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2012年 05月 12日
子どもの頃、親戚の子の家にしばらく厄介になっていた時分のことだ。
誘われるままに町の映画館に行った。当時は人口数万の田舎にも各館特色を持った映画館が10館近くあった。誘われたのは当時のアイドルグループサウンズメンバーたち主演の映画。が、これからの話は、二本立ての、方や一本の勝新太郎の「座頭市」のことだ。思えばこれがぼくの最初に接した座頭市なのだ。 その多様な角度からのカメラワーク、江戸時代の村や町の人間臭いリアリティに実にこだわっている。そしてなにより勝新太郎=座頭市のキャラクターの存在感。彼の動物的感性とも言えるようなアドリブ臭さい熟れた演技、、と今だと説明するわけだけれど、もちろん当時はなんにも考えないで、映画が始まるとそのスクリーンにたちまち釘付けになっていた。 勝新太郎が動物的な役作りに拘っているのは、物を食べるというシーンによく表れている。(この映画だったかは忘れたが、市っつあん、映画が始まるとさっそく牢屋の中、這いつくばって床に落ちた食い物を貪るシーンから始まったものだ。) なのに親戚の子は、お目当てのアイドル映画が終わったので、退屈そうに「もう帰ろう」と言うのだ。 厄介になっている手前というか、でもないけれど仕方なく共に帰ることにした。しかし、頭の中では座頭市を狙う殺し屋どもの、水たまりのあぜ道を走る足下の映像が頭に焼き付いたまま、制止していた。 そこで、最近放映されているテレビドラマシリーズの「座頭市」を録画し観ている。 もともと映画のシリーズも幾本もあり、それはぼくの子供時代から続いていたわけだ。やがてシリーズはテレビに移り、最終章はぼくが20代後半あたりの記憶だから、かなりの長寿のキャラクターだ。 TVシリーズでも、爽快というよりどちらかと言うと暗いトーンだ。毎回登場する各地のヤクザはほとんどどうしようもなく悪だし、村人は貧しいし娘は売られるし、上は悪代官だし。作りとしては、かなり省略形のダイナミックな物語運び。今のテレビ視聴者についていけるだろうか。いろいろ考えても現代では制作されそうもない。テレビ側にしてもだからこその再放送なのかもしれない。 中でも昔大変な印象を残したテレビシリーズがある。座頭市ファンでも有名な「最終回-夢の旅」を先日再び観る事ができた。 悪酔いし悪夢にうなされるが、夢のなかで座頭市の目が開く設定で、全編に夢の感触の満ちたシュルレアリスムのテイストの、テレビドラマではかなり稀有な存在の作品だろう。 しかしもっとも目に焼き付いていた場面の、目が開いてかえって勘が狂い、座頭市の切られてしまう手足がバラバラに散らばりもがく姿のシュールなカットを、なんと今回観たら「カット」していたようだ。このシーンは夢の描き方として映画全体のスタイル上で大事なカットででたいへん残念。他のシーンは忘れていたことも多いのに、このシーンだけは記憶に焼き付いているのだから。 今回知ったが、この回は「砂の女」など、安部公房作品をよく映画化していた勅使河原宏の演出作。彼の演出のドラマは、視聴率などを無視したようなかなりテレビの枠をはみ出した挑戦的な作りだ。また特にこのシリーズでは、当時のATG映画的な前衛スタイルや、その時代の映画監督たちをよく起用している。これは自らもよく監督を兼ねた勝新太郎の選択だろうと思われる。監督・黒木和雄の演出では、映画でも共に仕事をした原田芳雄が登場したりと、毎回玄人好みの映画寄りの作りだった。それも勝新太郎の存在と己の制作プロダクションの力あればこそだからだったんだろう。 勝新太郎の存在感と、そのパーソナリティからも醸し出すオリジナリティの強さ、台詞回しのアドリブ的な抑揚など、もう今の役者の世界では見いだせない種類のものかもしれない。また彼の歌も、先日ユーチューブで画家のバルティスの前で演奏しているビデオを観たが、三味線の腕もかなりのものだ。また、自ら監督の映画版も、シャープな演出の監督としての才能が豊かに現れていたのに感心したこともある。 勝新太郎の「座頭市」は勝新太郎が作り上げたユニークな人物像である。可笑しさと哀しさと切なさと無邪気さ・・、特にユーモアと殺気とのブレンドされたキャラクターは他に代えられない魅力。子供とよく遊ぶ設定も多い。それは良寛のエピソードすら思い浮かばせる。 つまり座頭市のキャラクターの底から滲んで浮かび上がるのは、幅の広い、人間のさまざまな複合的な味である。 しかし、数十年前もの映像になると、勝新のみならず、登場するすべての役者がもうこの世の人でないことも多くなり、ふと不思議な余韻を残すものだ。 2012年 05月 02日
