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「グーグーだって猫である」
家は猫好きだから、ということもあるが、だからかえって登場する猫のポジションの扱いにも逆に厳しく観てしまう。
けれど、やはり猫に深い縁のある人が観るのと、そうでない人が観るのでは楽しみ方が多分に違うだろうという映画かもしれない。

猫の映像を見るだけで何割方の満足感を得てしまう場合は、映画の全体のできには寛容になりがちだ。
ところがこの映画にはもうひとつ客観性を持つには難点があり、なじみの土地が舞台になってしまうというのも大きなファクターで、この映画の舞台は吉祥寺なのだ。
家はずっとこの近辺を移り住んで暮しいている。映画は相当地元にサービスされた街の紹介がされていて、それも楽しんでしまうということもあるし、現実よりもフィルムの中の街は仕方なくも美しく、楽しげでもあるのだ。
加えて少し贔屓(ひいき)で観る主役の小泉今日子、そして上野樹理も、森三中、加瀬亮などの配役、それにかわいい猫が登場するわけだから、人には、観て損はないよ、と言うことになる。
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現在形の猫、「グーグー」の活躍は物語の中ではいまいちだけど、この映画の主題はじつはタイトルのとおりで、主人公の漫画家が先に飼っていて映画の冒頭で生涯を閉じる「サバ」という猫の存在が、主人公のこころに沈殿していて、映画の締めくくりまで存在は大きい。
十数年共に暮した「サバ」との主人公の気持ちの整理がつかないままに、「グーグー」が寄り添っている時間が描かれている。それだから「グーグーだって猫である」んだよ、ということになるんでしょう。

こういうところが、観客に同じような体験とか気持ちを共有できるかどうか、これは大きな違いになってしまう。
最初に飼った猫という存在はやはり大きくて、だいたい若い頃に、ひょんなことで捨て猫とか巡り会うことが多いし、後先など考えずにとりあえずアパートとかに連れて帰るとか・・、そしてその後の生活の変化、激動の、葛藤の時間を共にしたりし、そしてなんとか十数年を共に生きてくれていると、猫との暮した時間も鮮烈に思い出が多いものだ。

だいたい二代目の猫が、その飼い主のこころの空白を埋めるような癒すような、そういう役割を全く拒否することは難しい。といっても人間側からのことで、こと猫自身には関係のないことだ。おかまいなしに行動してくれるから、かえって埋めたり癒したりしているわけだけど(笑)。
この主人公の漫画家の夢で、あの世の「サバ」は、人間としてコミュニケーションをする。「のほほんと、あまり注意して見てあげられなかった」という飼い主の思いと、「ううん、とても楽しかった」という「サバ」との静かな対話の時間が、同じような思いをした人には痛切かもしれない。
そんな夢から主人公が嗚咽しながら目を醒ます経験は、多分多くの人が共感するものだろう。それは飼い猫や飼い犬などに限らずである。

つくった映画監督は非常に映画的なセンスのある映像と語り口を持っている人だという感想。一昔前までの映画監督にはこういうセンスの映画作りができる人はあまりいない。
若い人かと思ったらそんなには若くなくてそろそろ50代だから、たいしたもの。いや、映画全体として見終わっても、よい読後感があるみたいにこなれている印象を残すから、そこには年の功もあるかもしれないし。
コメディセンスとシリアスなシチュエーションとを物語としてうまく融合し、けっこう切ないけど楽しいみたいな、都会の街に日々吹いている風みたいな後味のある情緒を残した。
公式サイト
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by past_light | 2009-10-25 19:23 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
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