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カウリスマキ--生活者への連帯感
 アキ・カウリスマキの映画は、BSなどでよく放映されている。たぶん放映権が比較的安価なんだろう。それにくらべれば今ファンの多い監督であり、ほとんどの作品を一時間半程度で物語をまとめる手腕。それもテレビ放映プログラムを捜す側にはありがたいことだろう。

 フィンランドというあまり馴染みのない国の事情なども、映画で見えてくるその国と、物質的に今はまだ少し恵まれていそうな日本とは異質な空気があるようにも感じられながら、・・いやいや世界の時間が進めば進むほど、どんどんと親近感が感じられるのは、やっぱり世界的な不況という中に住んでいる、そんな生活者の日常の痛みとか悲哀、それが人間として共通性、共感があるからなんだろう。
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  よく放映される有名な映画作家には共通点がある。イランのキアロスタミの作品もそのひとつだ。経済的に大国ではないし、ハリウッド映画のように大金を注ぎ込み、派手なアクション、テクノロジーを消費する、そういう世界観とはまったく無縁なテーマと作り。
 映画の話法からいえば、スタイルは寡黙であり、観客に媚びを感じさせない作品が多い。こういう映画をぼちぼちと観ていると、テレビコマーシャルで流される饒舌な、巨大投資エンターテーメントには食指がまったく動かなくなる。

  しかし、考えてみれば、日本でも過去30年~半世紀ほど前の時代では、映画は娯楽の王様だっただろう。
 小津安二郎などの映画が、ごく普通の生活者のお正月映画であり、お盆映画であったのかと想像すると、なんだか不思議な憧憬を感じる・・のは偏屈モノの由縁だが、小津の映画は今も不思議で寡黙な光を灯し続けている。
そして、 カウリスマキ、ジム・ジャームッシュ、ヴェンダース、・・そんな多くの海外の映画作家たちに影響を与え、かれらの尊敬を勝ち得ている。
 はたして、人を「正気」にする力のある映画とは、意図された饒舌さか、ナチュラルな寡黙さか・・。

 寡黙といえば、 カウリスマキの「白い花びら」は、なんとサイレント映画。以前のコラムの繰り返しだけれども、淀川長治さんが、「小津やキャプラのような映画感覚です」 「チャップリン、バスター・キートンのユーモアも入っています」と、「浮き雲」を解説していたのが思いだされた。
 亡くなった淀川さんは、この数年後の「白い花びら」は観ていないはずだ。なんともやっぱり映画の歴史の生き証人、キラリと光る洞察力のすごさが際立つ話だ。

  「白い花びら」は、あきらかにチャップリンの「街の灯」が意識された映画ではないだろうかと、観終わってぼくには思われた。
 「白い花びら」この映画のものがたりは、かなりシンプルなのだが、しかもいつにも増して悲劇的な結末、が、正直に描けばどうしようもなく、ある「救い」と重なるという、なんとも不思議な結末の生み出されかたなのだ。
 これは単にカウリスマキが好奇心でサイレント映画に挑戦したわけではないということがわかる。
 この昔のサイレントスタイルで描かれた事で、この悲劇的物語を観客が拒絶せずに観ていられるとでも、まあ大袈裟にいえるような、特異な気分のする味わいを持つ映画だった。

★リンク--カウリスマキ特集・ヘルシンキから「滅びゆくもの」への連帯感
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by past_light | 2004-10-09 02:21 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
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