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◆スティーブン・キングのドラマと映画から
1.「恐怖のおとしまえ」

 スティーブン・キングの小説のほうは読んだことが全然ないんですが、映画はテレビなどでも、なにかと観ることが多いですね。
 おっと、そういえば話題の頃、「IT/イット」は、図書館でその異様に分厚い本を借りたことがあったんだ。そしてそれからどうしたかというと、数ページを見て、これはだめだと閉じてしまったのだった。
 だめなのはワタシのほうで、キングに責任があるかどうかは別。
 まずの理由は、その翻訳された文字列を見て、ホントにこういうものなのか、と思うほど汚い言葉の連続だったような気がするせいか。異論のある人も多いだろうから、これは極私的な印象であることは忘れないで欲しい。

 映画の方ではホラーばかりでなく、「ショーシャンクの空に」とか、すぐれたエンターテーメントを筆頭に、彼のファンも多い。いや、作家キングの顔そのものがホラーだと思う人も多い?(笑)。

  BSで以前、スティーブン・キング特集のテレビ作品や映画が放送されていて観ていました。

 「悪魔の嵐」などという古典的なタイトルだが、いかにもキングらしいと思われる、閉ざされた環境の中で起こる恐怖。それは聖書のシンボリックな記述が、よくアメリカでホラーとしてモチーフにされて扱われることなども思い出させる。テレビ用の作品だが90分の三回連続のモノだった。

 アメリカのちいさな島の田舎を舞台にすると、町民全員が親族のように切り離せない運命共同体になる。そういうベタベタとした怖さもある。日本だと「八墓村」みたいな状況だと思えばいいのかもしれない。 しかしそれにしても、なにか一部の宗教には「恐怖」を道具として、人の頭脳とこころを麻痺させ、人を--信仰?--に向けさせ、コントロールしたいがためのようにしか感じられない伝統があるようなのが、ぼくにはいつも不快だ。
 テレビで盛んに「神を畏れよ」「悔い改めよ」・・と偉そうに説教するテレビ牧師がこのドラマでも映るが、それそのものに、「ホラー」が根付く環境を与えていると思う。
 強迫的なるものにぼくは真実も真理も感じない。むしろ強迫的なものの想念の物質化・形象化、それがデーモン・ホラーだろう。
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 特集では後日「IT/イット」も引き続いて放送され、奇怪な機会なので楽しみに観た。
 なるほどこういう話だったのか。分厚い原作の本の理由は、30年を経て、ふたたび子供の頃の恐怖の体験と向き合う、かつての少年少女たちの恐怖の原点との再会のものがたり。

 しかしホラーの悲しさは結末を用意しなくてはならないことかもしれない。
スティーブン・キングが分厚い本を精力的に書き続けるのは物語の結末からの逃走なのかもしれない。彼には「恐怖」そのものが関心の核心なのだろう。恐怖の生まれる構造とも言い換えられるのか。
 ・・だから「物語」は、かならず終わらなくてはならないので、無惨だったりする。無惨とは、「IT/イット」でも地底の大王・「巨大蜘蛛」だったりする。
 エイリアンみたいな蜘蛛が、死の象徴だったとしてもSFX映像にしたら・・もうだめだ。 ・・だから結末はどうでもいい。「恐怖」とは?、ということを考えさせてくれる作品として観ていると、ぼくらも自分の「恐怖」との対決、いやその正体を確かめるヒントにも、ちょっとだけなりそうな気もする。


2.「Horror it Hello」 ・・恐怖よ、こんにちは 

 「IT/イット」の話をつづけると、7人の少年少女は、それぞれみんな苛められたり、家庭に問題があったり、コンプレックスが強かったり・・と、誰でもがいくらか覚えがあるような苦しみにもみえるが、それがしつこくかれらの日常につきまとう。
 そしてそれを自認する「よわむしぐるーぷ」なのだが、自覚した全員だからこそのように、かれらは団結し、楽しく遊ぶこともできる。
 誰もが他のみんなの苦しみを感知し知っているので、助け合うし、やさしく友の肩を抱くことができる。

 子供が忽然と消えたり、残殺されたりする小さな田舎。そこの大人たちは「恐怖」を、見て見ぬ振りをしてやり過ごす。
 ・・だから「おれはお前らの恐怖の象徴だ」というピエロの姿をした「IT」は、長く長く生きていられる。
 ついに逃げられないと感じた子供たちの決意、ここでは対決するという選択がされる。それは自分たちの個々のかかえる「恐怖」と対決する、ということと彼らには同じなのだ。

