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「バベットの晩餐会」~芸術家は貧しくありません~
 久しぶりに一本の映画のことを話してみたい。

 「バベットの晩餐会」という、随分昔に見たデンマークの映画。
最初が三十年ほど前で、当時住んでいた街の近くの映画館でやっていたのだが、その時は実は観ずに終わった。

 上映中の頃、たまたまこれも暫く振りに街で出遭った友人が、ちょうどその映画を観た帰りで、「ぜったいSさん向きだから観た方がいいですよ。」と言われていたのだが、なんだか結局上映中は観ずに終わった。その後、暫く経ってテレビで観たのだった。
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 当時、何故食指が動かなかったのか考えれば、聞けばグルメ映画の部類なのか?、と誤解しそうな世の紹介記事にも責任の一端はあった。

 そのテレビで観てのことだが、なるほどと、彼が薦めてくれた意味は当時、半分ほど理解した。
何故半分くらいかというと、説明すれは、同じく、同じところを感じていたとしても、頭で感じるのと肚で感じるのとの違いということだろうか。
 そしてまた30年ほど経ってみて、同じ映画を再び観れば、誰だって感じ方のポイントとか、深みとか違うのは当然なんだろうが。いや、何か根源的に達しなかった場所へ達するような実感、というのもあるものだろう。

 映画の原作者は、デンマークでは紙幣の絵柄にもなったという、女流作家カレン・ブリクセン(1885~1962)ということ。
 1987年度のアカデミー外国映画賞を取った。ガブリエル・アクセル監督作品。

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19世紀後半、デンマークにある海辺の小村。牧師である父の家庭に生まれ、父の死後の年月も流れ、意志を継いで永遠のように信心深く、慎ましく生活を送る姉妹。
姉妹は村の清貧な生活と信仰のシンボルのような存在だ。

そこへ、花のパリから政変のために逃れて来たバベットという女性が、姉妹の前に倒れこむように現れる。
妹のかつての恋人でもあったフランス人歌手の、「彼女は料理ができる」という手紙に手にして。

使用人を雇う余裕などないと思うが、無給で良いというバベットには無下に断れず、そうして姉妹と三人の暮らしの物語は動き出す。
バベットは閉鎖的でもあった村人の警戒を、すぐに解いてしまうような不思議な女性だった。
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清貧そのものな暮らし、姉妹の食卓。慎ましすぎるほどに禁欲的だ。味覚を楽しむなどという習慣など全くないに等しい。
そこへ料理人として腕をふるうことになるバベットなのだが、姉妹は食事を楽しむということは元来望んでもいないこと。

それでもパリでは才能ある料理人だったバベットは、非常に限られた日々の予算からも工夫を試みるのだが、限られた素材自体の質素さもあり、なかなか満足の行く料理を作るということもできないでいる。
ある意味では芸術家のフラストレーションが堆積する状況でもあるわけである。

しかし、ある時買った富くじが当選する。それはパリに戻って生活を立て直す事のできるほどの金額だ。
しかしバベットは、およそ今後、人生最後であろう彼女の料理人としての才を、思う存分発揮することに費やすことにする。

姉妹にとっては念願の、亡き父の生誕100年の祝い。
長年親しく懇意の信徒を招きたい晩餐会の料理。それをバベットがすべて任せて欲しいと申し出てくれるのはありがたい。
ありがたいが、彼女のせっかくの賞金からの出費だ。辞退したい思いもある。しかし、この家での最後の頼みだろうと思い、バベットの申し出を受け入れる。
招かれる客は11人だ。

やがて村には注文された食材が運ばれてくる。
生きた海亀やウズラ、・・いわゆるフランス料理の第一級の食材、高額なワインなど・・。村人には目にしたこともない食材。それらから連想される晩餐会の食卓は、悪魔の食卓かと姉妹と村の人達は恐れ戦く。

このあたりからのユーモアのある描写も興味深い。
映像には寒村の暗さが基底にあるのだが、この映画全体にかよっている温もりのようなものは、この辺にも理由がある。

しかし晩餐会に腕をふるう料理は、バベットの懇願でもある。そこで姉妹と招かれる村の信徒たちは、食事についてはけして語らず、なにが出てきても黙して食するようにという合意がなされる。
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やがて次々と運ばれてくる皿を、黙々と平らげていくお客たちには、驚きと至福に登り詰めていく表情が現れる。当初の怖れは優しさに満ちたの表情へと変化する。
バベットの一世一代とも言える創造的な食卓は、パリの名店の味を承知した招待客の一人、旧知の将軍を除けば、姉妹と招かれた村の信徒たちには初めての味覚ばかり。
運ばれてくる料理に驚き、「これはパリで、以前一度だけ食べたことのある絶品と同じだ」、饒舌に解説する将軍にも、ただ黙って頷くだけだ。