太宰治は、もしかしたらある男性像の典型を生涯、それを演じたのではないかとよく昔思った。
物語り作家としての才能も並々ならないのに、自己に矛盾した愛憎に振り回されていたのではと。そのような作品も結果書かねばならなかった。 この映画の人間像も、人間失格の人物像にしても、精神の底に感じられるものに真実の苦悩を感じないのだ。この時代、破壊的な人生を演じるのはなにか世の中が許容した、ひとつの男像のスタイルであったような甘えが透けて見えるのは何故か。 演じれば演じるほどに人間に無理が祟る、葛藤に疲れる。支離滅裂な人間として家庭では破壊者として君臨する。 ひるがえれば、この時代のこの男たちに付き合う女とは、なんと強い精神と肉体を与えられたものか。 それに甘えた男たちと女の物語は、今も続いているだろうが、このヴィヨンの妻は、女の無垢の不気味なほどの強さが男を震え上がらせさえする。彼女の上に立つ男の精神は見当たらないだろう。 松たか子のキャスティングには不安があったが、見終わればなかなかに素晴らしい役だった。 浅野忠信のキャスティングには不安がなかったが、むずかしい役で、鑑賞しながら、型にはまらないように、と願うような不安が生じた。 現代に生きる生活者にとれば、非人非人とはむしろ社会の上層に住みつつ、自我の欲望に無意識なまま精神の成熟から遠くへだたって、誠実な人間性を喪失した者たちこそに与えられるべきものだ。 「生きてさえいればよい」は、簡単な言葉だけれど、いつの時代にも生活者の底から立ち上がる声だ。 2012年 03月 03日
「風の又三郎」 原作:宮沢賢治 監督:村山新治 脚本:清水信夫 1957年
この映画を観たのはたぶん中学生の頃のことだった。 しかも学校の図書館で授業の中で、ある先生が観せてくれたのだ。 先生は誰かは忘れたけれど、きっとその先生自身が感銘を受けて生徒に観せたいと思ったのだろうと今では思う。 フイルムは16ミリだったんだろうか、それとも8ミリフイルムとして学校に供給されたものだったのか。ずいぶん古さを感じる画面だったが、監督:村山新治版の「風の又三郎」の製作年は、いま調べるとぼくはすでに生まれていた年だ。 壁にかけられた白い掛け軸を広げたような画面に、陰影の深いモノクロの又三郎の映像が現れ、あの「ど・ど・ど・・」の印象的なフレーズの歌が流れた。 実に不思議な体験だ。又三郎が風とともに図書館の暗闇に現れたような幻視的な体験だった。 映画全体の記憶とか、その出来映えの善し悪しとか、つまり思えば少年には二の次である。 美術授業の中でスライド画面で観た巨匠たちの絵も、シュルレアリスト画家の絵のみにあらず、すべて言わば少年には「超現実」であった。音楽の教材として授業で聴かされたシューベルトの魔王のレコドの時間には頭の中で完全に映像が動いていた。 田舎の中学の、日々なかなか文化的な接触の少ない時間の中で、一人の先生が紹介してくれる映画や絵画や音楽、それらはなんとぼくらの記憶に深く刻まれていることか。 そのような体験を子供に与えられることこそ、教育というものの中にある一番の人間的な恩恵じゃないだろうか。 考えれば以前からだが、そういう話があまり語られない教育の世界に日頃から何かぼくは大きな違和感を覚えている。 そして、この映画「風の又三郎」は、そんな印象的な、強く記憶に残る映画のひとつとして出会った作品。 CGはおろか、せいぜいモンタージュ合成された映像で表現された風の中の又三郎。そのシンプルな映像との出会いの体験を、大量に安直に映像に接することのできる、いわば感性が麻痺しやすいこの時代に、もう一度できないものかと思うし、子供たちにも出会って欲しいという気がする。 2012年 02月 09日
大地康雄が企画・脚本・製作総指揮・主演。とクレジットで驚いたけれど、映画の製作に対しての思いが伝わるできあがり。
