しても何んにも残っていなかった。それでいいという人もいるだろうが、映画を観るということでいうと、なんとなくうまくダマされているような気分。

 目が離せないのはタルコフスキーだけではなく、ビクトル・エリセとか、日本でいえば小栗康平の映画もそうで、小津安二郎もそうだ。
 考えてみれば、静かで、だいたい派手なドラマが展開するわけでもなく、ときに寝てしまう人がいるような映画。
 目が離せないというのは、映画としての映像としての、息づく命の「呼吸」があるからだろう。見逃してしまうということが勿体無い。そこにひとつひとつの呼吸が、感性の鼓動が連なっているからだろう。
 8mmだけど、つくった側の経験でわかることは、作者というのは何度も何度もそのフィルム、その光と影の造型の世界をしつこいほど辿っているということ。愛し、思考しているということだ。
 こころをなににたとえよう。
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Commented by 蚕豆 at 2006-12-14 03:00 x
ちょっと前に、NHK衛星で、ルキノ・ビスコンティとフランソワ・トリュフォーの映画をやっていて何本か見た。
「恋のエチュード」はリアル・タイムで映画館で見たが、いまひとつピンとこなかった。それが、今回、ああ、こういう映画だったのかと思った。僕も大人になったもんだと思った(笑)。
「しつこいほど辿っている」映画だと思った。造型の部分のみならず、ストーリーの展開や、シーンからシーンへの有機的なつながりとか。きっとトリュフォーの頭の中に「恋のエチュード」の映画がもう一本入っていて、もし原物のフィルムが消えてなくなっても、こういう映画監督たちは即座におなじものをまたつくれるんじゃないかと思った。
で、映画自体は切ない話だった。僕は当時高校生でこんな男女の気持ちなんてすこしも理解できなかった。
個人的な資質? あっけらかんに、直感的に、映画をつくる名人もいれば、ビスコンティやトリュフォーはこだわるタイプだと思う。彼らの「こころ」は、自分に対して嘘になる映画は絶対につくれないことだと、僕は思う。
Commented by past_light at 2006-12-15 01:48
蚕豆さん、やってましたね。ビスコンティは今回は見送りましたが、トリュフォ−はいくつか録画しました。初期の短い映画が放送されたのはうれしかったですね。
「恋のエチュード」、ぼくは封切りではないですが、東京で観たからそのころは二十歳か少し前でしょうか。
そのへんについてはフランソワ・トリュフォー特集を御覧あれ、、もう御覧頂いてますよね(笑)。

その頃観た映画を今頃観たりすると、すごく自分の反応が興味深いですよね。なんだか唖然とすることもあるわけで、、つまり子供の方の役に投影したものがオヤジやじいちゃんに近くなってたり・・(笑)。
by past_light | 2006-12-12 01:44 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)

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