信徒たちには、実は何を食べているのかさえ理解できないのだが、晩餐が終わると彼らは天の国でダンスするかの夜だ。

幸福な一夜が終わり、姉妹たちはバベットに礼を言い、パリへ戻ってまた、その才能を羽ばたかせるだろう彼女を讃える。
しかしバベットの口から、「賞金は晩餐会に全て使ってしまった」と聞いて驚く。
そしてこのまま、姉妹の使用人としてこの村で暮らすのだという。

姉妹は「それでは一生貧しいままですよ」と、バベットに言わば慈愛の言葉をかける。
そしてバベットから毅然として、いや当たり前のように発せられた言葉が、「芸術家は貧しくありません」だった。

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 長々思い出しつつ粗筋を話したが、つまり、この言葉の響き方が30年前とは違うということだった。

 それは、「武士は食わねど・・」とか、プライドとか、「物より魂」とか、そんなニュアンスのメッセージではない。

 バベットの内にある創造性や想像力、繊細さ精神性・・、およそそれは、幸にも人にとって与えられた内的な豊穣である。
 それはまた、清貧の中で精神性豊かに生きてきた姉妹と、ある意味では通底する阿吽の言葉でもあるだろう。

 言ってみれば信仰も芸術も、同じく昇華された場所が天の国なのだ。
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# by past_light | 2016-06-13 02:45 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
謹賀新年
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あけましておめでとうございます。
元旦から、天候に恵まれてのお正月になりました。

振り返れば、旧年中はブログの更新もしていませんでした。
私的には内にも外にもいろいろありますが、時にはここにも戻ってこようと思います。
ホームページ開設の時代からの時間も振り返れば、インターネットのスペースも相当変化した感じがします。ツイッターもフェイスブックも一応やってますが、個人的には情報収集ツール以上に活用していない状態です。
私事としては内外ゴタゴタ・オタオタし、クリスマスもお正月も健忘気味だったのですが、とりあえずはご無沙汰していますお詫び、そして新年のご挨拶です。

皆様にも本年が良い年になりますように。
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# by past_light | 2016-01-01 11:56 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(1)
「貧すれば窮する」からベーシック・インカムまでの対話
随分前の、さすらいさんの書き込みからの結構長い対話を読んでいたら面白かったので、再録しておきます。
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Commented by さすらい at 2009-08-21 22:43 x
「貧すれば窮する」というような言い方がありましたが、「食うために生きる」状態から解放されれば、あたりを見回す余裕もでき、視界が広がってきますね。立ち止まって考えるゆとりのあるのは重要です。

Commented by past_light at 2009-08-22 01:27 x
「貧すれば窮する」というのは誰しも実感あることじゃないでしょうか(笑)。
それから「貧すれば窮する」は言ってみれば泥棒の動機にもなるわけで・・(笑)。
ユングの話に、イエスが磔の際に、同じく磔にされて隣にいたのは「罪人」であったというのは象徴的なことだ、と言っておりまして、色々沈思黙考する話です。

Commented by さすらい at 2009-08-22 04:37 x
「働けど働けど我が生活は楽にならざりじっと手を見る」余裕も無いです。イエスはざいにん使いだったのですか。ローマ総督は処刑には消極的だったようですが、同胞のユダヤ人の中に強硬派があったようで。イエスも言ってみればその時点ではユダヤ教の改革者ですから、宗教者同士の確執はそのときからあったわけですね。

Commented by past_light at 2009-08-22 16:16 x
イエスが磔の際、のはなしは、ユング自身ではなく、ユング派のマリア・フランツの本からでした。意味的には以前,スピーチのページに書いてました。以下のようなものです。

「人間がすべて適応しているとしたら、世界は一体どんなことになっているか?
間違った行動をする人間が何人かはいるはずで、彼らは正常な人のスケープゴートとして振る舞い、 興味の対象になる。
犯罪小説などのありがたいことは『よかった! 私は罪を犯すような人間ではなく、完全に潔白だ』と言えるからである。
あなたに代わって悪い人間が悪事をやってくれるので満足を覚える。
これは救世主としてのキリストが二人の泥棒の間で磔けにされたという事実の深い意味である。
これらの泥棒たちも、また彼らなりに人類の救世主なのです」