 地下下水道の闇の中に、その「恐怖」は居る。 この「恐怖」が最も困ることは、「怖がらない」ことだろう。冗談みたいに聞こえるだろうが。向かってくる戦う勇気ではなく、怖がらないこと・・。
 映画の話の上では、物理的にも戦って傷ついたり、やられたりもしてしまうし、・・やっぱり「恐怖と戦う」というメッセージのように受け取られてしまうようなお話に見てしまいそうなのだが、それはそれとして観客も力が湧いてくるとは思う。
 しかしもうひとつ感受されるべきものとして語られているもの、それは自分の恐怖と「向き合う」という話だ。
 といっても、目の前にナイフが突き付けられ、今にも食べられそうだというような、生体の危機を目の前にした緊急の場面の話ではない。そんなときはホラー映画を見ているような安楽な恐怖を抱く暇もないだろう。
 それは普段ぼくらが心に抱く、なじみの恐怖のハナシだ。


 3.「Halo(後光)」

 ギリシャ神話の勇者ヘラクレスの十二の苦行のひとつに、こんな話があるそうだ。
 だいたいの話は・・
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 「九つの頭を持った怪物ヒドラが洞窟に住んでいた。ヘラクレスは彼の師に、その怪物を征服するようにと命じられた。師はこう助言した、「神の子であり人の子なる者よ、我々はひざまずくことによって甦る。身を任せることによって征服する。放棄することによって得る。さあ、行きなさい。」

 洞くつに出かけたヘラクレスは恐れなかった。襲ってきたヒドラの頭を一個切った。ところがすぐに新しい頭が切った所に今度はふたつ生えてきてしまった。他の頭も切る度に、その頭はふたつに増えてしまった。 身の毛もよだつヒドラの頭を全部を切ったが、頭はすぐに再生し、とうとう最初の倍に怪物の頭は増えてしまった。

 やがて、ヘラクレスも疲れ切って力を失いそうになったとき、彼に、あるアイデアが浮かんだ。彼はヒドラの弱点を突然悟ったのだった。
 彼は怪物に掴みかかり、暗い洞窟の中から、外の日の光の中へ引きずり出した。 怪物は途端に息絶えて死んだ。」

  夜、歩いていたり、自転車に乗っていたりすると、灯の少ない暗い道のちょっと前方に、とぐろをまいた蛇がいるように見えることがある。
 もちろん、それはトラックなんかが落したと思われるロープの切れ端なんだが。うす暗い中で見ると、冗談抜きに蛇のように見えることはある。
 ・・よく見るとたしかにロープだ。また、もっとよく見ると・・蛇だ(笑)。こんな時、想像力が働くと、ファンタジーホラーみたいなものだ。
 ロープを見て跳び退いたり戦う人はいないだろうが、蛇だったら注意深くサッと跳び退くだろう。ロープが蛇に見えても跳び退く駄労?。
 明るい陽の光の日中には、ほぼ見間違わないものだが、薄暗い夜道ならはっきり見えないせいもあるのだ。

 生きていく中でのさまざまな不安とか心配、やはりそれは恐怖とも言い換えられるだろうか。
 ぼくらが怖がるものには、はたしてすべて実体のあるものなのかどうか、よく光に照らして見てみたいものだ。
 ・・と、怖がりのぼくも思っているのですよ。

 人が生きていくなかでも、ぼくらは自分で生み出したものに幻の体を与え、それに恐怖を感じることがあるのだろう。
  そういう意味では、ぼくらの人生も、ヘラクレスの難行に縁遠いというわけでもない。
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by past_light | 2004-09-24 17:53 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(2)
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Commented by acoyo at 2004-09-24 19:03
ITのラストは、身内のキング・ファンの間では「なかったこと~」扱いです。
>しかしホラーの悲しさは結末を用意しなくてはならないことかもしれない。
>スティーブン・キングが分厚い本を精力的に書き続けるのは物語の結末からの逃走なのかもしれない。
……ここ、唸りました。負けました。何でそう、アホな私がうまく言えないで七転八倒してることをさらっと書いちゃうんですか。もはや嫉妬の塊(笑)。
Commented by past_light at 2004-09-25 02:37
「なかったこと~」というの、賢い選択ですね。(笑)

「どんな映画でも、なにかよみとれるものがある」なんて、誰かのように悟りすましたようなことは言いません。(笑)
入場料金かえせ〜、時間をかえせ〜・・とも言いません。
けちょんけちょんに昔は映画館でけなしました(笑)。
キング映画は、プロセス、それが楽しい。