ブログトップ
ダイアリーノートから
■「フライト」(2001.10.20)

今週は福岡へ飛行機で行った。この時期フライトは特別に飛行機嫌いではなくても想像力が妙な方へいく。
まして飛行機嫌いだと、さらなる緊張をしいられる。それは機内の乗客を見ていても、なんとなく共有している感覚だ。というか・・寝たふりしている人が多いような・・。

東京へ帰る日の飛行では、あの離陸の血の気の引く上昇を済ませると、窓際に座ったぼくに、雲海が眼下に見える位置にいるひさしぶりの感覚・・。
地図の断片のような海との境界、陸地に広がる垂直と水平の交差する現代文明のシャープなライン。
たった1時間と数10分で博多弁とお江戸をまたぐ・・その便利さ。

美しく凛々しいスチュワーデスの唇に消えることのない笑みは、彼女達の任務だと理解していても、地上ではなくここでは、おおげさなほど頼もしく見える。
そして想像する・・なにしろ日常的なフライトなのだ彼女達には。

 安全と現代文明・科学技術は相似形にあると思い込んでいたような僕らの日常は儚い幻想だった。

 ぺシャワール会の中村哲氏は「今回のテロ事件は終わりの始まりだと私は思っています。 経済的繁栄と安全が両立する社会が成り立たなくなったのです。 今、日本は少し貧しくなっても安全に平和で暮らせる社会か、豊かだけれども危険と隣り合わせの社会のどちらかを選択しなければならなくなったと私は思います。」と言っている。ぼくもその通りだと感じている。
 そして、少し貧しくなる・・ということの受け入れることの難しい人たちとはどんな人たちだろうなあと思う。

 ワールド・トレード・センターから幸運にも生還した人の話に、その危機的状況で、初期段階には、まだ日常的な感覚の中で人は思考してしまうこともあるという。
 それはひどい場合、残した仕事に帰ろうとする人もいるそうだ。
 また、中村氏は「アフガン・パキスタンでは、250円の薬が買えないためにばたばたと人が死んでいきます。 しかし、扁桃腺が腫れただけでロンドンやニューヨークへ飛んで診察してもらう金持ちがいます。 彼らは日本の小金持ちがびっくりするほどの財産を持っています。 その一方で一発の銃弾の値段は8円です。8円で人殺しができます。」とも言っている。

 安全と贅沢・・・そういえば「100人の村」の話のなかにあるものに、これからの時を、ぼくらはどう反応していくだろう。

■「戦争とは」(2002.1)

 井伏鱒二の特集を先日NHKで観た。映画監督の今村昌平さんが、井伏さんの語りと現代の指導者達の語り方を比較して、井伏さんの低声な言葉を聴いていると、「声高な言葉は信用できない」と言った。
  井伏さんのことは太宰治にまつわる話ぐらいしか、よくは知らなかった。荻窪に長く住んでいた井伏さんは、今ぼくが住む場所から近い距離だったんだなと、テレビ画面のなかで、池のある公園に散歩に来て、ボート管理人と語らう姿を見ていて思う。
b0019960_13452550.jpg 井伏鱒二は訪ねて来る開高健らと酒を飲み交わす。間の多い静かな語り口の井伏さんを、質問攻めにする開高健が子供のように慕っているのが画面からにじみ出てくる。
 井伏さんの度々アップにされる顔から、「黒い雨」の執筆の為取材した頃のことを語る時も、その沈黙の時間のほうが、こちらには雄弁と充実が感じられる。

 井伏鱒二代表作の一つ「黒い雨」の映画化で、今村監督は井伏鱒二原作に忠実に映画化することによって、今までのやや声高な作風から低声の表現の力強さを獲得したのかもしれない。このモノクロームの映像と静かな恐ろしさは、それまで今村映画にやや反発していたぼくの視線をちよっと変えた。

 それから宇宙の特集も観た。ブラックホールや発見されつつある太陽系に似た惑星たちの話。
 遠い未来だが、確実に地球は膨張する宇宙のなかで、いずれ太陽に飲み込まれるだろう。そのころ地球人は新たな住処を求めて今住む太陽系を去らねばならない。もちろんそれまで種が生き延びていたとしてだ。
 ブラックホールにしても、宇宙の星々の誕生と死においてシヴァ神とヴィシユヌ神みたいな存在に聴こえる。
  真空は「なんにもない」という昔の常識は覆り、「真空のエネルギー」がものすごく意味を持つものだということが解ってきたようだ。
 で、こじつけに聴こえるでしょうが、「間」も「低声」も--真空のエネルギー--と関係しているということなんですね。ぼくのなかでは・・・。
b0019960_13434749.jpg ■これからJ.クリシュナムルティという人の言葉を掲載したい。(本屋に行けばどうしても精神世界のコーナーに入れられてしまうインド生まれの教師)

