2005年 08月 20日
Abomb
もし、あなたが自我の中心からくり出す欲望を原動力とした無慈悲な行為から自由であれば、何の問題もない。
しかし、あなたが我の内からにょろにょろとのびる蛇の頭の存在に気づいているなら、他者と言う分離壁があるなら、想像力はまだそれなりに持ち場がある。
風の強い公園でタバコに火をつけようとぼくはライターを押した。なかなかつかないので、手をかざし風を防いでガスの出力を最大にしたら、吹き上げた炎で指の間をほんの何秒か焼いた。かるいやけどだ。
ひりひりするので、近くの水道の蛇口をひねり水を手に流した。その間は気持ちがよかった。ヒリヒリすることは消え、水の冷たさの有難さが身に染みた。
だが、手を水から離して数秒もすると、焼け付くようなヒリヒリ感がもどった。ふたたび水に浸すとウソのようにそれはまた消える。
何度かくり返すことで、ふと思った。
原爆の下で身体に大火傷を負い、水を捜して生き絶えた人々や大火傷や放射能の後遺症に苦しみつつ生きた人たち。
ほんの軽い指の火傷ですら、そのヒリヒリする痛みはたいへんなのだ。
まして、爆撃の下、火の海で襲う「痛み」とは、想像を絶するだろう。絶することだからといって、すこしも想像できないわけではない。それはちっぽけな痛みからでさえ。
公認された、計算された暴力とは、痛みを知らない机上で、想像力の枯渇した人間に悪魔が囁くアイデアでもあるだろう。
そして無意識なる暴力も、ぼくらの精神のいたる隙き間をくぐり抜けようと狙っている。
by past_light
| 2005-08-20 19:33
| ■コラム-Past Light
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