2008年 12月 28日
だれでもよかった、という異常な渇き
今、毎日のようにニュースの文字にある「派遣切り」、というなかにある当事者の路上でのインタビューだ。
ひとりの男性は、以前営業の職にあった。成績は芳しくなく自分にも向いていないので、派遣の仕事に移ったが、今のような情況に仕事を無くした。
それでも他の同じような情況に遭遇している人と共通するように、そういう状況に陥った原因の一端を「自己責任」という言葉で自らに向ける。
それはなにか痛々しい響きだ。調子良く政界を後にしたふりをしているライオン丸の流行らせた言葉じゃないか。製造業への派遣制度を産み出したのは誰だったか。
路上で暮すようになった男性はしかしこうも言う。
「でも、なんだか仲間を助けたいというか、いうと、やさしい気持が湧いてくるようになって」
「営業で忙しくしているころは、自分のことでいっぱいで、他人には目もくれなかったと思う」
以前、マザー・テレサが日本などに訪れたときにも言っていたいう言葉が思いだされた。
「この国などに見られるように物質的先進国は豊かですが、その国の人の精神には餓えが蔓延しています」
今年の傷ましい事件のなかに出て来た言葉に、「だれでもよかった」という字幕が多かった。
それは理不尽で不可解でおそろしい言葉だ。しかし、今、大企業という怪物が見せている「派遣切り」とか不定期労働者の大量解雇に、そもそもの起点からまさにその同じ言葉を連想してしまうのはぼくだけなんだろうか、と思う。
by past_light
| 2008-12-28 02:39
| ■コラム-Past Light
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