ブログトップ
ルイス・ブニュエルのことからはじめるはなし
 ルイス・ブニュエルという映画監督はもうもちろん亡くなりましたが、シュルレアリスム運動の映画作家の代表みたいな位置にいた。初期のいわゆる実験的な映画には、シュールの画家たちやピカソなども登場したようだ。ぼくが見た「アンダルシアの犬」はサルバドール・ダリとの共同制作だったし、「黄金時代」というタイトルだったと思うが、マックス・エルンストなども映画の中に登場したはず。

 商業的にも映画が有名になりはじめての、そのブニュエルの映画もまた楽しい。それはまるで精神の、創造の、自由とはこういうものだというような産物。
 たくさんの記憶に残る映画があるが、今日はとりあえず過去ログにある「自由の幻想」
や「ブルジョアジーの密かな愉しみ」などに奔放に観られる手法について。
b0019960_1783891.jpg
 つながりを無視し、それまでの配役のストーリーから、展開が、突然話が、すれ違った通行人の方へとカメラと共に進んでしまうもの。こんなことをはじめたのはブニュエルが最初だろうと思う。
 ( 実は手法と言う言葉は便宜上のモノだ。技術というよりも先に、なんらかの内的必然性や情熱、創造性の無邪気さが生み出すものなのだろう )

 今は亡き伊丹十三の「たんぽぽ」という映画でもこの手法が使われていた。
 それから、手法としては一部のみだが、それが美しく感じられたベルトラン・タベルニエの「田舎の日曜日」。娘と踊る老画家ふたりから、踊りの輪にある村の恋人たちへと、誘われるようにカメラは彼らをつかの間追いはじめる。自立した視線のように。
b0019960_176313.jpg
 ブニュエルはこういう映画の手法に関して、たとえば、話の流れに関係なく男が道をジクザクと歩く場面などを、意味ありげに観客や批評家たちは感じたとしても、「なにも意味しせん。あんな風にジクザクに歩かせれば面白いと思っただけです。風変わりですが、でも私にはああしたことが楽しいのです。」と答えている。それからブニュエルは、「われわれは本や新聞や自分の経験を通して、外的で客観的な現実というものを認識し続けているわけですが、映画はそのメカニズムそのものを通して、そうした現実の延長部分への小さな窓を開けてくれる」と言う。
 ハリウッド的な主人公のドラマに見とれている間に、通行人のさやかなドラマもあるのだ。

 考えてみれば、自分という主観からのみ世界を見続けている我々だが、すれ違った通行人の、あわてて走り去った男の、無表情に街角に立っている男の、洗濯物を干している女の、いろんな人の日常のドラマも世界にはあり、ぼくらはさまざまなドラマのネットワークのなかに住んでいるのだなと思う。取り合えずその内につづく。
[PR]
by past_light | 2006-06-03 02:36 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://past.exblog.jp/tb/4899136
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by さすらい at 2006-06-06 00:26 x
登場人物それぞれが、生きて、動き出していく、そんな群像劇のような画面を想像しました。今主役の前にいた人物に物語がはってんしていく、画面の視点も変わる・・・・難しいですね。散漫になってしまいそうで。どれかの人物に軸足を置いてならある程度可能でしょうか。
ブニュエルの作品ずいぶん前に見て記憶柄うすれてきています。「アンダルシアの犬」「ビリディァナ」「フルジァジーの密かな愉しみ」そりから「小間使いの日記」もそうだったかな。今みなおすと新しいはっけんが あるかもしれません。機会があれば・・・・・・
Commented by past_light at 2006-06-06 02:31
さすらい さん、ブニュエルの幾つかの映画は主役が決まっていないですね。
「昼顔」とか「トリスターナ」、「小間使いの日記」などですと、かなり主役のドラマと言う感じですね。
「タンポポ」の場合は、ラーメン屋さんの話に中心が通っていましたが、ブニュエルのはもう目の醒めるような転換だったりします。オリジナリティがすごいですね。
初期から追って見直すのも面白そうです。
ぼくは初期の「忘れられた人々」にはかなりびっくり、シヨックを受けた覚えもありました。あれは教育映画として作られたということもおどろきでした。