この話は、軽率に読むとやや危険かもしれないが、その深い意味を感じる方には心動かされるものだと思います。 と感想を書いてます(笑)。

Commented by さすらい at 2009-08-22 23:05 x
人間がすべて適応しているわけではないというのは、適応への途上にあるということか、すべて適応はあり得ないということなのか・・・考え込まされるお話です。間違った行動をとる人は、そうでない人のための物差しということでしょうか。鏡のようにどうしても必要な存在と。

Commented by past_light at 2009-08-23 01:15 x
>鏡のようにどうしても必要な存在と。
これは近いだろうと思います。人のふり見て我が身を思え,と日本にもありますか。
映画なんかだと、「カタルシス」ということで、恐怖映画とか犯罪映画の効用が言われもします。が,ただ、さすらいさんのおっしゃるように「適応の途上にある・・」という人類の、心理的な解毒剤のようなものでしょうか。
我々が「悪」と呼ぶものが、我々に認識されるというのは,我々の内部に同じ素因が「ある」から、わかるのだ、ということで、もし「なければ」それを「悪」とは呼ばないというか,認識できないというか・・。
ただ、このはなしは、あくまでたとえというか,隠喩のようなはなしなのでしょうね。
ユングは集合意識」などのレベルを考えていた人ですから,「適応への途上にある」人間というのは,個人のように見えて、群れなして川へ飛び込む羊のような、いわば団体ヒステリー症状を見せる場面があるということでしょうか。ちょっと話バラバラですが・・(笑)

Commented by past_light at 2009-08-23 01:18 x
ちよっと著者の意図とずれているかも知れないので,
「人間がすべて適応しているとしたら、世界は一体どんなことになっているか?」
とありますので、これは「適応」というのを疑っているということでしょうね。
たぶん逆にいうと,「適応」しているように見えるのは、人間の社会生活におけるような顔の表面だけだから,ということで、・・。

Commented by さすらい at 2009-08-31 17:30 x
なるほど、自分の中にないものは認識不能かもしれませんね。外に見えているものの大方は、ちょっぴり自分の中にあるものなのかも。
「適応」の定義が難しいです。今ある社会レベルの状態は「適応の第1レベル」とでもかんがえてみたら、より進んだ適応というもののイメージができるかもしれませんね。

Commented by past_light at 2009-09-01 01:15 x
延長線上で考えると,大方の問題って、「悪」にしても、相手にばかりあって自分に「ない」と思い込んでいる場合の分裂が根っこになりがちなんじゃないかと思いますね。「正義」だと自分にあって,相手にはないと思いがちだったり。
「適応の第1レベル」というのは面白いですね。
同族を殺戮するし、自己チューがなかなか治りませんし,いろいろ思えば,ぼくら人類は、宇宙的に、スタートレック監査によると「適応の第1レベル」かもしれません。

Commented by さすらい at 2009-09-01 23:43 x
「悪」と「正義」の単純な括りわけは、一神教徒的発想ですね。たいていの場合相手が悪だと思っているから,双方にとっては正義の戦い、正義の旗をみんな立てていることになるのでしょう。始末の悪いことです。スターレックとは懐かしい。どうなったら「適応の第2レベル」になるんでしょう。

Commented by past_light at 2009-09-02 17:59 x
一神教徒的発想が西洋やイスラム独特かというと、ぼくは疑問です。
たぶんそもそもが人間の自己の視野のみで思考したものを絶対視するところにも共通したものがありますし。宗教だけでなくてイデオロギー的な意味でも同じかなと思いますね.
宇宙的な「適応の第2レベル」はなんでしょうね。
まず分離的な相対的な価値観を乗り越えて「地球市民」という一体感が育って成熟することだろうかなと思います。

Commented by さすらい at 2009-09-03 01:00 x
歴史の記録に残っているものでは、エジプト18王朝のイクナトン(ツタンカーメンの父)が最初に一神教的な宗教を始めています。信仰の対象は太陽だったようですが。モーゼの出エジプトはそのあとですから、ユダヤ教はイクナトンの影響を受けているという極端な説もあります。いずれにせよ古代人はそれぞれ部族のトーテムを持っていたのではないかと思います。始まりは自然への畏怖でしょうか。
国教や国や民族や種族や宗教といった副次的文化の壁がなくなったとき「地球市民」が誕生するでしょう。何世紀かかるかわかりませんが。