物語の始まりから登場する富田靖子との、農村でのほのぼのエピソードから、いざ急展開。 次に関わるルビー・モレノとの経緯で舞台がフィリピンに移ってからの意外な展開といい、観ていて物語に引き込んでくれる。 富田靖子もルビー・モレノも、なんと前半の短い登場だけの贅沢な配役で心残りするほど。 ルビー・モレノは久々だったけれど、すごく女優の質、才能を感じさせるいい演技だと思う。ぜひ女優を続けて欲しいと思った。 フィリピンで失意と放浪の後の主人公の大地康雄の活躍。 それについていく観客としては、フィリピンと日本の関係のリアルな現実 (いわゆる例えば人身売買的に世界のベストテン、10位の日本のこと) などを見せつけられる。我々も複雑な思いでドラマを観て行くので、主人公の心の軌跡と重なって、ドラマとして成功している。 やがて出逢うアリス・ディクソン演じるフィリピン女性が素敵。 その素敵な女性との出会い、そこから映画は (門外漢で恥ずかしいが) 農業の面白さ、苦労などのメインテーマに回帰する。 観終われば、わかりやすい構成だけど、制作者の誠実な気持ちが余韻に残る。 しかし、実のところその茨城の農家も、きっと苦しめている「現在」の放射能のことも脳裏に浮かばずにはいられない。 大地、自然の恩恵、そこへの暴力が、食する人間や生物に還ってくること、事実として忘れてはならないことだという思いがさらに強くなる。 2012年 01月 01日
2011年 12月 31日
![]() 今年は正直に言うと、地震の後の原発事故以後の日本という国に不気味、日陰に隠れていた正体のブラックな面が真昼に照らされたように露に感じられた。 でもそれって、日本だけじゃなく世界が牛耳られている力で、人間が自我の欲望の幻夢から造っているものから自ら生み出している苦しみか。 たとえば先日TVで山本太郎と森永卓郎の会話を観ていてだけど、森永って時には言うことがマトモだと思っていたけれど、原発に関しては経済的な思考からその後もいつまでもどうどうめぐりしている。 経済に頭から突っ伏している人間は、生命という地点からの想像力や感性に、どうしても停止した神経回路を持っていて、生命的な危機を察知できない病を持っている。 世界を知ったつもりで、生身の人間の必要から隔たった、皮膚という外皮をさえ無駄に包み込んだ仮面の表面のような感じがする。あまりに人工的な加工品の世界に来てしまい、ライブなコンタクトも破壊された格納器のようだ。溶解した燃料棒のような脳。 原発の安全神話とはまさに象徴的だった。未知を知らず既知の領域でブライドを養育する脳。 イノセントに生きる場や力を奪い、留まることなく欲望するために危険なものさえも作りたがる世界を続ければ、自然とのバランスも崩れ、いずれ厄介な地点に至るのは想像できる。 グローバル経済世界って、単に物理的に、個的に、比較し合い競争し合い奪い合うものなら、ふざけた、恐怖を基点とした馬鹿の集合体だ。 「たかが電気のために原発なんて」小出さんのシンプルな言葉。 素朴に考えてみる。子どもみたいに。 来年からさらにぼくはそうしたい。 2011年 12月 24日
![]() 今夜はイブだね。いぼじゃないよ。 んなことより、当店へようこそ。 ぼくはシェフじゃなくてこわれた客寄せの呼び込みなんだけどね。 それに今年はみんな大変だったね。 いろいろ言いたいことはあるけどね。 言いたい人たちは、ぶにょぶにょしていて好きくない人たちでしかも耳がないんだ。 イエス様は、はいさまだね日本ごでは。 今夜はイブだよ。いぼじゃなくて。 メリークリスマス !! ということで、昔の記事で再見! スクルージじいさんは、けちでしみったれ、町のみんなのきらわれもの。 「ふん、にんげんなんて、すきじゃないのさ」 なんたって、わしは高利貸し、容赦ないビジネスだもん。 金はあっても使うもんか。・・ぼろぼろカーテンにぼろぼろベッド。 死んだ同業者のマーレイの亡霊に、「俺のようになりたいか」と忠告されるけど、 「そんなものはしんじないぞ」 一番目の幽霊は過去を見せてくれた。 「しあわせだった、彼女と結婚するはずだった。おれはばかものだ」 二番目の霊は現在の霊だ。 「人生は楽しまなくっちゃな。気がつけば終りの時だよ」 三番目の霊は、一番こわい。 「たすけてくれ ! すっかりわかったよ。こうして教えてくれたのは、まだ望みがあるからなんだ」 「クリスマスキャロル」。 スクルージじいさんが、クリスマスの朝、三つの悪夢から目が醒めて、人生を大好きになり、生まれ変わるシーンのすばらしいこと。 聖書のはなしに「放蕩息子の帰還」というのがある。 もともと良い子もいいけれど、神は放蕩の果てに疲れ果て、そして気がついて、わが家に帰ってくる息子を、たいそうお喜びだと言うことだ。 なぜなら、なくなったと思っていた捜し物が見つかったのだ。死んだと思っていた息子が帰ってきたのだから。 みなさん、そして高利貸の人も(笑)・・メリークリスマス!!
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