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ■ 戦争

 戦争は最大の破局のひとつである。最大の悪は他人を殺すことである。
いったんあなた方がそのような悪を自分の心の中に容認すると、あなた方は無数の小さな災いを解き放つ。
 あなた方は戦争そのものを責めず、戦争で残忍な人間を責める。
 戦争の責任はあなた方にある。あなた方が自分の毎日の貪欲、悪意、激情的行為によってそれを引き起こしたのだ。
 われわれがこの競争的で冷酷な文明、その中で人と人が対立し合う文明を築いたのだ。

  あなたがたは戦争の原因、他の人々の中の残虐性を根絶することを欲する、自分自身がそれに耽っていながら。これは偽善に、そしてさらに多くの戦争に帰着する。
 
 あなたがたは第三次世界大戦を回避することはできないかも知れないが、しかし自分の精神と心を暴力から、そして敵意を起こさせ、愛を妨げる諸々の原因から自由にすることはできる。するとこの暗黒の世界に、精神と心の清らかな人々が現れ、そして彼らから多分、真の文明が出現するかも知れない。
(1945ー46年にかけての16の講話より)
 
 戦争はわれわれの日常生活の壮大で血なまぐさい投影である。
われわれは我々の日常生活から戦争をせき立てる。そして我々自身の内なる変容なしには、必然的に国家的・人種的対立、イデオロギーをめぐる幼稚な争い、兵隊の増員、国旗の崇拝、そして組織化された殺人を招くおびただしい蛮行が起こる。(「教育と人生の意義」より)
 
 これまで正義のための戦争と呼ばれてきた様々な宗教戦争があった。
が、いかにして戦争が正義でありえようか?他人を殺すこと--いかにしてそれが正義でありえようか?
そしてわれわれの日常生活の憎悪、競争、敵意、威信の追求、--これらが戦争を引き起こすのだ。
そして暴力に他ならない戦争は、まさに無秩序の真髄である。
 
 人間がイデオロギーの域内で生きているかぎり、戦争は避けがたい。
(1965年のインドでの講話より)

         (ススナガ・ウェーラペルマ編--Saying of J.Krishnamurty--より。大野純一・訳)

 ■「レッテル」

 あるものに名前をつけることによって、私は単にそれを一つの範疇(はんちゅう)に入れただけで、それを理解してしまったと考えるのです。そしてそれ以上に細かく見ようとはしないのです。

  しかしもし私がそれに名前を付けなければ、私はそれを見るように強いられるのです。
  私は全く新しく、出会ったものを調べるような気持ちで、その花に近づいていくのです。私は以前に見たことがないかのようにして、それを見つめます。

 命名(名付けること)は物や人間を処理するための非常に便利な方法です。
 あなたは、あれはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言うことによってレッテルをはり、それからそのレッテルを破壊することができるのです。

  もしあなたが人間にレッテルをはらなければ、あなたはどうしてもその人間を見なくてはなりません。
  そのような時、人を殺すということはきわめて難しいことなのです。

 あなたはレッテルのはられたものを爆弾で破壊して、自分が正当であると感じることができます。
 しかしもしあなたがレッテルをはらず、それゆえその対象である独自のもの・・それは人間でも花でも事件でも感情でもかまいません・・それを見なければならないとしたら、あなたはあなたと対象との関係と、そのあとに続く行動との関係を考えざるをえなくなるのです。

 このように命名したり、レッテルをはることは、何かを処理したり、否定したり、非難したり、あるいは正当化するための非常に便利な方法なのです。

(J.クリシュナムルティ--The First and Last Freedom --1954--日本版「自我の終焉」より)


「男性性と女性性の働きを自分自身の内にはっきりと見ることができます。一方または他方が肥大させられると、不均衡が病気を起こすのです。表面的な軽い病ではなく。深部の病気を。
私は個人的に自分自身の内部で、異なった事情や気候のもとで気づいただけでなく、また攻撃的で暴力的なさまざまな人について気づいたのですが、男性性を女性性が引き継ぎ、十分な女性性に取り囲まれる時、男性性は攻撃的でなくなり、何の抵抗もなしに引っ込むのです。・・男性と女性が完全に調和すると、両者の性質が変わるのです。・・・」(ディスカッションより)
[PR]
by past_light | 2004-09-26 02:33 | ■9.11コラム | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://past.exblog.jp/tb/353156
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。