2004年 12月 22日
もとの木阿弥陀さま
前にテレビで見た木も、数百年はおろか生きのびてきて、ある日、人にはいったん枯れかけていたように思えていたその古い大木に雷が落ち、それで死んでしまったのかと思えば、太い枝やからだの一部が裂かれたというのに、逆にそれで再び生き返るきっかけになり甦って花を咲かせたという。
人間も時に逆境によってダメになる人ばかりではないようで、それをかえってバネにして活き活き生きるきっかけにしたという逞しい話もある。
そういう話を知れば、見習わないとなあ、なんて思いながら観ていたりするが、翌日には忘れている(笑)。
雷が落ちて甦った木も、逆境により新たに道を開いた人も、ある意味では、今まで自分につもり積もった無駄なものを排除する、浄化するという機会になって新しいエネルギーを得たということなのかもしれない。
猫などを観ていて感じるのは、調子の悪い時、健康のすぐれない時、誰に文句をいうということもなく、 ひたすら休息し、眠り、静かに回復を待っているように見える。
そういう時、じたばたしてもはじまらないことを見せてくれる。
人間はなまじ考えるというか、正確には、うだうだと迷うとか、あれやこれやと心配し想像を巡らすというエネルギーの浪費に落ち入ることで損をしているような気がする時がある。
だからといって「よし、悩まないぞ」なんて決意しても、だいたい元の木阿弥になっていることが多い。
じたばたしないで、ゆっくり休み、または腹を据えてじっと待てるか。
「わかる」というのは、頭の中ではなく、「腹でわかる」とか表現もあるように、もっと深いところで起きることなのだろう。
それが「自然体」という、または「無為」というような境地なのか。
人間は、植物や動物より思考機能とか自由意志を発達させたが、元からあった、自然に備わったような能力をかえって喪失しやすい傾向にあるのだろう。
by past_light
| 2004-12-22 20:32
| ■コラム-Past Light
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