「いつものアウトサイダー」

 先日、本屋で老子関係の本を立ち読みしていたら、また読んでみたくなった。
 けっこう西洋でも「老子」は関心を持って読まれているという話もある。ロシアのトルストイも愛読していたらしく、訳書さえ出版しているという。
 また「タオの心理学」、「タオのリーダー学」なんて経営に関しての本もある。アメリカらしい発想で、たぶんカリフォルニアあたりの風なのかな・・。ぼくは「タオの心理学」は最初に老子に関心を持つにあたって関係した思い出のある本だ。

 本屋で見比べたいくつかの現代語・口語訳を見ているとけっこう違いがあり、好みもあるが、意味の伝わり方もずいぶん違って来そうな気がした。 それらの本のなかには逆輸入的な語句を駆使したわかりやすいものもある。しかし問題は生きたものとして老子の言葉が響くかどうか・・なんだろう。 もっとも難しいのは、言葉にされているものの実際の意味を誤解なく理解するということだろう。読み方によっては現代にそぐわない古臭い話のようにも、またちょっと表面的には指導者的な立場、政治家なんかが誤解しそうなくだりもある。しかし他のところでは彼らにはきっと最も難しい資質が要求されるように聞こえる話もある。

 それはそうとして・・、この紀元前に現れた--道(タオ)--の思想は思想である以前に、老子が実際に理解していた世界・自然・命・・の、まんまの姿、様相、根源を基盤に見据えた智慧かもしれない。人の一生の様々な問題を根っこから溶き解くほどの何かがあるようにも感じる。書かれた時代は遥か昔だが、書かれている内容の中にある当時の権力者の姿や、国と国、人と人の間で日夜演じられるねじれた無限芝居は、今でも進化論を葬りたくなるほどそのまんまである。 ことにこの日本を背景としてタオの話を読んでみると、まるで逆の常識が多くの人のステータスなんだろうかとも思う。 まあ世の中から落ちこぼれたと思っている人の(ボクかい)単なる慰めになっては、これもまたいかんでしょうが〜・・、ちよっと味わってみたい現代社会の永遠のアウトサイダー的な話をお聞きください。

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 「たかのしれた社会」

ぼくらは、人にほめられたりけなされたりして、
それを気にして、びくびく生きている。
自分が人にどう見られるか、いつも気になっている。しかしね、
そういう自分というのは、本当の自分じゃなくて、社会と関わっている自分なんだ。

一方、タオにつながる本当の自分があるんだ。
そういう自分にもどれば、人にあざけられたって、笑われたって
ふふん、という顔ができるようになるんだ。
社会から蹴落とされるのは怖いかもしれないが、
社会の方だって、いずれ変ってゆくんだ。
大きな道をちよっとでも感じていれば、くよくよしなくなるんだ。
たかの知れた自分だけど、同時にたかの知れた社会なんだ。

もっともっと大きな「ライフ」というもの
それにつながる「自分」こそ、大切なんだ。
そこにつながる「自分」を愛するようになれば、
世間からちょっとばかりパンチをくらったって
愛するものが他にいっぱい見つかるのさ。
世間では値打ちなんかなくっても、
別の値打ちのあるものが、いくらでも見えてくるんだ−−
金でなんか買わないですむものがね。

社会の中のひと駒である自分は
いつも、あちこち突きとばされて
前のめりに走っているけど、
そんな自分の中には、
もっとちがう自分があるんだと
知って欲しいんだ。


加島祥造・訳  タオ--ビア・ナウ--老子 (パルコ出版)
この人の新訳も他の出版から出ているようです。
これは著者の潤色された意訳ですね・・。それはそれで・・でも読みやすいでしょう。
(2000.8月・記述)
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by past_light | 2004-09-04 01:34 | ■Column Past Light | Trackback | Comments(0)

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