Commented by past_light at 2009-09-03 02:33 x
自然に対する畏怖は今でも人の心にはあるでしょうね。
太陽礼拝のようなシンボリックな単純なものは表面的にはあまりありませんが、無意識的にはけっこう影響しているものだろうともおもいます。
ユングのはなしで、患者の中に太陽を見て頭を揺らしている人がいたので,どうしてか尋ねたら「太陽の性器が左右に振り子のようにふれているのだ」というような答えを聞いたらしいです。
その後,神話の絵の中にそういう絵を発見して、患者が知っているとは思えないもので、驚いたということで,集合的無意識などの例として上げている素材です。
それは他者が利用すると宗教的なマインドコントロールが成立もする内面世界の暗部ですね。

Commented by さすらい at 2009-09-04 00:59 x
本能的に反応してしまう部分は今も残って居るかもしれません。怖いとき身がすくんでしまう例など。体内時計の実験の話を聞いたことがあります。周囲と遮断された時計ない部屋の中でしばらく過ごしていると、その実験では、25時間を1日とする周期があったそうです。理由はわかっていません。太古地球の自転が25時間の時があり、それがDNAに刻みつけられているかという論議になりました。理屈的には、月の引力によるブレーキで地球の自転は少しずつ遅くなっていくわけで、25時間というのは理屈に合いません。
どこまでをマインドコントロールと考えればいいかわかりませんが、同じ祖先なのに現代のような人の多様性は,文化という名のそれぞれのマインドコントロールの結果かも知れません。

Commented by past_light at 2009-09-04 01:23 x
本能的というと、やはり動物的なものなんでしょうか。必要なものもありそうですからね、これは白黒、言えないですね。
無意識に流されるという言い方もありまけど、意識化できないでいるものは意外に身近にあるのを忘れがちだと思います。
やっぱり元に戻りますが,(笑)他者にだけ悪を背負わせる癖とか・・。
洗脳は条件付けられるという言い方に換えられると思うのですが,妙な宗教などだと、もともと自分が望んでいるものを信じてしまうとも言えますが,騙す方だけが問題じゃなくてやっぱり騙される方も問題を温存している。

Commented by さすらい at 2009-09-06 00:03 x
何かとんでくるとまぶたを閉じるとか熱いものに触るとすぐ手を離すみたいに反射的に動くものは脳細胞が関与しない防衛本能でしょう。意識化されているのに,自分でそう感じていないものは多いですね。例えばいわれのない差別意識とか、きれい・きれいでないの判断とか。昔のマンガなどでは、悪人は悪人面に善人は善人面にかき分けていましたね。娯楽映画なんかの登場人物も,なぜか悪人は悪人専門俳優がいて、正義の側はハンサムだったりして(笑)偏見とか先入観とかいわれるもののなかにそうとうマインドコントロールがはいっているのでしょうか。最も、善と悪の違いなんてのはないのかもしれませんが。自分の意に沿わないものは皆悪にくくられてしまいます。ゴキブリなんかもその被害者かも(笑)

Commented by past_light at 2009-09-06 02:18 x
正義と悪が奇妙に同等になるのはイデオロギー的な考えが多いですね。
保守的な考えからするとリベラルは破壊的で危険とみなされ、一方が多数派だと少数派のときは迫害されますし。赤狩り,もあり、逆にブルジョア的だ、と避難されたり、と双方が繰り返す世の中というのも実は同じ根っこでしょう。

Commented by さすらい at 2009-09-06 23:07 x
レッドパージに文化大革命。鏡像でしょうか。右左に関係なくむき出しになったときの人々は怖い。そこへ誘導した人間はいたのでしょうがマインドコントロールというか刷り込みをされたひとたちの集団行動はすごい。入院中に、80歳の近い方がいましたが、選挙のポスターを見ながら、「自民党しかない。共産党なんてとんでもない」ということをいつまでも言っていました。現実の状況と関係無し。そのかたは生活保護を受けてやっと生きている方で、言ってみればブルジョアの反対側にいる人なのですが。一度すり込まれたことはいつまでも残るのですね。意識とは関係無しに。

Commented by past_light at 2009-09-07 01:30 x
そうですねえ、、そのお爺さんのように刷り込まれたものは自ら解毒するしかないのでしょう。
もうすでに自分で考えないで洞察もせずに、長年条件づけられた精神は漂白剤も効かないですか。それこそこわいことなのですが,そういう疑問も持たない人も多いでしょうね。

Commented by さすらい at 2009-09-08 23:14 x
最初に深く考えた上での結論というのでなく、いつのまにかすり込まれちゃって解除できなくなってしまった思考のようです。そういうことの積み重ねの上に社会が成り立っているのだとしたら、自ら解毒というのはすごく難しいことでしょうね。

Commented by past_light at 2009-09-09 00:53 x
そうですね。他人は変えられないですね、少なくとも無理強いして洗脳でもしないと(笑)。
だから、洗脳したがる輩は多いんでしょうね。
意外に凝り固まり鵜呑みにされた考えとか価値観などは、ころり、と洗脳されて刷かえられて狂信者に早変わりする人も多いんじゃないかと思います。
仏陀が「犀の角のように独り歩め」と言った意味は、何事においても通用すると思いますね。
人の考えにただむやみに自分を追従することの、その依存する危険の警告も含蓄されている感じです。

Commented by さすらい at 2009-09-09 02:49 x
卑近な例ですが、4年前のコイズミ劇場でわっと票が自民党に行ったかと思ったら、今回政権交代ムードでまたわっと票が民主党に行く、こういうのもある種のマインドコントロールと言うことですかね。政権交代といいながら、民社や共産へは票はそれほど流れません。
自覚無しに集団行動を取るところが怖いです。経歴から見てどう考えても政治には素人に思える人でも、知名度が高いと当選するというケースはたくさんありました。

Commented by past_light at 2009-09-10 01:47 x
小泉時代の選挙のときはぼくもびっくりしたのですが、ネットの知り合いなども女性に応援者が多くて,その後アフガン,イラク攻撃あたりから彼女たちもジュンちゃんとは呼ばなくなったようですが(笑)。
今回の選挙は「政権交代」に対する期待感が一番の要因だと思います。そのくらい多くの人が目に見えて世の中がおかしく見えて居たのではないでしょうか。
受け皿は民主しかなといういのは気持ちはわかります。よく言えば、数的にも可能性的にも民主しかないので,なんとか勝たせたいという気持ちがあるでしょう。
ある掲示板で読んだ中にはいつもは共産だけど民主に入れた、自民から民主に入れた、という書き込みも見ました。
社民と共産がなかなか伸びないのは、数,勢力的な問題と、ややリアルさが多数の世相の空気になかなか浸透できない党自体の問題もあるでしょうね。
それから、少し意見が違うのですが,ぼくはアマチュアがどんどん出てきた方がいいと思う方です。
プロにはない,それまで普通の感覚で生活していたり、様々な分野で感じていたことを取り入れて行った方がいいと思います。

Commented by さすらい at 2009-09-10 02:25 x
コイズミ政権のあたりから優勢さ得解決すれば何もかも良くなるというようなまやかしの政策が、具体的な形でたくさんのひずみを作って忌諱した。格差拡大は象徴的ですが、構造改革や新自由主義がなにをもたらすかを肌で感じてしまったのでしょうね。庶民に側だけでなく、会社なども安い派遣社員で済ませて、無駄だと思ったら切り捨てるという調節弁のような発想が強くなりました。昔のように会社の中でじっくりと人材を育てるという発想よりも、「即戦力」というような言葉で、育てることをなおざりにしてきてしまいました。この付けは、人材や技術力の低下という形で顕在化してくるだろうとおもいます。

Commented by past_light at 2009-09-10 20:07 x
基本的に世界経済がグローバル化して生産地が散らばって賃金格差の問題とか出てきて、国際競争が激しくなって、自国じゃ人は使えない,とかさまざまな経済システムの問題が、企業から「情」を排除させる理由になっている一面はあるでしょうね。
効率化、機械化されて行く大量生産の段階とかはこれからもますます進むでしょうから,雇用を従来の考え方では維持するのがむずかしくなるでしょうから,ベーシック・インカムのような案は必然として語られるようにもなったともいえるでしょうね。

Commented by さすらい at 2009-09-10 20:27 x
昔の社会主義の国で、地域によって,工業地帯、農業地帯というように割り振って人を動かしたり教条的に計画経済をして失敗した例がありますが、グローバル化という流れの中で「世界」という規模で農業立国、工業立国というような色分けが出てくるかもしれませんね。日本などは、自給率40%で貿易立国になり、その基幹産業も海外に拠点を移したりしています。さながらいろんな実験を繰り返している世界のように見えます。ベーシックインカムというのは、その込み入った世界への一つの答えになりますかね。

Commented by past_light at 2009-09-11 01:45 x
>ベーシックインカムというのは、その込み入った世界への一つの答えになりますかね。
なると思います,ぼくなどは。もちろん世界的にこの仕組が発展したらですが。
それからベーシック.インカムが万能というわけではないことは皆承知していると思います。ある程度最初の段階じゃないでしょうか。
ヴェルナーさんのはなしだと、ドイツは国内生産や国内需要機運が増すだろうという話をしていましたし、まだわからない変化とかもありそうですね。
それから確かに冷静に見れば暑い国,寒い国、とか特徴が各国気候でもあるわけですし、資源も違うし、得意分野も違うし、から,世界的に再分配制度ができるのがベストで、もしかしたら正常に人類が生き残るにはそれしか道がないのじゃないかとも思えます。

Commented by さすらい at 2009-09-11 02:38 x
世界や人間の状況を考えるにつけ、想像力が悲観的な方へいってしまいがちですが、ベーシックインカムのような,人の挑戦が続いていると言うことで少し安心しました。この話題は勉強になりました。ありがとうございました。

Commented by past_light at 2009-09-11 02:53 x
アメリカの医療改革のニュースなどを観ていても、反対する共和党とか利権に絡む人たち,・・なんだあ・・と人間の身勝手さを痛感しながら悲観的になる気持ちがおきますが、悲観的になるのはちよっと飽きたので(笑)、なんとかよいことがなるだろう〜と(笑)。
「結果に執着せずにものごとを進める」リーダーが取りあえず日米にいそうな気がするのが明るい材料です。

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# by past_light | 2015-05-01 16:28 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)
新年、明けましておめでとうございます~うっ。
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あけましておめでとうございます。
ネット友人も過去の人が多くなりましたが、ワタシは今年もネット住人も続けます(笑)。


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# by past_light | 2015-01-01 00:24 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(0)
もっとお付き合いしたい隣人
震災後1年、放送された、前・後編のテレビドラマ。
キルトが幾つもの小さな個性がつなぎ合わされた生地で構成されるように、人のつながりもかくあればというドラマだ。

b0019960_18311951.jpg山田さんのドラマは近年「老い」の先について、生活者視線でのテーマの展開が増えた。
笠智衆さん出演ドラマでもテーマとして描かれていたが、むしろ山田さんにとって現在の方がより切実なテーマのはず。
それは、それぞれ時代のドラマを観ていて、大きく左右しドラマの内容にも影響していると感じる。
こちらも同じく年齢を重ねているわけだ。一歩遅れてではあってもじわりじわりと心と体の距離も近くなっている。

自立しながら近しい人達、隣人と、楽しくやれないか、誰でも想像はすることだ。
このドラマのキルトの家のような場所の存在は、どこでも探せばなくはないものだろう。また作ろうとすれば作れないはずもない。
が、そこで問題になるのはむしろ人間の個と個のつながりについての方のことだ。

山田さんにいつも感心するのは、こんなめんどくさいテーマに果敢にと言うか、いや、ふわりと、自然に取り組んでしまう誠実な脚本家であることだ。
自分にある問題の必然性と、世の中にある問題の必然とを、ごく当たり前に合わせ鏡にして、自らの答え、そして社会の可能性としての物語りを洞察していこうという、いわばテレビドラマ脚本家に存在の少ない作家性だ。

幾人もの魅力的な登場人物が、老いの先を案じて様々な選択をしていく。
むしろ無理矢理選択しないでいることも、やわらかい多様な選択なのだということもある。
継ぎはぎの面白さ、美しさ、可能性。
山田さんはいつも決定的な答えなど声高に言うことはない。
知らず知らず頑なになったぼくら生活者の思考に、もうひとつ角度の違うやわらかい光を当ててくれる人だ。

「キルトの家」山田太一脚本

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# by past_light | 2014-12-21 18:34 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
勅使河原演出の「アントニー・ガウディ」
もうずっと昔に、今はなくなったらしい吉祥寺のバウスシアターで二度ほど観た。
少し横道すると、バウスシアターで再び二度目に観た時はお正月で、その時は二本立てだった。
そのもう一本はユーリ・ノルシュテイン の「話の話」で、初めて出会ったこれも独特なアニメ。
手描きの可能性の頂きを感じさせるアートな作品だったが、お正月に観るにはちょっと暗いよねと隣の席の配偶者に言われたものだ。
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それからテレビでも観たし、テープに録画しても観た映画。記録映画のジャンルだけど勅使河原宏監督の演出と武満徹のサウンドトラックが、単なる記録ものではない独特な味わいを持った映画として、創造性のあるドキュメンタリー、オリジナルにしていたと思う。

資料的な意味合いや記録を主に置けば、外観や建物全体の作りとか、また成立ちの歴史的な背景などのナレーションを詳細に、それらがメインになる場合が多いかも知れない。
が、勅使河原作品では単に少ない字幕の説明が時折加味され、ひたすらガウディ建築作品の細部をカメラで舐め回すように撮る、ディテイールに食い入るような視線をカメラに託していた。

ガウディの建造物のディテール、それに武満さんの音楽が共になっての画面は、本当に至福な静寂の瞬間を時折感じさせた。瞑想的とでも言えるだろう。
またスペインの広場の賑わいや街の夕暮れの情景、映画エンディングの旋律、それら音楽は映像にセレナーデのように付き添い、詩情と叙情を持った一編の物語のように、映画が成立していたのではないかと思う。

勅使河原さんの作品は、後期の「利休」とか、初期作品が好きなぼくにはあまり評価できないものは別にして、どれもなかなか再放送もされないので観る機会の少ないものだが、この作品、一時間10分ほどのテレビ放送枠にはマッチしない作品でもあるから、残念ながら今後も難しいかもしれませんね。
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# by past_light | 2014-12-01 18:56 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
佐々木昭一郎&中尾幸世
なんと「四季ユートピアノ」を見逃してしまった。しかし翌日からの4本はなんとか観ることが出来た。

佐々木さんの作品は、主に今はどうかと思うNHKが生み出せた貴重で最良の映像作品であり映像作家だろう。NHK遺産と言いたいほど。
しかしまあ十数年前ほどまでは唐十郎演出などのドラマもあったから、経済的にはそれほどでないはずの大方のテレビ局が、志も精神も劣化しているだけかもしれない。
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ぼくは正直言うと、明るくポエジー溢れる映像と、陽光の中の自然が背景にある作品ばかりから出会ったので、初期の作品をじっくり観るのは初めて。
たしかいくつかトーンの暗さに意外に思ったのはその後だった。つげ義春原作の「紅い花」のドラマも観たはずだが、その時も佐々木さんがこの原作をモチーフにしたのは意外だった。

その最初に出会っていた明るい作品とは、「夏のアルバム(1986年)」や「クーリバの木の下で(1987年)」だ。今でも当時録画したVHSのビデオテープがタンスに仕舞ってあるはず。
特に夏のアルバムの、あの爽やかさ、キュートな旅情、風のような詩情は、日本のドラマ放送作家の存在にして、信じられないほどで驚いた。
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ところで初期の作品となる、マザー(1969年)、さすらい(1971年)や、よくこんなに前衛的実験的なテレビドラマを放送できたと思う、夢の島少女(1974年)など。登場する主人公は、だれも社会の中心で陽を浴びている少年少女、青年ではなく、片隅の周辺で生きている。
妄想と現実・事実とが入り乱れての時間の進み方は、難解で抽象的と思われがちだが、よりリアルな人間の精神・心理状況を描く方法として現実感があるものだ。

『夢の島少女』での中尾幸世さんと、その後の『四季・ユートピアノ』や、『川の流れはバイオリンの音 〜イタリア・ポー川〜』(1981年)になどつづく海外ロケものとの、それら彼女の存在感の幅の広さというか、それはいわゆる女優というジャンルでは言い表せない独特な在りかた、存在感だ。市井の人、いい意味の素人感というか現実感というか、これは稀な人ではないかなと思う。

佐々木さんの褒め言葉としては十分すぎる説得力のある「うん。見ていて飽きないんだよ、あの子って。」という言葉に頷くばかりだ。
初登場の『夢の島少女』で、なかなか決められなかった主人公の少女だが、最初の印象ですぐ彼女に決めてしまった。「まず声が良かった。」という佐々木さんらしい音への敏感さがよく現れた一言もある。
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独特のドキュメンタリー的な物語の作りかた、(佐々木さんによれば「ドキュメンタリーは「事実」を追求するけど、フィクションは「真実」を描くよね。」)というフィクション。
いわゆるアマチュアを登場させる演出に対しての成果というか、ブレッソンなんかにも感じる必然性を思うが、それに対しては明確な答えがインタビューにある。

「役者が生き生きした言葉を、使っていない。そのために「音」として輝いてない。理由は明らかで、誰かが書いたセリフを読まされているから。」
最初ラジオドラマに有名作家と有名俳優を使って、完全に失敗、本人にはゼロ点だったという。

「僕の作品のなかでは、その人が、あたかも本当にその場で呼吸しているように生き生きしてもらわないと困る。」という話は、実は厳密なリアリティを欲求していると言えるだろう。

「だって、電車に乗ってる人でもいろんな運命を背負っているわけだけどさ、悲しくったって、みんな、そんなの隠して座席に座ってるよ。--そういう姿がきれいなんだと思う、僕は。つくった姿は、みにくいと思う。」

天下のテレビ局はもう一度彼のようなドラマディレクターを生み出せるだろうか。

インタビュー記事のリンクhttp://www.1101.com/sasaki_shoichiro/index.html
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# by past_light | 2014-11-26 20:06 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
今は昔の若者たち~若者たち 三部作
決まって食事のお膳に座ると喧嘩が始まる。怒鳴り合い、取っ組み合いが始まる。
消化に良くないよね。せっかく佐藤オリエが支度した御馳走が台無し。

無残な思いも残るが、反対にそうでもしなくては吐き出させない思いも遠慮無く吐き出す。
そこが汲み取るべきところだろう。
行儀も品もないが、兄弟友人、とことん本音を隠さない。
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黙っていれば、飾っていればと、そんな礼儀上だけでは済まない関係がある。
ペルソナは通用しない関係。暑っ苦しいけど誤魔化せないから本音は隠さない関係だ。

考えると今だって貧困にあえぐ、経済の格差もかわらず広がっている。
オカシイと思うことと、仕方ない世の中なんだから、と思うことと、人々も葛藤している。

佐藤オリエが「平和運動は続けましょう」かつての恋人に熱く言う。
兄の山本圭はとことん理想主義的だが現実にコミットしての諦めない強さがちゃんとある。
長男の田中邦衛は熱い、暑苦しい程の情からでしか接することはできないが、犠牲精神とたくましさはマッチョ級だ。
次男の橋本功がまた底抜けに楽天的で強靭だ。末の弟の松山省二の揺れ方が切なくていい。

とにかく今の若持ちたちの世代と思われる人に、いっぺんご覧になって見て損はないと言いたいと思う。
映画やドラマだから、誇張や凝縮された時間の進み方はヘビーだけど、今では信じがたいフジテレビや、その局にいた演出家が熱い思いで制作していた物語だ。今と違いを比較して考えてみるのもいい。
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# by past_light | 2014-11-24 19:02 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
アルモドバルにはものの考え方の自由さを問われる
いろんな映画的要素が錯綜したような実に奇っ怪な作品だが、観ていてなんとなく最初ブニュエルを想起した。
思えばペドロ・アルモドバルもスペインの作家だからか、の面はどれほどかは別にして。
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古典的怪奇映画のようなモチーフと未来的な要素、アート感覚な映像・・、それら断片を積み重ねて、やがて全体観終わると、アルモドバル色という他ないような独特な怪奇映画という作品。それらスタイルが交じり合いながらの異色なエンターテーメント性はいつもどおり高い。

けれど、今まで観た作品の、「オール・アバウト・マイ・マザー」や「ボルベール〈帰郷〉」などと比較するとなにかドライな感じなのがちょっと印象に残った。
以前の作品は「情」が実に色濃く感じられた。男女の性を超えた地点へ向かうような愛のカタチの模索が感じられ、それがある意味では人間の精神の深淵への謎なぞみたいで誘惑的だった。
もちろんこの作品でも同じモチーフが底流にあるようなのだが。

お話は無理強いされた性の残酷さだけが残ったように帰結したのが、少し消化不良になりそうで居心地がわるかった。
だが、これにも隠された複雑な情があると言えば言えて、再度深読みしたくなるものだ。

この映画でおこる悲劇もきっかけも、不条理さの自由な展開がブニュエルのような悪夢への迷路なのだが、ブニュエルのような軽さとユーモアまで到達するスタイルのシンプルな完成度とは違った世界だ。

ともあれアルモドバル独特な変態的感性の物語なのに、とにかく面白い時間の進み方だった。音楽がすごくよくて、たぶん曲単体で聴くより映像とともにで魅力的なサントラじゃないだろうか。
しかしまあ不自由さに陥りやすいこの世界の中で、アルモドバルって、その映画で語る自由な想像性の才能はいつも感心する。
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# by past_light | 2014-11-07 18:40 | ■主に映画の話題 | Trackback | Comments(0)
あけましておめでとうございます
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# by past_light | 2014-01-01 13:21 | ■ちょっとミニメモ | Trackback | Comments(2)